前編
1910年5月22日
青い波しぶきが、レモンの花の香りを運んでくる窓辺より。
お顔も知らない「ギルバート・セイル」様。
驚かないでください。わたしは今日、神様から不思議な贈り物を受け取ったのです。
父の領地の端にある、誰も来ない静かな入り江を散歩しておりましたら、砂の中にきらりと光るものがありました。それは緑色の古い瓶で、中にはあなたの名前と、アルビオンの商船会社の住所が書かれた紙が入っていました。
瓶の表面はすっかり潮に洗われて、まるで長い間、深い海の底で眠っていたかのようです。
わたしはサヴィーナ公国の海辺に住む、ルチアと申します。
家庭教師の先生から、海の向こうにはわたしたちが一生かかっても歩けないほど広い世界があると教わりましたが、この瓶が本当にそこから来たのだと思うと、もう目の前の水平線をただの景色として見ることはできません。
もしこの手紙が幸運にもあなたの元へ届いたなら、どうか教えてください。
あなたの国の海も、わたしの国の海と同じように、夕暮れには金色の道を作るのでしょうか。
そして商船の乗組員というのは、水平線の向こうにある“世界の終わり”を見たことがあるのでしょうか。
見知らぬあなたへ、心からの好奇心を込めて。
ルチア・デ・ロセッティ
1910年7月14日
エンデヴァー港、停泊中の『グレイス号』より。
サヴィーナのルチア嬢。
まさか、あの瓶が本当に誰かの手に渡るとは。
手紙を読んだ時、僕は甲板で荷解きをしていましたが、あまりの驚きに手にしたロープを落としてしまいました。
その瓶を流したのは今から二年前、僕がまだ十六歳の見習いだった頃です。
初めて商船に乗り、故郷の港を離れるのが怖くて、あるいは自分がこの広い海で消えてしまうのが怖くて、僕がここにいた証を瓶に詰めて投げ込みました。二年の月日を経てサヴィーナのお嬢さんがそれを拾うことになるとは、まるで小説のようです。
僕の住むアルビオンは、君の国のような美しいレモンの香りはしません。
鉄と石炭、それから波が削った岩の匂いがする国です。海はいつも灰色で荒れていて、港は荷役たちの罵声と蒸気機関の音で溢れかえっている。
僕はまだ世界の終わりを見たことはありません。
だけど僕が乗っているこのグレイス号は、来月にはまた別の国へ向かいます。
もし君が許してくれるなら、僕がその目となり、君の知らない景色の欠片を言葉にして送りたいと思います。
水平線の向こう側を夢見る、一人の船乗りより。
ギルバート・セイル
1910年9月5日
少しだけ秋の気配が混ざった、静かな温室より。
ギルバート様。
お返事をいただけて、とても嬉しく思います。
二年前の不安を瓶に詰めて流したというお話、胸が締め付けられるようでした。今のあなたは、もう海を怖がってはいないのでしょうか。
わたしの毎日はとても静かです。
父はわたしが淑女であることを望んでいて、刺繍やピアノ、そして古い歴史の勉強ばかり。窓の外に広がる海はこんなに近いのに、わたしは一人で小舟に乗ることさえ許されません。
だから、あなたの手紙はわたしの翼です。
鉄と石炭の匂い……わたしには想像もつきませんが、きっとそれは力強く生きている人々の匂いなのでしょうね。
今度は、あなたが次に寄港する街の話を聞かせてください。そこにはどんな人がいて、どんな言葉を話しているのですか?
追伸:
あなたの国の言葉を少しだけ教えてくれませんか?
「友達」は、アルビオン語で何と言うのでしょう。
1910年11月11日
揺れるランプの下、異国の港へ向かう船室より。
親愛なるルチア。
船乗りに「友達」は不可欠な存在です。
僕たちの言葉では、それを “Friend”と言います。
ルチア、君が僕のことをそう呼んでくれるなら、これほど心強いことはありません。
僕がまだ海を怖がっているか、と聞いてくれましたね。
正直に言うと、今でも夜の海は怖いです。真っ暗で、底がどこまでも深いから。
でも君に手紙を書き始めてからは、少しだけ景色が変わりました。この波が君の住むサヴィーナの浜辺に繋がっていると思うと、ただ冷たいだけの水溜まりには見えなくなった。
今、僕たちの船はサヴィーナの南方、サンゴ礁が広がる海域を抜けています。
夜の海では、ときどき魚たちが光りながら跳ねるんです。まるで水の中に月が砕けて散らばったみたいに。君に見せてあげられたらいいのに。
君がピアノを弾いている間、僕は甲板でマメだらけの手を洗っています。住む世界も、見ている景色も、何もかもが違う。
そんな僕たちがこうして紙を介して、まるで隣にいるみたいに言葉を交わしている。海の上では何が起こるか分からないと言うけど、これもその一つなのかもしれない。
ルチア、君の国の言葉で「美しい」は何と言いますか?
