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記憶喪失になった最愛の夫は、別の人を愛した

作者: pianissimo

初投稿の作品となります。

初めてオリジナル小説を書いてみました。

お見苦しい点があるかと思いますが、ご容赦ください。

私、エレインはイグフェノー侯爵家に生まれ、両親からたっぷりの愛情を注がれて育てられた。


ストレートの亜麻色の髪は母親ゆずり、翡翠色の瞳は父親ゆずりであり、大人しい顔立ちをした容姿である。



7歳のとき、歴史あるグランフィード公爵家の長男ヴァンドレン様と婚約をした。

貴族社会ではよくある、政略結婚である。


二つ年下のヴァンドレン様は金髪碧眼で、まるで天使のように可愛らしい美少年であった。性格は穏やかで心優しい彼に惹かれ、私たちはすぐに仲良くなり、成長と共に愛を育んでいった。


そして、ヴァンドレン様が成人を迎えた年、私たちは結婚をし、私は公爵夫人となった。




「君と夫婦になるこの日を、ずっと待ち望んでいた。愛しいエレイン、一生きみを大切にするよ。」


「ヴァンドレンさま…。私も一生あなたを大切にします」


新婚初夜は、とても優しく、甘く、まるで宝物を扱うかのように大切にしてくれた。

私はとても幸せだった。

一生、彼を守りたいと、愛し続けることを誓った。








天使のような美少年から見目麗しい美青年に成長したヴァンドレン様は、結婚後も社交界で女性から熱い視線を集めていた。貴族社会は見目麗しい女性がたくさんいるがヴァンドレン様は見向きもせず、私をとても大切にしてくれた。




「エレインはとっても綺麗だよ。僕の心を満たしてくれるのは、エレインだけ。愛しい、僕の美しい女神様」


二歳年上の私は、見た目も性格も地味で大人しく、社交界でも目立つような存在ではないため、若く美しい御令嬢の方がヴァンドレン様にはよいのではないかと、いつも自信がなかった。

そんな自信のない私を、ヴァンドレン様は言葉で、全身で励まし、愛してくれた。



甘く幸せな生活が半年を迎えた頃、事件は起きた…



その日は、公爵家当主の仕事でヴァンドレン様は領地視察へ向かうことになっていた。


「今日向かう領地は少し遠いから、帰りは明日になってしまうかもしれない。昨日は無理をさせてしまったから、今日はゆっくり休んでいてね、エレイン」


そう言うと、ヴァンドレン様は優しく私にキスをした。


「ヴァンドレン様ったら…。お気をつけて行ってらっしゃいませ。」


私は頬を赤く染めながら、ヴァンドレン様を見送った。



しかし、そんな幸せな日々に終止符が打たれることになる…。


ヴァンドレン様を見送った数時間後、公爵領を警備している騎士が血相を変えて公爵家の屋敷の門を叩いた。


「エレイン様!公爵様が道中に盗賊の襲撃に遭い、崖から落ちたとのことです…。」


私は全身の血の気が引いた。


「盗賊は捕らえましたが、公爵様は見当たらず、現在は崖の下の捜索中です。

怪我人も多くでており、公爵様も深傷を負っていたとのことです…。」


騎士が何か話しているが私は何も応えることができなかった。

脳裏に浮かぶのは、今朝お見送りしたときのヴァンドレン様の優しい笑顔だった…。



それから、三日間捜索は続き、従者や護衛は発見されたがヴァンドレン様は見つからなかった。


崖の下には川も流れていたことから、運悪く川に流されてしまったのでは…と推測された。


「そんな…。深傷を負って川に流されてしまうなんて…」


私はこの三日間、必死にヴァンドレン様の無事を祈り続けた。

夜は涙が止まらず、食事もほとんど喉を通らなかった。



そして、ヴァンドレン様の捜索は川の流れる周辺の村や町まで広がった…。







ヴァンドレン様が行方不明になってから、二週間ほど過ぎた頃、捜索に出ていた騎士が血相を変えて訪れた。



「奥様…!公爵様が見つかりました!川の下流の町で助けられ、療養中とのことです!」



ヴァンドレン様が生きていた…!

ああ、祈りが届いた…!

神様、ヴァンドレン様の命をお助けいただきありがとうございます…!



私は急いで準備をし、公爵家に昔から勤める医師とともにヴァンドレン様がいる町へ向かった。



川の下流の町はとても遠く、別の町で休みを取りつつ向かい、ヴァンドレン様がいる町へ着いたのは翌日だった。



騎士に案内され、ヴァンドレン様がいる場所へ足早に向かい、小さな家の中へ入った。



「ヴァンドレン様!!!」



部屋の中へ入ると、ベッドに座っているヴァンドレン様がいた。

一気に涙が溢れ、思わず彼のもとへ駆け寄り、抱きついた。



ヴァンドレン様の鼓動を確かめてから、顔を見上げると、何故か困惑した顔をしていた。



「申し訳ありませんが、貴女は誰ですか?」



時間が止まった。

彼の発した言葉を理解するのに時間がかかった。


何も言えない私を見計らい、医師がヴァンドレン様へ問いかけた。


「旦那様、奥様のことをお忘れですか…?」



そこへ、ヴァンドレン様を助け、面倒をみてくれていたという女性が部屋へ入ってきた。

「彼は二週間ほど前、川の上流の方から流されてきて深傷を負ってました。五日ほど眠り続け、目が覚めたときには何も覚えてませんでした。」


彼女は淡々と説明してくれた。


「私はエレイン・グランフィードと申します。

この度は、夫のことを助けていただき誠にありがとうございました。」


私はヴァンドレン様から離れ、女性へ挨拶をし、

彼を助けてくれたことの感謝の意を伝えた。


彼女の名はサラという。

焦げ茶色のふわふわとした髪と大きなクリクリとした瞳は可愛らしく、私よりもおそらく年下だろう。


サラの話を聞き、医師はヴァンドレン様を診察した。


「肩と脇腹に深い傷を負っていましたが、丁寧に手当てをしてもらっており、治りかけております。命に別状はないでしょう。」


医師の言葉に、部屋の中にいた全員が安堵の息を吐いた。


「しかし、ご自身のことから周囲のことまで記憶がない状態でございます。言動を見る限り、生活に支障がでることはないと思いますが、おそらく一時的な記憶喪失でしょう…。」


記憶喪失…。

私はどん底へ落とされた気分だった。



「僕の記憶は戻るのでしょうか?」


彼は不安げに医師へ問いかけた。


「先ほど、一時的とお伝えしましたが、どれほどの期間になるのかは不明です。脳というものはとても繊細なので、ふとした拍子に思い出すこともあればこのまま一生記憶が戻らないということもあります。そして、無理矢理思い出そうとすると脳が拒絶反応を起こし危険な状態になってしまうこともあるのでくれぐれも注意が必要です。」


