第二話 床屋のバリカンですら苦手なのに
閉じていた目を開くと私たちは水中にいた。肉体にまとわりつくそれは確かに水の感覚なのだけれど、視界は水中メガネをかけているようにクリアで、なぜだか呼吸もできる。
ケンイチは三列目シートの真ん中に座り、目を閉じたまま両脇の子どもたちを抱き寄せている。私は自分が抱きしめていたリョウを確認する。彼の鼻から小さなあぶくが漏れ出て上昇し、車の天井に集まる。
「ママ」
「リョウ大丈夫? あっ、喋れる」
後部座席でケンイチにしがみついていたヒロトが、恐る恐る顔を上げる。
「ここは海の底?」
「なにここ、天国なの? 地獄なの?」
それぞれが窓の外を確認する。真っ暗な海の底の、ヘッドライトの周辺だけがスポットライトを浴びたように照らし出されている。ゆらゆらと揺れる海藻の間を、イワシのような小魚が通り過ぎていく。遠くに人影が見える。それは少しずつ、私たちの車の方へ近づいてくる。
助手席側の窓からだれかが中を覗いている。一瞬、それがリョウのように見えたが違う。同じ年頃の小さな子供だ。私と目が合うと子供はおびえたように逃げ、長い髪が水中で揺れる。
「ボクわかった。ここはりゅうぐうじょうだよ」
「あー、なるほど竜宮城」
「理解理解」
「海底なのにアタシのスマホ使えるやん。あっ、これ防水のやつだからかな」
「でも電波きてねえ」
ユウカとヒロトが、急にリラックスしてシートにもたれかかる。この状況を夢だとでも思っている風情だった。私もこの惨状が夢のような気がしているし、夢であってくれればいいと思う。
「車から降りてみる?」
ヒロトが言い終えないうちに、リョウが素早く後部座席のスライドドアを開ける。
「あっ、こら!」
私は慌ててリョウを引き止めようとするが、すばしっこい動作で車の前方まで走っていってしまう。仕方なく、私とケンイチも車の外に出る。
水の底は想像よりも歩き易かった。どうやら私たちが知っている海とは違うみたいだ。しょっぱくもないし、呼吸も容易にできる。
「……から悪しき状況にまで働きかけたい私は蘇生を保証することが可能である」
「は?」
ヘッドライトに照らされた人影を、目をこらして見つめる。
「生きるを阻害する焦点を絞って集中することさえもあれば私は世界の外核に伝聞を送ることができ迅速に手続きを記述する必要がある」
「なにいってんの、この人」
家族全員が車の前に集まる。次第に目が慣れてくる。どうやら青いドレスを着た女性のようだった。さっきの子供が彼女のドレスの裾にしがみつき、私たちの様子を伺っている。
「子供はまた呼吸をし生を営みくさびを作る感情と命を残したので一つの証を作ったのはすぐに宇宙に還る導き」
「すっげ、なにいってるか全然わかんね。純文学みたい」
「ヒロトは純文学を誤解している」
「ふうむ……」
なにかを伝えようとしていた彼女はため息をつき、私たちを一瞥する。それから、ヒロトの方をまっすぐ見つめる。ドレスの裾からなにかが伸びてくる。
「触手?」
「うわっ、うわああ!?」
「ヒロト!」
ケンイチが慌ててヒロトに駆け寄る。青いドレスの女から伸びた十数本の触手は、ヒロトの体と頭を探るように這い回る。
「わあっ、やめっ、なんか耳の中にも入ってき……、うひゃひゃひゃひゃひゃ、うきーーーーーーっ!!」
くすぐったいのか、ヒロトは笑いながら身をよじっていたが、触手はすぐにドレスの中に戻っていった。
「大丈夫か、ヒロト」
「……俺っ、こういうのだめ。床屋のバリカンですら苦手なのに」
「おっけーおけまる、完全に理解した」
「!?」
青いドレスの女が唐突に、理解できる言葉を話し出す。
「なんかさあ、私の話うまく通じてないみたいだから、そこのヒロト? の頭ん中をちょっと覗かせてもらったわ。これで理解できる?」
「俺の脳の中? やめて!」
「あなたの言葉は理解できるけど、今この状況が理解できない」
「おっけ、最初から説明するね。私はウンリイネ。まずは私の子供のせいでこんなことになってごっめーん」
ウンリイネと名乗った女の傍で、少女がこちらの様子を伺っていた。私と目が合うと、少女はまたウンリイネの背後に隠れてしまう。
「そうか、俺はその女の子を避け損なって海に……」
「あんま時間がないし、手短に話すね。うちの子のせいだし、わりいなーって気持ちもあったから、なんとか助けてあげようと思ったんだけど、若干ムリがあったわ。そんで今海底なんだけど、たぶんこのままだとみんな死ぬねっ」
「えっ、アタシ死ぬのやだ!」
「な、なんとかならないんですか」
「今はとりあえず、そのローンが残ってる新型ノアと五人の体にバリア的なもの? を張ってんだけどさあ、これけっこう大変なんだよね。バリア解かないと物体は水に浮かないし、バリア解いたらたぶん水面まで呼吸が続かない」
「水中呼吸のポーションとかないの?」
リョウが口を開く。
「あっ、それマイクラのやつね? そういうのはない。残念!」
「ウンリイネ……さん、マイクラとか知ってるんですね」
「ヒロトの知ってることはだいたいわかるんだよ。んで、もう車が浮かばないなら落とすしかないわけ」
「落とすってどこに」
「たぶん異世界とかいうやつ。はいはーい、今からきみたちに異世界転移してもらいまーす!」