セカイの名付け親
胸の底が、締め付けられるような感じだった。
働いても働いても、終わることのない仕事。このままずっと、仕事をされ続けて、いつかは死んていくのだろう。そう、思っていた。
「外の世界のケシキというのは、どこまでも美しいのです。でも、そう見えるのは、そこがただ綺麗だから、というだけではないのです。」
夜、他の人たち寝ている時に、「あの人」は言った。名前は知らない。名前はないと、そう言っていた。僕と同じだった。僕にも、名前はない。
「では、もう一つの理由は、何だと思いますか。」
「あの人」は女の人だ。外の世界を、見たことがあると。そして、僕に色んなことを言ってくれた。僕はそこで、簡単な言葉や、世界には名前がたくさんあることを知った。
「││分かり、ません。」
小さな声で、僕は言った。せっかく僕に聞いてくれたのにな、と、思っていたことを、今でも覚えている。
ふと、頭がほんのり温かくなった。あの人が、手を僕の頭の上に乗せたのだ。
「もう一つの理由、それは、人の心です。外にはいろんな人がいます。色んなココロを持っています。けれども、人が胸の底にに持っているものは、同じなのです。」
「そう、なんですか。」
僕の周りにいる人のことを考えても、そう思うことができなくて、僕は思わず言ってしまった。
あの人は僕を見て、笑った。そして、言った。
「それは、『より良くしたい』という考えです。より良くしたくて、ケシキは綺麗にされているのです。││その考えは、皆持っているのです。使い方が違う。ただ、それだけなのです。」
外の世界には、綺麗なケシキがある。言葉がある。そして。
「より良くしたい」という考えを持った人たちがいる。
知りたいと思った。言葉を、名前を。
見てみたいと、思った。ケシキを、そして。
人のココロを。
││少しだけで、いいから。
私は彼が好きだった。
私が彼に話をすると、それはそれは熱心に聞いてくれる。その目の中にある好奇心という光を見るのが、好きだった。
彼と色んな話をした。言葉の話、名前の話、そして。外の世界と、そこに住む人間たちの話を。どの話をしたときも、楽しかった。
名前のない、人間でもない私にも、温かく接してくれた。
彼は鋭い目を持っていた。人間の表情、仕草、声色から、気持ちをすぐに読み取って行動していた。まるで、相手が何を考えているのか、底から理解しているかのように。いや、多分、既に理解しているのだ。それは彼の顔を見れば分かった。相手の感情に合わせた顔を、彼は私に見せてくれるのだ。
彼││少年は奴隷だった。物心ついた頃から、炭坑で働いているのだという。名前も、持っていないそうだ。
この世界は、奴隷が経済を支えていた。世界にある四つの島の面積は、そう大きくはない。もしこの制度がなかったなら、すぐに崩壊していただろう。奴隷制度をなくす代わりに、貴族制度、いや、身分制度そのものをなくせばいいと、私自身はそう思う。だが、それも未だ行われていない。住民の意見を一蹴しては、上の身分の者たちが有利に生活できる制度が、続けられていた。島の住人同士で助け合うことができるよう、面積を小さくしたのに、やるせない。
この世界を、大きく変化させたい。いや、させないといけない。そう思っても、この世界を作った私が手を出すことはできない。土地や物を創造したり、人に何かを言ったり、頼んだりすることは出来る。けれども世界の仕組みに直接関することを、私の手で行うのは規約違反だ。それが、神の世の掟なのだ。
そして、もう一つ。人間の営みが原因で、近い未来││おそらく一年後に││起こる危機があった。それも防がないと、世界は。崩壊してしまう。美しいこの世界を見捨てることも、私にはできない。
私は、考えた。世界を変化させ、そして危機を防ぐ方法を。
考えて、思いついた。
そして、それを頼むのに、ふさわしい人間が、一人。純粋で、優しさを持ち、人の気持ちを胸の底から理解している人間が、少年が。
春の、満月の夜だった。雲ひとつない、清らかな夜。
少年は、既に眠っていた。といっても、今夜は、いつも他の人間と共に雑魚寝している広間ではなく、古い牢屋だ。
彼は今日、初めて奴隷商人たちに逆らった。外の世界を見てみたいという思いが、無意識に働いていたのかもしれない。そして彼は、罰として牢屋に閉じ込められた。私にとっては、他の人間││奴隷商人たちや他の仲間││が入ってこない場所で、二人きりで話すことが出来るため、好都合だった。
私は、この世界を創った。そして三年前から、停滞した世界を変えるために、下界に降りて、人間たちの様子を見ていた。人買いにわざと攫われここで働かされるようになったのは、数ヶ月前からだ。ここは、一番多く、負の感情が生まれる場所。そこが今どんな状況なのか、この目で確かめたかったからだ。
││ある日彼は、私に言った。
「僕もいつか、外の世界を見てみたいです。」
外の世界の人と、話してみたいです。
どこまでも純粋なその願いを叶えるのにも、それは好都合だった。好都合な、頼み事だった。
私は切に願っている。少年が、この世界に大きな変化をもたらしてくれることを。そしてどうか││救ってほしい。
あの子を。
1
座っている体が、ガタガタと揺れる。
わけは、「ニグルマ」という「ノリモノ」に乗っているからだ。僕が今乗っているこの「のりもの」は、木でできていて、輪っかがくるくると回って動くのだという。自分の目で見てみると、確かに回っているところがある。すぐそばに居るおじさんに教えてもらった。
その質問をしたときに、
「こんな事も知らねぇのか、小僧。随分とセケン知らずなんだなぁ。お前より幼いガキの方がよく知ってるんじゃねぇか。」
と言われてしまい、胸がどきりと跳ねた。とは言っても、おじさんの言葉は正しいので、知らないものは仕方ない、と考えることにする。
僕は、そう言われて当たり前の歳だ。多分。そういえば、自分の歳なんて、考えたことないかもしれない。僕はいま、何歳だろうか。
今までそういう事を知ることができる時はなかった。頭を使って何かをする暇が無かったからかもしれない。今はその事は、あまり思い出したくない。じゃあどうしようか。何か別のことについて考えようか。
その時のおじさんは不機嫌そうな、顔をしていたけれども、声色は暗くなかった。怒ってはいないようだった。
良い身なりとは言えない僕を「ニグルマ」に乗せてくれたことも考えると、一見近寄りにくい感じはするけれども、性格はそれ程悪くはないのでは、と思う。僕はそんな偉そうなことは、本当は、言えないけれど。
胸のあたりに溜まっているものが、少しだけ、ほんの少しだけ薄れたような、気がした。
当のおじさんは、馬を使ってニグルマを動かし続けている。馬は、毛がつやつやとしていて、このおじさんがいつも丁寧に手入れをしているのが、なんとなく分かった。その様子を思い浮かべる。温かい感じがして、自分の目で見てみたい、とも思った。
僕は、というと、周りを食べ物に囲まれている。木箱が台に置かれていて、僕がその間に埋まるように座っている。
木箱の中の食べ物は明るい色をしていて、色の付き方がどれも少しずつ違っている。全く同じ色のものは一つもないように見えた。
ここまで色の眩しい食べ物を見たのは初めてだ。どんな名前なんだろう。どんな味がするんだろう。この食べ物を食べてみたい、それを食べる人の顔を、見てみたい。
なかなか薄れない胸の底の、あまり気持ちのよい感覚がないその部分から、何か別のものが出てきたような、そんな予感がした。
頭を上げた。すると、そこには空があった。その色は青く、上に向かうほど濃くなっているようだ。
明るくて、透き通っていて、どこまでも広がっている空。
僕は、元々奴隷だった。奴隷「だった」というのには理由がある。
││数日前の夜。僕は牢屋の中で眠っていた。薄汚れた壁にもたれながら、眠っていた。
僕は寝るのは好きだ。他の人に見張られることはない。だから、胸の鼓動が激しくなることもない。眠るときだけ、この時間だけ。
心が落ち着いていた。
その日は上の立場の人に逆らってしまい、その罰として閉じ込められていた。その上、牢屋に連れて行かれる時に、激しく抵抗してしまった。その日はいつもよりもぐったりしていたと思う。
何故命令に従わなかったのか、自分でも分からない。そんなこと、今まで一回もやったことなかったのに。
両方の手首は枷が付けてあった。枷の鎖は頑丈で、外れそうになかった。
朝から夕方まで働かされていた上に、命令に逆らった罰として何度か叩かれて、動く元気はなかったから、もしやろうとしても出来なかっただろう。バレたらまた叩かれるのだから、そもそもやりたくないけれど。
誰かに体を揺らされた。僕はゆっくりと目を開けた。ふと見ると、窓の代わりについている柵から、光が入り込んでいた。優しい月の光だった。その光が綺麗で、僕は小さく息をついた。
今考えてみれば、この時点でおかしいと思うはずだ。一体誰が僕を起こしたのか、と。いつもだったら夜に起こす人も、起こされる理由もないからだ。すぐに目が覚めて、周りに誰かいないか確かめる。そうするはずだ。
しかし僕は特に何も考えずに、丸い月の明かりを、ただぼんやりと、見つめていた。そんな意味もないことをしていたのは、寝ぼけていたからだろう。でも僕は。その光を見て、思ったのだ。この場所に、ここまで綺麗なものがあったのか、と。
起きてください、起きてください・・・。
そんな声がした。小さく、しかし僕より高い声。その声がとても綺麗だったことを表す言葉は、今の僕は持っていない。
驚いた僕の目は一気に覚めた。いや、「一気に覚めた」というよりは、いつもより早く、眠気がすうと消えていくような、そんな感じだった。こんな風に目が覚めるのは初めてだった。よっぽど驚いたのだろう、と思う。突然知らない誰かが、牢屋に入れられた奴隷を起こして声をかけたのだから、当たり前といえば当たり前だけれども。
声がしたした方向││月明かりが照らす方向を、じっと見つめる。錆びて汚れた柵の隙間から、差し込んだ、美しい光の集まった所を。
そこには、いた。
女の、神さまが。
何故そう思ったのか。
一つ。普通の人間にはないであろう美しさがあったから。
長い金色の髪と、青い目、まっさらな白い服、それと、小さな宝石が真ん中にちょこんとついている、頭飾り。そのどれもが、月の光に当たってきらきらと輝いていたからだ。全てがきらめいていて、僕とは全く違うな、と思った。土と泥で汚れた、「卑しい奴隷」と言われ続けている僕とは。
二つ。体が、浮いていたから。足は見えていたけれども、地面についていなかった。もし、羽があったとしても、目が覚める前にバサバサと音がするだろう。そういう音はしなかったし、羽も生えていなかった。他に飛べそうな道具も、持っていなかった。
羽もないのに地面から浮く。そんな事ができるのは、神さまだけだ。そうとしか、考えられなかった。
三つ。その体は、透けていたから。足だけ、とか、手だけ、とか、ではなかった。体全体が薄く、向こうの壁が見えた。
人間じゃないと、すぐに感じた。
けれども、これは僕が自分の目で見ただけだ。牢屋には僕一人しかいなかったから、他に見た人はいない。もし、僕以外に神さまを見た人がいたのなら、同じ事を言ったのだろうか。そもそも、あの人を神さまであると見ただろうか。それは分からない。
もしかしたら、神さまではなどではない、と言われるのかもしれない。でも。
それでも、「そこに居た」。
神さまが。
僕は、そう思っている。
ああ、起きたのですね。よかった。
神さまは胸に手を当てながら、ほっとしたように呟いた。そして僕を見ながら、笑った。
その時の顔を、僕ははっきりと覚えている。目を少し細め、笑っていた。優しくて、綺麗な笑顔だった。
他にどのように言葉で表わせばいいのか分からない。自分が持つ言葉の数が少ないことを、今はただ悔しいと思う。これからは色んな表し方を知っていかないと。
突然ではありますが、貴方に頼みたい事があるのです。
「僕に頼み、ですか」
その時、初めて神さまに言葉を返した。とは言っても、びっくりしたからだろうか、声があまり出なかった。言葉を出すのがやっとで、相手にははっきり聞こえなかったかもしれない。
「頼みって、何ですか。」
神さまの名前は聞かなかった。僕みたいな奴が聞いてはいけない。誰かに言われたわけではないけれど、すう、とそんな考えになった。
普通の人だったら、ここで相手に何か聞くのだろうか。どうやってここに入ってきたのか。名前は何か。
貴方は、何者なのか。
この世界に、名をつけてほしいのです。他の誰でもない、貴方に。
「はい、分かりました。」
僕は言った。すると、神さまは笑いながら困っているような顔をした。その理由は、今なら何となく分かる気がする。
今、名前を付けろと言っても困るでしょう。ですから、貴方に旅に出てほしいのです。土地を巡って、人と出会い、感情に触れ、言葉を学び、経験を積み重ね、数々の景色をその目で見て。
その上で、名付けてほしいのです。貴方の、人に寄り添う事の出来る心と、確かな観察眼をもって。
その人の言葉が表していることが、何故かはっきりと分かった。
僕に、神さまが言ったようなものがあるのかは、正直分からなかった。今でもそうだ。でも受けたのだから、頼み事はしっかりやろうと思う。
神さまに、僕はある事を聞いた。
「ひとつだけ、いいですか。ここから、どうやって外に出たらいいのですか。」
牢屋に入れられて鎖を手に繋がれている僕は、動けない。もし牢屋から出たとしても、そのうち捕まってしまうだろう。近くに何人か見張りがいるはずだから。
そして今、疲れていて、走ったとしても追いつかれる。
もし、外に出られたとして。
ここの人たちに追われるようになるのだろうか。
││大丈夫です。私が手助けをいたしましょう。
神さまは笑って、そう言った。そしてその、細くて白い指、傷のない透けた手で、片手首の枷に触った。その時。
壊れた。バラバラになった鎖と枷は、音もなく地面に落ちた。
人間には絶対出来ないそれを、何と表せばいいだろうか。その動きをピタリと一言で表す言葉は、見つからなかった。僕は何もしていない。鎖を引っ張っても、枷を外そうともしていない。なのに。
動けなかった。目を大きく開けたのが自分でも分かった。その時、ビックリして出そうになった声を、頑張って堪えた。鼓動が体中に伝わった。何かひやりとしたものが、つう、と流れていった。
そして神さまは、その手を僕の顔に移した。胸の音が、今までで一番大きかったのでは、と後から思うくらい、どきりと鳴った。
神さまの顔が近く見えた。長い睫毛の隙間から、青い、綺麗な目が見えた。ちょうどさっき見た空の色に似ていた。どこかで同じ目を、見たことがある気がする。
明るくて、透き通っていて、奥をじっと見ると、吸い込まれそうだと、そう思ってしまうような瞳。その目を見ていると、何故だか疲れが、少しずつ流れて消えていった。
これで大丈夫です。あなたを縛る鎖と枷は、壊れました。肉体を傷つけるかの者も、もう追ってくることはありません。あなたはジユウなのです。
