その5 そらのかなた
手を伸ばすと、そこには何もなかった。
遠くて高い空。
あの日と同じ、夏の空。
それでも、手を伸ばしたんだ。
いつかは、届くと、信じて。
館内は静かだった。
来客の数はアサトとタツキの他には十人にも満たない。
入り口に程近い外側の座席に二人は腰掛けていた。
シートに深く体をあずけ、頭上の天体を眺める。
そのまましばらくしていると、ナレーションのような解説の声が流れ、さらに館内が薄暗くなる。
アサトはふと隣に座るタツキを見る。
タツキは真っ直ぐに頭上の天体を眺めていた。
瞬き一つせずに、そこに映る星の一つ一つをその目に焼き付けるように。
そして、あの日の記憶を手繰り寄せるように。
「…………」
だから、アサトは何も言わなかった。
同じように上を見上げ、名前も知らない星たちを目で追いかけた。
時間にしてみればおよそ三十分程度。
解説を交えた天体観測は終わりを告げる。
結局、アサトもタツキもプラネタリウムを出るまで一言も言葉を交わすことはなかった。
今、二人は来た道を引き返して大通りを歩いている。
アサトは自転車を引き、その隣をタツキが歩いている。
タツキの手の中にはプラネタリウムのパンフレットが握られているが、視線は下を向いたままだった。
足取りもどこか重く、ひどく疲れているように見える。
声のかけづらい空気だったが、アサトは小さく声に出す。
「少し、休むか?」
「……ん。そだね」
二人の目の前には小さな公園があった。
公園といっても、ビルとビルの間にある空き地をそれらしく見せているだけのようなものだ。
柵とベンチがあるだけで、他には何もない場所だ。
自転車を歩道の端にとめ、二人は公園の隅にある石造りのベンチに座る。
夕方になっていくらか涼しくなったからだろうか、通りには犬の散歩にやってきた人やいち早く仕事を終えて帰路につくサラリーマンの姿などが多く見受けられた。
どこかでカラスの鳴き声が聞こえたと思ったら、その方向を見るよりも早く黒い羽の鳥はいずこへと飛び去った。
公園は二人だけが、まるで取り残されたようにぽつんと座っていた。
「…………」
「…………」
二人の間に会話はない。
タツキはずっと俯いたままだし、アサトはそんなタツキに声をかけられないでいる。
もともとタツキはプラネタリウムに行くことに対し、あまり乗り気ではなかった。
そこを半ば強引にアサトが連れて行ってしまったので、そのせいで気分を悪くしているのかもしれない。
とりあえずそのことを一言謝っておくべきかと思い、アサトが口を開こうとしたときだった。
「……私、さ」
「……ん?」
小さな声で、タツキは口を開いた。
「……ずっと、分からなかった。お姉ちゃんが事故で死んじゃってから、ずっと胸の中がからっぽだった。あんなに一緒にいたのに、もうどこにもいないんだって……頭では、ちゃんと分かってたはずなのに……」
途切れ途切れの声だった。
けど、アサトはジッとその声に耳を傾ける。
一つもこぼさないように、タツキの本音を受け止める。
「……夏が終わって、お姉ちゃんがいなくなって……でも、時間だけはどんどん流れていって、秋になる頃には、悲しいのも少しは薄れてたって思ってた。そのまま冬になって、春になって……ああ、一年ってこんなに早く流れるんだなって、そう思ってた。立ち直れてるって、そう思ってた。ちゃんと忘れて、前を向いて歩けてるって……思ってた。思ってた……はず、だったの……」
タツキの言葉に嗚咽が混じる。
その小さな肩が小刻みに震えていた。
手の中のパンフレットがくしゃりと音を立てる。
「なのに……なの、に……!」
タツキが小さく奥歯を噛み締めた音がはっきりと聞こえた。
手の中のパンフレットが音を立ててぐしゃぐしゃになっていく。
握ったその拳まで、小さく震え始める。
だから、その手を。
「…………中、原……?」
アサトは無言で、タツキの手の上に自分の手を重ねた。
そんなことで震えが収まるとは思っていない。
けど、今の自分にできることはきっとこのくらいのことしかなかった。
「……いいよ、ゆっくりで。ちゃんと、聞いてるから」
言葉にできたのは、たったそれだけ。
慰めでも何でもない、いいわけみたいな言葉。
でも、それでも。
「……うん」
タツキの手の震えが、ほんの少し小さくなった気がした。
特別強く握っているわけではない。
