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【タイトル変更】余命わずかな病弱令嬢でしたが、元社畜OLの転生猫に背中を蹴飛ばされたので、外の世界で「聖女」として生きていくことにしました

作者: たまユウ

 その部屋は、いつだって静止した時間の中にあった。

 

 分厚い遮光カーテンの隙間から、わずかに差し込む埃っぽい光。染み付いた消毒用アルコールと、枯れかけたドライフラワーの匂い。



 そして、ベッドから聞こえる、心細げな咳の音。



「……ごめんなさい、お母様。また、お薬代がかかってしまって……」



「何を言うの、エリアナ。貴女が生きていてくれるだけで、私たちは幸せなのよ」



 扉の向こうに母親が去っていく気配がすると、ベッドの上の少女――私の飼い主であるエリアナは、糸が切れたようにシーツに顔を埋めた。


「……嘘つき」


 くぐもった声が、枕に吸い込まれていく。


「お父様の商売が上手くいっていないのは知っているわ。私が生きているだけで、この家はどんどん貧しくなっていく……」


 私は、窓際のキャットタワー(といっても、古い箪笥を改造したものだが)の上から、その小さく震える背中を見下ろしていた。

 

 私は猫だ。名前はブランシュ。真っ白な長毛種で、この屋敷に来てから二年になる。

 中身は、前世でバリバリ働いて過労死した元社畜のアラサー女だが、そんなことは今の生活には関係ない。今の仕事は、この自己肯定感が底辺まで沈んでしまった病弱令嬢のそばにいて、たまに喉を鳴らしてやることだけだ。


 エリアナ・フォレスター。十八歳。

 生まれつき肺が弱く、少しの運動や気温の変化で発作を起こす。

 医者からは「二十歳まで生きられるかどうか」と言われているらしい。

 だから彼女は、この薄暗い部屋から一歩も出ない。家族も使用人も、彼女を腫れ物のように扱い、「何もしてはいけない」、「ただ安静に」と言い続けてきた。


(……過保護という名の、優しすぎる牢獄ね)


 私は音もなく床へ飛び降りると、トトトと歩み寄ってベッドへ飛び乗った。ふかふかの布団に足が沈む。


「……ブランシュ」


 涙で濡れた顔を上げて、エリアナが私を見る。

 深い森の湖を映したような緑色の瞳は美しいけれど、そこには生気という光がない。あるのは、諦めと、自分自身への深い嫌悪だけだ。


「貴女はいいわね。自由で、綺麗で、そして強くて……。私なんて、生まれてこなければよかったのに」


 まただ。彼女の悪い癖。

 私は無言で彼女の濡れた頬に鼻先を寄せ、ザリザリとした舌でひと舐めした。


 (泣かないで。貴女が泣くと、せっかくの綺麗な顔が台無しよ。それに、貴女がいなくなったら、誰が私に毎朝ブラッシングをしてくれるの?)


 エリアナは自分を「家族の中のお荷物」だと思い込んでいる。

 無力で、無価値で、ただベッドの上で死を待つだけの存在だと。けれど、私は知っている。彼女には、誰にも真似できない、神様から贈られたような才能があることを。


 私はベッドから離れ、部屋の隅にある出窓へと向かった。


 そこだけは、エリアナの懇願によってカーテンが少し開けられ、大小様々な植木鉢が並んでいる。外界と隔絶された彼女に唯一許された趣味、小さな園芸スペースだ。


 以前、エリアナのお母様がエリアナのために市場でハーブを買ってきた。時間が経つとともに萎れてしまったハーブの世話をエリアナがしていた時のことだ。

 普通なら水をやるところを、彼女は土に触れただけで眉をひそめた。


「ああ、根が『冷たい』って泣いてるわ。土の粒が細かすぎて窒息しそうなのね」


 そう独り言を漏らすと、彼女は水ではなく、砕いた木炭と砂を土に混ぜ込んだ。常識外れな処置に見えたが、翌朝には茶色く変色していた葉が、嘘のように鮮やかな緑色を取り戻し、ピンと茎を伸ばしていたのだ。

 それは知識というよりも、もっと本能的なものに見えた。私がこの屋敷に来てからの8年間、彼女は毎日植物観察日記を書いていた。毎日植物を観察していたことによって目覚めた、言葉の通じない植物の声を聞き、彼らが何を求めているのかを肌で感じ取る力。


 前世の言葉で言うなら「緑の指(園芸の達人という意味です)」というやつだろうか。



(……いつまで腐ってるつもり?エリアナ、貴女の武器はそこにあるじゃない)



 私はある一つの鉢植えの前に座った。

 それは、庭師が「枯れたから捨てる」と言っていた古木の枝を、エリアナが貰い受け、独自の配合で作った肥料で蘇らせたものだ。

 一見するとただの雑草のように見える。けれど、その葉は暗闇の中で蛍のように淡く発光し、そばに寄るだけで空気が澄み渡るような清涼感を放っている。


 エリアナは気づいていない。


 彼女が「ただの気晴らし」で生み出したこの品種改良種が、どれほどの奇跡かということに。

 このまま誰にも知られずに、この部屋の中で枯れさせてしまうなんて、私が許さない。


 私はエリアナの方を振り返り、優しく、しかし意志を込めて短く鳴いた。


「ニャア(ここを見て)」


 次の瞬間、私は前足で、その鉢植えを――思い切りチョイチョイとつついた。


「あっ、ブランシュ!だめよ!」


 エリアナが悲鳴を上げるが、もう遅い。


 ガシャーン!!