期限は一年です。それが過ぎたら、あなたに聞きますね。この世界を表す、ただ一つの名前を。その後は、何をしても構いません。そのまま旅を続けても、どこかの土地に留まって働いても、学ぶため、誰かに教えを乞うてもよいのですよ。
どうか、お忘れなきよう。あなたが手に入れた、ジユウを。
私は常に。あなたと共にあることを。
僕には、ジユウの意味は分からなかった。だけど。もう、外に出ても、何も言われないし、何もされない。僕は頼みを受けたお返しとして、ジユウになったんだ。それだけは、分かった。
僕は立ち上がった。牢屋の扉は開いていた。そのまま道を曲がり、扉を開けて、外へ。
外は起きたときより、少し明るくなっていた。光が色んな場所に当たっていた。もうすぐ朝だ。
歩き出した。街の方へ向かって。
僕がいたところの奴隷商人のソシキ、そこで一番偉い人や、人を攫っていた人が死んで、ソシキが滅んだと聞いたのは、それから少し後││日が遠くに昇った、ついさっきのことだ。
僕が、奴隷でなくなった理由。それは。「神さま」に助けられ、頼まれたからだ。「この世界に、名前を付ける」ために。そのために今、僕は旅をしている。
とは言っても、旅に出たのは今日の朝からだけど。
「おいボウズ、ボウズ。」
ペシペシと軽く叩かれた。目を開けると、そこにはおじさんがいた。そして近い。顔が。口の上についた、茶色のヒゲの一本一本をはっきり見ることができるくらいには。
眉毛の間にあるシワが何本あるか数えることができるくらいには。その中には、白い毛もあった。
「うぉ。」
つい、目をパチパチ開けてしまった。おじさんの顔が近くてビックリした、なんて言ったら多分怒られる、と思ったので、胸の音を落ち着かせるために、少し多く息を吸った。どうやら起こされたようだ。ということは、考え事をしながら寝てしまったのか。
「お昼だぞ。メシは要らないのか。」
僕が乗っている「ニグルマ」のすぐ下から、そんな声が聞こえてきた。
そういえば、夜に起こされたんだった。寝ていなかったのことと、昨日の疲れが一緒になって、眠くなったんだろう。そして、その眠さがまだ残っていて、頭がクラクラする。
この感じ、なくなるまでどのくらいの時間がかかるんだろうか。
「あ、そう。要らねぇのか。じゃあこの干した『キノミ』は俺のだな。俺だけが食べてやる。」
「え、そんな。い、い、要ります。」
慌てて呟く。干した「キノミ」、食べるのは初めてだ。食べてみたいし、何よりお腹が空いている。
って、食べ物を貰ってもいいんだろうか。あくまでおじさんが持っていたものだし、おじさんはそれだけで足りるのだろうか。僕が食べてしまってもいいのだろうか。
「チッ、しょうがねぇなぁ。やるから、『ニグルマ』から降りてこい」
「え、いいんですか。」
「要るのか要らないのか、どっちだお前は。」
「要ります。」
輪っかに片方の足をかけて、もう片方は地面に向けて、ニグルマからゆっくりと降りる。体が揺れて落ちそうになったけれど、何とか怪我をせずに降りることができた。おじさんのいる所へ向かい、隣に座る。
「その、すいません。」
「何がだ。はっきりと示して言え、はっきりと。」
おじさんは不機嫌そうに言う。会話って、なかなか上手くいかないな。
このままでは怒られてしまいそうなので、僕ははっきりと理由を言うことにした。
「えっと、おじさんが持っている食べ物を、僕がもらうのが、その。いいのかなって。」
「あー、そんなことか。別に気にすんな。お前、食べ物持ってないんだろ。見たらわかる。腹すかせてるガキを前にして、俺だけ食うってのもな。」
おじさんはそう言いながら、僕にキノミをくれた。赤い、でもさっき見た食べ物よりは少し暗い色をしていて、実がデコボコしている。そして小さい。
それを口に入れた。噛むと、甘い味がした。
美味しい。食べ物で、こんなに美味しいものがあったなんて。鼻から出入りする空気の量がいつもより多くなった。
「味わって食えよ、ボウズ。量が少ねぇんだから。」
僕は上下に首を振った。こんな美味しいものをすぐに全部食べてしまうのはもったいない。そう思った。ゆっくりと噛み始めた。
周りを見る。人やニグルマが通れそうな道の真ん中に、僕らは座っている。道になっていないところには、草や木が生えていて、弱い、そして暖かい風が吹くと、ヒラヒラと揺れた。
その風を気持ちいいと思う。目を閉じると、風の暖かさや葉っぱに当たる音が、よりはっきりと感じられた。
「で、お前はどこに向かうんだ。」
声がして、僕はその方向に頭を向けた。僕にそれを聞いたのは、もちろんおじさんだ。手には紙を持っていた。少し汚れていて、何か書いてある。僕にはそれを、何のために、どうやって使うのか、よく分からなかった。
口の中のものを急いで飲み込む。
「何ですか、それ。」
「これか。『チズ』だよ、チズ。」
おじさんはそう言って、僕にそれを見せてくれた。文字││と言っても「文字だと考えられるもの」というだけで、僕にはそれは読めないけれど││の他にも、色々書いてある。緑や黄色に塗られたところ、丸やバツが書いてあるところ。よく見ると、元から書いてあったものではない文字が、いくつかあった。数も多い。おじさんが後から書いたのだろうか。
「俺たちが今いるのはここ。で、俺が向かうのがこの『ルクリン』って街だ。ここからそう時間はかからん。着くのは明日の朝くらいだな」
おじさんの人差し指は、チズの下から上へ移っていった。どうやらチズというのは、場所を確かめるための物らしい。ということは、この緑や茶色のところは森や街を表しているのか。
「お前はどうする。少しだけなら送ってやってもいいが。」
どうしようか。
奴隷商人は、もう追ってくることはない。そう、神さまは言っていた。それが嘘でないのなら、いきなりあそこから遠いところへ行かなくてもいい。
おじさんも、嘘をついているようにも見えない。今までの動きから考えても、こういうところで嘘をつくような性格ではないだろう、と思う。
「じゃあ、僕も、同じところに向かいます。」
「ふーん。」という言葉が返ってきた。おじさんは、何かを探り、考えるような顔になっていた。
僕らはもう一度ニグルマに乗った。コレに乗るのは、もしかしたら降りるよりも楽かもしれない。
輪っかに右足を引っ掛け、腕の力を使って体を上に動かす。そうして、左足も輪っかに乗っけたら、あとは台の中に足を入れて終わりだ。そんな感じで、初めて乗ったときより早く乗ることができた。
「頼むから、シャリンは壊さないでくれよ。」
おじさんの声。輪っかを見ながら眉毛の間にシワを作っていた。大事なものなのだろう。この輪っかが。この輪は、シャリン、なのか。物の名前はいくつか覚えたけれど、文字はまだまだだ。これから、読み方、書き方も覚えていかなくては。そう思いながら、「はい。」と返事をした。
おじさんは、僕を見ながらこう言った。
「お前、何で、そんなにニヤニヤしてるんだ。何だか楽しそうだな。」
そして、歯を見せながら笑う。
ニグルマが、風を受けながらゆっくりと動く。ザワザワ、と葉がぶつかり合う音が、周りから聞こえてきた。
風が前から吹いてきて、髪の毛がそれに押される。風が少し強くなってきた。
「おじさんはいつも、何をしているんですか。」
僕はそう聞いた。すると、「なんだって、聞こえねぇよ。」と言われた。
声の感じからして、聞かれることを嫌だとは思っていないようだ。僕とおじさんは少し離れたところにいるし、風も強くなってきたからだろう。
仕方なく、同じ言葉を、体をおじさんのいる方向に伸ばしながら、今度はもう少し大きい声で言った。
「仕事だよ、仕事。今もやってる。見りゃ分かんだろ。」
なるほど、仕事か。僕も前まで││というか昨日まで││働いていたので、その言葉の意味は分かった。しかしそれは、僕がやっていたものは違うようだ。
僕は、仕事は、ぐったりと疲れるまで体を動かして、ムチで体を叩かれながら、空が暗くなるまでやるものだと、そう思っていた。
しかし、おじさんの仕事はそうではないようだ。周りに置いてある、食べ物の入った木箱を、両手でちょっとだけ持ってみた。腕がずっしりと重くなった。これ以上は持てないので、初めにあったところにそっと戻した。
おじさんの仕事も、疲れるものではあると思う。でも、他の人に体を叩かれたり、殴られたりすることはないのだろう、と感じ。おじさんの腕や足には、そういう傷がないからだ。もしかしたら、こうやってニグルマで森を通るときに、生き物に何かされるのはあるのかもしれないけれど。
「木箱に入っている食べ物って、どんな名前なんですか。」
大きな声で、そう聞いた。「聞こえねぇ」と言われてもう一度言うのは嫌だからだ。
「あぁ、これはな。パリカの実だ。色んな種類が取れるし、味も上手い。イタメモノとかな。」
「食べたこと、あるんですか。」
「あったりめぇよ。そんなに貧乏暮らしに見えるか、おれが。」
「い、いや、そういう事ではないです。」
慌てて言葉を返した。当のおじさんは、こちらを少しだけ見て、何やらニヤニヤしていた。わざとか。わざと言ったのか。まあ、それはいいか。
おじさんの見ていた目の方向を、パリカの実に向けた。つやつやとしている。イタメモノがどんなものか分かない。けれども、そのうち食べてみたい。
そんなことを思いながら、時は流れていく。風が、その流れを早くしているように感じた。
すっかり日は見えなくなった。森から光が消え、周りは暗い。けれども、ここだけは明るい。火をつけているからだ。オレンジ色の光が僕らを照らしていた。弱く吹いている風に当たって、ゆらゆらと、予想のできない動きをしている。そして動くたびに、同じくオレンジ色の粉を散らしていた。
日が出ていたときとは、違う温かさ。それが、体に伝わってきた。じりじりと。
この火をつけたのは、もちろんおじさんだ。僕はただ手伝っただけだ。木の枝を運んだり、枯れた草や葉っぱを集めたりした。僕ができたのは、それくらいだ。
この旅を始めて、まだ誰の、何の役にも立っていないことが辛い。おじさんは笑いながら「ありがとよ」と言っていたけれども、それでも。
日が見えなくなる前に、おじさんが、ニグルマの馬を、僕たちが止まる店││おじさんはヤドヤと言っていた││に預けた後、向かった近くの森で、何かをし始めた。これから何をするのか、と早くなる胸の音を聞きながら思っていると、おじさんは、布と、小さな箱を取り出した。
そして僕に、木の枝と枯れた葉っぱを取ってくるよう言った。最初はそれの意味があまりよく分からなくて、周りに生えていた草を取ったり、僕でも手が届きそうな、低い木の枝を折ったりした。おじさんにそれを持っていたら、声を上げ、泣きながら笑っていた。よっぽどおかしかったんだろうな。
その後は、おじさんと一緒に、火をつけるための物を探した。その時にも、おじさんはクスクスと、僕に顔を見せないようにしながら、笑っていた。
よっぽど、よっぽどおかしかったんだろうな。
枯れた葉っぱは茶色で、手に取ると、カサカサと軽い音がした。僕が周りの木から取った葉っぱも見ると、そっちはそういう音はしなかった。触ってみると、枯れていない葉っぱのほうが固い感じがした。枝も、折ったものより、地面から拾ったもののほうが軽かった。
枯れている、というだけで、こんなにも違うものなんだな。
葉っぱにも、ヒラヒラと落ちてくるような物だけでなく、枝みたいな見た目をしたものがあることを知った。そしてそれも、火をつけるための物のひとつらしい。
「こんな風に、枯れた枝とかハとかは、ヒダネにするんだ。」
ハは「葉っぱ」の別の呼び方、ヒダネは火を始めにつけるための物らしい。
そう、おじさんは言っていた。ニヤニヤと笑いつつ、どこか懐かしそうな顔をしながら。その、懐かしいと思う理由は、一体何なんだろうか。
「面白いやつだな、お前も。」
顔を向けると、こっちを見て微笑んでいた。口の上に茶色のヒゲが生えていて、眉毛の間には何本かシワがあった。
「そうでしょうか。」
自分を面白い、と思ったことはない。そもそもじぶんにそんな「面白さ」があるのか、よく分かっていない。
今の僕にあるのは、今の僕にあるのは、物を数えるときの言葉と、いつだったか他の人から聞いた、セケン知らずの僕でも分かる言葉、それと。奴隷であったときに身につけた、少しでも怒られたり叩かれたりしないように、他の人のことを見る力、それだけだ。他には何もない、ただの空っぽだ。
そういえば、神さまも言っていた。まだ人に寄り添う事の出来る心と、確かな観察眼。僕はそれを持っていると。そんな物はないと、僕は思っている。なのに。
「なぜ、そう思うんですか。」
「周りのものを見る度に、目を輝かせてるからだよ。まるで幼い子供みたいにな。」
おじさんは、くはは、と笑いながら言った。
何故だろう。今日の朝に、会ったばかりだというのに。今日の朝に会って、少しの間だけ、歩いたり、食べ物を食べたり、話したりしただけ。ただ、それだけなのに。
何故。人のことを知った気で、いるのだろうか。知った気で、いられるのだろうか。
僕らは、相手のことを何も知らない。名前とか、好きな物だとか、嫌いなことだとか。全く、全く知らないのに。
││いや。それは僕も同じだろう。朝から夜まで一緒にいただけの相手のことを、長い間一緒にいたわけではない相手のことを、知っている。話し方とか、食べ方とか、考え方とか、色々なことを。相手の知ることができるのに、時間はそれほどかからないのかもしれない。
ふと見ると、おじさんは、左の手に、入れ物を持っていた。そして何故か、顔が赤い。真っ赤というわけではない。目の下、ちょうどほっぺたのあたりが、ほんのりと赤い。そういえば、少し前にそれを口に持っていって、何かを飲んでいたような。
僕はおじさんのいるところに歩いて行った。隣に座り、
「何を飲んでるんですか。」
そう聞いた。おじさんの顔を見ながら。おじさんは、とろりと溶けたような顔をしながら言った。
「ぁあ、酒だよ、酒。ブドのな。」
おじさんの飲んでいるコレが、酒という物であることは、何となく分かった。この変わった匂いを、僕は知っている。
奴隷だったときに、僕を見張る仕事をしている人たちのなかで、コソコソと隠れて、何人かで酒を飲んでいる時があった。夜起きたときに、それを何回か見かけた。見ていたことがバレるといけないから、見た後はいつも寝たフリをしていたけれども。
「ブド、って何ですか。」
「んん、うぅんとな、紫色の、丸い実がいくつもついたヤツでな、普通に食べてもまぁ、美味いんだが、酒にしても、なかなかいけるんだよなぁ、コレが。」
ゆっくり、そう言った。目を閉じて、息を深く吸いながら。そしてまた、くはは、と、力があまり入っていない声で、笑った。
もしかして、もう酔っているのだろうか。酒をたくさん飲むと酔う、とは聞いているけれども、おじさんはそこまで飲んでいただろうか。チビチビと、少しずつ味わうように飲んでいたような気が。
ふと、コレを飲んでみたいと思った。どんな味がするのか。飲んだ後に、どんな感じになるのか。どのくらいまで飲んだら、おじさんみたいに酔うのか。
