三話
「怖、くは、ないのか」
やっとの思いで絞り出したかのような声音だった。
事実、そうなのだろう。
不敬にも手を伸ばした私の行動から、その返事が得られるまでに数秒程の沈黙を挟んでいたから。
「……そう、ですね」
返答に悩む。
ここで、迷いなく「怖くないです」と言葉を繰り返せたならばどれ程楽であったか。
しかしこれまで悉く拒絶されてきたイグナーツ公爵閣下からすれば、突如として己を受け入れてくれる都合の良い人間が降って湧いた。
などと、真正面から受け入れる事は出来ないだろう。もし仮に、そんな事があり得たならば、まず間違いなく私なら裏があると疑う。
だから、安易に頷いてしまうわけにはいかなくて。
「ちょっとは、怖いですよ。ただ、怖いといっても、こうして触れる事に躊躇いを抱かない程度の恐怖ですが」
イグナーツ公爵閣下の眉根が寄る。
けれど、私はその反応に構わず言葉を続ける事にした。
「イグナーツ公爵閣下」
「なん、だろうか」
「もし。もし、ですけど、もし私が、ずっと昔に貴方と似たような境遇にあったと言ったら信じてくれますか?」
そこで初めて、彼の表情がほんの少しだけ和らいだ。
理解の色が灯ったと言い換えても良い。
理解の埒外であった目の前の事実が、初めて、自分の理解の範疇に収まった。
そう言わんばかりの反応であった。
「……つまり、ルシア嬢はかつての己と似た境遇である俺を助けたいと。そう、言ってるのか」
「決して、両親や、姉から酷い扱いを受けていたというわけではありません。ただ、私にも色々と事情がありまして」
首肯を一つ。
今、私が話せる事はここまでが精一杯。
そんな事を思った折、姉からは婚約者を押し付けられたりしたし、姉に限ってはその限りではないような気すらしてきた。
「だから、その、呪いが解けるまでの期間だけでも、私を側に置いていただけませんか」
————きっと、呪いを解く力になれると思うから。
私がそう告げると、イグナーツ公爵閣下は複雑そうな表情を浮かべたまま沈黙していたものの、やがて、
「……ままならないな」
「ままならない、ですか?」
「……あぁ。きっと俺は、ルシア嬢を拒むべきなのだろうな。それこそ、先の条件を違えてでも」
あれは、私を体よく断る為の方便のようなものであった筈なのだ。
なのに、ちょっとだけ怖いとは言ったものの、呪いに触れて。怖がる素振りも全く見せなくて。
だからこそ、ままならないと、そう言っていたのだろう。
「共にいれば、要らぬ風評被害が及ぶ事は考えるまでもない。ここで俺が肯と答えれば、これからのルシア嬢の人生にまで迷惑を掛けてしまう事だろう」
それ程までに、呪いとは忌み嫌われているものなのだ。多くの人間から信頼を置かれていたイグナーツ公爵閣下でさえ、呪いのせいで遠ざけられるようになってしまった。
ならば、その側にいる人間がどう思われるか。
それが分からない己ではないと。
「なのに、なの、にだ」
声が掠れていく。
そんな中で、イグナーツ公爵閣下が言い辛そうに言葉を並べ立ててゆく。
「そう言ってくれる心遣いが、どうしようもなく嬉しいと思う自分がいる」
……その気持ちは、私の知るところであった。
かつての私も、同じ道を通った同類だったから。
「だったら、それでいいじゃないですか」
私は言う。
「それに、私はこれでも一応、閣下の婚約者としてやって来た身です。だから、そこまで思い詰める必要はないと思いますけどね」
一応、建前の理由は存在している。
だから、私とイグナーツ公爵閣下が共にいる事におかしな点はない筈だ。
「……それは、そうだが」
「何より、イグナーツ公爵閣下は随分と世間体を心配して下さってますけど、そもそも私に嫁の貰い手なんてありませんし、周囲との付き合いも微々たるものです」
政略結婚となれば話は別だろうけれど、現状、そういう人は誰もいないし、生涯独身説も私の中ではあったくらい。
それもあって、世間の目など私は気にしていないと告げると、相好を崩して何故か笑われた。
これは気を遣ってるわけでもなく、本心からの言葉なのに……。
「ルシア嬢程の女性ならば、男は放っておかないだろうに」
「それが全くでして」
顔は……そこまで悪くはないと思うし、性格は……ちょっぴり歪んでるくらい。
欠点らしい欠点は、社交性が皆無なところだろうか。こう、ニコニコ笑顔を浮かべながら猫撫で声を出して相手を持ち上げる行為が絶望的に苦手だった。あれだけは、ムリ。本当に、ムリ。
「なので、閣下がお気に病む事などございませんよ」
「……では、今はそういう事にしておこうか」
どうにも、イグナーツ公爵閣下は私の言葉を信じるつもりはないらしい。
……自分で言ってて悲しくなる事実だけれども、これは本当の事なのに。
「それで、閣下」
「……む?」
「他に、憂慮すべき点はございますか?」
「…………」
そこで、また沈黙が降りる。
ただ、今回の沈黙は先程までとは異なり、言葉を探しあぐねているから。というよりも。
「……敵わないな」
自覚していた事実を気付かされた事による驚愕からくる沈黙であった。
続く言葉と、浮かべる表情がそれをありありと物語る。
「成る、程。これで、俺はルシア嬢の申し出を断る理由がなくなってしまったか」
言葉に対する返事はせず、私はただ、屈託のない笑みだけを向ける。
これ以上、断る理由がないならば、私がイグナーツ公爵閣下の力になってはいけない理由はどこにもないだろうと。
言外に告げていたその事実を遅れて認識し、彼は観念するように苦笑いを浮かべた。
「……意地が悪いな、ルシア嬢は」
「嫁の貰い手がいないのは、もしかするとこの性格が原因なのかもしれません」
冗談半分にそう口にすると、イグナーツ公爵閣下は小さく笑ってくれた。
「……なら、少しの間だけ、力を貸して貰っても構わないだろうか」
十五の小娘に、一体何が出来るのか。
そう言われても、仕方なかったというのにイグナーツ公爵閣下がそう言う事はなかった。
ただ、「少しの間だけ」と、最後の抵抗を発言にちゃっかり交ぜ込むだけ。
だから私は、小さく笑みながら、「もちろん」と深く頷く事にした。