 陶器の鉢が床に落ち、派手な音を立てて砕け散った。黒い土がカーペットに散乱し、植物が白い根を露わにして転がる。


「どうして……!大切に育てていたのに……!」


 エリアナが慌ててベッドから這い降りてくる。

 咳き込みながらも、彼女は床に這いつくばり、震える手で植物を拾い上げた。


 その時だ。


「……お嬢様!何事ですか!今の音は!?」


 音を聞きつけた執事のジェームズが、血相を変えて部屋に飛び込んできた。

 白髪の老紳士は、割れた鉢を見て顔をしかめかけ――そして、凍りついた。

 彼が凝視していたのは、散らばった土の中から、強烈な芳香を放ちながら青白く輝く、その植物の根だった。


「こ、これは……なんという……」


「ジェームズ、ごめんなさい。私が不注意で……すぐに片付けますから……」


「いえ、そうではありません!お嬢様、この香りは……まさか伝説の『竜の息吹』ですか!?」


 ジェームズの声が裏返った。いつもの沈着冷静な彼からは想像もできない取り乱しようだ。

 

(……やっぱりね)


 私はしめしめと髭を震わせた。

 以前、旦那様が書斎で誰かと話しているのを、ソファの下で昼寝していた私は聞いたことがあるのだ。


『ジェームズの実家は、代々王家に仕える高名な薬師の家系だったそうだ。今は訳あって執事をしているが、薬草を見る目は確かだよ』と。


 その彼がこれほど驚愕するのだ。私の睨んだ通り、これはただの草ではない。


「りゅうの……いぶき?いいえ、これはただのミントと、裏庭の雑草を掛け合わせたもので……」


「雑草……?これがですか!?」


 ジェームズは震える手で、ハンカチ越しにその葉を一枚拾い上げた。そして、恐る恐る匂いを嗅ぎ、葉脈を透かして見る。


「お嬢様……これは、とんでもない発見かもしれません。この葉を煎じれば、高価な解毒ポーションと同等、いやそれ以上の効果が見込めます。この葉脈の輝き、この魔素の含有量……間違いありません」


 ジェームズは興奮のあまり、主従の礼儀も忘れてまくし立てた。


「もしこれを王都の薬師ギルドに卸せば……今の旦那様の事業の負債を、少しでも埋められるほどの値がつきますぞ。それほど希少なものです!」


 ハッとして、ジェームズが口をつぐんだ。

 家の台所事情を、深窓の令嬢に話すべきではないと我に返ったのだろう。


 だが、エリアナは聞き逃さなかった。


 彼女の緑色の瞳に、初めて「意志」という名の小さな炎が灯るのを、私は特等席で見ていた。


「……ジェームズ。それは本当?」


「は、はい……ですが……」


「私の育てた草が、お金になるの?お父様の助けになるの?」


 エリアナは、自分の汚れた手を見た。

 普段から土いじりをして、とても令嬢らしくないこの手。


 いつも母親に「土をいじると汚いから」と拭かれ、「令嬢らしくない」と隠されていたその手が、「家族を救えるかもしれない」と言われたのだ。


 エリアナは、私を見た。

 私は散らばった土の上で、ふわりと尻尾を揺らして見せた。



 (そうよ、エリアナ。貴女はずっと自分を無力だと言っていたけれど、違うわ。貴女には力がある。やってみなさいよ)



 エリアナは一度ぎゅっと目を閉じ、そして開いた。そこにはもう、先ほどまでの「生気のない令嬢」はいなかった。


「……やってみたい」


 エリアナが、掠れた、けれど確かな声で言った。


「私に、商売をさせて。ジェームズ、この植物をギルドへ持っていってくれないかしら」


「しかし、お嬢様のお体が……それに旦那様がなんとおっしゃるか……」


「お父様には内緒でいいわ。私の、私自身の力で……誰かの役に立ってみたいの。ただ守られているだけじゃなく、私も誰かを守りたいの」



 それは、彼女の人生で初めての「我儘」だった。

 いい子の仮面を脱ぎ捨て、自分のエゴを通そうとする姿。


 その震える背中は、今まで見たどの瞬間よりも大きく、頼もしく見えた。



 ジェームズはしばし逡巡していたが、エリアナの真剣な眼差しに負け、深く頭を下げた。


「……承知いたしました。私の旧知の商人を、裏口からこっそりと招きましょう。彼なら、適正な価値を見極めてくれるはずです」



―・―・―




 数日後。

 エリアナの部屋に、一人の男が招かれた。

 王宮騎士のような煌びやかさはない。地味な茶色の外套を羽織り、丸眼鏡をかけた、三十代半ばほどの男だ。名を、エルリックという。


「……ふうん。フォレスター男爵家のご令嬢が、新種の薬草を作ったと聞いて来てみれば」


 エルリックは、部屋に入るなり、値踏みするような視線をエリアナに向けた。

 その目は冷たく、貴族への媚びへつらいは一切ない。むしろ、貴族という存在を軽蔑しているような色さえある。


「こんなひ弱なお嬢様の、お遊びですか。……ジェームズの紹介とはいえ時間の無駄でしたね」


 彼はエリアナの顔色の悪さと、華奢な手を見て、鼻で笑った。

 エリアナが、びくりと肩を震わせる。

 昔の彼女なら、ここですぐに謝って、布団の中に逃げ込んでいただろう。


 だが、私は知っている。


 彼女はこの数日間、発作に苦しみながらも、必死にこの株を株分けし、最高に見栄えが良いように葉を磨き上げていたことを。ジェームズにお願いして、植物図鑑をもらい必死に勉強していたことを。

