眩しい日々
*
私の家に、幽霊がやってきた。
いや、正しくは幽霊ではない。その子は自らをアンジェリクと名乗った。彼はこの国の第二王子だったのだ。
私は少しショックを受けていた。というのも、アンジェリクは将来、私を断罪する人物だから。よく考えれば分かったはずなのに、私は気づけなかった。それは彼の出現が予期していた時期より三年も早かったことに起因する。
そもそもあの嵐の日、私が離宮に行かなければ、彼と出会うことはなかった。私がしてしまったことで、物語は既に書き換えられているのだ。
叔父はアンジェリクを家に置き、次の日国王に、彼の処遇を相談しに行った。叔父は根が善い人間で、アンジェリクの将来を心配したのだ。
だが国王は第二王子のことをなんとも思ってないらしく、その話題に関しては相手にしなかったらしい。叔父は悩んだ挙句、アンジェリクを引き取ることにした。物語は筋書き通り、そして予定より早く動いている。
このまま行けば私は十六歳か、それよりも早く断罪されてしまう。
だが私は、今の現実を受け入れることにした。
幽霊――アンジェリクは行く場所もない。ならばここにいて欲しいと思えた。私と彼は、他ならぬ友達だから。
アンジェリクは、最初は叔父に遠慮して大人しくしていたが、慣れて来ると城の中庭でそうしたように、飄々と振る舞うようになった。
叔父は彼に良い部屋を与え、家族同然のように振る舞った。
叔父は相変わらず城へ行くことが多かったが、私はあまりついて行くことはなくなった。
私のいたい場所は、幽霊のそばだったのだと今更ながらに気づいた。
「ねえローズベリィ、本を読んでよ」
屋敷の中庭に陣取り、相変わらず彼は言う。叔父の書斎にはたくさんの本があった。お城ほどではないようだけれど、それでも様々な本が。
前はアンジェリクが持ってきていたが、私が選ぶことも増えた。
アンジェリクは文字が読めなかった。だからこそ私に読むのをせがむのだが、ある日私は告げた。
「あなたが読んでみて」
「言ったでしょ。僕は読めないって。どうしてそんな意地悪を言うの」
「意地悪じゃないわ」
私は立ち上がり、やさしく彼を見た。
「ねえ、私が文字を教えてあげるわ」
ぱちくりと彼は目を瞬かせる。
「文字を知って、なんの意味があるの? 君が読めばいいじゃない」
よく彼はこう尋ねた。それはまるで、空から落ちてきた無垢な天使が、人間にしか分からない規則を知ろうとしているような光景だった。
「意味はあるわ。文字を知れば、世界が広がるの。あなたは私に頼らず、好きなだけ本の世界を冒険することができるわ。それってとても、素晴らしいことなのよ」
そうして私達は、昼下がりに勉強をするようになった。私が彼に文字を教えるのだ。
開いた本の文字を、彼の白い指先が辿る。
「そうして……女の子は……りんごを、食べました」
「違うわ。りんごを買いました、よ」
「覚えきれないよ」
「大丈夫、心配することはないわ。ーーそうだわ、魔法の本があるの」
そう言って私は、本棚から分厚い本を取り出した。
「これは辞書。この中に、あなたの知りたい言葉が大抵書いてあるわ。私も最初、これで勉強したのよ」
この世界の言語は日本語ではない。でも多くの赤子がそうであるように、私は自然と話すことを覚えた。そうして読み書きは、こうした辞書で勉強したのだ。
私はアンジェリクが独り立ちすることを望んだ。いつか私から離れて、別の人生を歩んでくれればいい。ずっと彼と一緒にいれば、いつか断罪イベントが起きてしまう。
本当は、ずっと彼と一緒にいたい気持ちもあるけれど、そんな想いは抱くだけ無駄だ。年頃になれば、彼はペチュニアに恋をするのだから。
「さあ、もう一度、今度はこの文を読んでみましょう。分からない言葉は、この辞書で調べるの」
「男の子は……森で、ええと……」
言われた通り、彼は辞書を引き始める。流れる視線が、一点で止まった。
「小鳥! 男の子は、森で、小鳥の声を、聞きました」
「そう! そうよ! ね? 勉学において、不可能はないわ。あなたがそれを、望む限りね」
アンジェリクが、はにかむように笑った。美しい微笑みだった。
そうして私達は、叔父がいない昼間の間、勉強したり遊んだりして過ごした。召使い達はにこにこと私達を眺めていた。問題は夜だった。
召使いの間で、真夜中に幽霊が出ると噂が流れ始めたのだ。
ピンと来た私は、ある夜ベッドに潜ったまま、眠ることもせずに起きていた。
やがて、きい、という階段が軋む音を聞きつけ、そっと廊下へ続く扉を開いた。
夜の蒼に包まれた暗い屋敷の中、白いネグリジェを着たアンジェリクが歩いている。
それは確かに、見た人に誤解を与える光景だった。
応接間をふらふらと歩く彼は、大きな窓から差し込む月の光に照らされている。長い金髪が緩やかに煌めいていた。
「アンジェリク……?」
私が声をかければ、彼はハッとしたように振り向いた。
「ローズベリィ……?」
「どうしてこんな真夜中に歩いているの?」
「僕は……僕はただ……」
彼は酷く困惑した様子で唇を開いた。
「寂しい夜になると、何かが恋しくてたまらなくなるんだ。ダレンだけが僕に与えられたものだ。それがここにはない」
私は悲しくなって彼を見つめる。
「彼のところへ、帰りたいの?」
「いいや。ーーでも、帰らなければならない気がする。あの温もりがないと、生きられないんだ」
彼の瞳から、透明な涙がこぼれ落ちる。
私は、彼の手をそっと握った。
「あなたが嫌でなければ、一緒に寝ない? 私は、あなたが欲しいものはあげられない。でも寂しい夜、側にいることはできるわ」
アンジェリクは、じっと私を見つめ返した。その瞳は、救いを見つけたような色をしていた。
そうして、私達は一緒のベッドで並んで横になった。
アンジェリクは私と手を繋ぎ、やがては互いに静かな眠りに落ちたのだ。
明くる日、一緒にベッドに入ったことを知った叔父は、渋い顔をした。無理もない。私達はまだ六歳だが、彼にとっては思うところがあるのだろう。
彼は私達に注意をしたが、幽霊騒ぎの話について聞くと、渋々一緒に寝ることを許してくれた。
それでも十歳になると、さすがに別々に寝るようにと引き離された。ただ寝る時以外の間、アンジェリクは大抵、私の近くにいるようになった。