第八話 BOYS CRIED - ボーイズ クライド -
「良いか、サクラに手を出すな」
黒ずくめの男は私に銃を突き付けて言う。
違うのよ……。
サクラは私なの……。
私はそう必死に言うが、どうも相手には伝わらない様子。
「サクラは金の成る木だ。貴様らみたいなガキと一緒に居たら、その価値が下がっちまうからな」
私は猿轡の奥で必死に訴える。
私がサクラなんだってば、どうしてこうなるの……。
男のスマホが鳴る。
私は必死に縛られた手を外そうと藻掻いた。
「はい。はい……わかりました」
男は電話を切ると、私に再び銃口を向けた。
「許しが出た」
男はニヤリと笑うと、容赦なく引き金を引いた。
私は飛び起きた。
荒い息で肩を揺らし、嫌な汗をかいていた。
「夢か……」
私は、部屋の中を見渡す。
ベッドから落ち床に転がったスマホを取ると、メッセージが届いていた。
友達のトオルからと、今、夢で私が殺される原因になっていた水島桜子からだった。
「十四時にアランに集合」
桜子からはそんなメッセージ。
トオルからは直ぐに来いというメッセージだった。
とにかく、汗をかいて気持ちが悪い問題から解消しようと私はシャワーを浴びる事にした。
部屋を出てリビングに下りると、父も母も居て妹の奏美も窓ガラスを拭いていた。
「お、起きたか有名人」
と父が言う。
年末の大掃除をやっている様だった。
そうか。
掃除……。
手伝わなくて良いのかな。
私は手に持った着替えをバスルームに置いて、リビングに戻る。
「手伝おうか……」
私が言うと三人の動きが止まった。
「今年の正月は大雪か……」
父は私を見て呆然としていた。
あ、いつも手伝わない訳ね……。
ミステイクミステイク。
「なあんてね……。シャワー浴びて出掛けるよ」
私はバスルームへと向かった。
暑いシャワーを浴びて汗を流す。
もう完全に樹の身体にも慣れた。
そう、私は水島桜子。
でもひょんな事から不良の男子高校生、上村樹と入れ替わってしまった。
だから今、水島桜子としてテレビで活躍しているのは樹って訳。
先日、ストリートライブを私は桜子、トオル、そして不良の宮脇とやった。
その様子がネットにアップされていて、大騒ぎになってしまった。
アイドルグループカナリアンハミングのサクラこと水島桜子のシークレットライブって感じで、スポーツ新聞にも載っていた。
そして桜子の恋の相手は……、みたいな記事にも当然発展する訳で。
芸能界ってそんなところなのよね。
まあ、そんな事もあり、さっきの夢を見てしまったんでしょうね。
私はシャワーを終え、服を着た。
「ご飯食べるでしょ」
髪を拭きながらダイニングに出ると母が言う。
「うん……」
とだけ答え、椅子に座った。
普段は取っていないスポーツ新聞が置いてある。
私はそのスポーツ紙を開いた。
「なんと、水島桜子の恋のお相手は現役高校生」
なんて見出しで、私、じゃないや、樹の写真が載っていた。
しかも犯罪者みたいに目線が入っている。
てか、誰がこんな写真提供したのよ……。
新聞を見て硬直する私を、リビングから父、母、奏美がじっと見ている。
「アイドルと付き合うって大変でしょうに」
母はニヤニヤしながら言う。
「いずれサクラがお姉ちゃんになる事も有るんだ……」
奏美は嬉しそうに言う。
ある訳ないじゃん。
ってか、今、実はそんな状況なのよ……。
「お父さんに似てモテるねぇ……」
父は地雷を踏んだ様だった。
母がどういう事なのかと詰め寄っていた。
私は大掃除用に準備されていたおにぎりを食べて部屋に戻った。
髪をセットして、樹のプールオムを手首に吹きかけ耳の後ろにも付けた。
高校生の癖に生意気なって思いながら付けていたら結構使っちゃったので、新しいのを買っておこうと思いながらいつも忘れる。
私はベースを持ってリビングに下りた。
「出掛けて来るね」
私は外に出た。
誰も何も言わない。
樹、少しは家の事も手伝いなさい……。
私は家を出て駅へと歩く。
いつもならコンビニで肉まんを食べるのだけど、今日はさっき朝食を食べたところなので、パス。