 「家族を助けたい」という執念が、彼女の細い体を支えていることを。


 私は音もなくエルリックの足元に近づき、鋭い爪で彼の革靴をガリッと引っ掻いた。


「痛っ!……なんだこの猫は」


 男が下を向く。

 私は「フン」と鼻を鳴らした。

(どこに目をつけてるのよ。ちゃんと商品を見なさい)



 エリアナが、深呼吸をして顔を上げた。


「……お遊びかどうか、その目で見てから決めてくださいませんか」


 彼女は、机の上に並べた三つの鉢植えを差し出した。


 暗闇で光る『灯火草(とうしんそう)』。

 香りで頭痛を和らげる『安らぎのハーブ』。

 そして、毒を中和する成分を含んだ『清浄苔(せいじょうこけ)』。


 エルリックは、しぶしぶといった様子で眼鏡の位置を直し、植物を覗き込んだ。


 そして――数十秒後、彼の表情が一変した。


「……なんだ、これは」


 彼は懐からルーペを取り出し、夢中で葉脈を観察し始めた。

 額に汗が滲む。エリアナを見下していた顔つきが、経験豊富な商人のそれに変わっていく。


「ありえない……温室設備もない室内栽培で、これほどの魔力純度を維持しているのか?それにこの配合……既存の植物学の常識を無視しているが、理に適っている」


 彼は顔を上げ、さっきまでの侮蔑が嘘のように、真剣な眼差しでエリアナを見た。


「……アンタ、これをどうやって作った?」


「どうやって、と言われましても……。草たちが『寒い』とか『お腹が空いた』と言うので、それに合わせて土や水を調整しただけで……」


 エリアナの天然発言に、エルリックは絶句し、それから「ハッ」と短く笑った。


「天才か、あるいは大馬鹿者か……。面白い」


 彼は懐から契約書を取り出し、机に叩きつけた。


「いいでしょう。この植物、私が買い取ります。ただし条件がある」


「じ、条件……?」


「継続的に供給すること。そして、私の要望に応じて品種改良を行うこと。……アンタにとっては過酷な労働になるかもしれんが、それでもやるか?」


 彼は試すように言った。

 病弱な令嬢に、ビジネスの厳しさが耐えられるのかと。



 エリアナは、胸元をぎゅっと握りしめた。

 心臓が早鐘を打っているのが聞こえる。怖い。責任の重さが、体の弱さが、彼女を押し潰そうとする。

 でも。


「……やります。私に、仕事をください」


 彼女は言った。

 その瞬間、部屋の澱んでいた空気が動き出した気がした。

 窓の外から、新しい季節の風が吹き込んでくるような予感。


 エルリックはニヤリと笑い、手を差し出した。


「商談成立だ、エリアナ嬢。……俺の名はエルリック。これからはビジネスパートナーとして扱わせてもらう」


 エリアナがおずおずと差し出した白く細い手を、商人のゴツゴツした手が握り返す。


 騎士とのロマンスのような甘さはない。


 けれど、それは彼女が生まれて初めて、一人の「人間」として社会と繋がった瞬間だった。



(……やれやれ。やっと前を向いてくれたわね)


 私は二人の足元で、満足げに喉を鳴らした。




―・―・―




 季節が巡り、窓の外の街路樹が黄色く色づき始めた頃。

 かつて死んだように静まり返っていたエリアナの部屋は、小さな「工房」へと変貌を遂げていた。


 部屋の隅には、温度管理されたガラスケースが所狭しと並び、その中では多種多様な薬草が、外の寒さを嘲笑うかのように青々と葉を茂らせている。

 机の上には、出荷を待つ木箱と、几帳面な文字で埋められた帳簿。

 そして、土で汚れたエプロンをつけたまま、生き生きとした表情で作業をするエリアナの姿があった。


「……よし、この『癒やしの軟膏(なんこう)』用のミント、最高の出来だわ。これならエルリックさんも文句は言わないはず」


 彼女は額に滲んだ汗を手の甲で拭い、満足げに微笑んだ。

 かつての、いつ消えてしまうか分からないような儚い影は薄れ、今の彼女の横顔には「家族の為に」というやりがいが芽生えている。

 商人のエルリックとの取引は、驚くほど順調だった。

 エリアナが作り出す、魔力効率の高い薬草は、下町の診療所や貧しい人々の間で「安くてよく効く」と飛ぶように売れているらしい。


 彼女が得た収益は、執事のジェームズを通じてこっそりと家の借金返済に充てられ、さらに新しい肥料や機材の購入にも使われていた。


(……順調、順調。ご主人様の顔色も悪くないわね)


