前編
桜の息吹が咲く四月。定型文的な人生で三回目の入学式が終わって、教室で僕の自己紹介を代わりに先生がしてくれた。
「湖泉綴は皆と同じこのクラスの新しい友達だ。だがみんなと少しだけ話すことが難しいハンデを背負っている。だから、そこだけ配慮をしてほしい」
僕の障害を説明してから仲良くしてくれよと言ってくれた。
それからクラスのみんなは各々自己紹介をした。平然と喋れる、ただそれだけの違いなのにどこか区別をされているようで新学期早々胸が痛くなった。
隣の席の人と初めましてを言いあったり、中学校でも仲良かった人が自分がワクワクしているのを隠しているような素振りを隠しつつどんな部活に入ろうかと話し合っていた。
僕はその行き交う会話を耳にするだけでただ、俯くことしかできないでいた。
そんな時僕の隣から
「ねえ、湖泉君だっけ?もう何部に入ろうか決めてるの?」
女の子が僕に話しかけてきた。僕は僕を中心に話題を振ってくれたことにびっくりしたのと異性からの質問で思考が停まった。
それでも元気そうな彼女の目が、僕の双眸とはっきりと重なり合った。
確か彼女の名前は、泉李衣菜。自己紹介の時には男子の元気さにも劣らないはきはきとし自分の名前を言っていたのが記憶に新しいショートカットが特徴な同じクラスの少女。
「あー、突然ごめんね。私もさ苗字に泉が付いていてさなんか偶然でもこんな場所で会うなんて奇跡だなと思ってさ、話しかけちゃった」
泉李衣菜さんは純粋な笑みを僕に向け来てとても眩しかった。
「・・・・・・・・」
僕はなにか喋らないとな、と思っても何も喉に石が詰まったように喋れなかった。それが悔しかった。また、俯くことしかできなかった。
「あーごめんね、たしか話すのが難しいんだもんね。あのさ、私ね、天文部に入ろうかなとおもっててさ、良かったら一緒に入らない?」
いつの頃からか、僕は、喋れないでいた。最初のお父さんが家を出て行った時の僕が何歳だったのかはっきりと覚えていなかった。
入学式でも僕の名前を呼んで、声を出さないようにしてくれる配慮も皆の目線も全てが僕の心を苦しめるんだ。
僕は彼女に手を引かれ、入学初日で天文部に入部をすることになった。
天文部には三人しか在籍をしておらず、僕ら?の入部を喜んでくれた。
あとはホームルーム、学校の説明や部活紹介、沢山の日々を過ごすことになって本当に慌ただしくて星が落ちるような勢いだった。そしていつの間にか李衣菜は僕の事を湖泉から綴と呼び捨てで呼ぶようになった。
でもやっぱり僕は喋れなかった。周りは無理に喋らなくてもいいよという雰囲気で、ありがたかったけれど、どうしても皆の会話の輪に入れないのは辛い。
クラスの人たちが知らない顔ぶれから慣れてきた頃。僕だけがなんか浮いた存在のような感じで一人だけ意識的に会話の声量や目線的な非言語の部分で阻害されているようだった。
李衣菜は僕のそんな気持ちを考えないで僕の心に土足で入って来ては嵐のように喋り倒していた。きっとそれが彼女の、李衣菜なりの気遣いだったのだろう。
李衣菜は体育の授業が好きだと以前僕に話してくれた。本当に体を動かすのが好きらしく、体育の授業で徒競走があった。
クラスのほとんどの人が李衣菜を応援していたくらいだ。李衣菜はいつも静かにしているのが苦手で口が良く動いていた。どうやらそれが体にも反映されていたようだ。
「泉~頑張れ~」
一同が李衣菜の奇麗な走るフォームを見て感動していた。でも僕は李衣菜のように体をしなやかに動かすことも出来ず、皆の視線が痛かった。僕と泉李衣菜は本当に真逆の人間だと照り付ける太陽に諭されたような気がした。
場面緘黙症。それがぼくが抱える心の病気だった。どうしても喋りたいときだけ口に糸を縫われたように、当たり前に喋れなくなる病気だ。
幼少期に僕の両親は離婚した。それが引き金になって話すことが出来なくなってしまった。何とか頷くことは出来るけれどもゆっくりと間を産んでは相手を焦らしてイラつかせてしまう。そういう些細な人の感情の揺れを判別できるくらいに僕は人を見ていた。でも僕だって普通に話したいんだ。こんなことで悩みたくないし、話しかけてくる人に対して失望させたくない。そんな思いも重なって人と話すことに苦手意識が芽生えた。
そんな僕でも唯一の癒しの時間が読書だった。活字の世界は誰も拒まず、本という単体の世界を映画館で上映された物語を眺めているようで気が許せた。