「そうですか…。」


ヴァンドレン様は自分の今の状況を受け止めた様子だった。

そして、私のほうへ身体を向けた。


「夫であるにもかかわらず、貴女のことも覚えておらず申し訳ありません。」



彼の言葉で本当に私のことを忘れてしまっているという事実が心に突き刺さった。

必死に涙を堪えて、公爵夫人として恥のないよう振る舞った。


「いえ、ヴァンドレン様の命が助かっただけでも本当によかったです。まずは、自己紹介からしますね。

私はエレイン・グランフィードと申します。そして、貴方はグランフィード公爵家当主のヴァンドレン様でございます。」



貴族の礼をし、彼へ初めて会ったときのように自己紹介をした。

そして、彼へ自身の名と身分を伝えた。


「私の名はヴァンドレン・グランフィード…。

そして貴女はエレイン…っ!」


突然、彼が頭を押さえ顔を歪めた。


「ヴァンドレン様!」


私は駆け寄ろうとしたが医師に止められた。


「様々なことが起きたので頭に負担がかかってしまったのでしょう…。傷もまだ完治しておりませんのでしばらくは安静にしていてください。」


「ええ、わかりました。」


彼は横になり、しばらくすると頭の痛みが取れたのか眠りについた。


私たちは部屋を出て、サラに彼の看病をもうしばらく任せてもよいかお願いをした。


「サラさん、私はこれから公爵家へ戻らなければなりません。主人のことですが、安静が必要ですので公爵家へ共に帰ることはできません。もうしばらくこちらで療養させていただいてもよろしいでしょうか?