 私は窓際のクッションの上で、毛づくろいをしながらエリアナの背中を見守っていた。


 彼女は「自分が役に立っている」という実感を得て、精神的に強くなった。それが身体にも良い影響を与えているようだ。咳の回数も減り、食欲も出てきた。



 けれど、私は猫だ。野生の勘が告げている。



 調子に乗っている時ほど、落とし穴は深く、口を開けて待っているものだと。





 その予感は、冷たい雨の降る午後に的中した。

 裏口から訪れたエルリックの顔色は、土気色だった。いつもの皮肉めいた余裕はなく、外套も脱がずに部屋に入ってきた。


「……エリアナ嬢。無理を承知で頼みたいことがある」


「どうされたのですか?そんなに深刻な顔をして」


 エルリックは、雨に濡れた眼鏡を拭きもせずに言った。



「『灰咳病(はいせきびょう)』だ。……下町で流行り始めた」



 エリアナの表情が凍りつく。


 『灰咳病』。それは、工場煤煙や汚れた空気を吸い続けることで肺が炎症を起こし、やがて呼吸ができなくなって死に至る、この国特有の恐ろしい流行り病だ。


 特に、抵抗力の弱い子供や老人が犠牲になりやすい。

 呼吸ができなくなる苦しみ。

 肺が焼けるような痛み。

 咳や肺の痛みを誰よりも知っているエリアナにとって、その病名は他人事ではなかった。彼女の指先が、小刻みに震え始める。


「特効薬はあるのでしょう?」


「供給が追いつかない。王都の薬師ギルドが総出で作っているが、材料となる『清浄苔』が圧倒的に足りないんだ。……あれは栽培が難しく、天然物を採取するしかないからな」


 エルリックは、藁にもすがるような目でエリアナを見た。


「アンタの作った『改良型清浄苔』……あれなら、従来の三倍の早さで育ち、効力も高いと聞いた。……用意できるか?」


「どれくらい必要ですか?」


「……あるだけ全部だ。いや、今の在庫の十倍あっても足りないかもしれない」


 無茶な注文だ。

 植物は魔法ではない。生き物だ。育つには時間がかかる。


 エリアナの魔力と体力を使って、寝る間も惜しんで成長を促進させるにしても、物理的な限界がある。


 私は、クッションから立ち上がり、低い声で「ニャア(断りなさい)」と警告した。


 今のエリアナに、そんな大量生産をする体力はない。下手をすれば、彼女自身の寿命を削ることになる。彼女が一番分かっているはずだ。



 ――けれど。



 エリアナは、自分の胸元をぎゅっと握りしめた。

 苦しげに呼吸をする子供たちの姿を、自分自身に重ねているのだろう。


「……やります」


「エリアナ嬢、しかし……アンタの顔色は良くないぞ」


「私なら、できます。……いいえ、私にしかできません」


 彼女の緑色の瞳が、強い光を放った。


 それは覚悟の光であり、同時に危うい自己犠牲の炎でもあった。エルリックもそれを感じ取ったのか、苦渋の表情で頷いた。





 それからの三日間は、地獄のような忙しさだった。

 エリアナは寝る間も惜しんで、苔の株分けと魔力供給を続けた。



 食事は喉を通らず、スープを数口飲むだけ。

 窓の外は雨が降り続き、部屋の中は湿った土の匂いと、エリアナの荒い息遣いだけが満ちていた。

 顔色はどんどん青白くなり、指先は震え、目の下には濃い隈ができた。



 こんな状況でもエリアナの両親は、時々顔を出しては、「いつもより少し顔色悪いみたいだから安静にしなさい」、「貴方は生きてくれさえすればいいの」と普段より体調が悪いだけだと思っている。



(……バカ!もうやめなさい!死ぬ気!?)


 私は何度も彼女の足元に絡みつき、作業を邪魔しようとした。膝に飛び乗り、手元を隠してしまおうともした。


 でも、彼女は私を怒鳴ることもなく、ただ優しく抱き上げ、遠くへ退かすだけだ。



「ごめんね、ブランシュ。……あと少しなの。子供たちが待っているの」


 彼女の指先から、淡い緑色の魔力が流れ出し、ガラスケースの中の苔たちが急速に増殖していく。


 それは彼女の生命力そのものに見えた。


 自分の命を削って、他人の命を救う薬を作る。

 それは尊いことかもしれないけれど、私にとっては――見ていられない緩慢な自殺行為だ。



 そして、限界は唐突に訪れた。



 四日目の朝。

 最後の箱詰めを終え、裏口で待つエルリックに商品を引き渡した直後だった。

 

「……できた。これで、みんな……」


 エリアナが、ふらりとよろめいた。

 支えようとした私の動きよりも早く、彼女は糸が切れたように崩れ落ちた。


 ガシャン!!