学校での授業が終わると僕は家に帰る。家ではまだ反抗期に突入していない弟が僕にどんな一日だのかと聞いてくる。
「・・・あーーまぁ普通だったよ」
「そっか!兄さんが嫌な事に巻き込まれていないなら僕は嬉しいや」
弟は僕と違って明るく優しい性格の持ち主だった。李衣菜程元気すぎる訳ではないけれど、無邪気で誰にでも平等に接することができる。兄としてはそういう人格に育ってくれた方が万倍も嬉しい。
「ねぇ兄さん、母さんが帰ってくるまでいいから俺に勉強を教えてくれないか?」
「うん、いいよ」
僕は家の中では普通に喋れるし、家族の前では笑えた。でも家の外に出ると途端に思考が停まってしまう。人と話すのが恐くなる。
弟が生まれてくる前に父さんは家から出て行った。そのあとで弟が生まれてきて、僕が守らないとななんて人並みの事をいつも思っている。
たまに夕方、肌寒く感じる春からいつのまにか暑くて寝苦しさを感じる夏が到来してきた。
放課後の天文部の部室(図書室の備品庫)で三年の部長と同じ学年の部員二人が侵入部員の僕と李衣菜を机に座らせた。物が散らかり放題の室内。埃まみれの空気で鼻がかゆい。
「え~、長い冬と春が終わり、そろそろ夏が待ち構えている。我が天文部は夏になると本格的に活動が許される。具体的に言うと土曜の夜に本校の屋上で星を観察するがもちろん二人は参加をするよな?」
そんな説明をホワイトボードの前に立って部長が言った。部長の後ろでうんうんと二人が頷いていた。
李衣菜ははい!と返事をした。
「湖泉くんはどうする?」
「・・・・・・」
星に興味は無い。がそれでも特に予定の無い僕は行ってみたいなとは思うからゆっくりと頷くようにした。
「良し、決まりだね。じゃあ来週の土曜日の夜から早速活動開始だ。たしかその日は絶好の天文観察日和だから楽しみだね」
今日の部活動がこれで終わり、皆解散した。
部活をするときは教室に荷物を置いていくのがこの高校のルールで、僕と李衣菜は教室に鞄を取りに行った。
長い廊下、冷たいコンクリの床。野球部、サッカー部の咆哮。こういうのが絵にかいた青春で、学校が物理的にいまだけ狭く感じた。
最近は教室の窓ガラスから真っ赤な夕日が長く見えるようになった。美しい赤色が眩しくて、教室の木の床に反射して茜色が室内全体に彩られていった。
「ねえ、奇麗だね」
僕が自分の机に引っ掛けてあるカバンを手に取ったときだった。李衣菜が窓の方を向いてそう言った。僕を見ていないけれど、本当に純粋にそう思って言っているんだろう。
—————李衣菜は振り向いて、笑った。西日を背に、彼女の笑顔はどんな光よりも輝いていた。彼女の少しだけ日焼けした首元、手入れの行き届いた肩まで伸びた髪の毛。幼さが残る目つき、でもその瞳には底知れない光が宿っていた。同い年のはずなのに彼女の方が遥かに大人に見えた。いつもは落ち着きがなくて竜巻のようにクラスや僕をかき乱しているのに僕をジッ見つめる時だけはほんのりと色っぽいのに胆が据わっている瞳だった。美しい人間が眩しくて僕は目のやり場に困った。なにか喋れればいいのに健常者でもない僕はまた悔しかった。
「帰ろ」
李衣菜の一言で僕らは廊下を歩いた。僕はうんとかでもいいから言えればいいのにゆっくりと頷くことしかできなかった。
「来週の土曜日、楽しみだね。綴も楽しみ?」
僕の方を見てそう質問を投げてきた。
僕は頷くことしかできないでいた。
彼女は本当にやさしい娘だった。僕が喋れないのを気遣ってくれて李衣菜はずっと喋ってくれて、僕が楽しんでいるのか顔色を窺って、話のストーリーを書き換えてくれる。そして人は他人の自分語りだけを聞き続けるとつまらない時間になるのを知って、簡単な質問を僕にして場を繋いでくれる。そのコミュニケーション能力の高さに、人としての温情に好意を抱いていた。別に恋愛をしたいなんてありきたりな意味は無くて、ただ、人として好きだという事だ。頭の弱い糞JKには僕の密かな心情は分からないだろう。
ここで天文部は何をしているのか説明をしようと思う。天文部は星の観察を通して自分の学校生活を豊かにするというお題目で設立された部だ。
夏、秋の温かい時期は高校の屋上を我が部の為だけ解放をしてくれる。そこで望遠鏡を使って、星座や月と太陽の動きの観察や野営のスキルを実践的に学ばしてもらえるらしい。