必ず、この御恩はお返しいたします。」


「もちろんです。お任せください。」


快く引き受けてくれた彼女に感謝をし、私たちは町を出た。







公爵家へ戻った私はやらねばいけないことが山ほどあった。

ヴァンドレン様が行方不明になってから今まで、公爵家当主の業務は彼の父上である義父、前公爵様が代行していた。


しかし、現当主が記憶喪失になり、いつ記憶が戻るのかわからないとなれば、状況は変わってくる。

まず、ヴァンドレン様の状況を義父に伝えた。



状況を伝え、今後どうするか話し合った結果、ひとまず、前公爵様を私がサポートし、公爵領の運営を行うこととなった。




忙しい日々が続き、私は不安な気持ちを紛らわしていたが、夜になると彼がいない不安が全身にのしかかる。

彼のいないベッドは広く、寂しい。

思わず彼のぬくもりを探してしまう。

彼の愛情のこもった優しい眼差しを思い浮かべては涙を流す夜を過ごしていた…。





そして、私は週に一度、ヴァンドレン様のいる町へ医師とともに訪問するようになった。

本当は毎日でも会いに行きたいが、公爵領の仕事もあり、下流の町は遠いため、週に一度が限界だった。


「こんにちは、ヴァンドレン様。」


「やあ、エレイン。今週も来てくれたんだね。」



何度か彼のところへ訪れてくうち、最初はぎこちなかった会話がスムーズにできるようになり、彼の敬語もなくなった。

彼の優しい眼差しを、また見ることができて嬉しいと思う反面、愛情がこもってないことに少し悲しく感じてしまう。


傷は完治し、体力も回復していると医師の診察は終わった。

そして、記憶の方は焦らずに様子をみることになった。


すると、サラが紅茶とお菓子を持って来てくれた。


「こんにちは、エレイン様。また来ていたのですね。」


「こんにちは、サラさん。いつもありがとうございます。」


「庶民の紅茶と菓子なので、お口に合うかはわかりませんがよかったらどうぞ。」


「サラが作ったお菓子はいつも美味しいよ。」


「ヴァン様!ありがとうございます。」


彼の言葉にサラは頬を赤らめる。

何度か訪れて感じたことだが、おそらくサラはヴァンドレン様に恋情を抱いていると思った。

さらに、私が訪れる度にサラの態度が悪くなっていた。ふとしたサラの言動や表情から、それが感じ取れるようになった。


私は複雑な気持ちを抱えながら、公爵夫人として平然と振る舞うようにしていた。


本当は妻の前にもかかわらず、「ヴァン様」と彼の愛称を呼ぶサラに嫉妬心があったが冷静になろうと我慢した。







ーーしかし、ある日

私は衝撃的な光景を目撃してしまった…



いつものように週に一度、彼のもとへ向かった。

今回は医師は同行せず私一人で護衛の騎士とともに向かった。

サラの家へ訪れたが、誰もいなかったので

少し町を散策して時間をつぶそうと思った。


下流の町をきちんと散策したことはなかったので、

歩いてみると、美しい街並みに感動した。


街並みの景色を楽しみながら散策しているとき、

近くから聞き慣れた声がしたのでそちらを見てみた。


すると、そこには

ヴァンドレン様とサラが2人仲睦まじく腕を組んで歩いている姿が目に入った。


その光景は側から見たら、まるで恋人同士のようだった。

見つからないようすぐにその場から離れたが、先ほど見た光景が頭から離れず、全身の血の気が引くような感覚だった。

頭がクラッとし、気持ち悪くなり、身体がフラフラとしたので近くの壁にもたれかかりつつ、なんとか呼吸を整えようとした。


少し離れたところにいた護衛の騎士が駆けつけ、私を支えつつ馬車に戻った。


「奥様、大丈夫ですか?顔色が非常に悪く見えます。」


「ありがとう。心配をかけてごめんなさい。

ヴァンドレン様たちも不在ですし、今日は体調もよくないので帰ることにします。」



体調は回復せず、帰りは何回か休憩を挟んだので、公爵家へ戻るまで2日ほどかかってしまった。


騎士が早馬で知らせてくれたのか、公爵家へ着くと医師が待機していた。


ここのところ、身体が気怠い状態が続き、食べ物を戻してしまうことも何回かあった。

ただの疲れだろうと思っていた。



しかし、医師に診察してもらうと、こう告げられた。



「奥様、おめでとうございます。ご懐妊です。」





公爵家の現状を知っている医師は、おめでとうと言いつつも複雑そうな表情をしていた。





私は目から自然と涙が溢れた。

…うれしい。最愛の夫との子がここにいる。

彼との幸せだった結婚生活の証がここにいる。



だが、下流の町で見た光景が脳裏に蘇る。

愛してくれた最愛の夫は、もうここにはいない。

私はこの家を追い出されるかもしれない。

なぜなら、傷が完治した彼は私がいる公爵家ではなく、サラの家で過ごしている。

その理由は、考えたくなかったが、もうわかっている。


記憶喪失になった最愛の夫は、別の人を愛したのだ…。




私は覚悟を決め、医師へ告げた。


「どうか、このことは、誰にも言わないでください。お願いいたします。」



「奥様…。ですが…。」



「どうか、お願いいたします。」



「………承知いたしました。」



私の体調不良は疲労が原因ということになった。




その日の夜、私はヴァンドレン様との大切な思い出を思い出していた。





ー婚約者時代の出来事


「エレインが好きって言ってた、ピンクのマーガレットを庭園にいっぱいにしてもらったんだ。エレインを喜ばせたくて。」


公爵家に訪問したとき、サプライズがあると言って庭に連れて行かれた。

とてもうれしくて感動したことを覚えてる。






ー結婚式の日の事。


「こんな美しいお嫁さんをもらえるなんて、僕は幸せ者だな。」

キラキラと輝く金髪がビシッとセットされ、公爵家の正装を纏ったヴァンドレン様はいつもの数百倍素敵だった。そんな彼に慈愛の満ちた美しい碧眼で見つめられ、私の方が幸せ者だと思った。






ー王家主催の舞踏会での事


「エレインは美しすぎるから他の男性の人に声かけられても着いていっちゃだめだよ。他の男性と踊るのもだめ。ずっと僕の側にいて。踊るなら僕が喜んで相手するからね。」


嫉妬されてるのが嬉しくて、こういう面が年下らしいなと感じ、可愛くて愛おしいと思った。





ーヴァンドレン様が行方不明になる前日の夜の事



「エレインは何人子どもほしい?」


「え?急にどうしたんですか?」


「エレインの子は、とーっても可愛いだろうなあと思って」


「ヴァン様との子どもなら何人でもほしいです。ヴァン様の子は絶対可愛いですもの」


「……っ。急に煽らないでよ」


「煽ってなんかいませんよ。本心です!」


「……っあーもう、エレイン可愛すぎ。愛してる。」


「私も愛してます」



未来の幸せな家族を想像し、何度もキスをして愛し合った。

2人きりのとき、私は彼のことをヴァン様と呼んでいた。





彼との生活が、本当に幸せだった。

思い出すにつれ、涙が止まらなくなる。

この幸せな思い出たちは、もう、彼の中には存在していない。

それが、とてつもなく悲しかった。

政略結婚だったけど、私は本当に彼を心の底から愛していた。

だからこそ、彼との愛の結晶であるこの子は絶対に私が守ろうと心の中で誓った。




翌朝、

私は愛するこの子を守るための準備を取り掛かり始めた。


まず、義父母にヴァンドレン様のことを伝えた。

彼は今、助けてもらった女性、サラのことを愛していると。なので、もし彼が公爵家へ戻ってきてサラを妻として迎えたいと言った時、公爵夫人へサラを迎えてほしいと。そのために、彼がいつでもサラを妻にできるよう、離縁状の準備をし、後は彼のサインで解決できるようにした。

義父母は私を本当の娘のように可愛がってくれた。

はじめは離縁を反対していたが、彼の気持ちを優先してほしいと訴えると渋々了承してくれた。

本当なら喜んでくれるであろう、子どもの存在を伝えなかったことに罪悪感を感じた。



次に、私の実家イグフェノー家へ手紙を送る。

ヴァンドレン様の現状と、おそらく離縁されること。そして、体調が優れないので実家でしばらく療養させてほしいということを綴った。



最後に、ヴァンドレン様へ手紙を書き、彼の自室の机の上へ置いた。

今までのお礼と、これから幸せに新たな生活を過ごしてほしいと。そして、私のことは気にしないでほしいと綴った。

彼への手紙を書いている途中、涙が何度かこぼれてしまった。




準備万端に整えた私は、

荷物をまとめ、義父母に最後のお別れをし、公爵家を出た。

最後の最後に一目でもいいからヴァンドレン様に会いたくて三週間ぶりに下流の町へ向かった。

妊娠四ヶ月目と医師に言われたので、お腹はまだ目立っていないが、念のため大きめのストールを肩から掛け、お腹を隠している。

しかし、悪阻がひどく、道中何度か休憩を挟みながら向かった。



「こんにちは、サラさん。ご無沙汰しております。ヴァンドレン様はいらっしゃる?」


「…エレイン様、お久しぶりですね。もう来ないかと思ってました。ヴァン様は自室におります。」


…自室。

もうこの家は彼女とヴァンドレン様の家ということなのね。



「そうですか。入ってもよろしいですか?」


「エレイン様、こんなこと言うのも申し訳ありませんが、もうここへは来ないでほしいのです。あなたは彼の妻かもしれませんが、夫であるヴァン様は記憶をなくし、今は私と過ごしております。それに、あなたが来る度に彼は頭痛を起こしているのです。迷惑だと思いませんか?彼と私は愛し合っているのです。あなたと彼は愛のない政略結婚でしょう?私の方があなたよりも若いし、愛のある結婚の方が彼も幸せだと思うんです。」



サラの言葉が心に突き刺さった。

私は必死に涙を堪え、お腹に手を当てた。

大丈夫、大丈夫よ。



「わかりました。もうここへは二度と来ないようにします。ですが、最後に一目だけでもヴァンドレン様に会わせてほしいのです。お伝えしなければならないこともあるので。」


「…っもう!しつこいのよ!はやく出てってちょうだい!」


サラに追い出されそうになったとき、扉が開く音がした。


「…サラ?誰かきてるのかい?」



自室から出てきた彼と目があった。


「エレイン!久しぶりだね!顔色悪そうだけど、大丈夫?」


彼の久々の姿を目にし、声を聞いた途端、抱きしめてほしくて涙が出そうになったが、必死に堪えた。


「…ヴァンドレン様。お久しぶりです。ご無沙汰してしまい申し訳ありません。」


「三週間くらい来てなかったから心配したよ。久々だから、椅子に座ってゆっくり話でもしようよ。」


彼の言葉でサラは渋々だが私を家の中へ入れてくれた。

久々に見た彼はもう十分回復しているようだった。


「今日はどうしたの?医師は一緒じゃないんだね。」


「ええ、医師は今日一緒には来れなかったのです。

もう、体調も大丈夫そうですね、ヴァンドレン様。

元気そうでよかったです。」


私は必死に笑顔を取り繕って会話した。


「今日は、公爵家のことでお話に参りました。

もう、傷は完治し、体調も回復してそうなので、

公爵家にいつでも戻れる頃かと思いまして。」


その言葉を聞いたサラがものすごい形相で私を睨んできた。


「でも、僕はまだ記憶が戻ってないよ?」


私はサラの視線は無視し、話を進める。


「ええ。ですが、問題ございません。ヴァンドレン様のお父様、お母様は公爵家におりますのでサポートしてくださいますし、記憶も生まれ育った公爵家で過ごした方が徐々に思い出すのではないでしょうか。」


「確かに、そうだね。」


「ですので、戻る準備ができましたら、こちらへ手紙を出してください。そうしましたら公爵家の馬車が迎えに来ます。それに…」


「ちょっと待ってください!私はどうなるのですか!それに、彼を助けたお礼をまだいただいておりません!」


我慢できなくなったのか、サラが会話の途中で入ってきた。


「サラ、さっきからどうしたの?怒鳴ってばかりいて。」


さすがのヴァンドレン様も驚いていた。


「大丈夫ですよ、サラさん。お礼は毎月支援金として渡していたものでは足りなかったですかね…?