 机の上の道具が床に散らばる音。


「――お嬢様ッ!!」


 異変を感じて駆けつけたジェームズの悲鳴が響く。

 私はエリアナの顔を覗き込んだ。

 熱い。火のように熱い。呼吸は浅く、ヒューヒューという嫌な音が喉から聞こえる。

 発作だ。それも、今までで一番酷い。


「医者を!すぐに旦那様にもお知らせしろ!」


 屋敷中がパニックになった。

 私は、何もできない無力感に打ちひしがれながら、ただ彼女の冷たい手を舐め続けるしかなかった。



 お願い、エリアナ。行かないで。



 貴女が助けた子供たちの笑顔も見ずに、終わるなんて許さないわよ。



 ――目が覚めたのは、二日後のことだった。


 エリアナが重い瞼を開けると、そこには泣き腫らした顔の母親と、厳しい表情の父親――フォレスター男爵がいた。



「……お父、様……」


「馬鹿者が」


 父親の低い、押し殺したような声が響いた。

 怒られる。

 勝手に商売をして、体を壊して、迷惑をかけた。きっと、もう二度と植物栽培は許されないだろう。エリアナが恐怖に身を縮こまらせた。


 だが、次に父親が発したのは、震えるような溜息だった。


「……なぜ、言わなかった」


「え……?」


「お前が、我々の知らぬ間にこれほどの才能を開花させ、家を、そして街を救っていたことを。なぜもっと早く、私に相談しなかったのだ」


 父親の手には、エルリックからの手紙が握られていた。

 そこには、エリアナの薬草がどれほど多くの子供たちを救ったか、そして彼女がいかに優れた植物師であるかが、詳細に記されていたらしい。


「私は情けない。……お前を守るつもりで、ただ部屋に閉じ込め、お前の可能性を見ようともしなかった。お前が一人で苦しみ、命を削ってまで誰かを救おうとするほど、追い詰めてしまっていたとは……」


 父親は、エリアナのベッドの端に手をつき、男泣きに泣いた。

 母親も、エリアナの手を握りしめて泣いている。

 いつも厳格で、遠い存在だと思っていた父親の、崩れ落ちるような背中。


「エリアナ。……お前は、この家の誇りだ。だが、親としてこれだけは言わせてくれ。……頼むから、自分を大切にしてくれ。お前が死んで救える命など、私はいらない」


 その言葉に、エリアナの目から涙が溢れた。


 彼女はずっと、「役に立たなければ愛されない」と思っていた。

 「何もできない自分」は、家族の負担でしかないと。

 けれど、違ったのだ。


 不器用な両親は、ただ彼女が生きていてくれることだけを願っていた。そして今、彼女の「仕事」も、彼女の「想い」も、すべて受け入れてくれたのだ。


「……ごめんなさい。ごめんなさい……」


 エリアナが子供のように泣きじゃくる。

 私は、彼女の足元に寄り添い、ゴロゴロと喉を鳴らした。

 (よかったわね、エリアナ。やっと本当の家族になれたじゃない)



―・―・―



 それから数週間後。

 エリアナの部屋の様子は、少し変わっていた。


「お嬢様、この肥料の配合はこれでよろしいですか?」


「ええ、ありがとうマリー。……トム、そっちの剪定はもう少し浅くね」


 部屋には、エリアナの他に二人の姿があった。

 メイドのマリーと、庭師見習いの少年トムだ。

 父親の方針で、エリアナには正式に「助手」がつけられることになったのだ。


 それと、もう一つ。エリアナの部屋だけではこれ以上の栽培は難しいことから、隣の部屋を工房として使っていいと許可が降りたのだ。


 エリアナはベッドや椅子に座ったまま、彼らに指示を出す。

 重い土を運ぶのも、水やりをするのも、助手たちの仕事。

 エリアナの仕事は、植物の状態を見て、何をすべきかを判断する役割だ。魔力供給は3人で負担を分けながら行っている。


「……これなら、疲れないわ。それに、私一人でやるよりずっとたくさんの薬草が育てられる」


 エリアナは、自分が動けないことを「欠点」ではなく「全体を見渡して指示する立ち位置」に変えたのだ。

 彼女はもう、自分の体を呪っていない。

 この体だからこそできる、新しい戦い方を見つけたのだから。



 私は、キャットタワーの上から、賑やかになった部屋を見下ろした。

 エリアナの顔には、以前のような悲壮感はない。

 生き生きと指示を出し、仲間たちと笑い合う彼女は、希望に満ちた顔をしていた。


(……やれやれ。これで私が心配しなくても、もう大丈夫そうね)


 少しだけ寂しい気もするけれど、これが成長というものだろう。

 私は大きくあくびをして、久しぶりにゆっくりと昼寝をすることにした。

 





 そんな穏やかなある日、屋敷に意外な来客があった。

 王宮騎士団の副団長、アレクシス・ヴァーミリオンだ。

 燃えるような赤髪と、熊のように大きな体躯を持つ彼は、エリアナの工房を見るなり、その厳つい顔をくしゃりと綻ばせた。


「おお、ここが噂の工房か!先日納品された『癒やしの軟膏』には助けられた。あれのおかげで、部下たちの傷が驚くほど早く塞がったのだ」


 アレクシスは、豪快に笑いながらも、車椅子のエリアナに対して恭しく膝をつき、騎士の礼をとった。


「フォレスター嬢。貴女の技術は、多くの騎士の命を救ってくれた。騎士団を代表して礼を言う」


「あ、頭を上げてください!私はただ、仕事を……」


 恐縮して真っ赤になるエリアナを、私は柱の陰からじっと観察した。


 (……ふん。暑苦しそうな男だけど、目は正直ね。私の鼻にかけても、悪い匂いはしないわ)


