第五十一話 密かな願望
平穏な日々に感謝しながらも、心の奥底では私は冒険を望んでいた。
子供たちを育て、家のことを毎日きちんとこなし、ささやかな仕事にやりがいと希望を求める。そんなふうに人生を終えていくのだろうと思い、それ以上なにを望むことがあるのかと内省する。
だけど、どこか見知らぬ土地で予想もつかないような体験をしたい。そんな願望が密かにあったのだ。
とはいえ、これはいくらなんでも予想がつかなさすぎる。
私は今、異世界で双子の魔法使いに操られた我が娘と戦い、無尽蔵に湧き出てくるモンスターと戦い、教会の聖堂ごと装置になってしまった娘とともに上昇していた。
夫と二人の息子たちと背中合わせに、崩れた狭い床のギリギリのところで立っている。
「めっちゃ高い。落ちたら痛いやつ!」
「痛いですむか。この高さから落ちたら死ぬぞ」
「うわーん、ボク死ぬのやだー」
リョウが私にしがみついてくる。
ヒロトもケンイチの背中のシャツを掴み、落ちないように身を寄せている。
今やビルほどの高さにもなった教会からは、エルフの森も見える。
買ったばかりの新型ノアで海に沈没し、あの森に転移し、洞窟に車を隠してきたのが、もう遠い昔のことのように思える。
現実にはまだ数日しか経っていないというのに。
「パパのスキルでなんとかできないの」
「ATMでなにをしろっていうんだ」
「お金を払って許してもらうとか?」
「ママのスキルは……、あー」
ヒロトが諦めたような声を出す。
私のスキルは生き字引だ。対象の情報を見ることができるだけだ。戦う能力はない。
「さあ、始めましょうか」
リードが町を見下ろす。
「あいつ、なんか始めるとかいってるよ。これ、絶対始めたらだめなやつやん!」
足元の不安定な中、ケンイチがコントローラーを操作する。
瓦礫の破片の上に立っていた紫影 が、リードに向けて弓を引く。案の定、それは透明な壁に当たり跳ね返って、私たちの立つ床を削る。
「わあー、狭いよー!」
「パパ、だめやん。跳ね返ってくるって分かってるのに、なんでやるんだよ」
「くそっ」
珀刻も蒼翔 も、少し離れた場所の床の破片の上に、器用に立っている。
だけどなにも手出しができない。
「生き字引!」
苦し紛れに、祭壇に向けて辞書を開く。
「ハルモニア・サンクトゥス……?」
ケンイチが生き字引を覗き込む。
「なになに、なんかわかった?」
「ハルモニア・サンクトゥス。神聖なる調和。音楽を核とした洗脳兵器。聴覚を通じて幻覚状態へと人間を引き込む能力を有する。洗脳された生物から魔力を吸収し、それを利用して自身の力を拡張する特性を持つ。人間のみならず魔物もその影響を受ける、極めて強力な洗脳兵器である」
「弱点は! 弱点とか書いてないの」
「たぶん、書いてない……」
「使えねえ!」
ページをめくろうと思っても、それ以上はめくることができなかった。
魔力を吸収し拡張したあと、この装置はどうなるのか。だれをなんのために洗脳するのか。
そんなわけのわからない装置に、ユウカを乗せておくわけにはいかない。私は瓦礫の上にジャンプして飛び乗る。
「ママ!?」
「なにやってるんだ、ヨシエ!」
「ユウカを助けないと」
「ママ、落ちちゃうよー」
砕けた床、ばらばらになった壁、それらの上を慎重に歩く。
足場はどんどん崩れ落ちていくが、ないわけではない。高ささえ見なかったことにすれば、アスレチックみたいなものだ。
「無駄なあがきを」
「ユウカを助けるためなら、私はなんだってやるの!」
「ママってたまに無謀なときあるよな」
恐怖心はなかった。
なによりも大切な、私の子供を失うくらいならばここから落下したほうがましだ。今このタイミングでユウカを取り戻さなけば、二度と会えない。そんな予感がしていた。
「あなたを落としたくはないのに」
トーンが聞こえるか聞こえないかくらいの声でつぶやく。トーンは悲しそうというほどでもなく無表情で、彼はいつもそのように、感情をあまり見せない。だが、今はその性格やそれを形作った生い立ちについて考えている場合ではない。
足元の瓦礫がなくなり、周りに浮いているのは小石ほどの大きさの砕けたタイルばかりだ。私は勢いをつける。
「ヨシエ、やめろ!」
「ママーっ!」
勢いをつけてジャンプをした瞬間、リードと目が合った。少し驚いたように、だけれど忌々しげに、私のことを睨んでいる。あの子も敵だ。私は、あの子からユウカを奪い返さなければならない。
目測では、ぎりぎり届くはずだった。
相変わらず、自分の身体能力を正確に把握できていなかった。大きく踏み出した右足は、祭壇に続くタイルには届かず空を切る。
体がぐらりと前方に傾く。
ヒロトとリョウの叫び声が聞こえた。




