第二話『旅路』
――世界に人族と魔族を作ったのは、単純な好奇心がきっかけだったように思う。文明は対立を経るごとに強くなり、最盛と衰退を繰り返しながら強くなる。そんな理屈を後付けで見出したのは、ずいぶん後のことだった。
それが正解だったのか不正解だったのか、それについてはよくわからない。争いが英雄を生んだのかもしれないし、そうでなくてもカヴォイは失墜していたのかもしれない。自分の運命の分かれ目がどこかなんて、思えば気にしたこともなかった。
ただ、一つ言えることがあるとするならば……
「『英雄』無しでこれをしのいでた時期の方が長いとか、割と正気を疑うんだが」
――目の前で咆哮する怪物を見上げ、カヴォイは思わずそうこぼした。
体長は――五メートルほどだろうか。黒々とした外皮に身を包み、丸太のように太い手足はロクな刃物を通しそうにない。右手には棍棒を握りこんでおり、そのひと振りをまともに受ければ人間は原形をとどめないであろうことが容易に想像できた。
「警告の割には大したことないって、思ってたんだけどな……」
実際街道を三十分ほど歩いてきたが、ここまでほとんど生物と遭遇してこなかった。戦火で生物もろとも焼かれたものだと、そう解釈していたのだが。
「主犯はお前ってわけか……」
こちらを見下ろすその瞳は濁り、もはや理性を感じない。今は奇跡的な均衡を保ってはいるが、どうせそれもすぐに壊れる。一たびあれの視界に入れば最後、つぶれて果てるまでその暴虐がやむことはないだろう。……そうやって、この街道は真に静寂を得たのだ。そしてそれは、きっとカヴォイも例外ではない。一分生存できれば奇跡、逃走に成功なんてすればもはや一生の武勇伝。目の前にいるのは、そういう類の怪物なのだから。
――だが、こんなところで躓くわけにもいかないのだ。
「……さて」
一度目をつぶり、ゆっくりと息を吐く。精神を集中し、神であったころに比べれば残りかすにも満たない量の魔力を集中する。無駄遣いはできない。勝負は一瞬、そこで決めきる。
「…………閃光よッ‼」
全力の詠唱とともに、カヴォイはぎゅっと目を閉じる。その直後、網膜を焼き切るかのような極光が弾けた。
「グ……アアアオッ!」
突然の閃光に反応できるはずもなく、目つぶしをまともに受けた怪物はうなり声をあげた。それを合図にカヴォイは目を開け、もう一度魔力を集中する。
「……風よ、奔れ!」
両手を合わせて作られた空洞から風が漏れ出し、意思を以て渦巻きだす。それは瞬く間にカヴォイの全身を包みこみ、見えざる鎧を形成した。
「……『風の羽衣』!」
全身にまとう風にそう名付け、カヴォイは魔物に向かって地面を全力で蹴り飛ばす。大地を蹴り上げると同時に上昇気流が発生し、その体は高く高く舞い上がった。魔物の身長よりも十分に高い位置を取ったことを確認して、続けて叫ぶ。
「……爆ぜろッ!」
その言葉に呼応して、カヴォイの足元に渦巻いていた風が炸裂する。その爆風がカヴォイの背中を押し、そのまま遠くへ運ぼうとして――
「グ……ルアアアッ!」
――突如吹き荒れた暴風に、その勢いは殺された。
「……ッ⁉」
空中で突如体制が崩れ、カヴォイは驚愕に目を見開く。現実が、今自分の身に起きている状況が、正しい理解として脳内で処理されない。ただ、一つだけ言えることは、ある。あまりにも絶望的な、たった一つの真実。
……作戦は、失敗した。
体をとっさに丸めて防御態勢を取り、まとった風の制御をどうにか取り戻そうとカヴォイは苦闘する。風が生んだ勢いはすべて死に、もはや怪物と距離を取ることはかなわない。今はただ傷を負わないように、それしか考えられなかった。
「……っと、ぉ!」
風を地面にたたきつけて落下のスピードを殺し、地面に転がるようにして受け身を取った。荒れた地面の砂利が全身を削るが、その痛みは必要経費として無視する。そんな小さな傷、今は意識の片隅にすら置いてはおけないのだ。
