第42話 懐かぬ猫の魅力。怪しい鳥かごと一人と一匹。に近付く――。
猫は警戒しているようだ。
綺麗な猫目が彼を観察する。ハナは返事をせず、口をムッとへの字にした。
耳はこちらを向いているが、サクラには返事をしたくないらしい。
普通の人間であれば何かしら答えそうなものだが、あの千代鶴ハナならこんなものだろう。気長に待つしかない。
視線を合わせず、長いまつ毛をふせる。猫をじっと見つめるのは厳禁だ。
喧嘩を売っていると思われかねない。
数秒後。彼が自分を見ていないことで少々安心した悪役令嬢ハナにゃんは、ゆっくりと動き出した。
警戒心の強い猫のような仕草で彼の前まで移動し、じわじわと手を伸ばす。
――なんだ? サクラは表情を変えぬまま驚いていた。視線の先に、揃えた指先をまるめたハナの手が近付いてくる。いたずらをする猫手のような挙動で。
じっとしていると、ハナの指先が彼の手の甲にちょん、とふれた。
サクラは謎の感動を覚えた。幼稚園児のときの千代鶴ハナを思い出したのだ。周囲の人間と手を繋ぐことを嫌がっていた姿を。あの、『背を向け、完全なる拒否の姿勢を示す猫』のようなハナが。自ら、人間の手を。
悪役令嬢ハナにゃんに知られたら猫パンチをくらいそうなことを、サクラが考えていたときだった。
ふわり――。
ハナの体が淡く光り、神聖な空気が漂う。
この力は、さっき泉のそばで――。そう考えた瞬間、腕の傷が癒えたのが分かった。
黒ずくめの男との戦闘で負った、サクラにとってはなんてことのない傷が。
まさか。彼の心臓がドクンと跳ねた。
それは、『千代鶴ハナは聖女と呼ばれる人間である』という事とは、全く関係のない驚きであった。
一般市民なら驚愕どころではない大問題だが、世の中の大抵のことに面白みを感じない男にとってはそうではない。
あの、千代鶴シオン以外に懐かぬ子猫のような生き物が、どうでもいい人間の治療を――!
日々、この国の政治家が起こし続ける問題などよりも、よほどセンセーショナルでショッキングな事案である。狭い場所に隠れて永遠に出てこない子猫のようなハナが、名前を知っているかすら怪しい同級生の、それも男の怪我を治したのだ。千代鶴の人間ではない男を。
――例えるならば、十年間遠くから生死の確認だけをしていた他所の家の猫が、ある日突然、自分のとった獲物を見せに来てくれたくらいの衝撃ではないだろうか。
猫好きだが猫に好かれたためしのない男は、千代鶴シオンが妹を大事にする気持ちを深く、コラ半島超深度掘削坑ほど深く理解した。
そして、女性に大して心から『可愛い』と思う気持ちも。
気の強いというよりも鬼畜という言葉の似合う女しかいない胡蝶には、猫のように可愛らしい女は存在しなかった。恩返しというわけではないが、あのクールな男がいない時ぐらいは護ってやろう。
怖がりな猫が自分から歩み寄り、治療をしてくれたのだから。
――悪役令嬢ハナちゃんが爽やかでサディスティックな味方を手に入れた、奇跡の瞬間である。
◇
「ありがとう。ハナのおかげで死なずにすんだよ」
巨大な鳥かごの端に戻ってしまったハナに、サクラが礼をいっていた時。
悪魔の居城か、というような薄暗い空間にボッ――と音を立て、いくつもの蠟燭に火が灯った。鳥かごが置かれていたのは円形の広間のようだ。羽のある魔物の像が、燭台を掲げている。
「お兄にゃーん!」
悪役令嬢ハナの悲鳴がにゃーんと響き渡る。
しかし現れたのは兄ではなかった。
黒い翼を持つ黒髪の男が、キィ――と檻を開け、入ってきたのだ。
艶やかな黒髪。金色の瞳。整い過ぎた貌。凍えるような眼差し。
明らかに人ではない、高位な生き物。
悪魔――。遺跡の管理者が人間ではなかったことに、サクラはなるほどと納得した。
寿命が長い生き物に任せれば、一々引継ぎをせずに済む。契約の更新は必要だろうが。
立ち上がり、震えるハナの前に立つ。殺す気で魔法を放たれても一度くらいは防げるだろう。
とはいえ、管理者から敵意は感じない。一体何のためにさらったのか。
「…………」
悪魔の目が、サクラを映す。ゆるりと手を持ち上げ、肩に手を伸ばし――かけたところで、シュッ! と悪役令嬢が飛び出した。
「にゃーん!」と。
ほっそりとした手を鉤爪のような形にして。
「ハナ、引っかいて勝てる相手じゃない。下がってて」
サクラは腕を伸ばし、ハナを抱きとめ、背後へ戻した。
くるりとダンスでも踊るかのように。
◇
御曹司一名、半分猫な悪役令嬢一名、誘拐犯な悪魔一名が、巨大な鳥かごの中でごたごたし始めたころ。
悪役令嬢の兄、シオンのもとに、ひとつの映像が送られてきていた。
『怪しげな機械』へと。幼い妹が映ったそれが。
「殺す――」
クールな声が物騒な言葉を吐く。シオンの手元から、ミシ――と音が鳴る。
「壊すな」
カナデは足を止め、クールな男が機械を破壊する前に、それを奪った。
まさか、ハナに何かが――と。




