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フィッシング

作者: 雉白書屋

 釣りが趣味のとある男。休日を利用し、人里離れた池へと足を運んだ。ネットで、『かなり大きな獲物が釣れる』という情報を見つけ、期待に胸を膨らませての釣行である。

 池の縁に折り畳み椅子を広げ、釣り糸を垂らすと、さっそく手応えがあった。


「これはなかなかの……え」


 引き上げたのは、古びたブーツだった。

 男は思わず照れ笑いを浮かべ、周囲に誰もいないのにもかかわらず、『こんなことあるんですね』といった表情を浮かべた。

 それから、まあ、誰も見ていないなら……。そう思い、ブーツを池に戻そうとした。

 だが、ふと手を止めた。


「これ……おれが昔履いてたブーツと同じだ」


 それは、彼が数年前になくしたブーツによく似ていた。酔った勢いで居酒屋で他人の靴を間違えて履き、そのままホテルまで行ってしまった記憶が蘇る。

 懐かしさに頬を緩めつつ、ブーツを脇に置き、釣りを再開した。

 少しすると、また手応えがあった。そして、引き上げた瞬間、彼は思わず息を呑んだ。

 針にかかっていたのは財布で、それも昔なくした自分のものとそっくりだったのだ。


「確か、ホテルに忘れたんだよな……先払いだったから気づかなかったけど、まあ、大事なものは学生証くらいで、金もそんなに入っていなかった……えっ」


 今度は声を失った。中を改めると、汚れた学生証が出てきたのだ。それは確かに自分のものだった。

 彼は黙りこくり、考えた。

 誰かが財布を拾って、ここに捨てた。……だが、現金は入ったままだ。当時の金額は覚えていないが、たぶん手つかずだろう。ホテルからこの池までの距離を考えると、わざわざここまで捨てに来たとは思えない。それに、このブーツもやはり、おれがなくしたものに思えてきた。ということは……。


「この池……今までおれがなくしたものが釣れるのか?」


 そう結論づけた彼は、震える手で再び釣り糸を垂らした。

 すると、思った通りだった。おもちゃ、折り畳み傘、鞄、ベビー服、本、下着、腕時計、ネックレストップ、通帳、整髪剤、ピアス、どこでなくしたのか覚えていないものや、新人時代(数年前だが)になくした会社の資料――自分がなくした覚えのあるものが次々と釣れ上がった。

 彼は戸惑いと懐かしさの狭間で揺れながらも、思わぬ掘り出し物を見つけたような感覚に楽しくなり、釣りを続けた。


「おっ? お、お、お……」


 今度は、これまでで一番強い引きだった。椅子から立ち上がり、体全体で竿を引く。

 次はいったい何が釣れるのか? バイクか? いや、あれは売ったな。では、ギターか? それも売ったか。じゃあ――


 突如、背筋に冷たいものが駆け上がった。

 水面から現れたのは、真っ白な手だった。

 雲がかかった薄日の下、細く長い指が、まるで光を放つように水面を突き出していた。

 その細い指の一本が、きらりと光った。

 次の瞬間、かかっていた力がふっと消えた。

 彼は尻餅をつき、その弾みで視線は空へ向いた。慌ててすぐに池に戻したが、もうそこには波紋すら残っていなかった。

 釣り針を確認すると、一つの指輪がかかっていた。

 彼は指輪を手のひらに載せ、じっと見つめた。それは、かつて彼が女性に贈ったものだった。


「どうして……いや、女を“失った”という意味では、なくしたものと言えるか……」


 彼は深いため息をつくと、ふっと笑って立ち上がった。そして、これまで釣り上げたものを池へと戻し、最後に釣り竿を投げ入れた。


 今日のことは忘れよう。過去は過去でしかない。それに懐かしむほど年老いてな――


 彼は思わず照れ笑いを浮かべた。そして、『こんなことあるんですね』といった表情をした。

 服の襟元に釣り針が引っかかったのだ。

 外そうと手を伸ばす。


 ――いや。


 そのとき、気づいた。これは池に投げ込んだ竿の針ではない。今、池の波紋は消えかかっている。だが、そこから糸が一切伸びていないのだ。では、この釣り針はどこから……。


 次の瞬間、足元がふわりと浮いた。

 次第に高く持ち上がる体。

 空を見上げると、薄曇りの中に水面の波紋のような揺らぎが浮かんでいた。

 彼は考えた。

 今、おれを釣り上げようとしているのは、いったい誰だろうか。かつての女か。ただ、それはどの女で、今、おれにどんな感情を抱いているのだろうか……。

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