他の人を見ただけでは分からないことを、自分でやってみることによって分かりたい。そう考えたからだ。
「おじさん。コレ、飲んでみていいですか。」
「あぁ、ダーメに決まってんだろぉ。」
口が上手く回っていないのか、おじさんは声を出しづらそうだ。しかし、ダメと言われると、もっと気になってしまう。胸の音が少し早くなった。
「何でですか、そんなに飲んじゃいけない物なんですか。」
「飲んじゃいけない物、って、どう考えたってミセイネンだろぉ、お酒はぁ、大人になってからじゃないとぉ、いけないんだぞぉ、ボウズぅ。」
そう言って、おじさんは急に目を閉じた。力が急に抜けてしまったように。どうしたのかと思って、顔をよく見ると、息をゆっくりと吸っている。
もしや。寝てしまったのか。火のそばに座ったまま。お酒を左手に、持ったまま。
おじさん、と呼びながら肩を揺らしたり、軽く叩いたりしてみたけれども、どうも起きそうにない。
火はこのままでいいのだろうかとか、少し前に、ニグルマから出してきた布を使って、眠っていいのか。そういうことを、聞くのを忘れていた。でも。おじさんをこのままにしてはいけないだろう。そのうちもっと寒くなるだろうし。壁に寄りかかって寝ているわけでもないから、動いたら倒れるかもしれない。じゃあ、どうしようか。
まず、おじさんの体を地面に倒すことから始めた。始めたけれども、一人の力ではなかなか難しい。起こさないように、ゆっくりと動かさないといけないからだ。片方から押したらバタンと急に倒れそうだ。おじさんの体の向きを変えて、僕の手をそれぞれ肩に持っていって、少しずつ斜めにする。手を胴体に移して、そっと地面に置いた。今は体の向きは、空の方向を向いているけれど、この向きでいいのだろうか。
いや。横のほうがいい。なんとなく、そんな気がして。
おじさんの体を、火のあるところとは反対の、森の方向に向きを変えた。起こさないように。その方がいいと、自分で何となく思ったからだった。そして、布を一枚取ってきて、おじさんの体にそっと掛けた。布は意外と大きくて、僕よりも大きいおじさんの、胴体から足にかけてのところを、隠すには十分だった。黄色い、少しだけ汚れた布。おじさんの、ちょっとだけ埃っぽくて、でも温かい匂いがした
これで大丈夫だろう。この後に、どうにかして、おじさんをニグルマに載せて、ヤドヤに向かおう。その前にまずは、ここを離れてもいいようにしなければ。
さて。火はどうすればいいのか。水をかけて消すべきか、それともこのままにしておくべきか。もしつけたままにしておいたら、どうなるか。このままずっと消えなかったら、どうしようか。消えずに燃え続けるよりは、先に消してから眠ったほうがいいかもしれない。
そうだ。おじさんと一緒に、確かここの近くに、川が流れていた。そしてニグルマの中には、ちょうど水が入りそうな入れ物があった。それを使えば。
立ち上がり、ニグルマの方に向かった。シャリンに両方の足を乗せ、でもそのニグルマには乗らずに、その中にあるものだけを見た。どこに入れ物が置いてあるか、確かめるために。
タキビがあるとはいっても、それとニグルマからは、間が少し離れていて、光はさっきいたところよりも弱い。だから、物をはっきりと見ることはできない。けれども、早く入れ物を見つけなければ。さっき、おじさんに言われたばかりなのだから。
キョロキョロとその中を見回した。
あった。僕から見て左の、隅のところに、茶色い、木でできた入れ物があった。これなら。
手すりに置いている手に、力を強く入れて。しゃがんで足を縮めて。ジャンプ。体をめいっぱい使って、シャリンからニグルマの台の上に乗った、その時。
ぎしり、と大きな音が鳴った。慌てておじさんの方を見た。大丈夫かな、まだ起きてないかな、まだおきてないかな。
当のおじさんは、すうすうと息を立てて、眠っている。起きてはいないようだ。良かった。いや、別にコソコソと動く理由はないんだけれども。自分でも何故、ここまでそっと動いているのか分からない。それに今、気が付いた。顔から、熱い、雲のような煙のような何かが出ているのを感じながら、少しずつ歩いていった。
しゃがんで、入れ物を手にとった。木で出来ているけれど、ほんの少しだけ、ボロボロになっているところがある。底の、角のあたりが特にそうだった。手で触ると、砂や小石も、少し溜まっているようだ。それでも、木の色はキレイな茶色をしている。指の跡も付いていない。
長い間、使い続けているのだろうか。道具は使っても、使わなくても、雨や風によって、少しずつ壊れていく。だから、汚れを拭き取ったり、取れたところを直したりするのは大事だ。仕事をしていた時に、僕はそれを知った。コレは手入れもしっかりしていて、おじさんが入れ物を拭いている様子が、頭の中にはっきりと浮かんだ。少しでも長持ちするよう、丁寧に、丁寧に。布で拭いている。
立ち上がり、ニグルマから降りた。今日は何回も乗ったり降りたりしているから、もうやり方には慣れた。さっきみたいに大きな音を立てないよう気をつけながら、片方の足を乗せ、そっと降りる。そのときに、シャリンからも、きしむ音がした。もしかして、シャリンも壊れかけているのだろうか。考えてみれば、もしコレが壊れたら、しばらくニグルマを動かせなくなるだろう。その分街に着く時間は遅れるし、パリカの実も、質が悪くなってしまうだろう。
おじさんの言葉の底の理由を、何となくではあるけれども。理解することできた気がする。
おじさん、起きていないよな。大丈夫だよな。不安がまたこみ上げてきて、胸の音が大きく鳴った。それに、この入れ物を、何も聞かずに借りていくのは、流石にいけないだろう。
おじさんのところへ向かい、背中には夜の森があるだけだ。顔の前でしゃがんだ。そして、こう聞いた。
「おじさーん。この入れ物、借りてもいいですかー。」
少しだけ待った。すると、
「んんー。いい、ぞぉ。ふはは、はは・・・。」
力の入っていない声で、そう言った。いいのか。というか起きているのか。
じゃあ、持っていこう。
木の隙間を通り、足元の枝や小石に気をつけながら、水の流れる川を目指す。そこへ向かっている途中に、おじさんが言っていた色々なことを思い出した。
川の水は割と年中冷たくてな、足を入れて涼んだり、馬を休ませたりするのにちょうどいいんだ。そん時たまに吹いてくる風も、気持ちいいんだよな。
草には食える物と食えない物があって、見た目で区別できるものもあれば、一見見分けがつかないものもある。気をつけろよ。腹が減ってるからって、触ったり食ったりするなよ。お前はただでさえ危なっかしいんだ。気がついたら俺の知らないところでモシャモシャ食ってそうだしな。
そう言いながら笑った、おじさんの顔。目を細め、歯を見せながら笑う顔。その顔が、今になってみると、何故だかおかしく見えて、思わず声が溢れた。その声は、静かな夜の森にすうと消えていく。
あっという間に、川に着いた。急いでいるとはいえ、今この手に持ってるものは借り物なのだから、大事に使わないと。そう考えながら、川近くにしゃがんだ。そのまま、入れ物を持った右の手で、水をすくった。
水に触れたところから、ひやりとした冷たさ、それが伝わってきた。
この入れ物は、大きくて水を多く入れることが出来る分、多く入れれば入れるほど、重くなった。それにはもしかしたら、水以外の重さが入っていたのかもしれないけれど。
こぼさないよう気をつけながら、時間をかけて元のところへたどり着いたのは、それからかなり経った頃だった。
昨日まで働いていた時に溜まった、腕の痛みが酷かったとか、入れ物には紐がなくて持ちづらかったとか、理由はいろいろある。見ると、夜はさらに深まっていた。さっきよりも、静かになったような気がする。
タキビの目の前に近づいて、入れ物をそっと置いた。
そしたら、肩に疲れが一気に乗ってきた。やっぱり、昨日までの疲れがまだ残っているんだな。そんなことを考えながら、もう一度、入れ物を両方の手で持ち上げた。
落とさないよう、足を曲げて、力を入れて踏ん張る。腕に、手に、体に。重さが伝わる。
そして。
入れ物を傾けた。タキビの火の中に落とさないように、重さを少しずつなくしていくように、ゆっくりと、ゆっくりと。
言葉で表しにくい、変わった音を立てて、煙のようであって、煙の焦げた匂いはしないものが、出てきた。
出てきたけれども、火は消えそうにない。水が足りなかったのだろうか、それともこのやり方では合っていないのだろうか。
火を消すには水が一番だろうと考えていたけれど、そうでもないのだろうか。でも、流石に、顔を近づけて息をかけるのは危ないだろう。火はまだ大きいのだから。
じゃあ、どのやり方が一番いいんだろうか。
タキビの前で、首を動かして、うんうんと考えていると。
「何してんだ、お前は。」
背中の方向から、声がした。重くて暗い、声。どきりとした。口がぎゅっと固まった。その時のおじさんの顔を、僕は見ることは出来なかった。振り向いて、どんな気持ちでいるのか考えようとする気持ちが出てこなかった。その理由は、自分ではっきりと分かっている。
まずいことをやってしまった、そう思ったからだ。体から出た冷たいものが、つうと滑って、夜の森の、足元の土に落ちていく。
「││というわけだ。分かったか。」
おじさんはそう言った。腕を胸の前で組んで、眉毛の間にさらに深いシワをつくって、こっちを睨みながら。ほっぺたの赤い色は、もう消えている。酔いが覚めたのだろう。
僕はというと、地面に正座し、おじさんの話を聞いていた。下を向いているから、見えるのは、茶色の、乾いた土だけだ。
その顔を、僕はじっと見ることはできない。ちらりと見るだけでも、そもそも見ていなくてもドキドキする。さっき、顔をちょっとだけ見るのにも時間がかかったし、体がガチガチになった。
ただえさえ、いつも早い胸の音が、さらに早くなったように感じる。
こうなっている理由は、ひとつ。
「はい、分かり、ました。」
おじさんに、怒られたからだ。
火を消す順番が違う、という。水をかけるのは、火が小さくなった後であると。マキを入れるのをやめれば、火は段々弱くなっていく。その時に水をかけて、火を残さず消す。そうすれば、怪我をせずにタキビを消すことができるのだと。
おじさんは、そう言った。
おじさんが眠り始める少し前に、マキを入れるのを止めていた。ということは。
「やり方を、間違えましたね。」
口から出た小さな声は、風に吹かれて、すぐに消えていった。
そういう言葉しか、出てこなかった。この旅を始めて、何の役にも立っていないどころか、失敗して怒られている。
そのことが、そのことが。
「ごめんなさい、失敗して、ばかりで。」
少しの間だけ、周りが静かになった。
すると。
ガン。という音と痛みが、頭から伝わってきた。すごく痛い。頭がクラクラとして、見えているものがぼんやりとなった。顔を上げると、おじさんがこちらを見下ろしていた。その右手は、固く握られている。さっきの痛みと音の理由は、はっきりと分かった。何故そういうことをしたのか、始めは分からなかったけれども。その後すぐに分かった。おじさんはまた、眉毛の間のシワを深くしながら、こう言った。
「覚えりゃいいんだ、それで。クヨクヨすんな。次また同じことをやらかさなきゃいい。いちいち悩んでると、後で辛いぞ。少しずつでいいんだよ。次、物を借りてぇときにゃ、俺に言ってから持ってけ。ちゃんと起きているときにな。」
やっぱり、入れ物を借りてもいいか聞いたあの時、おじさんは寝ていたのか。そりゃそうか、とも思うけれども。じゃあ、火を消そうとしたときに起きたんだろうな。
ブドの酒というのは、どういう味だったのだろう。そんな事を考えながら、空を見た。広い、青の色の中には、小さくても明るい星が光っている。
星の色はいくつもある。赤、白、青、黄色。
パリカの実にも、全てではないし、色の感じも一緒ではないけれど、同じ色のものがあった。星も、パリカの実にも、それぞれ見た目は違うけれども、きれいなところがある。パリカの実ならそのものの色、星なら、光り方。
あの後、弱くなった火の周りに座り、ご飯として、一緒に採った木の実をを食べているときに。おじさんはぽつりと言った。
「お前にも、探しゃあいいところの一つや二つあるだろ。もし見つけたら、それを強みにして生きていきゃあいい。そうすれば、失敗しても誰かが助けてくれるようになる。人の営みっていうのは、そういうもんだよ。」
いいところ。周りの物なら、見た目とか、使いやすさとかだろうか。人だったら、優しいとか、力持ちだとかだろうか。
それなら、僕は何があるだろう。どんな「いいところ」があるだろうか。しばらく考えてみても、出てこなかった。
出てきたのは、悪いところ。
人の気持ちをはかって動いているところとか、役立たずなところとか、何も知らないところとか。
この時に、僕はある考えが浮かんだ。
何故、おじさんは僕をここまで運んでくれたのか。
初めて会ったときに、乗せていくのは嫌だ、とか、そういう事を思わなかったのか。
何故。僕に色んなことを教えてくれるのか。
おじさんは、困ったような顔をしながら言った。
「そんなことかよ。何というかなぁ、何となく『教えてやらなくちゃ』って気分になるんだよな、お前を見てると。やっぱり危なっかしいからだろうな。」
そう言って笑った。危なっかしい、かぁ。
「あとは、そうだなぁ。俺も昔、旅をしてた時があったんだよ。そん時は右も左も分からなかった。あの時の俺と同じタチバにいる、お前を見ると、な。」
おじさんは目を閉じて、そして開き、僕の方を見た。
「それに、お前さ。言いにくいんだけどよ。」
少し間が開いてから、申し訳なさそうに言った。
「元奴隷だろう。違うか。」
僕は、自分の目を大きく開いているのが分かった。
「何で、分かったんですか。」
「今日の朝、奴隷が過ごしてるウラドオリから、こっそり出てきてただろ。早めに起きたから、外で散歩してたら、見かけたんだ。」
「そう、だったんですか。」
「それによ。その傷とカッコウで、分かんねぇはずがねぇだろうよ。ちょっとは見た目を気にしろよ。」
自分の体を見ると、腕や足には、痣と怪我の痕、そして、泥と石炭の汚れが、たくさんついている。髪を触ると、小さな、乾いた土が、ポロポロと落ちた。今、自分の顔を見られるものは、持って無いけれども、もし、一人で川に行くのが、夜ではなく昼だったなら。川の水には、茶色と黒が混ざった顔が見えたことだろう。そういえば、今まで、自分の見た目なんて、気にしていなかったし、気にする暇もなかった。もしそれをしていたなら、仕事をさぼるなと怒られるからだ。けれども。
奴隷ではなく、普通の人として、街を歩くのなら。
このまま歩いたら、間違いなく目立つ。人が多いところを行ったら、文句を言われるし、どの店にも入れてもらえないだろう。絶対に。
そのことに、たった今、気が付いた。
もし、おじさんと一緒に居なかったら、どうなっていただろうか。もし、このまま気付かずに過ごしていたなら、どんなことを言われただろうか。今なら、考えられる。
