第四十話 この期に及んでもまだ
私たちの他にもこの世界に転移してきたものがいる、という話は初耳ではない。
王都に行けばその情報も得られるだろうとタイテはいっていた。だけど、今ここにいるトーンは、この世界に転移してきた人のことを知っているという。
「同じような世界って、たとえばスマホがあったり、魔法がなかったりする世界のこと?」
「スマホは分からないけど」
トーンは私が手に持っているスマートフォンを見つめる。小さな音で、ビートルズのフロム・ミー・トゥ・ユーが流れている。
「この世界は、私たちが住んでいた世界とずいぶん違う」
「本で読んだことがある。魔法はなくて、かわりに科学が発展している異世界の話」
「その本はどこで読める?」
「ずっと昔、王都で読んだ」
「やっぱり王都か。王都にはたくさんの本があるのね」
「ここよりはいくぶん」
異世界の本に、私たちの住んでいた世界のことが書かれている。それは純粋に私の興味を誘った。この町には書店も図書館もなさそうだし、情報を手に入れるには王都に行くしかないのだろう。
「トーンはどうしてこんな地下にいるの?」
ここは窓もなく、ずっといると脳が混乱しそうだ。ビートルズの赤盤がまだ三曲目だから、かろうじて時間感覚を保てているものの、もう数時間も、ここにこうしているような気がしている。
「僕らは、いつも不足しているんだ」
「不足?」
「ユウカはとてもいい子だ。僕らに足りないものを与えてくれる。あなたは?」
「私に、なにかできることがあるのかな」
「きっとあるよ」
地下だから酸素が薄いのかも知れない。次第に意識が朦朧としてくる。
「私は、音楽も苦手だし戦うこともできない」
「あなたはなにを望んでいたの」
「私は……」
目を開けていられなくなる。椅子に深く沈み込み、エコバッグを抱える。
私はなにを求めていたのだろう。
そうだ、私は子供の頃からずっと、冒険がしたかった。
「冒険か」
「でも、私はもうお母さんだから」
目の前に景色が見えてくる。
これは、私が小学生だった頃に住んでいた町だ。
子供の私は自転車で風を切り、どこまでもどこまでも走っていく。自転車の前カゴにはザリガニ釣り用のエサ箱と、木の枝にタコ糸を結びつけただけの釣り竿が入っている。
その先のY字路を右に曲がると、いつもの釣り場だ。だけど私は左に曲がる。今日は知らない場所に行ってみよう。山の近くには大きい沼があるかも知れない。夕ごはんまでに帰ってくれば大丈夫だ。
「あなたのお母さんは、ずいぶんあなたを自由にさせてきたんだね」
「母はいつも忙しかったし」
「だけど、ユウカたちには自由を与えなかった」
いつの間にか、自転車にのっている子供はユウカになっていた。
そうだ、これは私がユウカの誕生日に買ってあげた自転車だ。私は団地の駐輪場で、小学生のユウカに釘を刺している。「町内の公園までしかいっちゃだめよ。みまもりケータイはちゃんと持った?」と。ユウカは「うん!」となんの疑問も持たずに笑顔で返事をする。
「だって、今はそういう時代じゃないもの」
「ユウカはあなたのいいつけをきちんと守って、一人で冒険なんかしない子に育ったよ」
「私は、間違ってない」
私の意識はどんどん深いところに沈み込んでいく。
悩まなかったわけではない。育児なんてずっと手探りの連続だ。
子供だった私が、命にかかわるような危険な目に合わなかったのはたまたまなのだ。いつ沼に落ちても、車に跳ねられても、おかしくはなかった。
私にとって子供たちは宝物だった。細心の注意を払って育てたい。例え、彼らの自由を奪うことになったとしても。
「本当は手放したいんだね」
そういわれるとそんな気もしてくる。
リョウはともかく、ユウカもヒロトももう分別のつく年齢なのだ。二人とも賢くていい子に育った。もう、自由にしてあげてもいいのだろうか。
「子供たちはそれを望んでいるのかな」
「あなたがどうしたいかだよ」
私は、覚悟をして生きてきた。
子供がいるということは、あらゆることがままならなく不自由な状態なのだと。
だけど、子供たちが守られることを望んでいないのならば、もう、手放してもいいのではないか。
いつのまにか、トーンの声は聞こえなくなっていた。
部屋から出ていってしまったのかも知れない。目を開けようにも、まぶたは重く閉じてしまい体も動かない。
リョウとヒロトはどうしているだろうかと私は考える。
リョウはケンイチと一緒にいたから大丈夫だとしても、ヒロトは無事ににげることができただろうか。
私はこの期に及んでもまだ子供たちのことばかりを考えている。今、考えるべきなのは自分自身のことだ。
ヒロトは私より足も速いし、戦えるスキルも持っている。
小さなリョウでさえ、時間を止めるという能力を持っているのだ。いつまでも守られている側ではない。私はせめて足手まといにならないように、自分が生きることだけを考えなければいけない。
そう、子供たちの存在に甘えているのは、私のほうなのだ。
――十四歳っていったら、ラノベでは普通に一人で異世界を冒険するんだよ、ママ。
ヒロトの声が聞こえる。私より背の高い彼は、私のことを迷惑そうに見下ろしている。
あのとき、ヒロトはこんな表情をしていただろうか。今となってはもう、思い出せない。




