第一話 水中に転落したときの脱出方法
雨が強くなり始めていた。念のため折りたたみ傘を持ってきていて良かったと思う。リョウが濡れないように、小さな肩を抱き寄せる。黄色いランドセルカバーについた水滴が、私の袖を濡らす。
「パパまだかなあ」
「もう会社を出たっていってたから、もうすぐ来ると思うよ」
学童保育の施設に明かりが灯る。まだ午後五時過ぎだというのに、空はずいぶんと薄暗くなっていた。
小学校の裏門に、パールホワイトのノアが停まる。車に叩きつける雨粒が街頭に照らされて発光している。
「パパ!」
「ママ、リョウ、早く乗って」
「ありがとうケンイチ、助かったあ」
後部座席のスライドドアを開けて、リョウを乗せる。それから傘をたたんで私も助手席に座る。カーラジオから大雨洪水注意報を警告する声がかすかに聞こえる。
「朝の天気予報では晴れといっていたのにな」
「最近は天気予報が外れることって珍しいよね。ユウカとヒロト、傘持っていってないかな」
私はコットンのエコバッグからスマートフォンを取り出し、LINEを確認する。案の定、ヒロトから『迎えにきて』とメッセージが入っている。
「中学校にヒロトを迎えに行ってから、ユウカの高校にも行くか。ヨシエはなんで小学校にいたんだ?」
「今日はPTAの広報委員会だったんだよね。結局、制作が終わらなくて持ち帰ってきたけど」
私はエコバッグの中身を信号停止中のケンイチに見せる。PTA新聞のレイアウト台紙と、ペンケースと三十センチ定規、それから委員会中に出されたお茶菓子の残りが入っている。
「ボク、学校にママがいたからびっくりした!」
「雨が降ってきたから一緒に帰ろうとしたんだけど、リョウは傘を持っていないし、私の折りたたみ傘も大きくはないし、ケンイチがちょうど帰るところでよかった」
「ん、支社から直帰するところだったからな」
中学校の正門前に車を停めると、正面玄関のひさしで雨宿りをしていたヒロトが走ってやってくる。
「雨まじでぱねぇ!」
「ヒロトの学生かばんの中に、折りたたみ傘を入れてなかったっけ?」
「傘? どっかいった。消滅した」
私はため息をついて、ユウカに『迎えに行く』とメッセージを入れる。雨はますますひどくなっていき、高校に到着する頃にはスコールのようになっていた。
ユウカは高校前のバス停の屋根の下に、折りたたみ傘を差して立っていた。スライドドアを開けて車に乗るまでのあいだに、体を濡らしてしまう。
「バスで帰るつもりだったけど、バスも遅れてるみたい。もう雨ヤダまじムリ雨シぬ」
「女子高校生はすぐ気軽にシぬっていう」
「金曜日だから荷物多いのにー、空気読め、雨!」
ユウカは通学用のリュックサックからスマートフォンを取り出し不機嫌そうにシートに沈み込む。三列目シートに座っていたヒロトが
「ママー、そういえば朝読書の時間に読む本がもうない。買って」
と身を起こして私に話しかける。
「日曜日に三冊も買ったばかりじゃない。もう読んだの?」
「とっくに読んだししょうがないから二周目読んでる」
「ええ……、中学校の図書室でなんでも好きな本を借りてきなさいよ」
「図書室にはラノベほとんどないし、置いてあるラノベはもう全部読んだあ」
「たまにはライトノベル以外の本も読めばいいじゃない。ママの本棚から持っていってもいいし」
「ママの本棚って、なんか文学? みたいなのしかなくてやだ。転スラの新刊出てるんだよ。買ってよお」
「うーん」
私はヒロトが読書好きに育ったことを喜ばしく思っているが、それはそれとして読みたい本を全て買っていては破産してしまう。車も買い替えたばかりでローンも丸々残っているというのに。
「三号線が渋滞してるな。海側を通って帰るか」
ケンイチがカーナビの渋滞情報を確認してからハザードランプを消して、車を発進させる。
騒々しかった車内が一瞬静かになって、雨音に混ざってカーラジオの音楽が聞こえる。
「あっ、米津玄師! ママボリューム大きくして」
後部座席の左側に座っていたユウカが身を乗り出す。
「ユウカ、よねずげんし好きだったっけ」
「よねずげんしじゃなくてよねづけんし! 米津まじ天才。なにこの重なり合うリズムの複雑さと歌詞の解像度! まじでどうやったらこんな曲作れるの同じ人類とは思えない」
「ボカロばっか聞いてるのかと思った」
「米津は昔ボカロPだったんだよ」
「ヒロト、シートに寝っ転がらない! シートベルトちゃんとしなさい」
「うえーい、シートベルトしてるってば」
「肩ベルト抜いてるでしょ。急ブレーキかけたら上半身持っていかれるよ」
「ボクはきちんとシートベルトしてるよ!」
後部座席右側のジュニアシートに座っているリョウが、誇らしげに胸を叩く。三列目シートに転がっていたヒロトがしぶしぶ体を起こしてシートベルトをつけなおす。
カーナビの渋滞情報を避けながら家路に向かっていると、いつの間にか港に出ていた。波が荒々しく小型漁船に叩きつける。大きく波がひいて、それからまた打ちつける。一瞬、しぶきとともに道路まで魚が打ち上がってきたのかと思ったが違う。
「子供!」
「えっ!?」
青く光るブリかなにかのように見えた魚は、ヘッドライトに照らされて子供の姿に変化する。リョウとちょうど同じ年頃の、青いワンピースを着た少女だ。
「わあーっ!」
ケンイチが急ブレーキを踏む。タイヤが雨でスリップし止まらない。このままでは女の子を轢いてしまう。ハンドルを左に切り小型ボートを踏みつけ、納車したばかりの新型ノアは海面にダイブする。
「沈む! やばい沈む」
「ユウカヒロト、スマホ手に持ってる!? 緊急通報して!」
「110? 119? どっち!?」
「どっちでもいい、てゆうかどっちも!」
「やべえ、水! 窓の外が水!!」
「ボクあんまり泳げないよお」
ケンイチがフロントガラスを内側から叩く。私は自分のシートベルトを外して後部座席に移動し、リョウのジュニアシートのベルトも外す。リョウが私にしがみついてくる。
「もしもし、警察ですか? 車が海に落ちました。えっと西港の……」
「今沈んでます。絶賛水没中です! いやまじだって!」
「ユウカ、後部座席に移動して! ヒロトシートベルト外しなさい!」
「着けろっていったり外せっていったり」
車が前のめりに海へと沈んでいく。
「パパ、パワーウインドウ開く?」
「だめだ、ショートしてる」
ジュニアシートのそばに転がっていたステンレスの水筒を拾い上げ、後部座席の窓を叩く。どこからか浸水した海水が、車内を満たしていく。