第四十一話 どこにいってもいいし、どこにもいかなくてもいい
もう、自分がどこにいるのだかわかっていなかった。
だれか大切な人がいたような気もするが、それらは私を絡め取り、自由を奪う枷でしかなかった。
「離して」
自分の声がちゃんと出ているかわからない。
なにもない空間を前に進もうとするが、空気が重すぎてうまく足が動かない。
さっき私に「あなたがどうしたいかだよ」と教えてくれたのは、だれだっただろうか。もうその人はここにいない。だけど、彼のいうとおりにしていれば大丈夫な気がしていた。
私がどうしたいか。私は、ここから抜け出して自由になりたいはずだ。そうして、だれにも干渉されず、だれをも干渉せず、一人で自由に生きていくのだ。
遠くに橙色の明かりが見える。あの先にはきっと希望がある。
いくつもの景色が、同時に重なり合って存在していた。レイヤーの透明度を変えるように、手前のほうの景色がよく見えたり、また見えなくなったりもした。
ときどき、景色に小さな子どもが映し出される。アスレチックで遊ぶ三人、公園で砂遊びをしている二人、人形の衣装みたいな小さな水着を来て、波打ち際で遊んでいる小さな女の子。
それらの景色はどんどん透明度が高くなり、見えなくなってしまう。
景色が一人の男性だけになる。これは、だれだっただろうか。私はこの人のことをよく知っている気がする。無表情で、でも少し戸惑ったような顔をしている。
目をこらしてよく見ようとするが、彼は霞のように消えていってしまう。
とうとうだれもいなくなり、景色は空き地や沼や、森で埋め尽くされていく。
少しの寂しさと、開放感が私の中に満ちる。
もう、なにものも私を縛り付けることはないのだ。私はどこにいってもいいし、どこにもいかなくてもいい。私は……
「ママー!」
下腹部に抱きついてくるなにものかによって、私は目を覚ます。
「あれ……?」
「うわーん、ママーいたー!」
私は椅子の上に座ったまま、眠っていたようだった。
私のお腹に顔を擦り付けているこの子はだれだっただろうか。つややかな黒い髪と、湿った小さな手。
「あっ、リョウ!」
「ボクだよう」
「リョウ、大丈夫なの? ケンイチとヒロトは?」
「ヒロトはどっかの穴に落っこちた。ボクとパパは、大きな丸い石に潰されそうになったから、ボク、時間を止めて……、うわーん!」
「時間操作を使ったのね。怖かったね」
泣きじゃくるリョウのことを強く抱きしめる。
床に落ちたスマートフォンからは、まだビートルズのフロム・ミー・トゥ・ユーが流れていた。赤盤の三曲目。トーンと話してから数分も経過していないのだ。
「大きな石は、動かないようにランドセルで固定してきたけど、ランドセルつぶれちゃってるかも。あと、パパも石に潰されないように倒して壁際の隙間に転がしてきたよ」
「えらかったね、リョウ」
「ボクがんばったよ」
リョウを強く抱きしめたまま、頭をなんども撫でる。
そうだ、どうして忘れかけていたのだろう。この子はリョウだ。私の愛する家族の一人だ。
「私、トーンになにかされたのかも知れない」
「そうなの? トーンはやっぱり悪いやつ?」
「リョウはなにもされなかった?」
「トーンには会わなかったよ。ねえ、パパを助けに行こう。ついでにヒロトも」
「そうね。どうやって上の階に上がろう」
「ボク、階段の場所ならわかるよ」
リョウはもう泣き止んでいて、小さな机の上に置いてあった燭台を持ち上げている。
私はろうそくが危ないから気をつけてと言おうとするが、思いとどまる。リョウはもう、これほどにも勇敢で賢いのだ。分かりきっていることを再三注意する必要はない。
「じゃあ、リョウはろうそくを持っていてね。ママは後ろからついていく」
「うん!」
エコバッグの中には、革カバーを外した包丁が入っている。いつでもすぐに取り出せるように、私は両手を開けておいたほうがいい。
「ボク、こっちから来たんだよ。あれ? 階段ってこっち向きだったと思うんだけど」
「さっきと違うの?」
「うん」
私がこの廊下を通ったとき、こんなところに階段はあっただろうか。暗かったから見えなかっただけかも知れない。
「ボク見てくるね。うん、大丈夫みたい。ママついてきていいよ」
さっきまで泣いていたのが嘘みたいに、リョウは先導して道案内をしてくれる。階段を登って一つ上の階層に出ると、さっきよりも道が長く伸びている気がした。前を向いても後ろを向いても、暗い石造りの廊下が続いている。
「こっちでいいの?」
「パパ、こっちに寝てるはずなんだけど、いないね。ランドセルもない」
「移動したのかもね」
リョウのいう方向に歩いていくと、左に曲がり角があった。遠くに仄かな明かりが見える。
「さっきはまがり道は道なかったよ」
「間違えたのかな。戻ってみる?」
「ううん、あっちに行ってみる」
燭台を持ったままのリョウはすばしっこく走っていってしまう。明かりの出どころにたどり着くと、見覚えのある木のドアがあった。あまりにも下の階層と造りが似ている。
私は木のドアをノックする。さっきと違って返事はない。
「こんにちはー!」
リョウが勢いよくドアを開ける。
その部屋の中にいたのは、ケンイチだった。