体中汚れた、ひとりぼっちの子供が、何を言われ、何をされるか。
頬っぺたがまた、熱くなる。それと同時に、体に冷たいものがいくつも流れていく。
それを見たおじさんの笑い声は、夜の空に昇って、消えていった。
僕はおじさんに言った。
「えー、っと。布を、借りてもいいですか。水に濡らせるものを。」
その後、おじさんが、優しい顔をして体をふくのを手伝ってくれた。
それを思い出しながら、ゆっくりと目を閉じる。
ある日、僕は思い出した。あそこで、働いていた時のことを。
眠れなくなって、空を見ていた。しばらくすると、おじさんが隣に座っていた。おじさんは何も、話さなかった。話さなかった、けれども。
胸の底が落ち着いた。その理由は、言葉では表せないけれども、何となく分かった。
旅に必要な物。
お金に、あまり汚れていなくて動きやすい服、チズに、コンパス││自分のいる場所や向かう方向を見るための物らしい││ろうそくを使ったランタンに、丈夫な靴、ホウタイなどの、怪我をしたときに使うための道具。あとは、それらを入れるのに十分な、大きめのカバン。
それがあれば、旅をするのにはまず大丈夫だと言われた。持ってみると、それほど重くない。
「こんなに少なくていいんですか。」
ここまで少ないと、これでいいのかという気になってくる。
「いいんだよ、このくれぇで。旅に家は必要ねぇんだよ。」
おじさんは、軽く笑いながらそう言った。僕はカバンの中をもう一度見た。見てから、おじさんのいる方向を向いた。
旅には、それほど物はいらない。じゃあ、他にいるものは何だろう。物が無い分、知っておかなきゃいけない事は、多いんじゃないか。これから行くのがどんな土地なのか、とか、どこに何があるのか、とか。
「その前に、覚えることがある。お前、『トウザイナンボク』だ。これを知らんと、チズも読めねぇからな。」
自分の持っているチズを見た。土地の絵が描いてあるこれを「読む」のか。どうやって読むのだろう。
おじさんは紙を取り出して、何か書き始めた。
「チズの読み方を書いているんですか。」
「そうだ。ところでお前、字は読めるのか。」
習ったことすらない。街にある物やこのチズを見て、「これは文字だろうか」と思うことはあるけれども、それを読めるわけではない。自分の持っているものが少なすぎて、また申し訳ない気持ちになる。
「読めま、せん。」
「そうか。まぁ、今いるこのルクリンにゃ、昨日いたあそこよりたくさんの人がいる。これの内容は他の人に教えてもらえ。俺は簡単な読み書きしか出来ないから、文章はそう難しくないはずだ。」
ここに来ても、おじさんの性格がよくわかる。やっぱりこういう人なんだな、と思う。
ふと、昨日の昼のご飯の時のことを思い出した。
「あの。おじさんも、チズを持ってましたよね。あれは、僕が持ってるこっちとは、やっぱり違うんですか。何というか、あっちの方が、分かりやすいかなと。思うんですが。」
あの地図には、始めから書いてあるもののほかに、おじさんが後から書いたところもあったからだ。できればあっちをもらいたいと思ったけれど、やっぱりいけないだろうか。
「あれは違ぇよ。俺が持ってるのはルクリンとダリアド││ああ、昨日までいたところな。それが書いてるやつ、お前が持ってるのは、三つの島が書いてあるやつ。お前、ルクセリア以外にも行くんだろ。それじゃ、他んとこ行ったときに役に立たねぇよ。」
なるほど。他の島に行くときに、そこのチズがないといけない。だからこっちの方を渡してくれたのか。
「あと、なんか聞いときたい事は。ないなら俺はもう行くぞ。」
「あ。あの。」
「何だ。」
「ありがとう、ございました。名前も知らない、何もできない役立たずを、ここまで送ってくださって。」
おじさんはここまで、僕に名前を聞いてこなかった。だからずっと、「ボウズ」と呼ばれていたのだ。
「お前、まさか、人を助けるときに、相手の名前を知ってなきゃいけない、とか思ってたのか。」
疑問の答えを聞くように、おじさんは言った。
「へ。えっと、はい。」
「嘘だろ。うはは、こりゃ、こりゃケッサクだ。」
思いっきり笑うおじさんの声は、街にある物に跳ね返って広がっていく。よく分からないけれども。
馬鹿にされている、というのは何となく感じる。
「あのな。人を助けるのに、名前なんかすぐに知ろうとしなくたっていい。ただ『助けたい』って気持ちがありゃ、それでいいんだよ。今だって、俺たちは互いの名前を知らんのに、こうしてここまで来たじゃねぇか。」
おじさんは言葉を続けた。
「俺はお前の名前は聞かねぇ。旅をしている理由もだ。お返しも求めねぇよ。そもそも、そんなのにキョウミねぇからな。」
「で、ボウズ。名前は何て言うんだ。」
名前。ナマエ。自分を表す、ひとつの言葉。
僕は、自分の名前を知らない。前にいたところでは、何人かで集まって仕事をしていたから、名前を呼ばれたことはない。誰かに教えられたわけでもない。じゃあ、どうしようか。
おじさんに付けてもらうわけにもいかないだろう。自分の名前を知らないから付けてほしい、なんて聞いたら、困ってしまうだろう。「何で自分の名前も知らねぇんだ。」とか。他の人に聞いても、同じことを言われるだろう。
「ドレ。」
自分でも気づかない間に、そう言っていた。焦っているのがバレないように、息を大きく吸って、言葉を続けた。
「僕は、ドレ、といいます。」
口の中に残るような言い方をしてしまった。これではおじさんに、僕の考えがわかってしまうだろうか。今、何故だか分からないけれど、自分の口から、この名前が出てきてしまったことが。顔を見ることができなくて、頭を下に向けてしまった。でも、それと一緒に、ある事に気が付いた。僕は、自分で自分に名前を付けた。あそこにいたときの、何も考えられなかった自分とは、明らかに違う。ポンと言ってしまったとはいえ、自分で考えて、自分で名前を言った。ここに来るまでもそうだ。一人で何かを考え、動いていた。誰かに言われたわけではないのに。
僕はもう、奴隷であった時とは違うのだ。自分の頭で考え、動くことができるようになったのだ。
「お前なぁ、名前は聞かないって言ったのに、なんで言っちゃうんだよ。俺まで言わなきゃいけねぇじゃねぇか。││俺の名前は、ロドックだ。」
「ロドック││ロドックおじさん。あの。」
僕は考えた。おじさんから渡されたのは、僕から見ても安くない物ばかりだ。これのお返しをするな、というのは申し訳ない。
「いつか、お返しをさせてください。ここに戻ってきたときに。」
「だからいいって││。」
「お願い、します。」
大きな声が出てしまった。自分でも、びっくりしてしまうくらい。それはおじさんも同じで、眉毛を上げ、目を大きく開きながらこっちを見下ろしていた。今まで、はっきりとしない声で話していた子供が、いきなりこんなことを言ったのだから、気持ちはよく分かる。
けれども。
「僕なんかに、こんなに色々なことをしてくれたあなたに、お返しがしたいんです。」
その言葉を聞いたおじさんは、目を閉じ、髪を手で掻きながら、ぽつりと言った。
「そうか。││仕方ねぇなぁ。」
ただ、それだけ。
そして、何か思いついたのか、空の方向を見た後、手に持っている紙の方に目を向けた。
「あ、じゃあ俺の家のある場所も書いとかないとな。」
そう言ってまた、紙に文字を書き始めた。そうだ。ロドックおじさんの住んでいるところを知らなければ会えないのだ。さらさら、という音が小さく聞こえた。
胸の音が、とくとくと聞こえた。これも、前までとは違う。昨日の朝、ニグルマに乗っているときになった、胸の底から出てきた、別のもの。それが何なのか、何となくわかった。
「さあ、俺はもう行くかな。││ほらよ。これに、チズの読み方と、俺の住んでるところが書いてある。持っていけ。」
僕の手にそれを渡して、おじさんは後ろを向き、歩いて行った。ニグルマの停めてある方向に。紙を見ると、何やら文字がびっしりと書いてある。紙いっぱいに。中には文字だけではなく、絵を描いてあるところもある。
顔を上げた。僕が、「ありがとう、ございました。」と言うと。手を少し上げて、左右に振っているのが見えた。
僕もそれに合わせて、手を振った。
2
石でできた地面。前いたところよりも、新しく見える建物。
そして、あそこよりもさらに多い、人の数。
たくさんの人の声││笑う声、会話に自分の気持ちを返す声、とにかく色んな声が、遠くから聞こえてきた。建物の間を、たまに馬のノリモノが通っていく。
その、沢山の人と物があるところから、少し離れたところ。そこにあった木の箱の上に向かって、座った。ぎしり、と、小さな音がした。
カバンから、一枚の紙を取り出し、左の手で持った。島や海の絵が描かれてはいるけれども、それはただ見る為だけの物ではない。これは、今、自分がどこにいて、これからどこへ行くのか。それを見るための道具だ。
その紙││チズを見て、右手の人差し指であるところを指さした。おじさんが前見ていたのは、このあたりだったような。
丸を描くように、三つの島がある。その島うちのひとつ、アグリシア島。地図では左のところに描いてある。
その下の方にあるのが、今、僕がいる、ルクリンという街だ。
ここは、よりも明るい感じがした。
あそこは、建物や物がすごく古いというわけではないけれども、こことは、人の動きとかから感じられるものが、少し違う。
何というか、ただ暗い、というわけではないのだけれど、奥に何か別のものが隠れているような感じがする。奴隷商人たちとは別の、なにか。
前にいたところ、あそこにいたことが多かったからだろうか。
今はそう、思いたい。
カバンの中から、コンパスを取り出した。丸い形をしていて、一本の針が、手が揺れるのに合わせて動く。けれども、手の動きを止めると、針についた赤いところが、同じところを指して動かなくなった。それは、何回やっても変わらない。
何故、いつも指す向きが変わらないのだろうか。これの向きを変えるには、どうすればいいのだろうか。いつかこれで色々とやってみたいな。そう思いながら、顔を上げた。
日は、もうかなり上の方まで行っている。
旅を始めて、五日目。
チズを見ると、ダリアドからルクリンまで、かなり遠い感じがした。昨日からたった一日でここまで来たのか。始めは、もっとかかると思っていた。だけど、その考えはどうやら違うようだ。この島が、三つある島のなかで、一番小さいからかもしれない。これなら、この世界を一周するのに、そう時間はかからないのでは。
立ち上がって、一つのミセに向かった。今食べるものを買うためだ。
始めは、あの日、ロドックおじさんと一緒に食べた、干した食べ物を買おうと思っていた。けれども、ミセがあるところを歩いてみても、それは見つからなかった。今日はたまたま売っていなかったのか、それとも、探すやり方が悪かったのか、それは分からない。色とりどりの食べ物││パリカの実みたいな見た目の││を売っているミセを見つけて、足を止めた。丸いもの、細長いもの、変わった形のもの。赤、紫、緑、黄色。パリカの実みたいな見た目のもの以外にも、色々ある。そしてそれらが、斜めに置かれた箱の上にたくさん入っている。こんなにも多いのかと、思わずじっと見てしまった。すると、
「アンチャン、何か欲しいもんでもあるのか。」
そんな声が、聞こえてきた。顔を上げると、僕より年上の男性が、││と言っても、おじさんよりは明らかに若いけれども││腕を胸の前で組んで、こちらを見下ろしている。背もかなり高く見えた。目を少し細くして、眉毛の間に小さなシワを作っていた。
アンチャン、というのは、もしかして僕のことだろうか。自分で自分を指さして、声を出さずに聞くと、男の人は上下に首を振った。
この人が、さっき声をかけてきたのだろう。ということは、このミセをやっている人でもあるのか。街があれば、そこにミセもあり、みんな、そこで自分が欲しいものを買うのだと、ダリアドの街で、おじさんは言っていた。その、みんなが欲しいものを作るのがおじさんの仕事だと。
怪しまれないように、ここを一回離れたほうがいいのかと、始めは思ったけれども、さっき聞いた声には、暗さが少ししか入っていなかったから、このまま見ていても怒られはしないだろう。でも、話しかけられたからには何か言わないと、その事で怒られそうだ。
「あ、えっと。お昼に食べるのは、何がいいかな、と思って。」
それを聞いた男の人は、さっきよりもっと目を細くして、眉毛の間の小さなシワを深くした。胸の音がいきなり大きくなって、思わず体をほんの少しだけ、後ろに引いてしまった。何だか、気分が良くないように見える。僕の言葉があまりよく感じなかったのが、理由ではあるのだろうけれども。嘘をつくこと。それだけは嫌だ。僕は嘘をつくのは上手ではないし、良い気分にもならない。本当のことを言ったのだから、仕方ない。そう思うことにした。
「ナマで食べるのか。」
ミセの人は、その顔のまま聞いてきた。
「ナマって、えっと。」
「そのまま食べるか、ってことだよ。」
まずい。男の人の声が少しずつ、暗く、重くなっている。
「は、はい。そうです。」
僕ははっきりと答えた。上手く声を出せなくて、後の方はよく分からない言い方をしてしまった。はは、と乾いた声しか出てこない。
ミセの人は、何も言わずに、何かの実をひとつ、僕に見せてくれた。
「ほらよ。これならいいだろ。」
丸くて、赤い。といっても、その実にはいろんな色が見えた。黄色、緑色、そして、夕日の色。昨日、おじさんと一緒に見た、あの色に、よく似た色。それが見えた。
「これ、なんて名前ですか。」
「アプルって名前だ。ここではハルに採れるんだよ。」
ハルって何ですか、と言いたかった。けれども、今言ったらまた、この人の機嫌が悪くなりそうだと思って、声に出すことはできなかった。
今、僕は、名前も、文字も、言葉もほとんど知らない。昨日までで色々聞いたけれど、その言葉をどう書くのか、どんなことを表しているのか。
それをまだ、知らないのだ。だから今は、「へえ。」と返すしかなかった。
胸の中が軽くなって、その中に風が吹いたような、そんな感じがした。
冷たい、冷たい風が。
「買うなら、ちゃんと払ってくれよ、オダイ。」
オダイを払う。それが何を表しているのか分からなくて、少しの間だけ、じっと考えてしまった。お金を払ってほしいのだと気づいて、慌ててサイフをカバンから出した。
物を買うときには、オカネをその物の代わりに払う。その事は、この旅を始める前から知っていたけれども、自分でそれを手に入れて、物を買ったことはやったことがなかった。そもそも、街に行って、ミセを見る機会がなかったからだ。
おじさんには、その事は言っていない。だから知らないはずなのに、貰ってしまった。「一日過ごすには足りる」くらいのお金を。
貰うのが申し訳なくて、「いらないです。」とおじさんには言った。けれども、「いいから、持っていけ。」と言われ、そのまま持ってきてしまった。おじさんには助けてもらってばかりだ。あの時、「お礼をしたい。」そう言っておいて、良かった。
