損失
ラーメン店のカウンター席にいた。食べ終わり、ポケットから硬貨を取り出す。ポトリ。音も無く100円が一つ落ち、そのまま厨房の方へ転がっていく。
「ああ」声にならない声を上げ100円を追いかける。が、厨房のどこにも見当たらない。ズカズカ入り込んで「100円落ちてませんか!?」と凄むのは迷惑になると分かっている。100円は諦めた。私はそういう男だ。
会計で830円ちょうどを支払う。「またお越しください!」レジの若い女の子が可愛く声をかけてくれた。これに100円多く払ったと思えば安いもの。「お客様」そこへメガネをかけた、太った男が声をかけてきた。「さっき落とされましたよね?」そう言って厨房へ転がっていった100円を渡してくれた。さも迷惑だと言わんばかりに。「ああ、ありがとう」私は店を出た。
「あのメガネめ!」悪態をついて車に乗り込む。女の子に声をかけられ、折角いい気分になっていたというのに。確かにメガネが迷惑がるのも無理はない。職場から不明な金が出てくるというのは面倒なものである。売上金の超過が最も処理に困る。たとえ100円であっても。
ラーメン店の前には1000円の散髪屋がある。そこで髪を切った。物価高騰の折、今では1200円だが。
「いらっしゃいませ」。二人の店員が居て、客は誰もいない。券売機に1000円札を入れようとするが、端が曲がってうまく入っていかない。私の挙動をジッと見つめる二人の店員。手が震えた。平静を装う。何とか二回で入った。チャリンチャリン、あとの200円を入れるなぞ造作もない。
「どのようにしますか?」、「立つぐらい短く」。私としては短く刈り込んで、二か月に一回程度の散髪にしたいのだが、ここではいつも長めに切ってしまう。ここから20キロほどのショッピングセンターにある、1050円の散髪屋では思い通りの長さに切ってくれるが、そこまで行くのが億劫だ。妥協してこの散髪屋を訪れたのだ。
「これくらいですか」。小さい鏡を持ってきて、後ろの切り具合を見せてくれる。うん、やはり長すぎる。「あ、大丈夫です」。これでは40日ほどしか持たない。妥協して訪れた散髪屋では、満足度もやはりそれなりなのだった。
銭湯にやって来た。ここに通うようになって10年が経つ。
「あ、これでいいですか」スタンプが埋まったカードを差しだす。「ありがとうございます、新しいカード出しますね」。店員のオバサンはスタンプを一つ押した、新しいカードをくれた。無料で入るのはこれで3度目だ。今年だけで。
今年だけで3度、無料で入れたという事は、少なくとも30度は無料の恩恵を受けれたはずである。しかしそうはならなかった。スタンプカードを使ってみよう、そう思い立ったのは今年の初めだったのである。10年目にして、客の殆どが下駄箱のカギと一緒に提示するカードを見て改めて思ったのだ。自分もスタンプを集め始めたらどのくらいで集まるのか、と。実際に集め始めると、スゴイ勢いでスタンプは押されていった。大体4か月でカードは埋まってしまう。10年だと30×700円で21000円だ。私はそれほどの損失を被ったのか?こんな真実は知りたくなかった・・・
湯船につかれば大体の事は忘れる。向かいには、金のネックレスをした強面の老人がいた。こういう手合いが昼間から銭湯に浸かっているのをよくみる。私は非番のサラリーマンである。いつも土日に休みたいと思っているが、いつも土日に休む家族持ちの上司や同僚の代わりに、ウイークデーに非番と週休を充てられ、土日に出勤しているわけである。いわば金ネックレスとは真逆の存在だ。金ネックレスの隣に、オドオドした自分と同じくらいの初老の男が浸かっていた。彼はボウズで・・・、いや、モヒカンだ。オシャレなモヒカンである。あのオドオドした感じと、芸能人がするようなオシャレなモヒカンがどうにもアンバランスだ。しかしモヒカンさんの髪がキマッているのは事実である。私の妥協した髪とは違って。おまけに切ったばかりの髪の毛が2、3口の中に入り、中々出ていってくれない。口の中をモゴモゴさせながら100数えてから湯船を出た。
銭湯の自販機でお茶を買わなかったのは、帰り道の橋の手前に100円の自販機があるからだ。130円のお茶が100円で買える。もちろん安い方を選ぶだろう?
「お前、人が良すぎるよ」昔からよく言われる。10年前、当時の彼女から100万円を請求された。彼女が既婚者だと、その時初めて知らされた。不倫の示談金100万円、それが相場だという。結婚詐欺だとすると被害者は私のはずだが、向こうの弁護士はそういったのだ。こちらには弁護士なぞいない。あれよあれよという間に払わされた。夫の方は古い顔なじみだ。今思えば夫婦で共謀したのだろう。確かに彼女との出会いは不自然だった。それ以来他人と深い付き合いをするのは辞めた、確かに、私の本質は昔と少しも変わってない。
ガチャン。自販機からお茶が出てきた。温かいお茶が。乾いた喉がいっそう渇きを覚えた。冷めるまでとても口に出来ない。今日だけで一体どれくらいの損失を被ったというのか。
ギャンブルと一緒でプラスになることは絶対に無いのだ。人生は。橋を渡って川を越える、川の向こうに田園風景が広がっていた。いい眺めだ。マイナスの人生でも、それほど悪くはない。