知識
頭を整理させようと試みるが、まったくうまくいかない。心の整理がつていないせいだ。激情がノイズとなり、冷静な思考を許容しない。
ギッとかすかに床を鳴らしながら、小梅が来た。いまにも泣き出しそうな、叫び出しそうな、恐怖に怯えたような、複雑そうな表情。
「姉さまのこと、行かせちゃったの?」
「……」
俺のせいじゃない。そう言い返したかった。
おとなげないと思ったし、自分が無力なのも事実だったから思ったから、怒鳴りたいのをぐっとこらえた。いま俺は、八つ当たりをしそうになった。すべての責任を押し付けられたような気がして、反発したくなった。
だが危機におちいったとき、俺たちは感情的になるべきではない。誰かが怒りを爆発させれば、それは連鎖的に誘爆する。結果、仲間を失うことになる。いま大声を出せば餓鬼が戻ってくる可能性もあった。
だから俺は、ただうなずいて応じた。筋肉が緊張してうまくうなずけなかったから、みっともなく小刻みにカクカクと。
小梅は溢れ出した涙を、袖で拭った。
「分かった。いいよ。あんたのこと責めたりしない。抵抗しても勝てっこないんだし」
「……」
「早く帰って、父さまに報告しよ? 父さまなら、きっと助けてくれるから」
「……」
彼女は気丈をよそおってはいるが、ときおりかすかに「ひっ」とひきつるような呼吸をした。壁に手をついているから、立っているのもやっとなのかもしれない。
だが、ムリもない話だ。
もし餓鬼が戻ってきたとして、餌にされるのは俺じゃない。彼女なのだ。
「いっかい上で話そ」
小梅はそう告げ、よたよたした足取りで廊下へ引き返した。
*
二階に浸水した様子はなかった。
タンスは倒れている。爆風によるものか、地震によるものかは分からない。人が滅んだあとに起きた災害など、誰も記録していないだろう。分かるのは、荒れ果てているという現実だけ。
部屋に入ると、小梅がすっと抱きついてきた。
「小梅のこと、置き去りにしたら呪うから」
「そんなことしない」
「ホントはこんなことイヤだけど、あんたにすがるしかないの……。餓鬼はね、においで小梅たちを見つけるんだって。だから、男のにおいがつけば、少しはごまかせると思う」
小梅はぐりぐりと頭をこすりつけてくる。
ただあまえているだけにも見えるが。
しかしたしかに、彼女たちの体からは、普段からうっすらあまったるいかおりが漂っていた。餓鬼だけでなく、人間の俺でも惹きつけられる。
俺はスーツのジャケットを脱ぎ、小梅にかぶせた。
「ひとまず、これを着てくれ」
「いいの?」
「あとは、そこらに散乱してるタオルをかぶって」
「うん……」
もしかすると――。毒島が案内人にボロ布をかぶせていたのは、こういう理由があったからなのかもしれない。
きちんと話を聞いておくべきだった。少なくとも彼は、俺より長くこの環境で暮らしている。しかも俺と違い、案内人を失っていない。
バカだと言われても仕方がない。実際、バカだった。悔しいが、認めるしかない。ついさっき起きたことなのに、遠い過去の話のように思い出される。そして思い出すたび自分自身に失望する。
小梅は頭からタオルをかぶった。時代劇に出てくる御高祖頭巾のようだ。が、いまは見た目を気にしている場合ではない。
ジャケットを失った俺は、代わりに落ちていたジャンパーを拝借した。ミリタリージャケットだろうか。バイカー用かもしれない。とにかくポケットだらけの上着だ。
俺は先に外に出て、周囲に餓鬼がいないことを確認した。
連中は極上の餌を見つけ、ホクホクの気持ちで帰っていったことだろう。
だが、いい気にならないでもらいたい。すぐに返してもらう。少しでも傷つけてみろ。きっと倍にして返してやる。彼女の父親がな。たぶん。
リビングでビクビクしている小梅に、俺は手で合図をした。
強制的に靴も履かせた。
いまは機能優先だ。
息を潜め、俺たちはこそこそと家屋を離れた。
生きた心地がしなかった。
もし餓鬼に見つかれば、小梅が連れ去られるだけでは済まない。姉妹の家がどこにあるかさえ分からないまま、俺はひとりで荒野に放り出されることになる。そうなれば、誰にも助けを求めることができぬまま餓死するだろうし、餌となった姉妹は苦しむだけ苦しむことになる。
ほとんど会話もなく、俺たちは北を目指した。
ひたすらに歩いた。
膝や足首の関節が痛みだしたが、それでも止まることができなかった。とにかく怖かったのだ。追われているような気がして、何度も振り返った。
足を止めたのは、日が落ちてからだった。
家屋に入るのは怖かったから、屋根付き駐車場の奥に身をひそめた。錆びきった自動車もあるから、それを盾にした。通りからは隠れることができるだろう。においさえ抑え込むことができれば。