サイフから、中に入っているものを取り出した。丸くて、小さくて、少しだけ重い。火の光が少しだけ当たって、キラキラとまぶしく光った。僕は顔を上げた。
「││それで、どのくらい払えばいいんですか。」
少しだけ固くて、甘い実。口の中でそれを味わうと、その甘さがもっと増えていくように感じた。それでも甘すぎだという考えが出ないのが、このアプルの実の面白いところだと思う。
外の方は赤いのに、中は黄色くて、色を付けた水みたいなところもある。そして真ん中にある茶色のものは、種だろうな。これを土に埋めて水をやると、芽が出るんだっけ。前に誰かに教えてもらった気がするけれども、よく思い出せない。いつのことだったかな。
そんな事を考えていると、近くから声が聞こえてきた。
ふと見ると、知らない男の人二人が、近付いて話している。背の高い人と、がっしりとした体をしている人。二人共、暗い顔をしているように見えた。少し気になって、アプルを食べながら、目をそちらの方に向けた。
「なぁ、知ってるか。ダリアドの話。」
「ああ、あそこでゲンインフメイの地震があった、ってやつか。俺はよく知らねぇけど。」
ダリアド。僕がニ日前まで、いたところ。一つ、よく分からない言葉があったけれども、「地震」が表すことは、セケン知らずと言われた僕でも分かっている。
ダリアドからルクセリアに向かっている時に、その話は聞かなかった。ということは、僕がずっといたあそこから、出ていった後に、何かがあったのか。そして、他の人に見つかって、話がここまで伝わったのか。おじさんみたいに、ダリアドからルクセリアへ行く人もいるだろう。そういう人たちが、ダリアドで話を聞いて、このルクセリアで伝えたのだろう。
もしかして、おじさんもこの事を知っていたのだろうか。朝早くに起きたときに、僕を見かけたと言っていた。地震そのものにも気づいていたのかもしれない。もしそうだとしたら、あの時、申し訳なさそうな顔をしていた理由は。
僕が、元奴隷であることを知っているという事が、言いづらかった。ただそれだけではなかったのかもしれない。「俺はクワシイ事を知ってるぞ。」そんな声が聞こえて、僕は二人の話をじっと聞き始めた。
「朝早くに地震があったんだが、揺れたのはたった一箇所だけだったと。」
男の人のうちの一人、背の高い方の男の人が、そう言った。顔が何故だか、ニヤニヤと笑っているように見えた。いつもこういう顔なのか││相手にそれを言ったら怒られるだろうけれども││それとも、話を知っている人がまだ少なくて、相手にそれを話すのが嬉しいから、そういう顔をしているのか。今ここで見ただけで、分かることではないけれども。そんなことを思った。
「しかもな、揺れに気づいたやつはいなかったんだそうだ。シュウイにも揺れは届かなかったんだと。地震が起きたのが朝早くだったって言っても、おかしいだろう。どう考えたって。」
また、ニヤニヤと笑った。「おかしいだろう。」と相手に聞いていた。どんな言葉が出てくるか分かっているのに、わざと聞いていた。背の高い方は、自分が思っていた言葉がそのまま出てくるのが楽しい。そんな感じの、聞き方だった。「ああ。」と、話をしている相手が、全く同じ考えだと伝える言葉が聞こえてきたときに、背の高い男は、強く笑った。
「そして、揺れたところは、ショウゲキに耐えられなくて崩れちまったんだとさ。その崩れたバショ││どこだと思う。」
クックと小さく笑う声が聞こえた。
「あぁん。どこなんだよ。早く言えよ。」
待っていられない、と言っているかのように、背の低い方が言った。二人とも、この話を楽しんでいるのか。それが、ここからでもよく分かる。
「││ウラドオリの、奴隷と、その商人たちの住処だよ。」
「何だって。何でそんなところが。」
「そんなことは知らねぇよ。それでまた不思議なことに、何人か出た死人は全員、奴隷商人たちとそのブカなんだってよ。奴隷はダレも死ななかった。」
胸の底から、煙のようなものが湧き出て、少しずつ溜まっていくのを感じていた。この話を聞くのをやめて、遠くに行きたい。でも、これを聞かなければいけない。そうでないと、手に入れることができるものは少なくなる。
「ふうむ、ゲンインは何だろうなぁ。」
「そりゃあお前、今ウワサになってる『何か』ってやつのシワザだろ。どう考えたって、人に出来ることじゃねぇよ。」
目を上に向けて考えていた大きい体の方に、くくく、と、背の高い方が小さく笑いながら言った。
「何か」ってなんだろう。生き物のことだろうか。「人にできることじゃない」と言っているのだから、やっぱり人以外の「何か」なんだろうと思う。
││神さまがやったのだろうか。少しそう思ったけれど、すぐに、それは無いだろうと感じた。理由はない。相手のことをよく知っているわけでもない。それでも、神さまがやったのではない。何となくだけれども、僕はそう考えた。
じゃあ、「何か」というのは。
木箱から立ち上がり、少しだけ歩いた。二人の男の人が話しているところに向かって。
何を思われ、何を言われるのか、よく分かっている。いつもなら、もう少し考えてから何かをしようとする。でも、これについては、あの二人に聞くか、それとも他の人に聞くか、後でそれをするか。そういう考えは、出てこなかった。自分でもびっくりした。いつもの自分とは違う感じがした。どんなことを言われるのか、分かっているはずなのに。
でも、今だけは、それでいい。どうしても、「何か」について知りたかった。今ここで、知りたかった。どうしても分からないことを、少しでも分かりたい。僕がいつもと違う動きをしたのはそう思ったからだろう。
顔を上げる。二人の目を見る。どちらもびっくりしているのを感じた。
口を開き、声を出す。
「あの、すいません。さっきお二人が話されていた、『何か』って、どういうものなんですか。」
こういう時にどう聞けばいいのかは、前に叩かれながら言われたことがあった。まさか、奴隷であった時に知ったことを使うことになるなんて。始めはそう思ったけれど、よく考えてみれば、他の人が何を思っているのか考えるのは、あの時にやるようになった。それを今でも使ってしまっている。前はそれをしないと、奴隷商人に目をつけられて、いつもより強く叩かれた。鞭を大きく振って、強く、強く。
││これ以上は考えたくない。二人に、何をしているのかと言われないように気をつけながら、強く目を閉じた。
「うん、アンチャン、旅の人。逆に何で知らねぇの。」
目を開く。背の高い人が、そう言った。「逆に」のあたりだけ強く。胸の底の煙が強く動いた。やっぱりここでは話が広がるのが速いんだな。やっぱりみんな知ってることなんだな、「何か」については。知ってて当たり前なんだ。
「すみません、その、セケン知らずなもので。」
言いながら、軽く頭を下げた。何か大声で言われたり、殴られたりしないよう、こういう時は静かに話すのが一番だ。前にあそこで知ったことだ。
「もしかして、どこかのオボッチャンか。イエデとか。」
がっしりとした体をした男の人が言った。こちらもニヤニヤと笑っているように見える。
そこで僕は思った。何となくだけれども、もし、言葉を間違えたら、殴られたり叩かれたりするかもしれない。この二人に。二人の性格とか動きを見ると、有り得る。おかしなことを言うのはダメだ。
ああ、聞く相手を間違えたんだろうな、これは。でも、やるしかない。「何か」については、この二人に聞くことしか出来ない。そう思った。
「まぁ、そんなもの、ですかね。」
何を表すか知らない言葉が出てきても、話を合わせるしかない。
「イエデをしたどこかのオボッチャン」に、見えるようにするしかないのだ。
そう思った時に、息をするのがさっきよりも、苦しくなった。ああ、そうか。僕は今、嘘をついているのか。そのことが、ひどく││。
耳がまだ、キンキンと鳴っている。二人の、大きな声と、笑い声。それを近くで聞いていて、あとから少し苦しくなったけれども、殴られたり叩かれたりするよりはいい。そう考えよう。うん。
二人の男の人から、手に入れることが出来た話。
「何か」とは、少し前からいきなり出るようになったものだという。名前はまだないからそう呼ばれているらしい。人に似た形はしているけれども、体は真っ黒で、その目は白くぎらぎらと光るのだという。
一人につき、ひとつ生まれるナニカは、「ワザワイ」を起こす。ワザワイとは、ダリアドでの話に出てきた地震とか、雨がたくさん降って川が荒れたり、木が折れたりする事とからしい。
ダリアドにいた奴隷たちについては、この後どこでどう働かせるかについて、他の奴隷商人の間で、慌てて話し合っているのだという。
手に入れた、と言える話は、これくらいだった。
「これから、彼らはどうなるのでしょうか。」と、二人に聞いた。すると、背の低いほうが言った。
「奴隷たちのことか。そんな事はどうでもいいだろ。たかが奴隷なんだから。」
ニヤニヤ笑いながら、もう一人の方も首を上下に振った。顔を見ると、目を細め、眉毛の間を狭くして、はあ、と息を一回した。見てわかった。この二人は本当に、胸の底から「どうでもいい」と思っているのだと。
そこで僕は分かった。奴隷商人が言っていたことが、表していることを。この世界で、奴隷はどう思われているかを。ダリアドにいたときの自分だったら、これは分からなかっただろう。でもしばらく外で人と話したことで、分かった。
この世界にとって、奴隷は「どうでもいい」ものなのだ。ただ働かされるだけの、道具。壊れて使えなくなっても、代わりはいくらでもある、道具だと。
「││そんな事はどうでもいいだろ。たかが奴隷なんだから││。」
この言葉がその後、何回も、何回も聞こえて、しばらく消えることはなかった。
僕の胸の底から消えることは、ないだろうと思った。消したとしても、僕が奴隷であったことは、道具にされていたことは、なくならないのだ。でも、消したくないとも思った。もし消したしまったら、僕はあそこにいた人のことを思い出せなくなってしまうだろう。
行かなければ。今は出来ないけれども、いつか、もう一度。
ダリアドにいた、あの人のところへ。ずっと一緒に働いていた人のところへ。僕だけいきなり、ここを出ていってしまって、ごめんなさい。その言葉だけでも、伝えたい。
││あの人。「あの人」って。
そうだ。思い出した。あの中に、僕に色々なことを話してくれた人がいた。始めに言葉を教えてくれた人。外にある綺麗なものについて、話してくれたひとが。
僕は顔を上げた。
そこには、青い空。
そうだ。あの中に、僕に色々なことを話してくれた人がいた。始めに言葉を教えてくれた人。外にある綺麗なものについて、話してくれたひとが。
外の世界には、綺麗なケシキがある。言葉がある。そして。
「より良くしたい」という考えを持った人たちがいる。
あの人はそう、話していた。
若い、女の人だった。名前は知らない。何故ここにいるのかも、前は何をしていたのかも。
││旅を始めた日の夜、思った。相手のことを分かった気になるのに、時間はそれほどかからないのかもしれない、と。それは間違っていなかった。
僕にもいた。
名前も、生まれたところも知らないのに、「よく知っている」人が。
よく働いて、僕や他の人の仕事を手伝ってくれた。また、奴隷商人に││男の人が言っていた言葉を使うなら、そのブカなんだろうけれども││叩かれたり殴られたりした時に、止めてくれたこともあった。僕の代わりにやられたこともあった。代わりに叩かれて、蹴られて、殴られて。
「ごめんなさい。僕が、僕が、悪いのに。」
ケガをしたあの人の近くに行って謝ると、いつも言っていた。
「いいのです。言ったでしょう、私はあなたのハハ代わりだと。自分の子供がボウリョクを振るわれて、そのままでいられるハハオヤがいるものですか。」
ケガをして痛いはずなのに、笑っていた。僕を不安にさせないように。笑った。
いつもあの人は笑っていた。たとえ、どんなに辛くても。他の人に嫌なことをされたとしても。
誰にでも優しく、綺麗な顔で笑うあの人が、僕は好きだった。そして。
あの人の話を聞いて、外の世界がどうなっているのか、見てみたい と。
そう思ったんだ。
僕は今、こう思う。あの人が僕に、外の世界の話をしてくれたから、それを見てみたいと考えた僕を、神さまが助けてくれたのだと。そう考える理由を、もし他の人に言ったら、「理由になっていない」と言われるだろうけれども。
何故、今まで思い出せなかったんだろうか。こんなにも、大事なことなのに。大事なことの、はずなのに。
そしてその大事な人の顔を、僕は今、思い出せない。どんなに考えてみても、はっきりとしない。何故、何故。顔が分からないと、見つけるのが大変だというのに。どうして。
思い出せるのは、茶色の長い髪と、それと。
空のように、綺麗な青い目をしていたこと。それを見るのが、好きだった。外の世界を見てみたいと考えた僕を、神さまが助けてくれた理由。それは、神さまとあの人が青い目をしていた、ということだけだ。やっぱり理由にはなっていないけれども。
神さまは言っていた。土地を巡って、人と出会い、感情に触れ、言葉を学び、経験を積み重ね、数々の景色をその目で見て。その上で、世界に名前を付けてほしいと。行きたいところに向かうときに、きっと、見られることだろう、と。今まで知らなかったこと、見たことがなかったものを。あの人が色んな話をしてくれた時のように。外でおじさんと会って、パリカの実とブウドの実を見た時のように。
そのためには、まず。
「ここで働かせろ、か。いいけどさ。ヒトヅカイ荒いぞ、俺は。何があっても知らないよ」
僕が、アプルを買ったお店。そこで男の人に││話しかける前に、他の人が「テンシュ」と呼んでいた││話をしたら、こう言われた。
そして、僕はしばらくここで、働かせてもらうことになった。なったのだけれど、ただし、こういうジョウケンでな、といくつか言われた。何々をするな、とか、こういう時はこうしろ、と言っていたから、話したことを守れ、ということだろう。
一つ。テンシュの言うことには、何があっても従うこと。
一つ。疲れたとしても、モンクを言わずに働くこと。疲れたことを顔に出すのもだめだという。もし、それをやってしまうと、キャク、つまりここに食べ物を買いに来る人が、逃げてしまうからだと。
一つ。どこか違うところで、テンシュのことを悪く言わないこと。ミセのシンヨウが危なくなるから。
奴隷であったときと、変わっていることはあまりない。少なくとも、この話の中には。もしやってしまったら、僕はここで働けなくなるから、そういうことは言わないしやらないけれども。わざとやってやろうという気持ちもない。自分で考えて動くことは、出来るようになったけれども、外に出たとしても、こういうことだけは変わらないのだろうか。 そんな事はないと、思いたい。自分で考えて動くことができる時間が欲しい。そう思うけれども、その前にまず、知らなくてはいけないことがある。
一つ目。
物の名前。世界に名前をつけるためには、それを知らないといけない。それだけでなく、文字や、難しい言葉とか「言葉そのもの」も知らなくては、出来ることではないだろう。
