どこかで間違えちまったらしい。
「やーい、やーい。チビ助!!」
「くやしかったらここまでおいでー!!」
子供達の無邪気な声が響き渡る、放課後の初頭訓練校。
その一角で、どこまでも純粋で残酷なその行為は行われていた。
「か、返しておくれよぉ!!」
加害者にとってはただのじゃれ合い、しかし被害者の心には深い傷を残す行為。世に虐めと謳われるその行為が、今まさに行われていた。
話としてはありふれた物である。
ガキ大将格の大柄の少年と、その取り巻き達が身の丈の低い少年の宝物を奪い取ったのだ。
それは、一見すると何の変哲もない白い石…だが、彼にとってのソレは幼少期より大切にしてきた特別なものだった。
少年は天涯孤独である。
父は彼が生まれる前に戦死した…らしい。その言葉の真偽は分からなかったが、彼にとってこれまでで唯一の肉親は母親だけだった。
ところが、彼が8歳の頃に母親もまた、流行病で天へと旅立ってしまう。
その母が元気だった頃、最後に出かけたピクニック…そこで拾った1つの白い石。
その石を彼は肩身と思い、大切にしてきた。
石と共に思い出される温かな思い出が、学校、そして孤児院での彼の孤独を紛らわせてくれていたのだ。
そんな彼にとっての宝物が、今はあの汚い手の内にある。
(何としても取り返さなくては。)
その一心で、少年は体格で劣る相手へと立ち向かう。
「うっせえ!!近寄るんじゃねえ!!」
だが、現実は非情だった。一対多数、そして力でも劣っている彼に勝てる道理は無かったのだ。
袋叩きにされた彼は、四方八方から暴力の雨に晒される。
そして、終いとばかりに、ガキ大将は威勢良く小柄な少年に蹴りを浴びせた。
「…ぐはっ…。」
その一撃は、見事に腹部に命中。
少年は派手に吹き飛ばされ、小柄な体躯は地面を転がった。
苦しい。呼吸が出来ない。なぜ僕ばかりが。アイツを今すぐ殴り返してやりたい。でも、怖いからやっぱりそんなことは出来ない。いつまでもこのままなのだろうか…。
様々な思いが瞬時にその小さな胸の内に溢れる。
そして、遅れてやってくる鈍痛。
「…っつう…。」
悔しさ、悲しさ、そして怒り…。
様々な感情に起因し、その目から溢れ落ちた雫は地面を濡らした。
今すぐ立ち上がらなければ…そうは思うものの、体が動かない。
うつ伏せ状態の彼の腹部は、相も変わらず鈍痛を訴え続けた。
だが、無情にもいじめっ子達にその手を緩める気配はない。
「おい、この石どうするよ。」
「そうだなぁ。別にこんなものいらないんだよなー。」
(うるさい。)
その相談が耳につく。
「じゃあさ…。」
「お、それいいな。」
(黙れ。黙れ。黙れ。)
しかし、その思いに反して、声が止むことは無く…喜々としていじめっ子達ははしゃぎ続けている。
彼は祈った。
願わくば、彼等が一秒でも早くその場から去ってくれますように。
石が…返ってきますように…と。
だが、その願いは粉々に打ち砕かれる。
「おい、チビガリ野郎。飽きたから返してやるよ、この石。」
彼等の内のガキ大将格の少年から声を掛けられた。それはどこまでも耳障りの良い、都合の良い言葉。
しかし、同年代の中でも聡明な彼は分かっていた。いや、分かってしまっていたのだ。
その言葉が、全ての終わりを示すことを…。
少年は何とか顔を上げ、いじめっ子達に嘆願する。
「や…め、や…めて…。」
ところが、そんな彼を待っていたのは嘲笑。涙と土にまみれた彼の顔を見て、いじめっ子達が大笑いをする光景だった。
無論、絞り出した彼の言葉に耳を貸すものなど居ない。
そして、彼はハッキリと見た。
ガキ大将の口が醜く歪む様を…。
「オラ!!探してこい!!」
そう言って振りかぶったガキ大将の手から、それは放たれた。
母の肩身と信じて疑わなかった白い石…彼の宝物は勢い良く中空へと放り出される。
「やめろおおおおおおおおおお!!!」
少年は痛みを忘れ、絶叫する。
しかし、その言葉も虚しく…それは校舎の柵を超え、訓練校の裏手を流れる川へと放物線を描きながら飛んでいく。
その瞬間はきっと、時間にしてみれば一瞬だったことだろう。
だが、少年にとっては、その一瞬はまるで永遠のように感じられた。