火を起こすことはできない。
小梅がしがみついてきた。
「あの、あのね……。小梅が寝ている間に、置いてかないでね」
「置いてかないよ」
「ホントに? ウソじゃない? 姉さまもそう言って、小梅のこと置いてったから……」
「俺だってひとりになったらすぐ死んじまうんだ。置き去りにされて困るのはこっちも一緒だよ」
事実を告げたのに、小梅は泣きそうな顔で俺のジャケットを引き寄せた。
「でも、人間はひとりでも生きられるから」
「俺がそんな立派な男に見えるのか? いつもすずさんからメシをもらってるだけの、なにもできない男だよ。ホントに、なにもできやしない……」
言ってるそばから腹が鳴った。
思えば朝食しかとっていない。昼食は餓鬼のせいで食いそこねた。歩き通しだったから余計に消耗している。小梅にメシをせがもうかどうか考えているところだ。
小梅も俺の音に気づいたようだ。
「お腹すいてるの?」
「じつはかなり」
「食べたい?」
「君さえよければ」
「いいよ。ひとくちぶんずつ出してあげる」
礼の言葉でも返そうと思ったが、それはできなかった。
小梅はぐっと身を乗り出して、やわらかな唇をおしつけてきたからだ。かと思うと、彼女は苦しそうに「んっ」とうめき、どろりとひとくちぶんのシチューを流し込んだ。
鈴蘭のに比べれば、だいぶ薄味だ。水っぽくてシャバシャバしている。
それでも、飲み込んですぐに、疲れ切った体が癒えていくのが分かった。というより、俺は自覚がないほど疲労していたようだ。ほんの少しの栄養で、すぐに回復してきた。
小梅は俺が飲み込むのを確認しながら、二度、三度と食事をくれた。
しばらくして唇を離すと、彼女は不安そうにこちらを見つめてきた。
「どうしたの? 休憩?」
「いや、もういいよ。かなり食べた。ありがとう」
「そうなの? もしかして小梅の、おいしくない? 姉さまのじゃないとダメ?」
涙目でそんなことを言われると、罪悪感がひどい。
「なにを言ってるんだ。すごくよかったよ。ただ、純粋に満腹だからさ」
「ホント? じゃあいいけど……。食べたくなったらまた言って? 小梅、いつでもいいから」
「助かるよ」
キスに抵抗がないのだろうか。
いや、もしかすると、意味も分かっていないのかもしれない。いつも姉からそうして食事をもらっていたようだし、普通の行為だとでも思っているのだろう。
小梅は、また唇をつけて、俺の口についていたシチューをちゅっとすすった。
「口のとこ、ついてたよ」
「ありがとう……」
「ね、もう寝るの? 小梅、寒いのイヤだから、寝てる間ぎゅってしてもらっていい? 人間のにおいもつけないといけないし」
「いいけど……」
ホントに分かっていないのか? あるいは、きちんと教えてやるべきだろうか。
理屈としては間違っていない。餓鬼を避けるためには、彼女に人間のにおいをつけるべきだ。火もないから寒さの対策もしないといけない。いちおう段ボールを敷いてはいるが、体温は地面から奪われる。
小梅は無遠慮に身を寄せてきた。
「ぎゅってして」
「うむ」
「人間って、小梅たちとぜんぜん違うにおいするね。なんか、体がぽかぽかしてくる」
「不快じゃない?」
「ううん」
急にしおらしくなりやがって。
劣情をもよおしてしまってダメだ。怖がってる女の子の弱みにつけ込むなんて、最低な行為だというのに。
鈴蘭のことだけを考えよう。
涼しげな瞳、余裕のある微笑、育ちきった大人の体……。けれども、近くで見ると小梅もよく似ている。
「なぁに? 小梅の顔、なにかついてる?」
「いや、なにも」
「そう……。あのさ、さっきから気になってたんだけど、人間、ズボンの中になにか隠してる?」
「えっ?」
「これ」
「痛っ」
たぶん強く押したつもりはないのだろうが、小梅の膝が鋭角的に直撃した。
わざとやってるんじゃないと思いたいが。
「えっ? ごめん、痛かったの? なに? なにが入ってるの?」
「いや、なんでもない。ちょっと個人的なブツをね……」
「大事なもの?」
「ああ、かなり大事なんだ」
「そう……。勝手にさわってごめんね? 怒ってない?」
「怒ってないよ」
「よかった」
「傷つきやすいから、そっとしておいてもらえると嬉しいな」
「うん」
クソ、なんて拷問だ。
こんな生活、長くはもたんぞ。早くご両親に協力をあおぎ、一連の事件を解決させねば。
いや、遠慮する必要はないのかもしれない。しかし鈴蘭の顔がチラつき、かなりのブレーキとなっていた。俺が小梅に手を出したと知ったら、彼女はきっといい顔をしないだろう。
