第56話 お兄様のいない部屋。残された二人の物理的な距離。現場にあらわれた――。
パタン――。遠くで扉が閉まる。静かになった部屋で、カナデはすっと目を開いた。
すると、ベッドに横たわっている婚約者と目が合う。
猫を怯えさせぬよう、大きな瞳から視線を逸らす。
「お兄にゃーん……」
「俺で我慢しろ。お前の兄は外出中だ」
寂しげな声に応えてやりたいが、彼女の一番の願いは叶えてやれそうにない。
クールな男はこれから別室で来客と話をするという大事な用事がある。
来客――。詳しく聞いたわけではないが、ハナの嫌いな医者のことだろう。
術者や研究者とて同じだ。彼の弱々しい婚約者は真面目な話をする人間も嫌いらしい。
現在風邪の初期症状に似た悪寒に悩まされている悪役令嬢ちゃんは、猫のような瞳でじっと、黒髪の男を観察していた。
『ハナちゃんの望みをすべて叶えてくれる婚約者』を。
だが『お兄様を引き留める』『お兄様と入れ代わる』『お兄様を呼びに行く』といったことは一切してくれないらしい。
ハナちゃんは考えた。きっと『婚約者』というのはクールなお兄様がいないときに現れる生き物なのだ。お兄様の代わりにお願いを聞いてくれるのだろう。
お兄様……。思わず「お兄にゃーん……」とお兄様を呼びたくなってしまう。
『少しの用事』はいつ終わるのか。「お兄にゃーん……」
「寂しいのか」
ハナちゃんはハッとした。寂しいという言葉を聞いたせいで。
視界が揺らいだことで、感情も余計に揺らぐ。
幼児と同じくらい寂しがり屋で、お兄様のお部屋で寝ているのにお兄様がいないうえにカナデがいる、そして『お前は寂しがっている』と指摘されたことで最高に寂しくなるという事態に陥ってしまった悪役令嬢ハナちゃん十五歳のお目目から、ぽろりと涙が零れる。
――?!
そしてカナデは、明らかに自分の言葉のせいで泣き始めた婚約者に、表情を変えぬままぎょっとした。
もしもこの場面を彼女の兄が見れば、いきなり攻撃魔法を放ってきそうなほど悲し気に泣いている。
口をへの字に曲げ、美しい瞳から大粒の涙をぽろぽろ、ぽろぽろと落とし。
内心動揺しているカナデはおもむろに立ち上がり、ベッドにギシ――と手をついた。
「ハナ――」
◇
ハナちゃんのパパは己が溺愛する娘が猫から娘に戻ったこと、少々問題があり、現在寝込んでいるという衝撃的な知らせを受け、仕事の予定を少しばかりずらし、急遽家に帰って来ていた。
斜め後方でスケジュールを読み上げる秘書に曖昧な言葉を返しながら、長男の部屋へ。物音に敏感な娘を驚かせぬよう極限まで音を殺し、ス――と扉を開ける。
まるで特殊部隊の人間のように無音で、誰に似たのか分からぬほどクールに育った長男の部屋のベッド前に忽然と現れた、幼児のように愛らしい悪役令嬢ハナちゃんを溺愛するパパと秘書。
の目に飛び込んだのは、天使の纏う薄絹のように繊細なナイトドレスに身を包み、泣きはらした顔をした天使と、同じベッドの上で天使を背後から抱き込み、折れそうな細腰に腕を回し、極めつけに、もう片方の手で指を絡め合う艶やかな黒髪の悪魔だった。
◇
抱っこと健全な接触により、弱々しい婚約者を無事泣き止ませることに成功したカナデの前に、千代鶴家当主であり千代鶴財閥総帥である男が現れた。が、何故かすぐにいなくなった。
「じご――」「お気を確かに――」と聞こえたのは気のせいか。人間に戻った娘を見て安心した。というにはいささか物騒な声音だったが、この家の当主はもともとああいう声だったか。
――このあともう一度部屋に乗り込もうとしたパパはおっとりした超美人妻から子供達を信じられないのは育児に参加する時間が極端に短いからではないのか、とおっとりと問われ、――ピシャーン――と雷に撃たれたかのように立ち尽くし、秘書と共にスケジュールの調整を始めることになった。が、やはり心配なのでボディーガードに見張りを頼んだ。無条件に信じるには黒髪の男は美麗すぎたし大人びた風貌であった。
視線ひとつで自身の配下を手足のように動かす桔梗院カナデ様を『子供』と認識する人間はほぼいないだろう。
◇
お兄様のベッドでふんわりと抱っこされ、若干落ち着いたハナちゃんが考えていたのは、一瞬だけ声がしたパパのこと、ではなかった。
お兄様と、お兄様を狙う『大悪党』のことである。
クールなお兄様の親友のカナデなら、『自称お義姉様』の退治を手伝ってくれるのではないだろうか。
ハナちゃんの爪で死にかけるほど弱々しい男でも、味方がひとりもいないよりはマシである。
愁いを帯びた瞳の悪役令嬢は、お兄様のように大きな手をきゅ……と握ると、幼い頃からの悩みを打ち明けるべく、初めて自分からカナデに話しかけた。『お兄様』以外の言葉で。
「わたくし、とても困っているのですにゃーん……」