 アレクシスはその後、定期的に個人的な注文をしてくれる上客となった。

 この武骨だが誠実な騎士との縁が、後にエリアナの最大の危機を救う「味方」になるとは、この時の私たちはまだ知る由もなかった。




―・―・―




 順風満帆に見えたエリアナの活動に、暗雲が垂れ込めたのは、冬の足音が聞こえ始めたある日のことだった。


 木枯らしが窓を叩くその日、フォレスター男爵家の屋敷前に、見慣れぬ豪華な馬車が止まった。


 降りてきたのは、王都から派遣されたという役人と、武装した数名の騎士。



 そして、胸元に「王立薬草院」の紋章をつけた、神経質そうな銀縁眼鏡の男――グラキエス伯爵だった。


「……ここか。素人が危険な未登録植物を栽培し、法外な値段で売りさばいているという屋敷は」


 グラキエス伯爵は、ハンカチで鼻を覆いながら、汚いものを見るような目で屋敷を見上げた。

 そして、有無を言わせぬ勢いで屋敷へ押し入ると、エリアナの工房へ土足のまま踏み込んだ。



「きゃっ……!な、何ですか貴方たちは!」



 作業をしていたマリーたちが悲鳴を上げ、壁際に下がる。

 エリアナは車椅子の上で、青ざめた顔で男たちを見上げた。


「エリアナ・フォレスターだな。私は王立薬草院の長官、グラキエスだ」


 男は冷徹に告げた。


「貴様の育てている植物に、『魔力汚染』の疑いがあるとの報告を受けた。ただちに全ての株を没収し、焼却処分とする」


「……え?」



 エリアナの思考が停止した。

 魔力汚染? 焼却?



「ま、待ってください!私達の育てた植物は安全です!街の人々を救った実績もあります!」


「黙りなさい」


 グラキエスは、エリアナの言葉を一蹴した。


「正規の教育も受けていない、ましてやベッドから起き上がれもしない下級貴族の小娘が作った薬など、信用に値しない。街で流行った奇病が治まったのも、偶然だろう。……あるいは、貴様が営業を目的で毒を撒いたのではないか?」


「なっ……!?」


 あまりの侮辱に、エリアナの唇が震える。

 彼女がどれほどの想いで、どれほど身を削ってあの薬を作ったか。それを「毒を撒いた」などと。


「おい、これらを全て庭へ運び出せ。根まで残さず焼け」


「やめて!やめてください!その子たちは……私の命なんです!」


 エリアナが車椅子から身を乗り出し、グラキエスの足に縋り付こうとして、バランスを崩した。


 ドサッ、と鈍い音がして、彼女は床に転がり落ちた。

 助手たちが駆け寄ろうとするが、騎士たちの剣幕に阻まれる。


 グラキエスは、地べたに這いつくばるエリアナを、冷ややかな目で見下ろした。


「……命、か。貴族の娘なら、土いじりなどせず、大人しく刺繍でもしていればいいものを。病人が健常者の真似事をするから、こうして社会に迷惑をかけるのだ」


 その言葉は、エリアナが一番恐れていた呪いだった。

 『病人は何もするな』『お前は迷惑な存在だ』。

 仕事を通じてようやく振り払ったはずの劣等感が、権威という名の絶対的な暴力によって、再び彼女を押し潰そうとする。



「……う、うう……」



 エリアナは床に拳を突き立て、声を殺して泣いた。

 反論したくても、言葉が出てこない。悔しさと、恐怖と、絶望で、喉が張り付いてしまったかのように。



(……許さない)



 私は、部屋の隅の棚の上から、その光景を見ていた。

 全身の毛が逆立ち、喉の奥から低い唸り声が漏れる。

 この男は今、私の大切なご主人様の尊厳を、土足で踏みにじった。


 彼女が血の滲むような努力で積み上げてきた誇りを、「病人の遊び」と切り捨てた。

 私は棚から飛び降り、グラキエスの背後へ忍び寄った。

 そのふくらはぎに爪を立ててやりたい衝動に駆られる。


 けれど――私は踏みとどまった。



 今、私がこの男を引っ掻いたところで、それは「狂暴なペットが暴れた」という事実にしかならない。エリアナの立場を悪くするだけだ。

 この男に勝つには、暴力ではだめだ。

 エリアナ自身が、彼女のやり方で戦わなければ、彼女の心は一生死んだままだ。


「……ふん、明日の正午に全て焼却する。それまでは精々、その『ゴミ』との別れを惜しむがいい」


 男たちは去っていった。


 残されたのは、泥だらけになった床と、絶望に沈むエリアナだけだった。



 その夜、屋敷は葬式のような静けさに包まれていた。

 エリアナはベッドの上で膝を抱え、一言も喋らない。

 植物たちはまだ温室にあるが、明日の昼には全て燃やされてしまう。


 父親や母親も方々に手を尽くして抗議をしたが、王立機関の決定は絶対だ。下級貴族の男爵家には、それを覆す力はない。


「にゃあ…」

(……ねえ、エリアナ。これでいいの?)