そのまま電車に乗った。
家を出た時から少し違和感があった。
誰かに尾行されている気がする。
電車の車両の中を見渡す。
取り立てて怪しい人はいない。
気のせいかな……。
私はスマホを出してトオルと桜子にメッセージを返す。
流石の年末は結構冷えている。
電車の窓ガラスも外気との差で曇り、その水滴を垂らしていた。
私はやっぱり視線を感じて周囲を見る。
しかし誰も私を見ている人はいなかった。
何だろう……。
私はアランのある駅に着いて電車を降りた。
コンコースを抜けて、私は自販機で缶コーヒーを買った。
そのブラックコーヒーを飲みながら私はアランへと急いだ。
この間、一本入る路地を間違えたけど、今日は大丈夫。
ちゃんと一発でアランの看板が見える道に入る。
そして後ろを振り返った。
帽子を深く被った男が一人、私の方を見ていた。
私がその男を睨む様に見ると、男はそそくさと去って行った。
それを確認してアランのドアを開けた。
「寒いな……」
と私はカウンターの端に座った。
トオルは私の前に来て、丸めたおしぼりで私の頭を叩く。
「馬鹿……」
痛い……。
「何だよ、今日はベース持って来たぞ」
私はトオルに言う。
「そうじゃねぇよ。お前……」
トオルは声のトーンを落として言う。
「お前、結構な有名人なんだぞ。帽子被るとかサングラス掛けるとか、何かあるだろ」
私は、納得して頷く。
「なるほど……。全く気付かなかった」
そう言うと、またトオルは私の頭を叩く。
「馬鹿……其の二」
「其の二……」
トオルは私が手に持っている缶コーヒーを取り上げた。
「此処はバーだぞ。コーヒー持ち込んでどうするんだよ」
そう言った。
「邦楽ってそんなに難しいベースって少ないんだけど、中にはある。ただ、八十年代、九十年代の曲にそこまで凝ったベースラインの曲は少ない」
トオルが何枚かの譜面をカウンターに並べて見せた。
私にそんな知識はない。
どれも初めて見る楽譜で、確かにどれも難しそうでは無かった。
「まあ、音楽の基礎知識ってのが無いお前が、センスだけで此処迄やれているんだから、あんまり心配はしてないんだけどな」
私はマスターが淹れてくれたコーヒーを飲みながらトオルの話を聞いていた。
トオルは私の耳元で、
「これからタツキの奴がどんな曲をやるって言い出すかわからないからさ……」
そう言う。
ん……。
樹とまたやるの……。
「あ、そうだ……。タツキ、お前、宮脇の連絡先って知ってるのか」
私はスマホを開いた。
「確か、交換した気がする」
私は宮脇のSNSのアドレスを表示した。
「ほら……」
トオルはそれを覗き込んで、ニヤリと笑った。
ん……。
宮脇とやるの……。
「アイツ、なかなかいい音出してたじゃん。フィーリングも良いし」
でも、宮脇、私たちと一緒に何てやってくれるんだろうか……。
トオルはそのSNSの通話ボタンを押した。
「お、おい……」
トオルはまた笑って、
「まあ、見てなって……」
数回コールすると宮脇の声がスピーカーから聞こえた。
「上村……。この間はありがとうな」
宮脇の寝起きの様な声が聞こえる。
「宮脇、俺だ。相羽だ」
少し間があって、
「ああ、相羽……。お前のギターもなかなか良かったよ」
私とトオルは微笑む。
「あのさ、宮脇。今から出て来れるか」
「何で……」
「今晩もう一回一緒にやれないかと思ってな」
トオルはどんどん話を進めて行く。
って、言うか、今晩やるの……。
此処で……。
「お前らとならやりたいな……。良いよ。何処へ行けば良い」
トオルはアランの場所を説明していた。
私は二人のやり取りを聞きながらコーヒーを飲んだ。
「じゃあ、そう言う事で……」
トオルは通話を切った。
「おい、今晩やるなんて聞いてないぞ」
トオルはニヤリと笑う。
「タツキが招集を掛けるってのはそう言う事だろう」
私は、顔を引き攣らせながら頷いた。
宮脇は直ぐにやって来た。
「おいおい、アランって此処かよ。ミュージシャンの憧れの聖地じゃねぇか……」
店に入ると大声で言う。
「静かにしろよ……。お行儀悪いぞ」
私は宮脇に言った。
