第三十九話 プリーズ・プリーズ・ミー
子供の頃、なにかで読んだことがあった。迷路に迷い込んだときには、左手を壁に沿わせて、ずっと壁をなぞるように進めば、いつかは出口にたどり着けるのだと。
迷子になりがちな子供だった私には、その言葉は希望に思えた。
どうでもいいことばかり、いつまでも覚えているものだと思う。こんなことが役に立つ状況なんてほとんどないというのに。
遠くに見えるオレンジ色の明かりを頼りに、前に進む。
少し溶けてしまったスニーカーの先から、ひんやりとした空気が伝わってくる。
明かりの元にたどり着くと、そこには木造りのドアがあった。
つなぎ合わせた板の隙間から光が漏れている。壁に沿わせていた左手を、そのままドアに滑らせる。ニスが塗ってあるのか、滑らかな質感だ。石よりも木のほうがわずかに暖かく感じるのだな、とどうでもいいことを考える。
私はドアをノックする。
「はい」
「うわっ!」
自分でノックをしたにもかかわらず、中から返事があるとは思っていなかったので、不意に声が出てしまう。躊躇していると、中から再び
「はい」
と声がする。
エコバッグの中に包丁が入っているのを確認する。革カバーの留め具を外して、すぐに取り出せるようにしておく。それからもう一度ノックして、私はドアを開ける。
急に視界が明るくなって目がくらむ。
「あなたは……」
「どうぞ」
目がなれてくると、燭台の明かりに照らされて部屋にいたのは、双子のうちの一人だった。
声の感じから、おそらくトーンのほうだろうと思う。陽気で饒舌なリードと、一歩後ろに下がって口数の少ないトーンと記憶していた。
壁際に机が置かれていて、そこにむかって本を読んでいたようだった。
「私たち、ユウカがここにいるとリードに聞いたんだけど」
「ユウカは別の部屋」
「どこにいるの?」
トーンは私の質問に返事をせず、私の足元を見ている。
彼の視線の先には、靴紐と爪先のゴムが溶けてしまったスニーカーがある。
トーンはなにもいわず、椅子から立ち上がり私に近づいてくる。
それから私の足元にしゃがみこんで、手をかざす。私は警戒してエコバッグを体に引き寄せる。
「時の精霊の名において、時よ戻れ」
聞こえるか聞こえないかの小さな声で、彼が呪文を唱えると、私の溶けかけたスニーカーは元に戻る。
「あっ、すごい!」
「靴の時間を少し戻した」
「そんなことできるのね。ありがとう」
素直に感嘆する私に、トーンは少し照れたような無愛想さで
「せいぜい五日。生きているものは戻せない」
といった。
「もしかして、これも」
私はエコバッグからスマートフォンを取り出す。
「スマホ。それも時を戻せる。ユウカのスマホも戻してあげたから」
トーンは私のスマートフォンを受け取り呪文を唱える。
トーンから差し出されたそれを受け取り確認すると、バッテリー残量は百パーセントに、日付と時間は金曜日の朝に戻っていた。
私たち家族が海に落ちて、この世界に転移した日だ。
「ありがとう、うれしい。そっか、ユウカのスマホバッテリーの謎が解けた」
「それも、音楽を作れる?」
「ごめんね、私のスマホには作曲のアプリは入っていないんだけど、音楽を聞くアプリなら」
ミュージックアプリを開くと、ビートルズのアルバムがいくつかと、海外ドラマのサウンドトラック、ジャズとボサノバのアルバムが入っていた。
スマートフォンで音楽を聞く習慣がないので、古い曲しか入っていない。
私は少し考えて、ビートルズの赤盤を再生する。
「ユウカの音楽とは全然違う」
「いまどきの音楽はテンポが速いもんね。これは私が生まれるより前の音楽なの」
「これもいいね」
トーンが椅子に座りなおして、ビートルズのラブミードゥーに聴き入っているので、私もスマートフォンを持ったまま、空いていた椅子に座る。
本当は、すぐにでもユウカのことを問い詰めたかった。私たちを地下に閉じ込めたのは、リードではないのかということも。
だけれど、機嫌を損ねてはいけないと思う。十代の子供の扱いづらさは、身に沁みてよく知っているのだ。
ラブミードゥーが終わり、プリーズ・プリーズ・ミーが終わりかけた頃、トーンが
「どこからきたの?」
と小さな声で私に尋ねる。
「教会の通りにある宿屋から……、という話じゃないよね。もっと前のこと?」
「うん」
正直に話をしていいものか迷うが、そもそもユウカがある程度の説明をしてしまっているかも知れない。
私は、家族で車ごと海に落ちたこと、ウンリイネという女神が私たちをここに転移させたことを伝える。
念のため、家族の持つスキルの話はしないでおく。
「タイテは女神のことを知ってるといっていたけど、トーンはなにか知ってる?」
「女神のことはよく知らない」
「そっか、残念」
「でも、同じような世界から来た人は知ってる」
「えっ」
私は驚いて椅子から立ち上がる。
そういえば、タイテも同じようなことをいっていた。この世界には、私たち家族の他にも転移者がいるのだ。