特に約束を交わしたわけでもないのだが、俺は妙な義務感のようなものをおぼえていた。
ま、モテない男というものは、こういう自分勝手な誓いをちょくちょく立てるものだ。たぶんハタから見れば気持ち悪いんだろう。それは分かっている。分かりきっていても、しかし直せるたぐいの性質ではなかった。
*
翌朝、疲労感で目をさました。
ほとんど眠れなかった。気温の低さや地面の固さもつらかったが、なにより餓鬼に対する恐怖もあったし、小梅に対する懸念もあった。その小梅も、クマのできた目でこちらを凝視していた。
「お、起きてたのか……」
「うん。なんか、眠れなくて……」
げっそりとやつれている。
そうだよな。
姉が連れ去られただけでも悲惨なのに、もしまた餓鬼に見つかれば、ターゲットとなるのは小梅自身なのだ。俺みたいに卑しい気持ちになっている暇もなかろう。
天真爛漫だった女の子が、こんなに弱っているのを見るのはさすがにつらい。
俺は頭をなでてやった。
「寒くなかった?」
「少しだけ。でも、人間がいたから……」
俺もだ。
それに、いまが冬じゃなくてよかった。ヘタすると寝るだけで死ぬ。過酷な環境だ。
小梅は血走った目で、じっと俺を見つめてきた。
「ねえ、人間……」
「なに?」
「もしかして、小梅のこと好き?」
「はっ?」
彼女は真顔だ。
恥じらって照れている様子ではない。
寝ている間に、なにかしでかしてしまったのだろうか。
彼女は不審そうに目を細めた。
「なんか、小梅をぎゅっとしてるとき、姉さまみたいな感じしたから」
「どういうこと?」
「姉さまは、小梅のこと好きでしょ? だから、それと同じことする人間は、小梅のこと好きなのかなって思って」
どういうたぐいの「好き」を言っているのだろうか。
姉と同じということは家族愛だろう、などと結論づけるのは早計だ。彼女たちの関係は、一般的な家族愛とは言いがたいところがある。
「嫌いではない」
「なにそれ。小梅、人間のことちょっと好きになりかけてるのに」
「錯覚だよ。生き物ってのは、極限状態になると、互いのことを好きになるようにできてるんだ」
「じゃあ小梅の勘違いなの?」
「たぶんね」
「ふぅん」
しょんぼりしてしまった。
俺は本当にバカだ。この状況で、さらに追い詰めてどうするのだ。
ひとまずの対処といってはなんだが、俺はふたたび彼女の頭をなでた。
「大丈夫だよ。嫌いってことじゃないから」
「うん」
返事は素直だが、顔が納得していない。
しばしの沈黙。
呼吸をするたび、鼻がつめたくなっていくのが分かる。今日はだいぶ気温が低いようだ。
すると彼女は、チラと横目でこちらを見た。
「姉さまのことは好き?」
「えっ?」
「好きなの?」
「いや、どうだろうな。まだ互いのことをよく知らないし……」
俺が口ごもっていると、小梅はみるみる表情を曇らせた。
「なんで『嫌いじゃない』って言わないの?」
「えっ?」
「小梅のときはそう言ったのに、姉さまのときだけ難しいこと言って。人間、姉さまのことは好きなんだ。なのに小梅のことは好きじゃないって……。なんで? 小梅が幼いから? わがまま言うから? それとも、おっぱいがちっちゃいから?」
あまえんぼうだな。
鈴蘭はずっとこの攻撃に対処していたのか。
俺は遠慮なしに言った。
「まだ心が育ってないからだな」
「心が……」
「君のお姉さんは、そんなふうに他人を責めたりしないぜ」
「で、でも……でも姉さま、変に男好きだし、見境ないし、勝手に結婚した気になってるし、かなりおかしいよ?」
「……」
まったく反論できねぇ。
だからたぶん、心の問題というのはウソだ。なにせ鈴蘭は美人だし、従順だし、頭もユルそうだ。そういう男にとって都合のいい要素を、彼女は備えている。そして男である俺は、なんらのひねりもなく惹かれてしまう。それだけのことだ。
冷静に考えると、かなりクソみたいな理屈だ。
しかし万有引力のようなものであり、この法則から逃れるのは容易ではない。
「ねえ、人間。小梅、いろいろ考えたんだけど、きのうズボンに入ってたのって、おちん……」
「やめなさい」
やっぱり知識あるじゃねーか。
男の純真をもてあそびやがって! 許さんからな!
すると小梅は勝ち誇ったような、小馬鹿にしたような表情を見せた。
「ふぅん。じゃあ、小梅に興奮してたんだよね? だったら素直に好きって言いなよ? 小梅も好きって言ったんだからさ。そうしないともうごはんあげないよ?」
「ざれごとはやめてもらおうか。それで俺が死んだら、君はひとりで家に帰ることになるんだぜ」
「……」
俺たちは運命共同体なのだ。いまは互いに争っている場合ではない。
(続く)