夜の活動は比較的動きがあるけれども昼の活動は特にそんなに動きは無い。むしろ部室をたまり場になっている節もある。
部長と李衣菜だけは天文部への熱意が凄かった。だから僕と三年生の部員との差が凄かった。なんとなく入った部活だからと僕も先輩部員同様、適当にあしらおうと思いたいなと思う事は何度かある。でも、純粋に道楽を好きでいられる李衣菜を裏切りたくなくて日中の天文部の活動を見てくれは意識的に見えるような行動をしようと思った。
ちなみに大学の天文部は一部を除くがだいたいやってることは部室で僕たちと同様暇になるらしいが大人の嗜みとして別の娯楽を男女部員がヤっているらしい。
日中の活動と言えばなのだが、文化祭のプラネタリウム作成と星座の生い立ちを覚えたり勉強をしたりする。あとは望遠鏡の整備だったりする。
「ねぇ、綴はさーテスト勉強してるー?」
下駄箱入れの前でそんなありきたりな話を振りだしてきた。僕はまたウンと頷いた。
「・・・・・・そっか、綴は凄いね・・・」
どうしてか、李衣菜は悲しそうな仄暗い顔をしていた。僕にその表情の中に込められた意味を理解するように覗きたくなかった。
毎週必ずどこかの教科でテストがである。そして期末テストもあって、ずっと勉強の日々で気持ちは落ち着かない。
「綴、また明日ね」
僕らは真逆の帰路に着いた。彼女が自転車に跨って見えなくなるまで僕は見つめることしかできないでいた。
連絡先でも交換出来たら、ちょっとは病気改善されるのかな・・・?
翌日、僕が高校で昼休みの弁当を食べている時だ。机に弁当を置いて、ゆっくりと口にの中に物を入れた。僕は動きがのろくて食べるのも遅い。場面緘黙の特徴らしい。
李衣菜は女子の友達と机を並べてお昼を食べていた。李衣菜の友達の一人が
「ずっと疑問だったんだけどさ泉さんってどうしてあの喋れない生徒と仲良くしているの?」
質問をした。女の背中に僕がいて僕の存在なんて感知できないようだった。他の女子も僕がクラスにいるのを知らないようで李衣菜だけ僕の存在を理解しているからかこの話をされた時に僕の方をちらっと見ていた。女子は耳に不快感がある甲高い声で笑っていてその高い声がクラス中に響いていて、教室がどよめいた。そういう変化を察することができるようになってほしい。
李衣菜は「う~ん」
困った風を装った。女が追い打ちをかけるように
「だってそうでしょ、あいつ一言も話さないしさ暗いし、なんで学校に来ているのか分からないんだよね。泉もさあんなキノコ生えそうな陰キャと一緒にいるよりもさ相手選んで接した方が絶対いいよ」
そこに湖泉いるよと言えば僕を含めて彼女らも気づ付けてしまうだろう。自分自身と友達も傷つかない返答は何なのかと悩んでいるのだろう。いいよ、僕は何と言われたって君にとってそれが事実なのだから、どうにでも言ってくれ。
「そうだね、じゃあさ、どうして綴を皆、腫物扱いのように見るのかな?私はさ、綴をそんな風に見る気はないよ。まあ私だって私が関わりたい人と一緒にいたいと思うよ。でもね、だれかれはこうだからって言ってさ変なタぐ付けして最初から関わらないような人と友達になる人は嫌いかな。なら私は綴とつるむことを選ぶよ。彼はさ、まだ私に遠慮気味だけど少なくともどんな人でも平等に接することができる人だからね。無理に会話をさせたいとは思わないよ。できない事があるなら、私が底を補ってあげればいいんだし。あんたらは私がこんな説教垂れる前でも出来るの?無理でしょ。私は綴といて気持ちが落ち着くしもっと痛いなって思うんだよね。ねっ綴は私に対してどう思ってるの?」
淡々と二人にそう言っていた後に、李衣菜が僕の方に顔を向けた。満面の笑みというやつをしていたが僕は今はどういう感情なのか追い付けないでいた。ここで俺を公開処刑?と思ったけど彼女の意図は私はこう思ってるよきいてんのかコラってことなんだろう。本当に、行動が読めない。けど性根は腐っていない女の子だ。
「えっ!?」
三人が驚いた顔をして、僕の方を振り向いた。あたふたと滝のような汗を流していた。なんか・・・ごめん。
「じゃ、そういう事だから。私、トイレ行ってくるね。ばいばーい」
そう言って李衣菜は食べ終わった弁当を片付けて、教室を出て行った。
ありがとう李衣菜。なんとなく、僕の世界が広がった気がした。世界では僕の事を嫌がらないで見てくれる人がいたことが嬉しかった。