水面に反射する夕日が眩しい。その輝きは、まるでこの世ではない世界を暗示しているように思わせた。
石はまるで何かに引き寄せられるかのように、水面へと近付いていく。
そして…。
小さな水しぶきを上げて、石は沈んでいった。
彼は呆然と、その様子を見つめていた。
肩身が…沈んでしまった。
それも、何の事はない。ただのいじめっ子達の退屈しのぎのためだけに。
「そんじゃ、行こうぜ。母ちゃんに怒られちまう。」
「うわ、やっべぇ。すっかり暗くなってやがる。」
「オラ、行くぞ!!」
そして、いじめっ子達は何も無かったかのように去っていく。
各々の帰りを待ちわびている、その温かい場所へと。
しかし、孤児院に暮らす彼にとっては、何気ないその言葉すらまるで呪詛のように聞こえてきた。
(うるさい。分からない。うるさい…何でこんなことに…分からない。分かりたくない。)
だが、賢い彼は否応なく…その全ての状況を理解してしまう。
「うあああああああああ!!!ああああああああああああ!!!!」
少年の慟哭が周囲に響く。
(バカが!!バカ共が!!あの石にどんな意味があるかも知らないで!!その普通が普通じゃないことも知らないで!!)
そんな彼の慟哭を聞く者も…内心に気が付く者も、誰一人としてその場には居なかった。
その後、どこをどう彷徨ったかは覚えていない。
気付けば彼は、孤児院へと戻らずに川べりに座り、夕焼けを反射する川面をただただ見つめていた。
(なぜ、僕ばかりが虐められるのだろう。なぜ、いじめっ子達は酷い行いを、簡単に行うのだろう。なぜ…。)
少年は頭の中でなぜ、を繰り返した。
しかし、考えても考えてもその答えは分からない。
だが、それでも彼は考えずに居られなかった。
(なぜ、僕には両親が居ないのだろう。なぜ、僕は孤独なのだろう。なぜ、僕は生きているんだろう。)
そして…ふと思う。
石が沈んでいった川面、その下には何があるのだろうか。
そこに行けば…もしかしたら。
「あの川の中へ行けば、お母さんに会えるのだろうか…。」
そう、口にした少年は徐に腰を上げ、川へと向かってゆっくり進んでいく。
その姿は、まるで死神に取り憑かれたかのようであった。
「もうすぐ…もうすぐだ。」
足に水が触れる。
その冷たさがどこか心地よかった。
少年は思う。きっと、この先には救いがあるのだと。
何よりも…もう疲れたのだ。
明日もきっと、あのいじめっ子達に囲まれて、蹴る殴るの暴行を加えられる。
孤児院に帰ってもそこに彼の帰りを待ち望んでいる人も…温かい食事もない。
待っているのはただ、配られる硬いパンを食べ、互いに触れず触れられず…まるで幽霊のように過ごす毎日。
かつての思い出に縋り、辛うじて繋ぎ止めていた日々だった。しかし、その石を喪失した今…10歳の少年は、もはやこの世界に価値を見出だせなかった。
(きっと、これで僕は自由になれる。)
ゆっくりと歩を進め、気付けば胸元までが水に浸かっていた。
(これでもう、殴られることも蹴られることも、大事な物を奪われることもない。)
少年は何気なく…しかし、決定的な一歩を踏み出そうとした。その時である。
ふと、彼の頭の中で幼い日々の出来事が頭を過ぎった。決して裕福では無いが、たくさんの笑顔が溢れていた毎日。
まるでその回想が…在りし日の笑顔が今の自分の行為を咎めているような…そんな気がして、彼は目をつぶる。
「何で今…こんなことを思い出すんだ!!躊躇ったら…ダメだ!!」
少年はその思いを断ち切るかの如く、声を出す。
そして遂に一歩を踏み出した…はずだった。
だが、その瞬間は訪れなかった。
彼のその小さな右肩が何者かの手によって、掴まれていたのだ。
それも…凄まじいまでの力で。
違和感の正体を探るべく、視線を向けるとそこにあるのはゴツゴツとした大きな手…加えて、激しく波打つ水面が目に入る。
「だああああ!!待ちやがれ!!そこの少年!!」
そして、背後から大気を震わせるかのような大声が響く。
いつの間に誰か後ろに居たのだろうか…掴まれた肩が痛んだ。
だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