もし不足であれば、別のものもご用意いたします。

それに、サラさんも公爵家に来ていただいて問題ないですよ。」



「「え?」」


私の最後の言葉に2人とも驚いていた。


「ヴァンドレン様がサラさんを公爵家へお連れしたいのであれば、問題なく可能です。サラさんを公爵家で迎える準備はできております。

それでは、伝えることは以上ですので私はそろそろ失礼いたします。」


「え?エレイン、ちょっとまって。」


ヴァンドレン様は困惑しているままだった。


「サラさん、ヴァンドレン様をお助けいただきありがとうございました。これからもヴァンドレン様の側で支えてあげてくださいね。」


サラは突然のことすぎて、何も返す言葉がなかった。


「ヴァンドレン様。公爵家へ戻るときは忘れずに手紙を出してくださいね。それでは、失礼します。」


私はそう言い切ると、扉へ向かい、最後に振り返ってお腹に手を添えながらヴァンドレン様を見た。




「さようなら、愛してます」




誰にも聞こえないような声で呟いてから、外へ出て、待機していた馬車へ乗り込んだ。





馬車の扉が閉まると、一気に気が抜けたのか涙が溢れてきた。



ヴァン様、ずっと、愛してます。

ここにあなたの子がいるの。

何度も彼に伝えたいと思った。でも、言えなかった。

私は一人でこの子を育てると決めたから。



そして、馬車はイグフェノー侯爵家へと向かっていった。





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



彼女が家から出て行き、馬車の音が消えるまで

今何が起こったのか、困惑し、僕は固まっていた。



約四ヶ月前、僕は盗賊に襲われ、崖から落下し、

川に流されてこの町にたどり着いた。


今僕の隣にいる彼女は命の恩人である。


目が覚めて何も覚えていなかった僕は

自分がどこの誰かもわからなかった。


目が覚めて1週間ほど経ったとき、僕の妻と名乗る人が現れた。


僕のいた部屋に入ってきたかと思いきや、いきなり抱きしめられた。

ふわっと甘い良い香りがした。


顔を上げた彼女と目が合う。

亜麻色のサラサラの髪に、美しい翡翠色の瞳が涙でよりキラキラしていた。

数秒、僕は美しい彼女に見惚れていた。


しかし、僕は彼女のことがわからなかったので、思わず誰かと尋ねてしまった。

そして、彼女を傷つけてしまった。


彼女はエレインと名乗ってくれた。

そして、僕はグランフィード公爵家の当主、

ヴァンドレン・グランフィードであると教えてくれた。


それから、エレインは一週間に一度医師とともに会いにきてくれた。

僕たちは幼い頃に婚約し、政略結婚だと聞いた。

政略結婚だから愛情はないのかと最初は思ったが、彼女の瞳を見る限り、確かな愛情を感じて、愛のある結婚生活を送ってるんだと思い、嬉しかった。



最初はぎこちなかった会話がスムーズになり、彼女と過ごす時間が楽しかった。

これが夫婦の時間なんだと思った。


体調が回復し、記憶が戻ったらすぐに彼女のいる公爵家へ帰りたいと思った。


でも、なかなか記憶は戻らない。

焦る僕に、命の恩人であるサラは優しく励ましてくれた。



体調が回復してきた僕は、サラに支えられつつ町を散歩することが日課になった。

サラに支えるつもりがあるのか不明だが、よく腕を絡めて身体を寄せてくる。



しかし、ある日いつも週に一度は必ず来てくれた彼女が来なかった。

来る途中に何かあったんじゃないかと、とても心配になったが、今の僕に出来ることは何もなかった。


次の週も、そのまた次の週も来なかった。


サラは、もう愛想がつきたのよとか言ってたが

絶対そんなことはないという自信があった。

何故かはわからないけど。


エレインが来なくなって三週間が過ぎた頃、

僕はサラが用意してくれた部屋に籠るようになっていた。

記憶が戻らない自分に嫌気がさしていた。

傷つけてしまった彼女に謝りたい、抱きしめて愛を伝えたいと思っていた。


そんなとき、外でサラが誰かと口論しているような声が聞こえた。

扉を開けると、そこには会いたくてたまらなかったエレインがいた。

僕は嬉しくてエレインを家の中に招き入れたけど、顔色が悪く、少し痩せたように見える彼女が心配になった。


エレインの体調が心配で最初に聞いたけど、なんだかはぐらかされたような気がする。


しかし、久々に会ったエレインは難しい話を一気にした。

公爵家に記憶が戻ってなくても、戻っていいと言われた時は、エレインと過ごせることに嬉しく感じた。

だが、次第に話を聞いていくうちにエレインの言い回しに疑問符が浮かび上がってきた。

それに、エレインはときどき泣きそうになるのを堪えているように見えた。


サラを公爵家で迎える準備はできていると聞いて、どういう意味かわからなかった。

命の恩人として、屋敷を与えるのだろうか。

先ほどからのエレインに対するサラの言動を見て、命の恩人に対して申し訳ないが、とても公爵家へ一緒に行きたいとは思えなかった。


そんなことを考えていると、エレインはもう帰ると言い、扉へ向かってしまった。

そして、最後にチラッと僕の方を見て何かを呟いていた。

僕にはそれが、「さようなら、愛してます」と聞こえた。

まるで今生の別れのような顔をしていた彼女に何も言えなかった。

僕の頭の中では警戒音のようなものが鳴り響いていた。



しかし、記憶が戻ってない上に、彼女をまた傷つけたくはなかった僕は何もできなかった。



エレインが出ていったあと、

すぐに彼女のいる公爵家へ戻れるよう、準備を始めた。


荷物の準備をしつつ、エレインが言っていた公爵家へ馬車の手配の手紙を書いた。





翌日はひどい雨だった。

この雨だとすぐに馬車が迎えに来ることは難しいだろうな。

そう思い、部屋に篭っていると、外が何やら騒がしかった。


なんの騒ぎだろうと、外へ出てみると、

川で子供が溺れていた。

大人たちが必死に助けようとしているが、

なかなか子供のところへたどり着けない。


僕も急いで川に飛び込み、助けようと試みる。

なんとか、子供へ手が届き、近くにいた大人へ子供を引き渡した。


僕は川の勢いに呑み込まれ、川底へ吸い込まれた。

苦しくて、意識が薄れてきたとき、エレインの声が聞こえた気がした。


