第二十九話 ユウカはお姉さんだから
ユウカがまだ三歳でヒロトが〇歳だった頃、私たち家族は団地に住んでいた。
ケンイチは単身赴任中で、私は一人で三歳児と〇歳児の育児をしつつ、子供たちを寝かしつけたあとに小説家としての仕事をする、という日々だった。
「ママー」
小さなユウカが私の肩を揺する。
「今、ヒロトをお昼寝させているから静かにね」
私はヒロトを寝かしつけながら、自分もうとうととしていた。
「ママ、あのね」
「しー、あとでね」
「むー」
うたた寝をしたのはほんの一瞬だったと思う。
気づくとヒロトは眠っていて、ユウカは私のそばにいなかった。そのまま再び眠ってしまおうかと思ったが、ユウカが私を呼んでいたことを思い出し、重い体を引きずるように布団から出る。
いつも遊んでいる居間にユウカはいない。どこかに隠れているのだろうか。
ふいに、台所の掃き出し窓が開いていることに気づく。ここは団地の四階だ。
「ユウカ!」
全身から血の気が引く。
ベランダの室外機の上に、ユウカは立っていた。今まさに、窓の外の桜の木の枝に手を伸ばそうとしていたのだ。
私はあのとき、もう二度と子供から目を離さないようにしようと心に誓った。
三人も子供がいる今、それは容易なことではなかったが、あんな血の凍るような思いをするくらいなら日々大変な目に合うほうがよほどましだ。
そう思っていたはずなのに私は再び、こんな異世界でユウカから目を離してしまった。
油断していたのだ。もう十七歳だから、もう分別のつく年頃だから、ユウカはお姉さんだから。
「ユウカいなくなっちゃったの?」
「私のせいだ。私が目を離したから」
「ちょっと、この近辺を見てくる」
ケンイチがカバンを持って廊下に出る。
「私も行く」
「いや、ユウカが戻ってくるかも知れないから、ヨシエはここにいろ」
「でも」
ケンイチに諭されて、私はユウカの部屋のベッドに座り込む。
リョウは心配そうに私の隣にくっついて座り、それからすぐに立ち上がって
「おーい、ユウカー」
といいながら浴室や物入れの中、小さな引き出しの中まで探している。
「ママ、あのさあ」
ヒロトがなにかをいい淀む。
「ヒロト、なにか知ってるの?」
「知ってるってわけじゃないけど、ユウカ、夜中になんどか宿を抜け出してたかもしんない」
「ほんとに?」
「確証はないんだけど、ユウカの部屋って奥だから、階段を降りる時に俺の部屋の前を通るやん。夜中、たまに足音が聞こえたんだよね」
「どうしてすぐママにいわないの」
「ユウカかどうかもわかんないし、まだなにも起こってなかったから」
なにかが起こってからでは遅い。そういい返そうとしてやめる。ヒロトを責めてもしょうがない。ヒロトは悪くないのだ。
「ママ、おなかすいた」
「そうね、そろそろ夕ご飯を食べないと」
ヒロトとリョウと私の三人で酒場に降りると、ちょうど外からケンイチが戻ってきたところだった。肩の上にはタイテも乗っている。
「ユウカはいなかったが、ユウカを見かけた人物はいた」
「ほんとに?」
「冒険者ギルドにいた人だ」
「ああ、あの親切なおじさん」
「夕方頃、一人で町を歩いているのを見かけたらしい。なにものかに連れ去られたわけでもなさそうだし、一旦ユウカが帰ってくるのを待って、夜がふけても戻ってこなければまた探しに行こう」
「我は空腹だ。山田ヒロト」
「タイテもずっとうるさいしな」
ケンイチがタイテを横目で睨み迷惑そうな顔をする。
「はいはい、王はなに食べます?」
「干したぶどうの入った、四角くて甘いパン」
「あれおいしいよね。ボクも好き!」
皆がテーブルにつく。
食事どころの気分ではなかったが、ユウカもふらりと散歩に出ただけで、すぐに戻ってくるかも知れない。そう自分にいい聞かせて、私は料理を注文する。
家族はユウカだけではない。なにが起こるかわからない世界だからこそ、食べられるうちに皆で食べておかないといけないのだ。
ユウカはおなかをすかせていないだろうか。先を見越して、少しでもこの世界の通貨を持たせておくのだった。そんなことを考えながら、できるだけ表情に出さないようにして、家族で夕食をとる。
「俺のスキルでまあまあ戦えることがわかったし、あとはリョウだなー」
ヒロトは手に持っていた骨付きの鶏肉で、リョウを指し示す。
「ボク、時間操作の止め方わかんない」
リョウはハンバーグを食べていたフォークを置いて、唇を尖らす。
「練習してみればいいやん」
「でももし、みんなの時間が止まったまま、ずっと元に戻らなかったらどうしよう。パパもママも人形みたいになったままで、ボクひとりぼっちでおじいちゃんになっちゃったら……」
「わかった、泣くなよー。じゃあ、リョウのスキルは使えないとして、ユウカの凝望壁もわりと強いんだよな。壁って防御だけかと思ったけど、使い方によっては攻撃もできるし。で、パパとママは……」
「パパのATMはほんと助かるよね。こうしておいしいご飯を食べることができるのも、パパのおかげだし。
「錬金術だ」
ケンイチはATMといわれたのが不服なのか、面白くなさそうな顔をする。
「なんだかんだで一番役に立つよね。金はだいじだよ」
「でも、パパのスキルもママのスキルも戦うことはできないし、危険な仕事は請けないほうがいいね」
「パパのお金でつよーい武器を買えばいいよ!」
「前にもいっただろう。錬金術で引き出せるのは、向こうの世界の銀行口座に入っている分だけだ。幸い、この世界の通貨との交換レートはいいけれど、無限にお金が出てくるわけじゃない。元いた世界から、家や車のローンも毎月引き落とされていくはずだ」
タイテがぶどうパンの大きなかたまりを抱えようとしていたので、ケンイチは無表情のまま食べやすい大きさにちぎって手渡す。
「やっぱり、稼がなきゃだめかあ」
「結局、まだ全然稼げていないもんね」
私たちはため息をつく。
いつまでこの暮らしができるかはわからないのだ。無駄遣いをするわけにはいかなかった。