本当に、そっと重ねているだけ。
たったそれだけ。
それだけでも、変わるものがある。
「……忘れようって、何度も思った。そのたびに、忘れたつもりでいた。でも、それは嘘だったの。何度忘れても、ふと気が付けばいつもお姉ちゃんのことばっかり考えてる。何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も……数え切れないくらい、思い出は振り払ってきたはずなのに!」
そこが限界だった。
堰を切ったように、タツキの目元から大粒の涙が溢れ出す。
それは頬を伝い、膝の上や足元の地面、タツキの手の上に重ねたアサトの手の甲にこぼれ落ちた。
「全部、捨てたつもりだった。お揃いの服も、誕生日にもらったペンダントも、何もかも。忘れることで、自分の中にある痛みから解放されてた。だけど、だけど……やっぱり、ダメだった……」
「天宮……」
「……痛いよ、中原」
それは、アサトがタツキの手を強く握っているからではない。
「痛いよ……」
「…………」
「何で、こんなに……胸の奥が、すごく痛いんだ。ナイフでガリガリ傷つけられてるみたいに、痛くて、痛くて……逃げ出したくなるくらいに……!」
「……ああ。分かる。俺にも、分かるよ」
その痛みは、喪失感だ。
大切なものを失ったという現実から目を背ければ背けるほど、思い出はより鮮明によみがえってしまう。
全部忘れたつもりでいるのに、心の隅っこにいつも残っている。
それはちっぽけで、けれど絶対に捨てきることのできない、大切な記憶。
どれだけ剥ぎ取ろうとしても、心がそれを拒んでいるからいつまでたってもなくならない。
だから、ナイフは心を削り取る。
悲しみという痛みを、次々に刻み込んでいく。
決して捨てられない記憶。
それを守り続けているのは、他でもない思い出そのものだ。
消し去ってしまいたいという気持ち。
それと同じ……いや、それ以上に忘れたくないという思いがある。
だから、苦しいんだ。
間違っていると分かっていてその行いをしてしまうような、そんな矛盾。
「……何で……何で、こんな……」
「……忘れたく、ないからだろ」
「……え?」
「本当は、忘れたくないんだよ。お姉さんのことも、お姉さんとの思い出も、全部な。だから、苦しいんだ。天宮は多分、心のどこかでお姉さんの死に自分が関わってしまったって、そう思ってるんだ。だから、少しでも早くその悲しい記憶を塗り潰してしまおうって、そう思ってるんだよ」
……もしも。
一年前のあの夏の日、セナが出かけることをタツキが止めることができたのならば、不幸は起こらなかったかもしれない。
今も変わらぬまま、タツキの最愛の人でいてくれたかもしれない。
「思うことは、きっとたくさんあると思う。あのときこうしておけばよかったって思うのは、俺だって何度もあった。きっと、この先も何度もそういうことがある。けど、すでに起こってしまったことだけは……過去は変えられない。だって、俺たちは神様でも何でもないんだから」
「…………」
「死んだ人は生き返らない。それは絶対だ」
タツキの肩がわずかに震える。
当たり前すぎる事実を突きつけられたことが、逆に心を不安定にさせる。
「だからこそ、悲しむんだろ」
「え?」
「お前は何も間違ってないよ。お姉さんが好きだった。好きだった人がいなくなった。だから悲しいんだ。だから泣くんだ。だから苦しくて、辛くって、寂しくて……どうしようもなかったんだ。そうだろ?」
死んだ人間の価値は、その人間が死んだときにどれだけの涙が流れるかで決まるという。
けど、そんなものは関係ない。
世界中にたった一人でも自分の死を悲しみ、涙を流してくれる人がいるのなら、それはきっと喜ぶべきことだ。
「お前の姉さんは、幸せだったと思う。不幸な事故で、未練だってきっとたくさんあったのかもしれない。だけど、それでもやっぱり幸せだったんだよ。幸せだったはずなんだよ。だって、そうだろ。こんなに近くに、こんなに泣いてくれる人がいたんだからさ」
「……そう、かな……? 本当に、お姉ちゃんは……」
「何度も言わせるなよ。何の根拠もないけど、俺が保障してやる。お前の姉さんは、幸せだったんだ。お前が、幸せにしたんだ」
その言葉だけで、タツキは救われた気がした。
何の根拠もないその言葉には、不思議な力があった。
痛みが引いていく。
胸の中に暖かい光が溢れていくのを感じた。