次に光る魚を見たとき、君の言葉でそれを呼びたいんだ。
ギルバート
────
1913年10月26日
昇進の夜、南十字星の下で。
My Dearest Lucia,
嬉しい報告があるんだ。ついに一等航海士への昇進が決まった。
同僚たちは酒を酌み交わして祝ってくれたが、僕が真っ先にこの喜びを伝えたかったのは君だ。
最近、仕事中にうっかりサヴィーナの言葉が出るようになってきた。船員たちには「どこの訛りだ」と笑われるが、僕にとってはこれが一番しっくりくる。
水平線を眺めるたび、心の中で“Oceano infinito”と呟く。アルビオン語の"Sea"よりも、君の国の言葉の方がこの海の広さを正しく表している気がするから。
社交界に出たという話は正直あまり聞きたくなかったな。
サヴィーナの白亜の宮殿で、君はきっと誰よりも輝く光なんだろうね。着飾った貴族たちが君の周りに群がってるのを想像すると、子どもみたいに嫉妬してしまう。
君のダンスの相手が僕の知らない誰かであることだけが、今夜の唯一の不満だよ。
Yours always,
Gilbert
1913年 聖ルチア祭の翌日
ポインセチアの雫がこぼれる朝の庭より。
Mio caro Gilbert,
一等航海士への昇進、心からお祝いするわ。
あなたの努力が海の上で実を結んだことが、私自身の誇りのように嬉しいのです。
嫉妬だなんて……ギルバート、確かに私は宮廷の舞踏会に出ました。父が用意したドレスを着て、鏡の中の自分でも知らない誰かのふりをして。
たくさんの紳士たちが私の手を取り、サヴィーナ語で甘い言葉を囁きました。「君の瞳は地中海の宝石だ」「この国の太陽は君のために昇る」……
でもそんな言葉は、わたしの耳にはちっとも響きませんでした。ワルツの旋律に身を任せながら、私の心は海の向こうにありました。
シャンデリアの光よりも、あなたが手紙に書いてくれた、油と石炭の匂いがする甲板の光景の方が、私にはずっと美しく思える。
ダンスの相手はただの影です。私の誇りは今この瞬間も、揺れる船の上で戦っているあなただけです。
いつか、二人だけの言葉で、夜通し語り合える日が来ることを信じています。
Con tutto il mio amore,
Lucia
1914年2月17日
Lucia, my Lucia.
君の手紙のおかげで、船酔いも嫉妬も全部吹っ飛んだよ。ありがとう。
最近の僕たちの手紙は、共通語にアルビオン語とサヴィーナ語が混ざりすぎていて、検閲官が見たら暗号か何かだと疑うだろうね。でもこれでいい。誰にも読めない、二人だけの辞書だ。
次の航海で船がサヴィーナの港の近くを通るかもしれない。
入港の許可は下りないだろうから、水平線の向こうを通り過ぎるだけだろうけど、もし天気が良ければ、僕はマストのてっぺんから君の住む街を探すつもりだ。
いつか必ず、僕は自分の船を持って、サヴィーナの岸壁に錨を下ろす。
そうしたら、君の手を引いて船に乗せ、本当の海を見せるよ。
これは夢じゃない、僕の野心だ。
待っていてほしい、ルチア。
Gilbert
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1914年7月3日
ギルバート。
これが最後の手紙です。
父が決めたことです。私は半月後、サヴィーナ海軍のセルジオ・マルヴェッリ少佐と結婚します。
家を守るため、そしてこの不穏な時代の中で生きるために、私は海の向こうを夢見る少女を辞めなければなりません。
あなたの国と私の国は、もうすぐ戦争を始めるそうです。
あなたは私の夫の敵になってしまう。こんなことが許されるはずがありません。
この手紙を最後に、私たちの辞書は閉じられました。もう瓶を拾うことも、文字を流すこともありません。
どうか、私を探さないでいてね。海の向こうで、ただ、生きていてください。
さようなら。
ルチア