「ヴァン様、ずっと、愛しています」


そして、まるで走馬灯のようにエレインとの様々な思い出が蘇ってきた…。


婚約者時代にエレインに振り向いて欲しくて頑張ったこと、結婚式、新婚生活、舞踏会では嫉妬心から独占欲剥き出しだったこと、そして愛し合った日々…。

どれも幸せに満ちてた。


そして、僕の意識は暗闇に落ちていった…。













次に目が覚めたとき、僕はサラの家のベッドに寝ていた。

目が覚めた僕に驚き、サラが泣きながら抱きついてきた。正直、エレインに抱きしめてほしかった。



サラに聞くと、あの時川で溺れてた子供は助かったという。他に怪我人もなく、重傷者は僕だけだったようだ。



あの雨の日から僕はまた五日ほど眠っていたらしい。

公爵家の馬車の迎えは来たかサラに聞いたが、まだとのことだった。



僕は一刻も早くエレインに会いたくて、仕方なかった。

そう思っていると、家のベルが鳴った。

待ちに待った公爵家の馬車の迎えが来た。


「旦那様。ご無沙汰しております。お迎えに参りました。お待たせしてしまい申し訳ありません。」


「ああ、ギルか。ご苦労だった。」


「「?!」」


御者のギルとサラが僕の言葉に驚いていた。


「旦那様!記憶が戻られたのですか…!」


僕は笑顔で頷いた。


川に流され走馬灯のようなものを見たのがきっかけかどうかは不明だが、記憶は完全に戻っていた。



記憶が戻った僕の行動は素早かった。

もともと荷物はほぼない状態であったので、

すぐ公爵家へ戻れる準備ができた。


「ヴァン様!まだ目覚めたばかりなのに、無茶です!」


「一刻も早く公爵家に戻らないといけないんだ」


必死にサラは止めてきた。

溺れて死にかけた上に、目覚めたばかりで体力が戻ってないことは自覚している。

だが、早くエレインのところへ行きたかった。


「まだ、私の準備ができておりません!

私のこと、連れて行ってくれますよね?!」


一瞬、サラが何を言っているのか意味がわからなかったが、答えは決まっている。


「サラ、貴女には二度も助けてもらい、命の恩人として感謝している。

だが、申し訳ないが、貴女を公爵家へ迎え入れることはできない。」



サラの顔が絶望に染まる。



「…そんな。どうしてですか…?あの女のどこがいいんですか?愛のない政略結婚のくせに!」



サラの言葉に怒りを感じるが、命の恩人に対し、公爵家当主として恥じない行動を取ろうと律した。



「政略結婚であっても、僕はエレインを愛している。

彼女以外の女性は必要ない。僕が愛しているのはエレインだけだ。」



はっきりとサラの目を見て言った。




サラは諦めたようだった。



「そうですか。あなたは記憶がなくてもエレイン様のことを想ってましたもんね…。」



「ああ、そのようだな。サラ、貴女にはとても世話になった。ありがとう。」



僕はそう言い、命の恩人の家を去った。







そして、休むことなく馬車を走らせ、夜には公爵家へ戻った。

早馬で到着を知らせたのか、家の前には父と母がいた。しかし、エレインの姿はなかった。



「お父様、お母様!只今戻りました。

ご心配をおかけし、申し訳ありません!」



「ヴァン!お帰りなさい!記憶が戻ったのですね」


母は泣きながら抱きしめてくれた。


「ヴァンドレン。大変だったな。よく戻ってきてくれた。」


父からも温かい言葉をかけられ嬉しかった。

しかし、今最も会いたいエレインがいない。


「お父様、お母様、エレインはどこですか?

もしかして体調が優れないのですか?」


僕の言葉を聞いて、父と母は表情を曇らせた。




それから、エレインの行動を聞いて僕は驚愕だった。




なんてことだ。

僕を置いて出て行ってしまうなんて…。

しかも離縁状を記入して…。

僕がエレイン以外の女性を愛するはずなんてないのに…。




しばらく呆然とした僕は、エレインの居場所を聞いた。



「おそらく、イグフェノー侯爵家にいるだろう」



今日はもう夜遅いので明朝、イグフェノー侯爵家へ向かうことにした。


僕は明日の準備のため、自室へと向かった。


四ヶ月も使われていなかったはずの部屋は、毎日掃除してくれているのか、ホコリひとつなく清潔な状態だった。

ふと、机の上を見ると、手紙が置いてあった。

手紙を開いてみると、筆跡からエレインのものであるとわかった。




(―ヴァンドレン様


お帰りなさい。体調が回復し、嬉しく思います。

お話は聞いたかと思いますが、身勝手にもあなたの元を去ることをお許しください。


貴方と出会って十三年、結婚生活は短かったかもしれませんが、私はとても幸せでした。

大切にしていただき、ありがとうございました。


今のヴァンドレン様には、かけがえのない愛する人が見つかったと思います。サラさんは懸命に貴方を看病し、支えておりました。お二人なら、きっと、素敵な家庭が築けることと思います。


最後になりますが、私のことは気にしないでくださいね。

どうか、幸せな日々をお過ごし下さい。


―エレイン)




手紙はところどころ濡れた跡があった。

涙の跡だろうか。

胸が締め付けられるようだった。

僕は、これほどまでに彼女を傷つけてしまったんだ。



彼女と共に過ごした夫婦の寝室へ向かい、

ベッドへ横になった。

微かにまだエレインの香りがする。

いつも彼女がいた場所へ手を伸ばす。


エレインが、いない。

今すぐ彼女を抱きしめたい。

亜麻色の美しい髪の毛をこの手で梳きたい。

慈愛に満ちた翡翠の瞳に見つめられたい。

柔らかく甘い唇に触れたい。

魅惑溢れる彼女の柔らかい身体に触れたい。

可憐な声で僕の名前を呼んで欲しい。


五感の全てが彼女を求めていた。


エレインのことを考えながら、

僕はいつの間にか眠っていた…。







そして翌朝、

早馬で侯爵家へ訪問する旨を知らせた。



準備を進める中、公爵家に長年勤めている医師が部屋に入ってきた。どうしても聞いてほしいことがあると…。



「旦那様、失礼いたします。記憶も戻ったとのこと、大変嬉しく思います。」



「ああ、色々と迷惑をかけたな。ありがとう。

それで、話ってなんだ?」



「奥様のことです………。」



「エレインがどうしたのだ?