二つ目。
綺麗な海が見られるところ。チズを見ると、水色で描かれているところはいくつかあるけれども、それが全部海というわけではないだろう。そもそも、海がどれかよく分からない。あの人は、海は「どこまでも広がって見えるもの」と言っていた。どこまでも、広がるっているもの、それがどんなものなのか考えが出ないけれども、海について色んな人に聞けば、それはきっと見つかるだろう。
そして、旅をするために欲しいもの。それは。
旅をするための、お金だ。
今日は空が暗い。何故なら、灰色の雲が空に広がっているからだ。雲、という言葉も、あの人から聞いたことがあるな。そんな事を思いながら、ぼんやりと空を見ていると。
「ボサっとすんなー、手伝え。」
という声が遠くから聞こえた。眠そうな声だった。いつもそういう声だけども。僕は、「はい。」と言ってそっちの方へ行った。走るのにまだ慣れていなくて、何回も転びそうになった。まだ、走り方がよく分からない。走る練習をする時間もないから、このままではいつか本当に転びそうだ。かといって、誰かに聞くのもどうなんだろうかと思う。
テンシュがいる方へ行くと、木箱がいくつか置いてあった。赤、黄色、緑、モモ色。色んな色のヤサイとクダモノが、入っている。ここで働き始めてからいくつか知ったことがあるから、このあと何をするのか、もう分かっている。
「これを、いつものとこに運んでってくれ。」
軽く首を上下に振った。いつものとこ、というのは、店の前。オキャクがものを買いに来る、あそこだ。木箱のフチのところを手で持って、ゆっくり持ち上げた。慌てると、フラフラとして物を落とすからだ。一回だけ、これを落としてしまったことがある。あの時のテンシュは怖かったな、と考えながら、まっすぐ立ち上がった。
││キセツ、というものがある。今はツユという、雨がよく降るキセツ。それが終わればナツという、まぶしくて暑いキセツになるのだという。これはテンシュに聞いた事ではない。テンシュとオキャクが話しているのを聞いたのだ。
ふと、思い出した。前に「ここはどうするんですか。」と聞いたときに、何だか嫌そうな顔をしていた。眉毛を曲げ、目を半分閉じて、歯を固く噛んでいた。
それから、テンシュにはあまりものを聞かないようにしている。あの時、それをされていい気分ではなかったし、わざわざ聞いてくるな、と考えていたのかもしれない、そう思ったのだ。聞くよりまず見ろ、と。人の動きを。どんな事をやっていて、それをすることによって、何がいいのか。そういうことを見ろと、言っていたのかもしれない。口で言うものではない言葉で。文字として書くものではない言葉で。
少しだけ歩いて、持っていたものを一回下ろした。そして、腕に力を入れながらもう一度持ち上げて、斜めになっている台に載せた。ミセの前の方が、奥より低くなっている。これが斜めになっているのには、理由がある。ミセの前に来たオキャクが、奥の方にある物を見やすくするためだという。キャクとしては、嬉しいことだけれども、ミセで働く方にとっては、高いところに重いものを載せることになるから、疲れる。奥の方から前に向かって載せるから、まだいいけれども。ダリアドにいた頃よりは疲れないし、慣れたとはいえ、体を動かす仕事は好きではない。疲れが溜まっているけれども、まだやることはある。
さっきの動きを何回かやった後、しばらくの間、ミセに立つことになる。「セッキャク」というらしい。そこではいろんなことを聞ける。早くその時間にならないだろうか。いや、僕が今やっているこれを早く終わらせれば、その時間はいつもより早くやってくる。もう少しだけ、頑張ろう。
色とりどりの実が入った木箱があるところへ、パタパタと歩く大きな音が、遠くに広がっていく。
旅をするときにずっと歩いていたら、すぐに疲れてしまう。できることなら疲れにくいやり方で、旅をしたい。どう言うのかよく分からないけれども、僕はどうやら疲れやすい感じがするのだ。疲れずに旅をするために、セイカテンで働いて、お金を貯める。そこでの仕事はいつも同じだ。ただそれだけだったら、疲れてやる気がなくなってしまうだろう。しかし、そのやる気を僕にくれるものが、ニつある。
一つ目は、お休みだ。七日に一回││これは僕が数えたもので、テンシュに言われたことではないけれど││仕事を休んでいい日がある。その休みの前の日、テンシュはいつも、「明日は、俺一人でやるから。」と言う。静かな声で、何でもない時に、ぽつりと。僕も静かに「はい。」と返すけれども、胸の底ではなにか熱いものが浮かんでくる。その時に、僕の顔を見たテンシュが、笑っている。ような、気がする。もしかしたら、テンシュはもう分かっているのかもしれない。僕が、その言葉を言われるのを楽しみにしている、ということを。
ニつ目は、ここで聞くことができるもの。
オキャクとテンシュが話す「セケン話」というものだ。
そこではいろんな、話をしている。もうすぐ葉が青くなるキセツになるとか、今日の朝に見た、ハイレンダ、という花が綺麗だったとか。そういう話から、別の内容に変わることもある。話をしている時に他の人が来て、そこからまた、中身が広がっていくこともある。物を買う、というだけなら、話をする必要はない。クダモノやヤサイを買って、別のところに行けばいいのだから。それでも、ミセで人と話をしている。その顔を、見ているのが好きなのだ。あの顔にも、こういう気持ちにも、名前はあるのだろうか。そんなことを思いながら、今日もミセにある、椅子に座る。テンシュは、まだここに来ていないようだ。どこかでタバコを吸っているのだろうか。それなら、ミセが始まるまで、まだ時間がある。
これから雨が降るのか、あたりは涼しい。こういう日はオキャクが少ない代わりに、忙しい時には見られないものを、ここから見ることができるけれども、セケン話を聞くことは、あまりできない。今日はそういう日だというのに、何故僕は、あんなに急いで仕事をやっていたんだろうか。仕事を早く終わらせても、テンキによって、オキャクが必ず来るとは言えないのに。胸の底で、煙がふわりと昇った。いい気持ちはしない。
「こんにちは。」
声がした。女の人の声だった。静かで、ゆったりとした、聞きやすい声。
顔を上げた。女の人が一人、ミセの前││クダモノとかが置いてあるところ││そこに、立っていた。黄色の服を着ていた。背はそれほど高くない。若い、というわけではないけれども、声と同じく落ち着いた感じのする人だ。他に人はいなかったから、さっき声を出したのは、この人だろう。女の人は顔を上げた僕を見て、にっこりと笑った。
「今日は、あなた一人なの。」
僕は慌てて言った。「いえ、そういうわけではないです。」
「テンシュは、もうすぐ来ると、思います。」
「あら、そう。じゃあ、しばらくこれを見せてもらっても、いいかしら。」
「はい、どうぞ。」
女の人は、そう言った。優しく笑った顔のままで。僕の声もつられて、柔らかくなったような、気がした。
││テンシュに何も聞かずに、どうぞと言ってしまった。でも、見るだけだというのなら、ダメではないだろう。
僕は息を大きく吸って、そして、ゆっくりと吐き出した。
女の人は静かに、売っているものを見ている。初めて見る人かもしれない。今までミセが忙しくて、人の顔をゆっくりと見られる時がなかったから、そうではないかもしれないけれども。日が昇ってから時間が経っていて、いつもだったらたくさんの声が聞こえるけれども、今日は人があまりいないのもあって、静かだった。しん、としている。まるで夜みたいだ。
「あなたは、いつもここで働いているわよね。」
「え。」
女の人がこちらを見ていることに、気づかなかった。慌てて「はい。」と返した。
「しばらくここで働いているみたいだけれど、どうしてなの。」
「どうして、って││。」
どうして、ここで働いているのか、ということだろう。隠す理由もない。
「旅をするためのお金を、貯めているんです。」
頼まれ事││世界に名前をつけるために││旅をする、ということは、言えないけれども。神さまからは、何も言われていないけれども、何となく。
「いいわね、楽しそうね。」
女の人は、明るい声で言った。顔も一緒に、輝いているように見える。目を大きく開いて、手を胸の前で合わせて。なんだか、女の人のほうが、僕よりも楽しそうだった。
その顔を見ていたからなのか、僕も、聞きたいことが出てきた。
「今日、雨が降りそうですけど、あなたは何か、急いでいるんですか。」
こういう日には、あまり人は来ない。来るとすれば、必要なものを急いで買いに来た人が多い。旅を始めてから、まんまるの月を二回見た。それだけ、時間が経っている。言葉も、人の動きも、いくつか知った。前にそういう人が来たことが、何回かあった、というのが理由だ。
「ああ、特に急いでる、ってわけではないんだけどね。このテンキなら、ここに来ても雨に降られるシンパイはない、と思ったの。ここから家も近いしね。」
「そう、だったんですか。」
家が近いということは、いつもここで、物を買っているのだろうと、そう考えた。わざわざ遠くに行って買おうとする理由があるとすれば、その遠くのミセの方が物がたくさんあるとか、近くのミセで色々あって、行きづらいとか、そういうことしか考えられない。女の人の、目の動きを思い出す。落ち着いた感じがして、どの実が一番いいか、見て考えているようだった。どうやら、初めてここに来たわけではなさそうだ。
「あ、そうだ。テンインさん。これと、あとこれ、いいかしら。」
女の人があるところを指さしている。そこには袋に入ったクダモノが置いてあった。
「お買いになるのは、チェリと、ブルべリでよろしいですか。」
女の人は首を軽く、上下に振った。良かった、間違いなかったようだ。始めの方は、クダモノやヤサイの名前を知らなかったり、オキャクが言う「これ」がどれを表しているのか分からなかったから、よく間違えて、ごめんなさいと何回も言っていた。何回も間違えたら、その後はもうやらないよう気をつけている。
「それぞれ一袋ずつで、よろしいですか。」
「ええ。お願いね。」
物を数えるときにも、一つ、二つの他にも名前があることを知ったのは、ここで働き始めてからだ。ミセで働くときにも、初めて知ることは多い。そして知ったときはいつも、胸の底がスッキリするような気持ちになる。
││なんて考えているときに、思い出した。テンシュがいないのに、女の人にお金を払ってもらってもいいのだろうか。
テンシュから、何か言われていただろうか。いや、思い出せない。
それじゃあ。
「オカイケイ、しますか。」
その時。女の人の後ろの地面が、少しだけ濡れたように見えた。そして、ポツポツという音がする。僕の頭の上の、布のヤネからだ。
このミセのヤネは小さいから、女の人は今、ヤネより少しだけ離れたところに立っている。なんて考えているうちに、音は少しずつ多く、大きくなっていく。このままではいけない。女の人も、空を見ている。少しだけ口を開けて、眉毛の間を寄せて。そしてぽつりと、「どうしようかしら。雨をシノゲル物なんて、持ってないわ。」と言った。僕は何を考えているのか、すぐに分かった。ここで僕ができることは、一つ。
僕は言った。
「しばらく、ここに居ていいですよ。空が晴れるまで。」
「え、いいの。でも。あなたに悪いわ。」
「いいですよ。」
雨は大きな音を立てながら降っている。このまま歩いたら濡れる。それなら、空が晴れて歩けるようになるまでここに居たほうがいいだろう。
「それじゃあ、お言葉にアマエて。」
女の人は口だけで笑ってそう言うと、少しだけ僕の近くに来た。そしてまた、空の方を見た。軽く息を吐いて。僕もそちらの方を見た。と言っても今は椅子に座っているから、空はあまりよく見えないけれども。
ザアザァと、雨はまだ強く降っている。そして、水が流れる音もした。それらの音しか、ここでは聞こえなかった。
「雨は、嫌いよ。」
女の人が小さな声で、そう言った。
また気まずくなってしまった。何を話そうか。顔を下に向けて、考える。足のある方は暗い。
││あ。
「あ、あの。オカイケイ、まだしてませんよね。」
女の人が、こちらを見た。目を大きく開いて、小さく口を閉じている。やっぱり。僕も今まで思い出せなかった。
「そうだった、ごめんなさいねぇ、悪いのは私なのに。」
「いえ。オカイケイが終わっていないのに別のことを話し始めたのは、僕の方ですから。こちらこそ、すみません。」
「それじゃあ、オタガイサマね。じゃあ、ちょっと待っててね。今払うから。」
オタガイサマ。胸に溜まっていたものを、ストンと落としてくれるような、そんな言葉だった。
女の人が、ガサゴゾとカバンの中の物を探しているときに、後ろから足音がした。大きい音。わざと出している音ではなかった。怒っているときに自然と出る音は、自分では大きい音だとは気が付かないものだ。
「いらっしゃいませ、オキャクさん。オカイケイですか。」
「ええ、そうですわ。はい、これ、オダイね。」
僕の手にいくつかのオカネが乗せられた。ドウカ││三種類あるお金のうちの、一番安いもの││が、一、ニ、三、四、五、六枚。チェリもブルベリも、ドウカ三枚分だから、ぴったりだ。
僕は顔を上げた。女の人はずっと、優しい顔をしていた。
すると。
「ちょうど、ですね。ありがとうございます。」
後ろから、声が聞こえた。僕より低い声。毎日聞いている声。実を言うと、この人はあまり好きではない。声も、動き方も、考え方も。
「またいらしてくださいねー。はははー。」
テンシュは言った。小さい足音が、三回。テンシュがこちらに頭を近づけ、言った。
「俺さ、お前に、一人でカイケイしていいなんて、一回も言ってないんだけど。それができる程、自分がシンヨウされてると思ってるのか。」
テンシュの、冷たい言葉。息が、上手くできなかった。また、やってしまった。
やはり、自分はシンヨウというものがないのだ。
そう考えた理由は││。
「テンシュさん。後で、ホメテあげてくださいね。その子を。」
顔を上げた。女の人はニッコリと笑っている。そこは変わらないけれども。変わらないけれども、一つ、さっきとは違うところがあった。
テンシュの方を見る目が、違った。今は、目に眩しい光があった。その目で、テンシュをしっかりと見ている。
女の人の言葉にビックリしたのは、僕もテンシュも一緒だった。何故、いきなり、そんなことを言い始めたのか。それが分からなかったからだ。
「今、雨が降っているでしょう。この子が『アマヤドリしていって下さい。』って言ってくれたから、私、安心してお買い物ができましたわ。」
女の人は、言葉を続ける。
「それにですね、その子、すごくテキパキと動いていましたわ。テンシュさんの見てないところでも。さっきは、ジュンビを早くに終わらせて、ミセのイスに座って、オキャクさんが来るか見ていましたよ。今日だけじゃなくてフダンも、テンシュさんを楽にさせるために、イッショウケンメイ働いてました。ただただ、マジメに。」
胸の底がじんわり、温かくなっていく。