「あ、ああ。すまん。つい興奮しちまって……」
私の横に座りながら謝っている。
そして店内を見まわしている。
私は宮脇の腕を叩いた。
「ジロジロ見ない」
「あ、すまん」
宮脇は頭を掻き、手に持っていたドラムのスティックをカウンターに置く。
スティックケースに「N.MIYAWAKI」とネームが入っていた。
「もしかして、ノボルの息子さんかな」
マスターが宮脇に言う。
宮脇のスティックケースを指差した。
「ノボルもそれを持ってたからね」
「親父、知ってるんですか」
マスターはニッコリと微笑むと、
「昔は此処で良く叩いてたよ」
とステージを見る。
宮脇は椅子から立ち上がるとステージへと向かった。
そしてそこにセットしてある年季の入ったドラムセットに触れた。
「ノボルによく似てるな」
呟くマスターを見ると、嬉しそうに微笑んでいた。
その後、私たちは昼食に特製カレーを食べて、樹が来るのを待っていた。
十四時を少し回った頃に樹が店に駆けこんで来て、息を切らしていた。
「そんなに慌てなくても……」
トオルは樹、水島桜子の前に水を出す。
「ありがとう。収録が押しちゃってさ。でも今年のお仕事は今日で終わり」
樹はニコニコしながら言う。
「明日の紅白も出れないしね」
紅白か……。
いつかカナハミが紅白に出る事なんてあるんだろうか……。
「あの……。この間の……」
宮脇は樹の顔を覗き込んで言う。
「あ、この間はどうも。カナハミのサクラです」
完璧なアイドルスマイルで樹は宮脇に挨拶した。
「え、カナハミってあの……」
宮脇は無意識に手を服で拭くと樹の前に手を差し出して握手をしていた。
「何か凄い人とストリートやったんだな……」
そいつ、お前が何度も殴られた樹だよ……。
私はそう考えると可笑しくなった。
「今日はさ、お願いがあってさ」
樹は二杯目の水を飲んで言う。
ん……。
お願い。
珍しい事も有るな。
樹の知り合いでドリーミングキャットってバンドが居るらしい。
先日知り合って、仲良くなったそうだ。
そのバンドが今日ライブハウスでライブをやるらしくて……。
でもチケットも売れてなくて、今日、集客出来なかったらバンドは解散って事になっているそうだ。
「結構良いバンドなんだけどね。プロモーションがダメダメでさ。拾ってくれる事務所もないらしくて、切羽詰まってるんだよ」
樹は一人遅れて大盛の特製カレーを食べながら言う。
「それをどうすんの……。チケ売り手伝うのか」
トオルは樹の前のグラスを取り、水を注いだ。
樹はニヤリと笑って、
「そこで今晩、やってみない」
「はぁ」
私たち三人は声を揃えて言う。
人のライブをジャックするの……。
宮脇とトオルは首を傾げた。
「それって、どうせ解散するバンドだから、ジャックしてしまおうって事か……」
樹は首を横に振る。
「先にネットにリークするんだよ。ドリキャのライブに私たちがゲスト参加するみたいって噂を流す」
私たちって……。
皆が見に来るのはカナハミのサクラだけじゃんか……。
私は頬杖を突いて樹を見る。
樹は三人の冷めた顔を見て、人差し指をクイクイと曲げて私たちを呼ぶ。
そして樹はカレーのスプーンでトオルの額をコンと叩いた。
「ネット見たでしょ……。今、注目されてるのって私だけじゃないんだよ。この間のストリート、あれって業界でも凄い話題になってるんだよ」
まさか……。
あの程度のストリートライブで……。
ん……。
待てよ……。
「た……サクラ、まさか、あれネットに流したのって……」
樹はニヤリと笑った。
ダメだ。
完全に樹の手の上だわ……。
私は溜息を吐いた。
私たちはSNSを使い、今晩のドリキャのライブにカナハミのサクラたちがお忍びでゲスト参加するらしいという噂を流した。
ホットな話題だけあって、その話は一気に拡散された。
樹の電話が鳴った。
「うん、うん。オッケーわかった。じゃあ後で」
樹は電話を切った。
「チケット完売したって」
私たちは無言で顔を見合わせた。
「しかも、座席取っ払ってオールスタンディングにしたらしくて、当初の倍の客が入るって」