……まさか、重い病気なのか?!

この前、僕に会いに来た時も顔色が非常に悪かったが……」




「いえ、病気ではないのです!」



「では、どうしたというのだ!」


「お子を身籠っておられるのです」



手に持っていた資料が床に散らばった。


「………なんだって?」




「奥様は旦那様のお子を身籠っておられるのです。

今は妊娠四ヶ月を迎えております。ただ悪阻がひどい状態で大変お辛そうでした。」



「………なんてことだ!なおさら早く会いに行かねば!」



心の底から嬉しい気持ちが溢れてくる。

僕と愛しいエレインの子。

今すぐエレインの元へ駆けつけてこの腕の中へ抱きしめたい。



僕は足早に公爵家を出て侯爵家へ向かった。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



その頃、イグフェノー侯爵家では…




最後にヴァンドレン様とお別れをし、

私はイグフェノー侯爵家へ向かった。


侯爵家は川の下流の町からそんなに遠くなく、

休憩を挟みつつも、半日ほどで着いた。





久々の我が家は温かかった。


「お父様!お母様!」


「エレイン!ああ、つらかったわね。

よくがんばったわ…!」


母は泣きながら抱きしめてくれた。


「エレイン、お帰りなさい。しばらくゆっくりと休むといい」


父は優しく、母と重ねて私を抱きしめてくれた。


「エレイン、あなた、痩せたわね…。顔色も悪いし……。って、あら?!あなた、妊娠してるの?!」



早速、母にバレました。






侯爵家へ帰ってきて、私はベッドへ横になり

医師に診てもらった。


馬車の長旅をしたが、お腹の子は順調に育っており

問題ないとのことだ。

しかし、私の悪阻がひどいため、栄養をきちんと摂取するよう言われた。




それから一週間ほど経ったが、悪阻がひどい私は日に日にやつれていき、ほぼベッドで寝たきりの生活を送っていた。



私の体調が心配な母は、時間があるときは私の側にいてくれた。


「お母様、母になるのってこんなに大変なのね……。」


「そうよ。お腹の赤ちゃんもがんばっているのだから、エレインもがんばらなきゃね。」


「ええ、ありがとうございます。お母様。」



母はいつも私を励ましてくれた。


だけど、夜になると、どうしても寂しくなってしまう。

お別れをしたのに、ヴァンドレン様の温もりが恋しくて仕方ない。

彼との赤ちゃんのために頑張りたいのに、食べ物が喉を通らないの。

抱きしめて欲しい。キスをしてほしい。

声が聞きたい。ただ、側にいてほしい。

身勝手な願いを考えては涙が溢れる。


彼が行方不明になってから四ヶ月近く、

私は毎夜泣いている気がする。涙が枯れることはない。


侯爵家へ帰ってきても、毎夜、涙を流しながら眠りについていた。






私が公爵家を出てから2週間近く経った頃…。



早朝に早馬が来て、ヴァンドレン様が訪問したいとのことだった。


ヴァンドレン様がここへ来るということは、公爵家へ戻ったんだとわかった。

そして、同時に離縁されたのだろうと悟った。


今日はサラさんといらっしゃるのかしら…。

でも私はこんな状態だし、お腹も目立ってきているから会うことはできない。


お父様とお母様にお願いして、私は体調が優れないため会えないと伝えてもらうことにした。





朝食は喉を通りやすい栄養たっぷりの野菜スープを出してもらったが、やはり戻してしまった。



寝てばかりで何もやることがないので、背もたれ用にベッドにクッションを用意してもらい、読書をすることにした。


しかし、眠気に負けていつの間にかウトウトしてしまっていたらしく、部屋に誰かが入って来たことに気づかなかった。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


時は少し遡り……。

イグフェノー侯爵家へ向かうヴァンドレンは馬車の中で動揺していた。


エレインが僕の子を身籠っている…。

四ヶ月ということは僕が記憶喪失になる前だ。

彼女の手紙にはそんなことは書かれていなかった。

彼女は一人で育てようとしているのか…。


しかし、彼女は今悪阻でとても苦しんでいる。

彼女がつらいときに僕は一体なにをしてるんだ。

どうして側で支えていないんだ。

彼女へ対する申し訳なさと自分への怒りが込み上げてくる。


義父母に対しても、どう謝ればいいんだ。

エレインを傷つけ、お腹に子がいるのも気づけない駄目な夫だというのに……。


ふと、隣に置いてあるピンクのマーガレットの大きな花束を見つめた。


――昔、エレインが言っていたことを思い出す。


「エレインはどうして、ピンクのマーガレットが好きなの?確かに、エレインに似合う可愛らしい花だけどさ。」


「私には似合わないと思いますが…。ヴァン様はピンクのマーガレットの花言葉をご存知ですか?」


「うーん、知らないな。」


「ピンクのマーガレットの花言葉は『真実の愛』なんです。素敵な言葉ですよね。もちろん可愛らしい見た目も好きです。」



ーー



『真実の愛』か……。


素敵な言葉だ。

僕には、エレイン以外に愛する人なんていない。

幼い頃から僕の心は彼女でいっぱいだった。


義父母にも彼女に対する『真実の愛』の気持ちを伝えればいいんだ。


エレインの言葉のおかげで少し元気が出た。



そうこう考えているうちに、侯爵家へ到着した。



馬車を降りると、エレインの父母が迎えてくれた。

もちろん、その場にエレインはいなかった。


「ヴァンドレン公爵様、ようこそおいでくださいました。」



「お義父様、お義母様、来るのが遅くなり申し訳ございません。どうか、エレインに会わせていただけますでしょうか。」


「申し訳ございません、公爵様。エレインは体調を崩しておりまして、人に会えるような状態ではないのです……」



「…そうですか。

では、こちらの花束をお届けいただけますか?