テンシュの方を見た。目を大きく開いて、口を固くしている。どんな言葉を返せばいいのか分からない。そんな顔だった。
「きっと、テンシュさんのオシエ方も良かったのでしょう。すごく助かりましたわ。ありがとう、ございます。」
女の人の後ろを見た。少しずつ空が晴れていて││さっき降った雨は、通り雨、というものだったみたいだ││雲の間から明るい日の光が見えた。その光は、女の人の笑った顔のように、温かい感じがした。
空がすっかり晴れて、女の人が向こうに行った後、テンシュはボソリと言った。
「明日、お前休み、だからな。」
「え。休みはいつも、別の日ですよね。何故ですか。」
「いいから。いいから休め。明日は俺一人でやる。俺一人で、やってやるよ。」
「え、あの││。」
明日は休み、と言われた理由を、あのあと何回か聞いたけれども。テンシュは、何も言わなかった。少し、自分で考えてみようか。
テンシュは大きな声で、少し怒ったような感じで言っていた。その理由は、女の人が、僕のことを良く言っていたから。「ホメテ」いたからだろう。あの言葉の後、テンシュが、どう言葉で表せばいいか分からない顔をしていた。それが気持ちよくなかったからだろう。じゃあ、休みをくれた理由は。考えることができたものは、二つ。
「俺一人で、やってやる。」大きな声で、そう言っていた。女の人にホメテもらった僕が気に入らない。明日は自分一人で働いて、今日よりも多く、一人でオカネをカセギたい。胸の底にある煙を、消すために。それが一つ目。
もう一つは。
もしかしたら、僕をホメテくれたのだろうか。シンヨウのない僕のことを気持ちよく思わないけれども、女の人に良く言われたなら、なにかしてやらないといけない。だから、休みをくれたのだろうか。これが、二つ目。
さて、どちらなのだろうか。どちらだとも考えることはできるけれども、テンシュが理由をはっきり言っていたわけではないから、このニつのうちどちらが合っているのか、ということは分からない。もしかしたら、どちらでもないのかもしれないし、どっちもかもしれない。それをはっきり知ることは出来ない。これは僕が考えたことで、テンシュが胸の底で考えた事ではないのだから。
それに。明日は休み、ということは変わらない。さっき言っていた言葉から考えても、いきなり「やっぱり、明日は仕事してくれ。」と言ってくることはないだろう。
明日は、休み。その言葉だけで、胸の底がキラキラする感じがした。明日は何でもできる。どこかに行くことも、仕事ではないことで話をすることも、自分が食べたいものを食べることもできる。僕は「ジユウ」という言葉を思い出した。あの時、神さまが言っていたものだ。ジユウという言葉は、こういうことも表しているのではないだろうか。
とは言っても。
どこかに行くにしても、ケガをしそうな危ないところには行ってはいけない。仕事ではないで話をするにも、いきなり知らない人に話しかけるのはいけない。自分が食べたいものを食べるにしても、必要じゃない量の物を採ったり、買ったりしてはいけない。そういうことを考えた上で、動かなければいけない。
僕はそれを、嫌だとは思わない。もし、さっき考えたことがいつもミセであったなら、嫌なことになるだろう。それに、さっきの事を守っていれば、問題はない。この中でも出来ることは、たくさんある。それを僕は、楽しみたい。
明日は何をしようかな。どこに行こうかな、何をしようかな。そんなことを考えて、明るく晴れた空の下で、イッショウケンメイ働いた。オキャクがたくさん来て忙しかったけれども、苦しくはなかった。たくさん働いて疲れたけれども、その疲れを嫌だとは思わなかった。
テンシュのイエに行き、いつもと違う休みの日にどう動くか考えながら、寝るヨウイをしている時に、思った。
女の人のことだ。女の人のあの言葉でホメテられたから、僕は、休みをもらった。テンシュに休みをもらった時、胸の底が明るくなった。あの人のおかげだ。
それに。
あんな言葉を言われたのは、初めてだった。自分の顔のあたりが少し熱くなった。嬉しいと、胸の底から、そう思った。
女の人に何も言わずに、明日は何をするかとかを考えていたことが、申し訳ないと思った。優しい、あの人に、申し訳ないと。
そうだ、こうしよう。
明日はまず、この街を歩いてみよう。もしかしたら、女の人に会えるかもしれない。そしてもし会ったら、あの人に言おう。「ありがとう」の言葉を。
この言葉は、ここで働いているときに、何回か言われたものだ。「ありがとう」という言葉が、人を温かい気持ちにさせることを、僕は知っている。短いけれども、ダイジなことを表す言葉。
明日会えるかどうかは分からない。もしかしたら、いくつか日が経ってからでないと、会うことはできないかもしれない。この広い街で、人を探すのは大変なのだ。
それでも。
女の人を探そう。そしてもし会ったなら、「ありがとう」と言おう。
寝る前に、マドの外を見た。月を見るために。雲があって、月の形を見ることはできなかったけれども。それで十分だった。今の僕には、温かい気持ちがたくさん、たくさんあった。いつもはモヤモヤとした物が溜まった、この胸の底に。その煙を消すために、いつもは月を見ていた。明るい月を見ると、神さまを思い出すからだ。今日は月そのものを見られなかったけれども、胸の底からは温かい感じがした。だから今日は、月の光を見るだけで十分だった。
ユカにあるフトンの間に入り、目を閉じた。ゆっくりと、ゆっくりと、沈んでいくような感覚があった。そのまま目を開けずに、朝まで眠った。
月の光が綺麗で、どこまでも静かな夜だった。
ゆっくりと目を開けると、温かい光のハシラが、そこにあった。きらきらと黄色に輝く、眩しすぎない光。昨日の夜開けたマド出ていたのだ。そういえば、カーテンを閉めるのを忘れていた。体を起こし、フトンから出た。体を上に伸ばす。そのまま、マドに向かって歩いた。
マドを縦と横に見たときにど真ん中になるところには、手で持つことができるトッテが二つある。そこを持って、マドを開けた。ギシリという音が何回か出た。ひゅうという風の音がした。僕は顔をマドの外に向けた。
眩しい日の光が当たった葉っぱが、風によって揺れ、ざぁ、という音が出た。葉っぱに触れて輝く光が、きらきらと眩しい。
テンシュはここには居なかった。いつもは僕と同じ時間に起きている。今ここに居ないということは、いつもより早く起きてジュンビしているのか、それとも、僕が起きるのが遅かったのか。
壁の上の方にある時計を見た。カチカチと音を立てながら動いている。今は六時ぴったりだ。いつも起きる時間と同じ、ということは、テンシュが早く起きてミセのジュンビをしていることになる。近くからの物音はない。ここ││イエにも居ないのだろう。
イエから街までは、少し離れたところにある。とは言っても、そこまで遠いわけでもないけれども。仕事のある日は、起きて着替えたら、テンシュと一緒に街まで歩いている。今イエに居ないということは、やはりあそこでジュンビをしているのだろう。いつもなら、ミセが開くのは九時。朝に起きるのが六時で、ご飯を食べてミセヘ向かうのが、七時。││もしかしたら、ご飯も食べずに向かったのかもしれない。だとしたら、ジュンビが終わってからの時間はたくさんできる。それまでにダラダラしているわけにはいかないから、いつもより早くミセを開けているのかもしれない。そこまで早くした理由は、なんとなく分かった。昨日、大きな声で言っていた。「俺一人で、やってやる。」と少し怒っていたようにも聞こえた。そこから考えると││。
まあ、それはいいとして。そろそろ着替えよう。僕はクローゼットを開けた。そこには、ワイシャツとベスト、ベルト、そしてズボンがあった。ワイシャツ以外の物の色は、全て茶色だ。といっても、色の感じはどれも少しずつ違う。ダリアドで会った、おじさんに貰ったものだ。いつも仕事をするときには、着ることができない。物を運ぶことがあるこの仕事では、服はすぐに汚れてしまう。おじさんがオカネを払って、僕が貰ったこの服を汚すのが嫌で、仕事の時にはテンシュに借りた物を着ていた。休みの日にしか、この服を着ないと決めていた。
ふと、おじさんの顔を思い出した。思い切り笑った、あの顔。胸の底が明るくなる感じがした。
短い時間で服を着替える。そしてカバンも持った。何となく、自分がいつもより早く着替えた気がする。その理由は、もう分かっている。外に出かけることができて、いい気分だからだ。何かが足りないような気がするけれども、まあいいか。
ドアへ向かって歩く足もいつもより早く、パタパタと音を立てている。ケシキを見ずに歩いて、歩いて、走って、外へ。
ドアを開けた。
さあ、行こう。賑やかな、あの街に行くために。あの女の人に、会うために。
僕は歩き出した。
日の光は明るく、この街に降っていた。といってもギラギラとしたものではなく、ポカポカと穏やかな感じがするものだ。今日はまだ、朝日が昇ってからそれほど時間が経っているわけではないのに、暖かくなっている。これなら、ゴゴになったらもっと暑くなるのだろうな。
それでも、空は綺麗だった。
顔を、街の方に向けた。
色んな声が聞こえる、色が見える、人がいる。同じように見える、という日はない。いつこのケシキを見に行っても、同じ見え方をするものはない。いつもどこか違っている。それを見つけるのが楽しいと、僕は思う。
今僕がいるのは、このハンカ街の入り口だ。縦に長く、道ができている。奥にあるヒロバに行く間には、ミセがたくさんある。僕が今働いているところみたいに、食べ物を売るところ、ザッカやアクセサリー││自分を綺麗に見せるものだと、アクセサリーのミセのテンシュから聞いた││を売るところ、毎日生活をするのに要る、ニチヨウヒンを売るところ。
奥のヒロバに向かって、歩いていくと見える。紙袋に入れてもらった物をもらうオキャクと、それを渡す、ミセの人。何やら楽しそうに話をしている、二人の女の子。僕と同じくらいの歳だろうか。今日は何を食べようかとか、あのアクセサリーがカワイイとか、そういう言葉が聞こえた。
休みの日にはいつも、ここに来ている。その日にこの街を見た時に気付いたことがある。
働いている時に見えるものと、休みの日に見えるものは、少し違っている。
仕事をしている時には、セイカテンに置いてあるものや、他のミセのケシキが見える。そして休みの時には、街に来る人の顔や、他のミセで売っているものが見える。何故、こういう違いが出てくるのだろうか。仕事の時にはイスに座ることが、休みの日には、ちょうど今みたいに歩くことが多いから、見るものが違うのは分かる。でも、これの理由は、さっき考えたものだけではないのでは。目に入るものは違う。でも、それだけではなくて。もしかしたら、目の向け方が、日によって違うのではないか。そんなことを、考える。
ヒロバが近くに見えた。いつの間にか、ここまで歩いてきたようだ。前から思っていたけれども、僕は見ることよりも、考えることの方が、やっている時間が長いような感じがする。世界に名前をつけるためには、色々なものを見なければいけない。なのに、考える時間の方が長いというのはどうなんだろうか。
そういえば、神さまは、何故。
この世界に名前をつけてほしいと、僕に頼んだのだろうか。
││ふと。
ガッキを弾いて出す音、叩いて出す音。それが聞こえて、そちらに顔を向けた。楽しそうな声も、聞こえてくる。
二人の男の人が、オンガクを他の人に聞かせていたところだった。僕は立ち止まって、少し遠くから見ることにした。
男の人のうち、一人は短いフエを手に持ち、もう一人は小さいタイコを首に下げ、音を奏でていた。二人のオンガクは、ただ奏でるだけ、というわけではないようだった。歩いたり、オキャクの近くに行って奏でたり。たまにガッキを持つ手を下ろして、オキャクと一緒に手を叩いたり。奏でているオンガクも綺麗で、楽しそうな感じにする時もあれば、静かに、ゆったりとしたものを奏でる時もあった。
それを聞いていると、こっちも良い気分になってきた。曲が終わると、他の人からのハクシュが聞こえてきた。音楽を奏でていた二人は、それを見て、微笑みながら、深く頭を下げてレイをしていた。ハクシュはさらに大きくなる。僕も一緒に、キョリは少し遠くからだけれども、軽く手を叩いた。
二人を見ていた目を、オキャクの方へ向けると。
││いた。昨日、僕を助けてくれた人が。僕がお礼を言いたい、優しい感じのする、あの女の人が。間違いない。その顔を、思い出せないはずがなかった。
黄色の、明るい服を着ている。スカート、という名前だっただろうか、それを着ているように見えた。膝の少し下まである、長いスカート。
女の人は、まだこちらに気が付いていなかった。男の人たちに向けて、ハクシュを続けている。
笑っていた。昨日言ったあの言葉のように、明るく、優しい顔で。ああ。やっぱり、こういう人なんだな。僕が女の人の動きや言葉を見て思ったことは、その顔にも、しっかりと表れていた。胸の底がまた、じんわりと温かくなる感じがする。
僕は歩き出した。その、女の人に、言わなければいけない事が、あるからだ。
人がいるその間を、なるべくぶつからないように気を付けながら、ゆっくりと、けれどもしっかりと、歩いていく。
足音が、一、二、三、四、五、六回。
顔がこちらに向けられた。静かに、目が合う。
僕は言った。始めに言うべきだと、これは全てにおけるキホンだと、テンシュに言われた、アイサツを。
「あ、あの。││こんにちは。」
何故だか、周りが明るく、温かく感じたような、気がした。
「あら、こんにちは。││あら。もしかして、昨日の、セイカテンの子。」
始めに、そんな言葉を返された。首を上下に振る。
僕は女の人に言った。店で働いているときに、どこかから聞こえてきた言葉を使うなら、セツメイした、と言ったがいいだろうか。まあ、それはいいとして。
僕はセツメイした。昨日、女の人にホメられたおかげで、僕は今日、休みをもらうことができたのだと。ありがとうの言葉を言いたくて、あなたを探していたという事を。
「あら、わざわざありがとう。でも、そんなにタイしたことはしてないわ。むしろ、オレイを言いたいのはこっちの方よ。」
「え。どういう、ことですか。」
「ふふふ、ワスレちゃったの。」
そう言って、女の人は優しく笑う。手を口の前に持って行って、そこを隠しながら。その動きだけでも、ずっと見ていたい、なんて。
「││昨日、オミセでアマヤドリ、させてくれたでしょう。おかげで、私の服をヌラさずに済んだわ。」
「あ。そうだった。」
昨日、そう言いながら、この人はホメテくれたのだった。けれども。
「でも、僕は、そんなにタイしたことをしたわけではありません。」
女の人の言葉を、そのまま返した。
「ふふ、オタガイサマね。自分がやったことが、どんなコウカをアタエたのかってことは、自分ではアンガイ、気が付きにくいものよね。」
「そう、ですね。」
女の人が笑う声につられて僕も、同じような声が出た。そしてほんの少しの間だけ、二人で笑い合った。どこかで聞いた、オダヤカな時間という言葉は、こういう事を言うのだろうか。じんわりと、温かい感じがする、この気持ちのことを。