「グ……ラアアアッ!!!」
……何せ、このままではその傷もろともカヴォイは砕け散るのだから。
「……野生の勘、ってやつなのかね……」
光魔法での目つぶしから、風魔法で急加速することによって超高速で戦線を離脱する。知能の欠片も見えない図体から搦め手は防げないと踏んでいたが、どうも相手を過小評価していたようだ。
そして、カヴォイの策はこれで打ち止めだ。あの緊急状況で次善の策などと、そんな余裕などあるはずもなかった。……つまり、ここからは台本の外。身体能力で圧倒的に劣るカヴォイには、間違いなく不利な戦況だった。
「……でも、ここで終わるわけにもいかないんでな」
噛み締めるように、自分に宣言するかのように、言う。拳を握り、歯を食いしばって、前を向く。
……ああ、人間というのはばかげた種族だ。こんな小さな体で、こんな矮小な力で、それでも生きていかなければならないのだから。……絶対に無理であろうと思えたそれを、数万年もの間達成し続けたのだから。
足は小刻みに震え、背中には冷や汗が伝っている。神としての死を迎える時とはまた違った恐怖が、カヴォイを包み込んでいた。……それは、強者への恐怖。あの怪物の気まぐれで自分はすぐに消し飛ぶのだと、本能が自覚したが故の恐怖だった。
――怖い。怖くて怖くて仕方がない。自分を見下ろすあの目が、容易に想像できる死の未来が、……そして、あまりに無力な自分が、怖い。
神威をほぼ失い、人間の器に受肉したカヴォイに『次』はない。この体で死ねば、カヴォイの意識はもろとも終わる。生き返りも、やり直しのチャンスも、ない。……そんな当たり前の事実が、怖い。
馬鹿げている。常にこんな恐怖を抱えて生きるなんて。自分が作った種族にもかかわらず、まったくもってその精神性が分からない。……なぜ、強者に臆せず生きられるのだ。なぜ、強者にあらがおうと思えるのだ。そして、なぜ……
「……お前らは、勝てたんだ……?」
魔王が率いる魔族との覇権争いに、人間は勝利した。……それも、英雄たちの力だけでなく、今のカヴォイと同じ境遇のはずの民衆の力すらも束ねて。
不可解だった。すべてをその眼で見てきてもなお、分からなかった。……そして、人間に限りなく近くなった今でさえ、分からないままだ。分からないままで、カヴォイは死の危機に直面している。……その先の未来の、何たる愚かなことか。
「…………良い訳ないだろ、そんなんじゃ」
噛み締める。ここに来た意味を、もう一度反芻する。分からないことだらけで、むしろこうして降りてきたことで増えてすらいて。……だけど、はっきりしてることだって、ちゃんとある。……それを支えに、カヴォイは立つのだ。恐怖をかみ殺して、意思に反して起こる震えを抑え込んで、こちらを見下ろす濁った瞳をにらみ返すのだ。
「……お前なんかに、殺されてる暇はないんだよ……‼」
吠えて、魔力を集中する。意識は魔術に、しかし視線は一ミリたりともそらさない。怪物への注意は、絶対に切らさない。……切らしたら、死ぬから。ここで死ぬのは、まっぴらごめんだから。
………………そんな未来、『気に入らない』から。
「……来いよ、化け物。……俺は、絶対にてめえから逃げ切る」
宣戦布告する。たぶん、世界で一番逃げ腰な宣戦布告を、しかし強気に。……返礼は、当然ない。ただ、怪物は悠然と獲物を見下しているだけだ。怪物からすれば、カヴォイはその程度の存在でしかないのだ。狩る側と狩られる側、その力関係は決して逆転しない。
だけど、抗う権利は、ある。
「……吹き荒れろッ‼」
……のどがかれるくらいに力強く叫び、風が唸りをあげてカヴォイの全身を包むように発生する。その変化に、怪物も応じるかのように咆哮を一つ。
――物語の未来をかけた、命がけの逃走劇が幕を上げる。
次回こそ明日の五時ごろに投稿します。どうぞよしなに。