僕の愛する人はエレインです。どうか、この気持ちだけでも彼女へ届けてほしいのです。」


ピンクのマーガレットでできた大きな花束を義父母へ渡す。


僕の持ってきた花束を見て、義父母は驚いていた。


「―っヴァンドレン様!まさか記憶が…?!」



「はい、やっと思い出しました。回復するまで時間がかかってしまい、大変申し訳ございません。」



それを聞いて義父母の表情は明るくなり、顔を見合わせていた。


「ヴァンドレン様、先程は大変失礼致しました。エレインは二階の寝室へおります。執事に案内させますので、どうか、お入りください。」


「お義父様、ありがとうございます。」



屋敷の中へ入り、二階のエレインの寝室へ向かう。



「公爵様、こちらがお嬢様の寝室でございます。

どうぞお入りください。」



執事が扉を開け、僕は中へ入った…。



「……エレイン?」



ベッドの方へ向かうと、恋焦がれた愛しいエレインがいた。

読書の途中だったのだろうか、ウトウトと眠っている可愛らしい姿が目に入った。



すぐに駆け寄って抱きしめたい気持ちに駆られたが、彼女の眠りを妨げないよう、そっと側へ近づく。

最後に会ったときよりも痩せているように見えた。

顔色も良くなさそうだ。

ふと、彼女が手を当てている腹部に視線がいった。

医師の話では四ヶ月は経っていると聞いていたが、少し腹部が膨らんでいた。


ここに、エレインと僕の子がいる。

嬉しい気持ちと、愛しい気持ち、辛い時期に彼女を独りにしてしまっていた申し訳なさが募り、感情がごちゃ混ぜになった。


思わず、僕はエレインを抱きしめていた…。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



…懐かしい、恋焦がれた温もりを感じる。


ヴァンドレン様の匂い………。

抱きしめられている感覚がした。


ふと、ウトウトと浅い眠りついていた私の意識が覚醒した。




会いたくて恋焦がれた愛しい彼に抱きしめられている。



「………ヴァンドレンさま、、?」



彼の体がビクッと揺れた。

顔を上げると、彼の優しい愛情のこもった碧眼と目が合った。



「君に、会いに来たんだ」



彼はそう言うと、側に置いていたピンクのマーガレットの大きな花束を私へ渡してくれた。



「……っヴァンドレン様!このお花は…」



「エレインが好きな花だよ。それと、二人きりのときはヴァンと呼んでほしいな。」



彼の言葉を聞いて、自然と涙が溢れてきた。



「…っヴァンさま。…記憶が……戻られたのですか…?」



「ああ…。愛しいエレイン。君をたくさん悲しませて、本当にごめん。」


ヴァン様はそう言うと私の頭を撫でながら、涙が溢れて止まらない目元へキスをした。



「…っ。サラさんはどうされたのですか…?」


私は真実を知るのが怖かったが、サラのことを尋ねた。


「彼女は命の恩人。それだけだ。あの下流の町にいるよ。離縁状を用意してたみたいだけど、僕から離れるなんて許さないよ、エレイン。

……僕は、エレイン、君だけをずっと愛してるんだ。君以外の女性なんて考えられない…。今も、昔もずっと、僕の心はエレインでいっぱいなんだ。」



嬉しすぎて涙が余計に止まらなくなった。

ヴァン様は慌てて私の涙を拭う。


「……あんまり泣きすぎると身体によくないよ?」



「……ヴァンさま。まさか、知っておられるのですか……?」



「ああ、医師に聞いたよ。エレインと僕の子がここにいるって。」


そう言うと、彼はお腹に手を当てていた私の手の上に自分の手を重ねた。


「ヴァン様っ…。黙っていなくなってごめんなさい…。」


ヴァン様は優しい瞳で私を見つめたまま、私の額に額をくっつけた。

美しい顔が目の前にあり、ドキドキする。


「僕は記憶喪失になり、大切な君のことを忘れ、君をたくさん悲しませてしまった。さらに、君が辛い時に側にいて支えてやれなかった、ひどい夫だ。でも、僕には君たちが必要なんだ。ずっと側にいて欲しい。エレイン、さっきは離れるなんて許さないって言ったけど、また僕の元へ戻ってきてくれるかい?君とこの子と、幸せな家族になりたいんだ。」



離れていた約四ヶ月、とても辛かった…。

でも、心にぽっかり空いた隙間を埋めてくれる彼の言葉が嬉しい。幸せに包まれた感覚だった。


「もちろんです。私はヴァン様の側でないと生きていけません。私も、ヴァン様とこの子と、幸せな家族になりたいです……っ」



そう言うと私はヴァン様に唇を塞がれた。


「…んっ…ふっ……はぁっ」


私たちは四ヶ月離れていた時間を埋めるかのようにしばらく熱い口付けを交わした。







「…エレイン。ありがとう。ずっと、愛し続けることを誓うよ。記憶喪失なんてもうごめんだけど、絶対君を思い出す。記憶がなかったときも、身体が、心が君を求めていたんだ。」




「ヴァン様。嬉しいです。わたしもずっと、ヴァン様を愛し続けます。」






しばらく甘い雰囲気であったが、

ふと、ヴァン様が心配そうに表情を曇らせた。


「エレイン、悪阻がひどいと聞いたよ。だいぶ痩せてしまったね……。」


「ええ、そうなんです。赤ちゃんのためにも栄養をとらなきゃいけないのですが、どうしても喉を通らなくて、食べても戻してしまうのです…。」



「エレイン、つらいときに側にいてやれなくてごめんね…。」



「気にしないでください。ヴァン様のせいではないのですから。」



「本当は、すぐに公爵家へ連れ帰りたかったけど、君の状態を考えて、しばらく僕も侯爵家で滞在させてもらえないか、お義父さまに相談してみるよ。エレインが元気になるまで、側で支えたいんだ。」