 私は彼女の膝に顎を乗せ、じっと瞳を見つめた。

 彼女の目は光を失っていた。


「心配してくれてるの?ブランシュ。……仕方ないわ。私なんて、やっぱり無力な病人なのよ。分不相応な夢を見た罰だわ」



 違う。


 あなたは無力じゃない。


 あなたが作った薬で、何百人もの人が救われた。


 あなたの技術は、王立の専門家たちですら到達できない領域にある。それを証明できるのは、あんたしかいない。



 私は窓辺に飛び乗った。

 そして、一鉢だけ残された、あの『灯火草』の鉢を前足で叩いた。


 コン、コン。



「……ブランシュ?」



 私は何度も叩く。

 見なさい。この光を。

 あなたが命を削って灯した、この優しい光を。

 これを「ゴミ」だと言わせておいていいの?あなたの子供たちが殺されようとしているのに、黙って見ているの?


 エリアナが、ふらりとベッドから降りた。

 そして、灯火草の前に立つ。

 淡い光が、彼女の涙に濡れた顔を照らす。その光の中で、彼女の表情が少しずつ変わっていく。悲しみから、静かな怒りへ。



「……嫌」


 小さな声が漏れた。


「嫌よ……。この子たちは、毒なんかじゃない。誰かを傷つけたりしない」


 エリアナは振り返り、私を見た。

 その瞳に、かつてないほど強い炎が宿っていた。



「ブランシュ。……私、戦わなきゃ。自分のためじゃなく、この子たちの名誉のために」


 彼女は机に向かった。

 そして、一冊の分厚いノートを取り出した。それは彼女が10歳の頃から書き溜めてきた、植物の観察日記だ。

 彼女はペンを取り震える手で、けれど力強く書き始めた。


 この状況を打開するために。




 翌日の正午。

 再びグラキエス伯爵たちがやってきた。

 庭には大きな穴が掘られ、焼却の準備が整えられている。


「時間だ。運び出せ」


 男たちがエリアナの工房に入ろうとした、その時。


「お待ちください」


 凛とした声が響いた。

 車椅子に乗ったエリアナが、部屋の入り口を塞ぐように立ちはだかっていた。

 その膝の上には、私がいる。そして手には、昨夜一晩かけてまとめ上げた、分厚い羊皮紙の束が握られていた。


「往生際が悪いな。どくのだ」


「どきません。……グラキエス様。貴方は私の植物を『魔力汚染』と仰いましたね。その根拠は、測定器の数値が基準値より高いから、ではありませんか?」


「そうだ。基準値の三倍もの魔力を放出している。異常成長、すなわち汚染の証拠だ」


「いいえ。それは『純度』が高すぎるゆえの誤検知です」


 エリアナは、震える手で羊皮紙を広げた。

 それは、植物の成分分析表と、十年分の育成データだった。


「私の植物は、特殊な肥料配合によって魔力の循環効率を高めています。毒素が出るのは『循環不全』を起こした時だけ。……見てください、この葉脈のスケッチを。毒素があれば黒く濁るはずですが、私の植物は全て透明な緑色です」


 グラキエスが眉をひそめ、羊皮紙を覗き込む。

 そこには、王立の研究員ですら舌を巻くほど緻密なデータと、論理的な証明が記されていた。


「こ、これは……」


「素人の妄言だと言いますか?いいえ、記録は嘘をつきません」


 エリアナは真っ直ぐにグラキエスを見据えた。

 足は震えている。声も震えている。けれど、その瞳だけは決して逸らさなかった。


「私は、学園には行けませんでした。皆様のように、立派な論文を書く作法も知りません。……でも、生まれてから今まで、ほとんどの時間をこの部屋で過ごし、来る日も来る日も土の声を聞いてきました。植物と対話し続けて得たこの真実だけは、誰にも負けません!」


 彼女の叫びが、冬の庭に響き渡った。

 それは、か細い令嬢の言葉ではなく、一人の誇り高き令嬢の言葉だった。

 

「この子たちは私の誇りです。誰にも『ゴミ』なんて呼ばせません!」


 静まり返る庭。

 騎士たちも、その気迫に押されて動けない。

 グラキエスは顔を真っ赤にして、わなわなと震えた。論理で言い返せない屈辱が、彼の理性を焼き切った。


「口答えをするな……!ええい、構わん!焼き払え!この不敬な娘ごと屋敷を取り潰してやる!」


 権力による理不尽な暴力が、振り下ろされようとした。

 エリアナは私を強く抱きしめ、目を閉じた。それでも、一歩も退かなかった。


「――そこまでだ」


 鋭い声と共に、一陣の風が吹き抜けた。

 焼却の火を点けようとしていた兵士の松明が、何者かによって叩き落とされたのだ。


「誰だ!」


 グラキエスが振り返る。

 門の前に立っていたのは、王宮騎士団の団長服を纏い、威厳に満ちた大柄な男だった。



 以前、薬草の件で屋敷を訪れた、あのアレクシス・ヴァーミリオンだった。



「……ヴァーミリオン副団長!?な、なぜここに」


「王立薬草院の長官殿。……私の恩人に対し、随分な振る舞いですな」


 アレクシス様は大股で歩み寄ると、エリアナの前に立ち、彼女を守る盾となった。

 そして懐から、豪奢な書状を取り出した。そこには、国王の印章が押されている。


「陛下からの親書だ。『フォレスター男爵令嬢の植物研究を、王家として正式に保護・推奨する』とな」


「な、なんだと……!?」


「彼女の作った薬草は、騎士団だけでなく、王都の貧民街でも劇的な効果を上げている。陛下は、その功績を高く評価されているのだよ。……それを『ゴミ』として燃やそうとするとは、王家への反逆とみなすが?」