サクラのパワーって恐ろしいわ……。
樹の話では、更に音楽関係者の席を作るらしく、これでドリキャのメンバーも救われるかもしれないと言う。
「私たちのバンドの名前、どうする」
サクラはマスターの作ったパフェを食べながら言う。
バンドの名前……。
そうか。
バンドとしてやるのか……。
「サクラアンドフレンズとかでいいんじゃねぇか」
とトオルは言う。
私も賛成。それでいい。
「やだ」
サクラは一蹴する。
「私をメインにって考えるのは止めて」
って言われてもなぁ……。
「タツキでしょ、トオルでしょ……。宮脇君って名前何て言うの」
宮脇は突然振られて驚いていた。
「あ、タモツです」
宮脇ってタモツっていうのか……。
「タツキ、トオル、タモツか……T3、ST3で行こう」
なんとなくだけど、バンドの名前も決まった。
こんなんで良いのかな……。
そうしている間にもネットへの書込みは途絶えず、チケットを買えなかった人たちからの書込みも多かった。
何かやっぱ樹って凄いわ……。
「ちょっと電話してくるね……」
と樹は店の外へと出て行った。
ライブハウスの周辺にも凄い人だかりが出来ていて、私たちはその人の中を無理矢理タクシーで通り抜け、裏口から入った。
既にドリキャのライブは始まっていて、私たちはその演奏をステージの脇で聴いた。
「ドリキャのメンバーはさ、管弦楽部のメンバーで作ったバンドなんだって……。基礎的なモノは完璧なんだよ。だから作る歌も綺麗なモノが多い」
私は樹の話を聞いた。
私の肩を樹が思いっ切り叩いた。
「今日のラストは彼女たちとセッションだからね」
樹は笑っていた。
ステージは結構盛り上がっていた。
サクラを目当てに来ている客も多いので、ドリキャの歌を初めて聴いたって客も多い筈なんだけど、初めて聴いて良い曲だって感じた人も多いのだろう。
「では、ここで今日のシークレットゲストをお呼びします」
ステージでそんな声が聞こえた。
「ST3のメンバーです」
私たちは顔を見合わせて頷き、ステージへと出て行った。
大歓声と照らされるライトで気分は高揚していく。
サクラも正体がバレている事もあり、初めから帽子も被っていない。
私たちは先日ストリートでやったやんちゃなバンドのバラード曲から始めた。
ネットで流れた事もあって、客席もそれを待っていたかの様に聴いていた。
不思議と緊張も無かった。
私たちは先日のストリート同様に笑いながら演奏する事が出来ていた。
立て続けに二曲目。
比較的新しい曲で童貞系バンドと失礼な異名を付けられたバンドの代表曲で映画にもなった。
映画の中で主演女優がその曲をライブハウスで歌うシーンもあった。
私もこの曲は好きかな……。
正にじゃがいもの芽の毒っぽいかな……。
「どうもサクラです」
と樹がキーボードの前でMCを始める。
大歓声が上がる。
サクラファンがこのところ異常な増え方をしていて、どんな年齢層にもファンがいるという感じになって来た。
「私はカナハミが大好きです。こうやって勉強のために色んな音楽をやっていますが、カナハミを辞める事はありません」
そんな樹の言葉に歓声が上がる。
私にも嬉しい言葉だった。
「ではカナハミから一曲、聴いて下さい」
私は樹に頷き、ベースを弾いた。オーディナリーデイズ。
この曲での樹と私の感情の入れ方は限りなく似ている。
上手いアレンジがこのライブハウスに合っている。
やっぱすごいや……樹。
客席から手拍子が起こり、バンドが音を止めても手拍子と歌声が続く、心が震えた。
こんな感動はアイドルのステージでは経験する事が出来ない。
私は樹の歌う姿を見て微笑んだ。
完全燃焼とも言える演奏をした。
私たちはステージの前に並び、全員で手を繋いで挨拶をした。
そしてステージを下りた。
客席からアンコールの声が聞こえた。
「さあ、最後の一曲、行こう」
と樹が声を掛ける。
後ろを振り返ると、トランペットやサックスを持ったドリキャのメンバーが立っていた。
そのメンバーにサクラは微笑んだ。
「最後って何を歌うの……」
私は樹に訊いた。
