第四話 今日の食事や飲み水よりも大事なもの
とても長い時間眠っていたような、あるいは一瞬のうたた寝のようでもあった。目を開けると、車の窓から差し込む陽光が見えた。
「……私、寝てた?」
助手席で身を起こす。運転席ではハンドルに突っ伏してケンイチが眠っている。後部座席を振り返ると、ジュニアシートにリョウが、その隣にユウカが、そして最後尾にはヒロトが横になって眠っていた。
少しずつ思い出してくる。そうだ、私たちは嵐の夜に港で小さな子どもを轢きそうになり、避けようとして車ごと海に落ちたのだ。そのあと海底で女神と出会い、異世界に転移させられた。一人ひとつずつのスキルを与えられた。
「ん……」
ケンイチが小さくうめき声をあげる。
「ねえ、ケンイチ起きて。ここはどこなんだろう」
「眼鏡がない、あ、あった」
ケンイチは目を擦り、膝に落ちていた眼鏡を拾い上げる。
「森の中みたいだけど」
子どもたちを起こさないように、小声でケンイチに話しかける。
運転席のドアを開け、ケンイチが車外に出る。外の空気が車の中に流れ込んで来る。澄んだ空気と草の匂いだ。私も彼に続いて外にでる。
「まさか、本当にここが異世界なのか」
ケンイチは苦笑しながら空を見上げていた。木々の間から登る朝日は、私たちの知っているそれよりも随分と小さく見えた。そして、その傍らにはもう一つ、色味の少し違う太陽が寄り添っている。
「あの太陽、タトゥイーンみたいじゃない? ほら、スター・ウォーズの」
「そうだっけ?」
どこからか水音が聞こえる。近くに川があるのだろう。私たちの車は舗装されていない道の上にあり、その道はまっすぐ東西に伸びている。二つの太陽が登っているのが、東だとすればの話ではあるけれど。
「ママ、おしっこ」
後部座席のスライドドアが開いて、リョウが目をこすりながら出てくる。
「えっ、どうしよう。どこかにトイレあるかな」
「そのへんでさせとけば」
仕方なくリョウを茂みに連れていく。
森はどこまでも深く、木々が複雑に絡み合っている。いつも散歩に行く公園にあるコナラの木に似ているが、葉の形がぎざぎざのハート型だ。
「あっ、どんぐり!」
「ほんとだ。大きいどんぐりだねえ」
「ママ、これ持って帰っていい?」
「たぶん、大丈夫だとは思うけど……」
キウイくらいのサイズの、大きなどんぐりだった。茶色に輝く艶やかな表面を指でなぞる。突然、視界に文字の書かれた画面が広がる。
「ママ、なにそれ!」
「わあ、なんだろうこれ」
私がしゃがむと、目の前にある画面も一緒についてくる。ノートパソコンの液晶くらいの大きさの、半透明の画面だ。リョウと二人で画面を覗き込む。
「リングリだって」
「リングリ、エルフの森に自生するリンの木になる木の実。生でも食べることができるが炒ると甘みと風味が増す……って書いてあるね」
「それ、ママのスキルなの?」
「そうみたい……」
目の前の画面が消える。もう一度表示させようと念じてみるが、うまくいかない。さっき私ははどうやってあの画面を表示させたのだろうか。とりあえず、ふたりでポケットに入るだけの木の実を拾って車に戻る。
「あっ、ママ戻ってきた」
「ねえねえここ異世界? ここって異世界?」
ユウカとヒロトも既に起きていて、車の前にいた。ケンイチは運転席に座って、車のエンジンをかけている。
「エンジンにもパワーウインドウにも異常はなさそうだ」
「海の中に落ちたのに? あの女神がなんかしてくれたんかな」
「ねえ、おなかすいたあ。昨日からなにも食べてなくない?」
「車でどっかいけば、村とか町とかあるんじゃないの」
子どもたちの苦情に、ケンイチが眉をひそめる。
「ガソリンはあと半分しかないんだ。やみくもに走ってどこにもたどりつけなければ、そこで餓死することになる。とりあえずみんなの持ち物を確認しよう」
各自がランドセルや学生かばんの中身を取り出す。教科書ノートや筆記具に加えて、空っぽの弁当箱、水筒、体操服と体育館シューズ、給食当番のエプロンと三角巾、などがあった。
「ユウカのお弁当箱はプラスチックだけど、パパのお弁当箱はアルミか。これでお湯とか沸かせるんじゃないかな」
「火はないけどな。だれもライターもマッチも持っていないだろう」
「ボク、水筒の中にまだ麦茶が入ってる。飲んでいい?」
「飲んでいいよ。かすかに水の音が聞こえたから、近くで川の水は汲めると思うし」
「ねえねえ、ガソリンスタンドとかコンビニとかってないのかな」
「俺の知る限り、異世界ってあんまそういうのない」
「アタシのスマホ、バッテリーがほとんどない」
ユウカが自分のスマートフォンを確認して絶望的な顔をする。
私もスマートフォンの画面を見る。そもそも、携帯電話の電波が来ていないようだった。もちろんワイファイも来ていない。
「うわ、パズドラもクラクラもできねえ。ユウカそれなにやってんの?」
「音ゲー。これは電波がきてなくてもプレイできるみたい。やる?」
ユウカが有線イヤホンを外してヒロトに差し出す。
「あー、俺ゲーム全般得意だけど、音ゲーだけはまじ苦手なんよ」
「そんなに難しくないよ」
「ストーリーは面白そう。音ゲーから音ゲー要素抜いてくれたら、やってやってもいい」
「もはやただのノベルゲーやんそれ」
「ボク、マイクラしたいなあ。パパのスマホにマイクラ入ってる?」
「入ってるけど、マイクラはネットワークにつながってないとできないんじゃないかな」
「町まで行けば、ワイファイある?」
「ないだろ」
「ゲームもなんもできねえ、つらい。生きている意味がない」
「君らは今日の食事や飲み水よりも、スマホの方が大事なのね」
「あたりまえじゃん。ご飯は一日くらい食べなくても平気だけど、一日スマホ使えないとシぬ」
車にもたれかかりスマートフォンを眺める二人をしみじみと見つめる。現代の子供の弱点であり、強さでもあるのだろうと私は思う。少なくともこの状況にうろたえて身動きが取れなくなるよりはましなのだろう。
「ボクはおなかすいたよ」
「そうね、ママのかばんにお菓子が入ってたけど食べる?」
「俺も食べる!」
「さっき、一日くらい食べなくても平気っていったじゃない」
「それいったのユウカだよ」
「すぐ人のせいにする。ヒロトもうなづいてたやん?」
お菓子といっても、PTAの集まりで出たお茶菓子の残りだ。おなかがふくれるほどではない。
「お菓子はパパと子供たちで分けて食べてね。ママはこれを食べてみる」
「なにそれ、食えんの?」
「ボクもどんぐり食べたい!」
「食べられるって書いてあったけど、安全かどうかわからないから、ママが先に食べてみる。ママが一番おなかが丈夫だからね」
「書いてあったってどこに」
ケンイチがどんぐりをひとつ受け取り、検品でもするように眺める。
「なんかこう、表面をなぞったら説明文が出てきたのよね」
「えっ、なにそれ。ママのスキル?」
「そういや、俺たちスキルもらったんやん。どうやって使うの?」
「わからない」
本当になにもかも、わからないことばかりだ。