 グラキエスの顔色が、真っ青になっていく。

 彼は忌々しげに舌打ちをすると、「……覚えておけ」と捨て台詞を吐き、逃げるように去っていった。


 屋敷の庭に、静寂と、安堵の空気が戻ってくる。

 エリアナは、へなへなと車椅子の上で脱力した。

 張り詰めていた糸が切れ、涙が止めどなく溢れてくる。


 怖かった。本当に怖かったはずだ。

 それでも彼女は、守られるのを待つのではなく、自分の言葉で戦った。



「……ありがとう、ブランシュ」


 エリアナが、私の頭に顔を埋める。


「貴女がいてくれたから……私、言えたわ。私、守れたのね」


「ニャア(……ええ、立派だったわよ)」



 私は彼女の涙を舐めとった。ちょっとしょっぱいけれど、その味は忘れないなと思った。






 それから数年後。


 屋敷の人達の話し声で聞こえてきたことだが、かつてエリアナを断罪しようとしたグラキエス伯爵は、あの騒動をきっかけに王家の厳しい監査を受けることとなったらしい。

 結果、過去の不正な資金流用やデータの改ざんが次々と明るみに出た彼は、爵位と全財産を剥奪された。噂によれば、今は北の極寒の地にある鉱山で、ツルハシを振るう毎日を送っているという。


 彼が「ゴミ」と呼んだ植物たちが国を救い、逆に彼自身が国から捨てられるとは、なんとも皮肉な結末だ。


 一方、フォレスター男爵家の屋敷は、今や『聖女の薬草園』と呼ばれ、国中から薬師や学者が教えを請いに来る場所となっている。エリアナは、(ちまた)では「聖女」なんて言われて崇められているとか。

 エリアナは車椅子を卒業し、杖をつきながらではあるが、自分の足でしっかりと大地を踏みしめて歩けるようになっていた。



 私は、いつもの窓辺のクッションに寝そべり、その賑やかな様子を眺めていた。



 ……最近は、どうも体が重い。


 一日中、こうしてまどろんでいることが多くなった。毛並みの艶も少しあせたかもしれない。


 猫の時間は、人間よりもずっと早く流れる。それは変えようのない理だ。



 ふと、エリアナが作業の手を止め、こちらへ歩いてきた。

 彼女は私のそばに来ると、杖を置き、優しく私を抱き上げた。


 大人になった彼女の腕は、昔より少しだけ頼もしく、そして変わらず温かかった。


「……ありがとう、ブランシュ」


 エリアナが、私の頭に頬を寄せる。

 その声は震えていた。彼女には、分かっているのだろう。私に残された時間が、もう残りわずかだということが。


「貴女が私の部屋に来てくれてから、私の世界は変わったわ。……貴女が、私を外の世界へ連れ出してくれたのよ」



「ナァ(……大げさね)」



 私は、最後の力を振り絞って、彼女の頬をザリザリと舐めた。



 泣かないで、エリアナ。



 あの時、ベッドの上で震えていた少女は、もうどこにもいない。



 今の貴女には、支えてくれる家族がいる。共に働く仲間がいる。そして、貴女を慕う多くの人々がいる。




 もう、私が威嚇をして守ってあげなくても、貴女は一人で立っていける。




(……ああ、今回は、いい人生だったわね)




 前世の私は、深夜の自宅で誰にも看取られず、過労によりたった一人で息を引き取った。



 けれど、この二度目の生は違う。




 温かい日差しと、花の香り。そして、世界で一番愛しいご主人様の腕の中。




 こんなに幸福な幕引きが、他にあるだろうか。




 私の視界が、ゆっくりと白く滲んでいく。

 眠気が、波のように押し寄せてくる。



 それは死への恐怖ではなく、幸せな日々を過ごした充実感が満ち溢れていた。



(さようなら、エリアナ。……私の、自慢のご主人様)




 窓の外には、どこまでも広がる青空と、彼女が育てた緑が輝いている。



 私は安らかに目を閉じた。



「……おやすみなさい。ブランシュ」



 その最期の瞬間まで、私は彼女の温もりに満たされていた。







ここまでお読みいただきありがとうございました!

転生猫視点でお話を書いてみました!初めての試みだったので個人的には難しかったです。

ちなみに裏設定として、エリアナはアレクシス副団長と結婚しています!エリアナは幸せな家庭を築いて欲しいです。


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よろしくお願いします。

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― 新着の感想 ―
何で2次元の騎士とか明らかに、体が丈夫過ぎる者達は病弱な令嬢に惚れ、剰え結婚してしまうのだろう? 冷静に考えたら、そんなデカかったり体力バカ系と夫婦になって子を設けでもすれば明らかに、相手の寿命縮まる…
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