彼はその手を振り払い、前に進もうとした。
「だから、待てって言ってんだろ!!この野郎!!」
ところが、その言葉と共に彼は後ろから羽交い締めにされてしまう。
少年は何とか抗おうとするが…抵抗虚しく、無理矢理に後方へと引きずられていく。
「はな…せ!」
「いーや、ダメだね。子供は笑ってねえとダメなんだ!」
「何を…わけの分からないことを…。」
「兎にも角にも離さねえ!何故なら、お前には可能性があるからだ!!」
そして、川べりまで引き戻された少年は、その場で地面に投げ出される。
「痛…何するんだよ…。」
文句の1つでも言ってやろうと、相手の姿を見る。
すると…筋骨隆々の大柄な男がこちらを覗き込んでいた。
見た目は40歳手前といったところだろうか…生きていれば彼の父親位の年頃であるように思える。
しかし、その様はまるで自分とは正反対の存在であった。
「そりゃ、こっちの台詞だ。オメェこそ何やってやがる。」
男は咎めるかのような口調で話しかけてきた。
「何って…そりゃ…。」
少年は思わず口ごもる。
流石に死のうとした…とは言えなかった。
男はその様子を見てやれやれと首を振る。
「まぁ、聞かなくても…あの様を見りゃ大体は分かるけどよ。」
(じゃあ、聞くなよ。)
少年は内心でそう思った。無論、口には出さなかったが…。
だが、男はそんなことを気にする素振りも見せずに話を続ける。
「お前、今何歳だ。」
「10歳…。」
この質問にどんな意味があるのかは分からない。
しかし、嘘をつく気にもなれず…少年は正直に答える。
すると、大男は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「若いな…。いいか、俺なんかな…って…あれ?今何歳だっけ。」
意気揚々答えようとしたところで考え込んでしまう大男。その真面目に考え込んでいる様子がおかしくて…少年は思わず吹き出してしまった。
(何なんだ、このおじさん。)
不審に思う気持ちもある。だが、この大男には到底、人を騙すことなど出来そうにも無かった。
「ン゛ン゛…まぁ、とにかくだ。若さってのは武器になる。その若さに対しては、俺達みてえなおっさんは有無を言わさずねじ伏せられる。」
「一体、何を言ってるんだよ…。」
彼は言葉の意味が分からず、男に問う。
すると…男は黄昏に染まる空を見上げながら、彼の問いに答えた。
「簡単な話だ。お前にはまだ未来という無限の可能性がある。お前次第でこれから何にだってなれるし、何だって出来る。だが、俺達のようなおっさんにとっちゃ…これから先の未来は有限なんだ。勿論、俺にも無限の可能性はあった…はずなんだけどな。どうやら、どこかで間違えちまったらしい。」
ますます意味が分からなくなってくる。
一体、どこが簡単な話なんだ…と少年はそう思った。
すると、少年の内心を察してか…男は改めて少年へと向き直り、後頭部を掻きながら言葉を重ねる。
「ええとだな、つまり何が言いたいかっていうとだな…少年、死ぬな。死ぬんじゃねえ!そしたら、全てが終わっちまう!まだお前の人生…始まったばっかりじゃねえか!!」
どうやら、それが言いたかったらしい。
少年は余りにも回りくどいその言い草に苦笑した。
「何だ、笑えるじゃねえか。」
「おじさんが余りにも説明下手だったから…つい…。」
「…うるせえよ。」
バツの悪い表情を浮かべる男。
何処の誰かも分からない、おじさん。
だが、その様子を見て…この人なら信じていいのかもしれないと、少年は確かにそう感じた。
そして、うちに秘めていた彼の想いが口をついて出る。
「ねぇ…僕…本当に生きてても…いいのかな。」
その言葉に、男は大きく頷いてみせた。
「あぁ、誰であろうとお前の生を否定することは許されねえし、お前の人生を否定することは許されねえ。お前がそう思う限りは…な。」
その言葉の温かさ、久々に触れた人の温もりに少年の目の前がボヤける。
「う…うわああああああああああ!!」
気付けば、少年の瞳からは涙が堰を切ったように溢れ出した。
「ったく、笑えって言ってんのに泣くやつがあるかよ…。」
男は苦笑しつつ、その頭に手を乗せる。
そこには確かに、温もりがあった。