そして、女の人は言った。
「││ねえ、もし良かったら。うちに来ない。お礼がしたいわ。」
「あ、いえ、そんな。」
申し訳ない。助けてもらったのは、こちらも一緒だというのに。
「いいから、いいから。」
「え、えっと。」
まだまだ時間はたっぷりあるけれども。どうしようか。このままついて行ったとしても、何か嫌なことをされるわけではない。そういうことをするような人ではないだろう。
││そうだ。前から、聞きたいことがあった。旅を始めてから溜まってきた疑問を、そろそろカイケツしたい。そう思った。
だから、僕は言った。
「それなら。││あの、すみません。色々オシエてもらいたいことがあるんですが。いいですか。」
昨日、僕がした事のお礼。文字とか、難しい言葉が表していることとか、トウザイナンボクとか。そういったことを、女の人にオシエテもらう。それだけで、僕は十分だったけれども。そうならなかった。理由は、ただ一つ。
ぐうと、音が出たからだ。僕の腹から。街で一番高い、時計トウがある。そこを見たら、時間は十一時を半分回ったころだった。ちょうど、ご飯の時間だ。そういえば、今日の朝は何も食べてなかった。何かが足りないとは思っていたけれども、こういうことだったのか。「テンシュは、朝のご飯を食べずにミセへ行ったのではないか。」そう考えていた僕のほうが、ご飯を食べずに街に行くなんて、どうなのだろう。
「じゃあ、お昼のご飯も、一緒に食べましょうか。」笑った顔で、女の人に言われた。僕は「はい。」とだけ返した。アイテの顔を、見ることが出来なかった。顔がじわりと熱くなるのを、地面を見ながら感じていた。
考え事をするために閉じていた目を、ゆっくりと開ける。
今、女の人のイエ││ダイドコロ、と言うらしい││そこに置いてある三つのイスの一つに、僕は座っている。
目をゆっくりと開ける。明るい日の光が、女の人の後ろにある窓から入ってくる。他に明かりはないけれども、それでも物をちゃんと見ることができた。見えないのは、日の光に当たっていない、女の人の顔だけ。
日の光が長い間当たっていたのか、そこだけ色が白くなっているテーブル。窓のワクもそんな感じだった。ここに住んでいる時間が長いのだろうか。他にも長い間使っているように見えるものが、たくさんあるからだ。僕が今座っている、このイスだってそうだ。座るためのところには柔らかいものが赤く固いヌノで包まれている。それの角が、少しだけボロボロになって、ヌノの中の柔らかいワタが見えている。
││やる事がなくて、落ち着かない。近くに本がいくつかあるけれども、それを勝手に触るわけにもいかない。そもそも、文字がわからないから読む事も出来ない。なにか手伝えればいいのだけれども、それを言ったときに、「いいのよ、手伝わなくて。今日はあなたがオキャクさんだもの。」と返されてしまった。考えてみれば、その通りだ。僕がミセで働いている時に、オキャクが買ったものを入れたり、カイケイをしたりするのは、いつもミセの人、つまり僕やテンシュだけだ。もしオキャクにそれを手伝ってもらうことがあったら、テンシュに怒られる。それがないように、手早く動くやり方をオボエたのだ。それはさっきの事であっても同じだ。何かをアイテにしようとしている人を、されようとしている人が手伝うヒツヨウはないのだ。アイテが何か困っているのなら別だけれども。
顔を右に向ける。食べ物が焼ける匂いと、パチパチと火が燃える音。香ばしい、いい匂いがする。
女の人はカマドを使って、リョウリをしているようだ。ただ、カマドといっても、インショクテンにある大きいオーブンではなくて、フライパンやナベを使うための小さいものだった。上は平らで大きな穴があり、そこにフライパンやナベを置いて食べ物を焼いたり煮たりする。下にはもう一つ、丸を半分に切ったような穴がある。土でできたカマドの、地面に真っ直ぐ立っている面に、穴が空いているのだ。そこに、ヒダネを入れて、ヒウチ石で火をつける。
いい匂いと、温かい光。それだけでも、胸の底がじんわり熱くなる感じがする。
しばらくして、女の人が戻ってきた。手には、二つのサラ。一つは温められたように見えるパン。もう一つは、今まで見たことのないリョウリだった。女の人はそれらを静かに置いて、言った。
「はい。どうぞ。」
「あ、ありがとう、ございます。」
すぐそばにあるフォークを手に取った。「これ、お借りします。」
初めて見るリョウリには、チーズに、小さくしてある赤いパリカ、そして薄く切られた肉。そしてコショウがパラパラと散らされている。茶色にこんがり焼けているところもあった。美味しそうだと、思った。テンシュとセイカツしている時には、他の店で売っている食べ物を買っていたから、カマドを使って作ったできたての物は、こんなに温かくて、いい匂いがするのか。
手を口の前に出して、手を合わせた。こういう時にこそ、この言葉は言わなければいけない。
「いただきます。」
自分の顔のあたりから熱を感じた。それは、リョウリから出る熱ではない。
フォークで料理を短く切って、口にもっていく。閉じて、ゆっくりと噛むと。熱と、ヤサイから出る汁と、薄切りの肉の香ばしい味が、混ざり合う。思わず、目を大きく開く。
「ふふ。美味しい。」
首を上下に、大きく振った。美味しくないわけがなかった。ダリアドを出て旅を始めてから食べた物のなかで一番だ。そう思うくらいには。
「おいしい、です。」
「そう、良かった。たくさん食べてね。」
女の人はそう言った。そして、僕の向かいの席に座って、こちらを見ている。笑顔で。その顔は確かに笑顔だった、けれども。女の人が胸の底で見ているところは、ここではない。そんな感じがした。口は笑っているけれども、胸の底では笑っていない。目を細め、ここではないどこかを見ている。嬉しそうだけども、悲しそうでもあった。
僕は思わず、聞いてしまった。「あ、あの。││どうか、なさったんですか。」
「あ、いや。何でも、ないわ。」女の人は、そう言って顔を、本が置いてある棚の方に向けた。眉毛の間を深くし、唇を固くして。
その顔を見て、僕は、何も聞けなかった。何も、してあげられなかった。
「ごちそうさまでした。」
静かに手を合わせ。ふうと、長く冷たい息が出た。それでも胸の底が晴れることはない。
女の人は、セリタという名前だった。昔から、この家で暮らしているのだと。いつもはサカバ、リョウリを出したり、お酒を飲んでもらったりするところで、リョウリ人働いているのだという。
「元から、そこで働いてたんだけど。一回、辞めてしまって。今はそこで、もう一度ヤトッテもらってるの。キュウ金はちょっと安くなっちゃったけどね。」
女の人は││名前をオシエテもらったのだから、これからはセリタさんと呼んだほうがいいだろうな││セリタさんは、ミセで会ったときと、ここで一緒にいるときとは、話し方が少し違うようだ。ここにいるときの方が、明るく話している感じがする。話し方が違うと言っても、声の感じが少し違うというだけで、明るく、優しく、話してくれるところは同じだった。
「ところであなた、お名前は。」
「あ、はい。ドレと、いいます。」
「そう、ドレ君。よろしくね。」
「よろしく、お願いします。」
お昼のご飯を食べ終わった後、お互いに名前をオシエ合った。他の人の名前を聞く、というのは、今までやったことがなかった。セリタ、という女の人の名前を聞いた時、アイテの顔がさっきよりもはっきり見えるようになった気がした。ある物の名前を知った後、その物がはっきりと目に入るようになる。例えば、僕は旅を始めるまで、赤や黄色の、つるつるとした実に緑色のヘタがついたあの食べ物が「パリカ」という名前だと知らなかった。ダリアドにいた時、ご飯にあれが出された事はない。だから、見たことも食べたこともなかったのだ。見たことが無いのに、名前だけ知っている、ということもなかった。けれども。パリカ、という名前を知った後、街やミセでそれがよく目につくようになった。「あそこに置いてあるあれは、パリカの実だ。」という感じに。それと同じことが、人の名前でも起こるのかもしれない。
「あ、そうだ。色々オシエてもらいたい、って言ってたわね。じゃあ、ペンと紙を持ってくるわ。」
セリタさんはそう言って、立ち上がり、ダイドコロから出ていった。
しまった。本当は、色々オシエテ貰うためにここに来たのだった。食べ物の味があまりにも美味しくて、忘れていた。
││それにしても、セリタさんにはたくさん助けてもらったのに、僕は一つも返せていない。会いに行く前に、何か買っておけばよかったな。セリタさんにあげるために。そう思っても、もう遅い。時間は戻らないし、今ここを出て、急いで買ってくるわけにもいかない。何も言わずに外に行ったらセリタさんが困るだろう。どこに行ってしまったのか、と。セリタさんに、少しだけ待っててほしい、と言って、外で買ってきたものを持ってくる、というのも、あまりやりたくない。
今、してもらったことのオレイをすることは出来ない。じゃあ、いつにしようか。
「ただいま。」
顔を上げた。セリタさんが立っている。笑った顔で。さっき、悲しそうな顔をしていたことを、忘れてしまったかのように。僕の前に置いてあるイスが、ギイと音を立てた。そしてセリタさんが静かに座った。
「それで。何から、オシエてほしい。」
そしてまた、笑った。胸の底に重いものが溜まって、少し息がしづらくなった。
遠くで、手を振っている人が見える。僕はその人に、もう一回手を振った。今度は高く、遠くからでもしっかり見えるように。
森の木の上にある空を見た。黄色と赤の間のような││オレジ色、という名前だと、さっきセリタさんから聞いた││昼のときとは違う、温かい色がそこに広がっていた。確か空がこの色になったら、もうすぐ日が見えなくなるのではなかったか。そうなると、テンシュの家まで帰るのが大変なのだ。セリタさんの家は、ルクセリアの繁華街から少し離れた、森の奥にある。そして今僕は、その街に通じる森の中にある整備された道を歩いている。ここには、明かりがない。遠くの街の明かりしか、ないのだ。おじさんに買ってもらったランプは、今日はテンシュの家に置いてきてしまった。ここまで帰りが遅くなるとは考えていなかったからだ。明かりがないときに夜になると、足元が見えない。だから、早く帰らないと。自然と、歩く足が早くなる。けれどもそれの理由は、帰りを急いでいる、ということだけではなかった。
もっと見たい。もっと知りたい。もっと聞きたい。この世界の、色々なものを、色々なことを。そう、思っているからでもあった。セリタさんの家を出るときに、「また、聞きに来てね。」と言われた。そう言われたということは、もっと知ることができる、ということだ。文字を、物や身の周りで起こることの名前を、言葉を。
明日からまた、ミセでの仕事が始まる。そこではどんな話を聞くことが出来るだろうか。次にセリタさんに会ったときには、どんな言葉を、知ることが出来るだろうか。
「世界に名前を付ける」という、大きな頼まれ事を、行うための準備が、少しずつされている。そう、感じて。
帰り道を歩く足が、パタパタと大きな音を立てた。
こうして、一年があっという間に過ぎていった。
色んな人に会った。色んな話をした。色んなことを一緒に行った。
その時の僕は、他の人に助けられる側だった。けれども今度は助ける側になりたい。そう思って、「何か」の動きを沈静化するという任務を受けた。
任務を遂行する前日、僕は世界に、名前をつけた。物に名前をつけると、その存在が強固になる。その効果を使って、世界にある全ての、人や物の存在を強めた。これなら、「何か」が暴走したとしても、そう簡単には壊れないだろう。そう思って、ある名前を付けた。
そして。
僕は「何か」と対峙した。この世界の中央にある、始まりの海にて。
「何か」は言った。
「ワタシは人間から生まれた。生まれて、生まれて、生まれ続けて││ついに、耐えられなくなった。」
「何か」は人間が生んだ負の感情そのもので、奴隷や村人など、理不尽な扱いを受けている者の苦しみ、下の者を虐げる貴族、王族の傲慢な心から生まれたのだと。昔はこの世界を見守っているだけだったが、増加する力に耐えきれなくなり、暴走し始めてしまったのだと。
「ワタシは、倒してもらいたい。増え続ける負の感情に耐えられないワタシを、どうか消してほしい。ワタシは多くの物を、人間を、傷つけてしまった。ワタシの存在そのものを、どうか││。そうでなれば、心も、人間の営みも、物も、言葉も、全て失われてしまうだろう。ワタシは、そんな事をしたくはない。けれども、この理性はもう保たない。だから、どうか。││頼む、はじまりを告げる人間よ。」
僕は悩んだ。倒すことだけはしたくない。けれども、どうやって助ける事ができるか、はじめは分からなくて。
僕は考えた。今まで助けてくれた人達のことを。ロドックさん、ユリガーさん、セリタさん、セントラ、そして。
神さま。
その人達のことを。
││そうだ。あの人たちにしてもらった事を、今度は「何か」にしてあげればいい。
ただ、それだけなのだ。
大きく息を吸った。そして、力いっぱい出す。僕の、精一杯の言葉を。
「負の感情を生み出し過ぎたのは、僕たち人間の過ちだ。君に、罪はない。」
竜のような姿となった「何か」が、大きく目を見開いた。言葉を続ける。
「そして僕たちにとって、君は絶対に離れられない存在だ。僕たちは君を嫌ってきた。けれども、決していらない、消されていい存在じゃない。君がいるから、僕たちは変わっていけるのだから。君と仲良く出来れば、良い結果を呼ぶことがあるのだから。」
「何か」の目をじっと見る。そして、はっきりと、伝える。
「今までないがしろにしてきて、ごめん。でも、僕は君を助けたいんだ。だから。」
君に名前を付ける。
実はもう、考えてあった。負の感情を示す、一つの名前を。それは「必要」という意味を持っていた。
「今から、君の名前は││。」
「ナサリィ」
「変化の世」。それが、この世界を表す名前である。その名付け親は、一人の少年であった。
優しく、人の心、いや、それ以外の者の心にも、寄り添うことのできる力を、彼は持っていた。
彼が付けた名前の通り、世界は目まぐるしく変化していった。それらの変化は、これからも続くだろうと思われた。
そして今、彼は、旅をしている。今度は、頼まれ事を達成するためではない。
自分の意思で、ある人たちにお礼を言うために、旅をしていたのだった。
││予定より、早く着いてしまった。技術革新のおかげで、最近導入された「手紙」というものを使って、朝の九時くらいには行くとは伝えてある。けれども、今は九時三十分。今、ドアを開けて挨拶をするのは迷惑だろう。けれども、もう家の前に着いてしまっている。
そういうことを考えていたら、ドアが開いた。もしかして、すでにバレてしまっていたのか。窓から姿が見えていたんだろうな。
顔を、正面に向けた。相手は大きく目を見開いている。そして、はっきりとした声で、僕は言った。
「││ただいま。」