その温もりを、タツキは知っている。
覚えている。
いや、忘れてなんかやらない。
それは、大切な人の温もりだ。
手放したりなんかしない。
もう、二度と。
絶対に。
「…………っ!」
タツキはアサトの腕の中で泣いた。
錆び付いた涙腺が崩れ、次から次へと涙が溢れる。
思い出がこぼれていく。
心の奥底にしまいこんでいた大切なものが、どんどんこみ上げてくる。
苦痛と悲鳴、そしてまだ見ぬ何かが交じり合った声で、タツキは静かに泣き続けた。
見つけたよ。
ずっと探していたものを。
見つけたよ。
夏の日の落し物を。
見つけたよ。
大切な思い出を。
見つけたよ。
強がりで、泣き虫で、意地っ張りな私を。
見つけたよ。
新しい、大切を……。
七月三十一日。
今日は七月最後の日曜日だ。
すでに時刻は夕方の六時を回り、辺りはうっすらとだが夜の色に包まれ始めている。
この日、アサトの住むアパートから近い公園で夏祭りが開催される。
ずいぶんと気の早い気もするが、それはこの際なのであまり気にしないでおく。
その公園では、すでに数多くの屋台や出店が所狭しと展開されていた。
近隣のアパートやマンションの住民、中でも親子連れや家族連れが目立つ。
そんな中、アサトは公園の入り口から少し離れた場所で立ち尽くしていた。
待ち合わせの時間は六時だったのだが、約束の時間を十分ほど過ぎてもその相手はやってこない。
「……やっぱ、待ち合わせ場所はあそこのコンビニにしとけばよかったかな」
アサトは携帯の時計を見ながら小声で呟く。
ここら一帯は住宅街なのだが、とにかく道が細く入り組んでいてまるでくもの巣のようになっている。
なので、土地勘のない人間だとあっという間に迷ってしまうことも珍しいことではない。
念のため一度電話をしておこうと、最近になって登録した真新しい番号を選択したそのとき。
「うわっ!?」
急に首筋に冷たいものを押し当てられた感覚に驚き、アサトはその場から思わず一歩飛び退いた。
「あ、天宮?」
何かと思って振り返ると、そこには缶ジュースを手にしたタツキが立っていた。
「あはは、驚いた?」
言って、タツキは手にしていたジュースのうちの一本をアサトに手渡す。
アサトはそれを受け取りながら
「遅かったから、その辺で迷ったかと思った。今電話するとこだったよ」
「いやー、間に合うはずだったんだけどね。この辺、やたら道が曲がりくねってない?」
「だな。もうちょっと目印になるものでもあればいいんだけどな」
そう言いながら周囲を見回すが、これといって目印になりそうなものは何もない。
「さて。んじゃ、とりあえず歩くか?」
「そうしよっか」
雑踏を掻き分けながら二人は公園に入る。
もともとそこまで大きな公園ではないのだが、これだけ人や店が密集していると途端に狭く感じてしまう。
屋台や出店を一周するだけでも苦労しそうだ。
けど、まぁ……。
「……いいか。たまには、こういうのも」
「え、何? 何か言った?」
「何でもない。ほら、行くぞ」
「あ、ちょっと待ってよ!」
タツキが手を伸ばす。
アサトはその手を掴む。
決して離さないように。
カレも、カノジョも。
互いに見えない傷を負っている。
消えない傷跡を残している。
それでも、前に進める。
いい思い出も、悪い思い出も、その全てを別の何かに変えていける。
カレも。
カノジョも。
皆、一緒だ。
――もう、一人じゃない。
昨日があっちで呟いた。
こっちにこないかい?
明日がこっちで呟いた。
こっちにこないかい?
いかないよ。
どっちも、いらないよ。
歩く道は、もう目の前にあるから。
そのために必要なものも、もう持っているから。
だから。
今日を、歩くよ。
そして、いつかきっと。
あの日の大切を見つけるよ。
夏の日。
一つの星が泣いていた。
星の涙は、流れ星になって落ちていった。
それは、誰かの忘れ物。
そして、夏の空の落し物だった。
最後までお付き合いいただきありがとうございます。
本来なら短編として掲載予定だったのですが、書いているうちに量が増えてやむなく連載という形で掲載させていただきました。
なんともどこにでもありそうなお話ではありますが、いかがだったでしょうか。
少しでも楽しんでいただければ幸いです。
それでは手短ですが、これにて失礼いたします。
手に取ってくださってありがとうございました。