トオルと宮脇が私の肩を叩いてステージに出て行った。
「ベース貸して……」
と樹が私に言う。
私はベースを樹に渡すと、
「最後はあんたが歌うんだよ」
と言って背中を押した。
「頑張ってね」
とドリキャのメンバーのステージへと出て行く。
「尾崎豊、群衆の中の猫。好きでしょ」
樹は私に微笑んで、ベースを持って出て行った。
私の一番好きな歌……。
やってくれたな……樹。
私は涙が溢れそうになるのを、上を向いて堪えた。
「あの馬鹿……」
私は意を決してステージに出た。
ドリキャのメンバーも管楽器を持って立っている。
ベースを持つ樹に、ドリキャのキーボードの子が鍵盤を叩いていた。
樹が私の横に立ち、私の頭を押さえて一緒にお辞儀をすると、客席から笑いが起こる。
「では、今日はドリーミングキャットのライブに来て頂いて本当にありがとうございました」
ドリキャのリーダーが私たちの横に並び、そう言う。
客席からまた大きな声が響く。
「では最後になりますが、私たちドリキャは得意なトランペットとサックス、キーボードで参加させて頂きます。歌の方はST3の皆さんにお任せしたいと思います」
また歓声が湧き起こる。
「はい。今日はドリキャのライブという事もあって、猫の歌で締め括りたいと思います」
樹はそう言って、ベースに手をやった。
ライトが消えて、ドリキャのトランペットの子にスポットが当たる。
トランペットのソロでイントロが始まる。
そしてそれにサックスが合わさって行く。
樹のベースがリズムを取り、徐々にドラム、ギター、そしてメロディラインのキーボードが合わさって行く。
客席でもこの曲に気付いたのか、大きな歓声が起こった。
私は感極まっていた……。
今にも泣きそうになりながら、スタンドマイクを握った。
私が声を発すると、歓声を上げていた客席が静まり返った。
そしてすべての人が私の声を聴いているのを感じた。
私のブレスさえ聴こえてしまう程の静寂だった。
私の目から、堪え切れずに涙が溢れて来る。
その涙が頬を伝い流れ落ちる。
この歌をステージで歌う日が来るなんて考えてもみなかった。
昔、この曲を初めて聴いた日。
私は止めどなく涙を流しながら聴いた事を思い出した。
こんなに優しい歌がある事を知り、私は歌を歌いたいと思った。
この歌を人の心に伝えたいと思った。
それが私の原点だった。
優しく肩を抱き寄せよう……
私は樹と一緒に歌いながら、崩れ落ちそうになるのを堪えた。
そして、涙で光る視界が揺れる。
サビに入り、ドリキャのリーダーも一緒に歌う。
すると、客席からも歌声が聴こえて来た。
優しく肩を抱き寄せよう……
大合唱するようにその声がライブハウス中に響く。
私も客席にマイクを向けてその声を拾う。
私と同じ様に涙を流し、胸の前で両手を組んでいる客がいた。
私の歌が人の心に響いている。
それを感じた。
最後のサビの前でバンドの皆が音を止めた。
それと同時に客席の声も止む。
私はその静寂の中に、
優しく肩を抱き寄せよう……
そう伝える様に声を響かせた。
歌のその部分だけを客席は歌い続けている。
私たちはステージ上の皆で手を繋ぎ頭を下げた。
その歌声の中、私たちはステージを去った。
全員がステージから居なくなっても、まだその声は聴こえていた。
大きなステージを終えた気分だった。
私たちは控室の椅子で座り込んでいた。
お客さんも帰り、静かなライブハウスだった。
「ほら、タツキ」
とトオルが私にペットボトルを渡し、隣に座った。
「お前の歌って不思議だな……」
トオルは微笑む。
「直接心に響く」
そう。
それは私じゃなく樹の持つ魅力だ。
私はそれを感じていた。
樹も最後の曲にそれを感じていたのかもしれない。
水島桜子が歌うのではなく、上村樹が歌う曲だと……。
「打ち上げ、断ったけど良かったよね……」
と樹が部屋に入って来た。
私たちは頷き、それぞれの楽器をケースに入れた。
ドリキャの実力はファンにも音楽関係者にも十分に伝わり、私たちは役目を果たした。
今は、この心地良い余韻に浸っていたい。
私は純粋にそう思った。