「ヴァン様。ありがとうございます。ですが、公爵家の仕事はどうされるのですか?」



「書類系は全てこちらに持ってきたからここでも仕事ができるよう、準備万端にしてきたんだ。何かあればお父様に早馬で連絡をすれば問題ないよ。」



そうと決まれば行動が素早いヴァン様は、早速私のお父様へ相談した。


お父様は快く承諾してくれ、ヴァン様は私の側で業務を行いながらも、常に私を気遣い、支えてくれた。






「ふふっ。公爵様はエレインを溺愛しているわね。」


お母様も相変わらず時間があるときは私の部屋へ様子を見にきてくれる。


「はい、私、とっても幸せです。お母様。」


私は満面の笑みでお母様に返事をした。



あれから、ヴァンドレン様が懸命に支えてくれたおかげもあり、以前より食事を取れるようになった。



「愛の力ってすごいわ。」


お母様も感心するほどに私は回復できた。








それから、回復できた私は安定期に入り、悪阻も落ち着いてきたので、公爵家へ戻ることになった。




「お父様、お母様、ありがとうございました。この子が生まれたら遊びにいらしてくださいね。」


「ええ、必ず行くわ。エレインもいつでも侯爵家へ息抜きに来てね。」


「はい、お母様。また会いに来ます。」


「ヴァンドレン様、娘のこと、よろしく頼みます。」



「ええ、もちろんです。もう二度と彼女を悲しませないようにします。」





そうして、ヴァンドレン様と私は公爵家へ戻った。




公爵家へ戻ると、温かく歓迎してくれた。

義父母と公爵家の使用人たちも、私が懐妊していたことをとても喜んでくれた。



ヴァンドレン様は相変わらず心配性で私が何かするときは必ず側に飛んでくる。

そんなヴァンドレン様の影響か、義父母や使用人たちもなるべく私が一人にならないようにしてくれる。


そんな過保護な公爵家で大切に見守られながら、私は問題なく穏やかな日々を過ごし、出産を迎えた。




ーー



その日の公爵家は、皆ソワソワとしていた。

中でも、一番落ち着きがなかったのは、ヴァンドレンだった。




エレインが産気づき、出産のために準備した部屋へ、

医師や使用人たちが入っていき、数時間が経った。


部屋の前で僕は落ち着きなくウロウロとしていた。



「ヴァン、落ち着きなさい。」



母が呆れたように言ってきた。



「エレインと生まれてくる子供が必死に頑張っているのに、僕だけなにもできないのがもどかしくて、、。

すぐにでも部屋に入りたいのですが、入れてもらえないですし……」



「当たり前です。医師たち以外は入れないですよ。

貴方は、ドンと構えて待つことを頑張りなさい。」


「私は、ヴァンの気持ちすごくわかるぞ。」


母は冷静だが、父も僕と同じく落ち着きがない。


「全く、似たもの親子なんだから……」




結局落ち着きなく待っていると、

部屋の中から、医師が出てきた。


「旦那様。おめでとうございます。元気な男児でございます。奥様の容体も安定しておりますよ。」



「ヴァン、おめでとう。貴方もついに、父親ね。」


「ヴァン、おめでとう。早くエレインと息子のところへ行きなさい。私たちは落ち着いたら会いに行くことにするよ。」


父母に背を押され、私はエレインと生まれたばかりの我が子がいる部屋に入った。


エレインの元へ向かうと、彼女の側に真綿に包まれた可愛らしい天使のような子が眠っていた。



生まれた子は僕と同じ金髪だった。眠っているので瞳の色はまだわからない。



自然と涙が溢れてきた。


「エレイン、ありがとう。よく頑張ったね。」


エレインの頬を撫で、キスをする。


「……ヴァン様、ありがとうございます。ぜひ、抱っこしてあげてください。」


僕はそっと、すやすやと眠っている生まれたばかりの息子を抱き上げた。

ふわっと赤子特有の香りが広がる。

腕の中にいる小さい命がとてつもなく愛おしい。


「どうしよう。僕の腕の中に天使がいる。」


クスクスとエレインが笑った。


「たしかに天使のように可愛らしいですが、ヴァン様と私の赤ちゃんですよ。」



「そうだね。天使のような息子だ。

僕はこの子とエレイン、家族を絶対守るからね。」


僕はこの日、愛する家族を守ることを誓った。




ーー



天使のように可愛らしい息子は、

ウィルキンスと名付けられた。


ヴァンドレン様が考えてくれた名前だ。

息子の瞳の色は私と同じ翡翠色であった。


「ほーら、ウィルキンス。父様だよ。」


ウィルキンスは翡翠色の瞳をキラキラと輝かせてヴァンドレン様を見つめて、にっこりと微笑んだ。


「わ!エレイン、今の笑顔見た?!最高にかわいい!ウィルキンスは僕の天使だよ。」


ヴァンドレン様はウィルキンスが生まれてから、時間があるときは毎日私たちの部屋へ訪れ、子煩悩となっていた。



「こんなにも可愛くて愛おしい息子に出会えて、僕は幸せだよ、エレイン。」


そう言うと、ヴァンドレン様はウィルキンスを抱きながら私のいるベッドに腰掛け、優しく口付けをしてきた。


「ふふっ。私も、幸せです。」







こうして、私は幸せな結婚生活を過ごしていった…。






記憶喪失になった最愛の夫は、別の女性を愛したのではなく、妻である私を愛し続けてくれた。
















――そして数年後、グランフィード公爵家は

子供たちの声で賑やかになっていた。





ある日の昼下がり、ピンクのマーガレットが広がる公爵家の庭園で、公爵夫妻と子供たちはピクニックをして過ごしていた。




「ウィルお兄様!お花の冠を作って!」


「いいよ。でもあんまり走るとあぶないよ、リリー。」


亜麻色のサラサラの髪をなびかせ、美しい碧眼をキラキラと輝かせた幼い少女リリアンナは、兄であるウィルキンスの手を引いて、庭園の方へ駆けて行った。



そんな二人を穏やかな笑みで見つめる公爵夫妻。


「おとうさま、エリーも、おはな、みにいきたい。」


「わかったよ、エリー。お兄様たちのところへ行こうか。」



キラキラと輝く金髪と碧眼を持つエリアーナは父であるヴァンドレンに抱きかかえられながら、庭園の方へ向かった。



「かあさま、だいじょうぶ?げんき?」


サラサラの亜麻色の髪、翡翠色の瞳をした幼い少年、アルドレンは母であるエレインの膝の上で心配そうに見上げていた。


「ええ、もう大丈夫よ。ありがとう。アルはとっても優しい子ね。」


エレインは優しい息子の頭を撫でた。


「もうすぐ、おにいさまになるから、ぼく、かあさまとあかちゃんをまもるよ!」


「まあ!頼もしいわ、アル。赤ちゃんのことよろしくね。」


「うん!もちろんだよ!」


そう言うと、エレインのお腹に耳を寄せながらアルドレンはお腹の中にいる赤ちゃんに話しかけたり撫でたりしていた。すると、眠くなったのかエレインのお腹に抱きついたまま眠ってしまった。


そんな様子が愛おしく、エレインは自然と笑みが溢れる。


「アルも立派なお兄様になりそうだね。」


ウィルキンスとリリアンナが向かった庭園へエリアーナを連れて行ったヴァンドレン様が戻り、エレインの隣へ腰掛けた。


「あら、ヴァン様。先ほどの話聞いていたのですか?」


「うん。エレインと子供たちを守るのは僕の役目なんだけどなあ。ウィルも面倒見がいい立派なお兄様になっているし。」


「ふふっ。そうですね。」


「エレイン、もう体調は大丈夫かい?」


先ほどのアルフォンスとそっくりの表情で心配そうに尋ねてきたヴァンドレン。


「ええ、もうだいぶ悪阻もおさまってきましたし、大丈夫ですよ。アルにも心配をかけてしまいました。」


「アルは本当に優しい子だね。エレイン、辛いときは必ず言うんだよ。」


そう言うと、ヴァンドレンはエレインの頬へキスをした。


「はい、ありがとうございます。」


二人は微笑み合い、キスを交わした。







こうして、グランフィード公爵夫妻はたくさんの子宝に恵まれ、愛情溢れる幸せな生活を過ごしていきました。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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