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蠱毒  作者: 不覚たん
表象編
6/56

知識

 頭を整理させようと試みるが、まったくうまくいかない。心の整理がつていないせいだ。激情がノイズとなり、冷静な思考を許容しない。

 ギッとかすかに床を鳴らしながら、小梅が来た。いまにも泣き出しそうな、叫び出しそうな、恐怖に怯えたような、複雑そうな表情。

「姉さまのこと、行かせちゃったの?」

「……」

 俺のせいじゃない。そう言い返したかった。

 おとなげないと思ったし、自分が無力なのも事実だったから思ったから、怒鳴りたいのをぐっとこらえた。いま俺は、八つ当たりをしそうになった。すべての責任を押し付けられたような気がして、反発したくなった。

 だが危機におちいったとき、俺たちは感情的になるべきではない。誰かが怒りを爆発させれば、それは連鎖的に誘爆する。結果、仲間を失うことになる。いま大声を出せば餓鬼が戻ってくる可能性もあった。

 だから俺は、ただうなずいて応じた。筋肉が緊張してうまくうなずけなかったから、みっともなく小刻みにカクカクと。

 小梅は溢れ出した涙を、袖で拭った。

「分かった。いいよ。あんたのこと責めたりしない。抵抗しても勝てっこないんだし」

「……」

「早く帰って、父さまに報告しよ? 父さまなら、きっと助けてくれるから」

「……」

 彼女は気丈をよそおってはいるが、ときおりかすかに「ひっ」とひきつるような呼吸をした。壁に手をついているから、立っているのもやっとなのかもしれない。

 だが、ムリもない話だ。

 もし餓鬼が戻ってきたとして、餌にされるのは俺じゃない。彼女なのだ。

「いっかい上で話そ」

 小梅はそう告げ、よたよたした足取りで廊下へ引き返した。


 *


 二階に浸水した様子はなかった。

 タンスは倒れている。爆風によるものか、地震によるものかは分からない。人が滅んだあとに起きた災害など、誰も記録していないだろう。分かるのは、荒れ果てているという現実だけ。

 部屋に入ると、小梅がすっと抱きついてきた。

「小梅のこと、置き去りにしたら呪うから」

「そんなことしない」

「ホントはこんなことイヤだけど、あんたにすがるしかないの……。餓鬼はね、においで小梅たちを見つけるんだって。だから、男のにおいがつけば、少しはごまかせると思う」

 小梅はぐりぐりと頭をこすりつけてくる。

 ただあまえているだけにも見えるが。

 しかしたしかに、彼女たちの体からは、普段からうっすらあまったるいかおりが漂っていた。餓鬼だけでなく、人間の俺でも惹きつけられる。

 俺はスーツのジャケットを脱ぎ、小梅にかぶせた。

「ひとまず、これを着てくれ」

「いいの?」

「あとは、そこらに散乱してるタオルをかぶって」

「うん……」


 もしかすると――。毒島が案内人にボロ布をかぶせていたのは、こういう理由があったからなのかもしれない。

 きちんと話を聞いておくべきだった。少なくとも彼は、俺より長くこの環境で暮らしている。しかも俺と違い、案内人を失っていない。

 バカだと言われても仕方がない。実際、バカだった。悔しいが、認めるしかない。ついさっき起きたことなのに、遠い過去の話のように思い出される。そして思い出すたび自分自身に失望する。


 小梅は頭からタオルをかぶった。時代劇に出てくる御高祖頭巾のようだ。が、いまは見た目を気にしている場合ではない。

 ジャケットを失った俺は、代わりに落ちていたジャンパーを拝借した。ミリタリージャケットだろうか。バイカー用かもしれない。とにかくポケットだらけの上着だ。


 俺は先に外に出て、周囲に餓鬼がいないことを確認した。

 連中は極上の餌を見つけ、ホクホクの気持ちで帰っていったことだろう。

 だが、いい気にならないでもらいたい。すぐに返してもらう。少しでも傷つけてみろ。きっと倍にして返してやる。彼女の父親がな。たぶん。


 リビングでビクビクしている小梅に、俺は手で合図をした。

 強制的に靴も履かせた。

 いまは機能優先だ。


 息を潜め、俺たちはこそこそと家屋を離れた。

 生きた心地がしなかった。

 もし餓鬼に見つかれば、小梅が連れ去られるだけでは済まない。姉妹の家がどこにあるかさえ分からないまま、俺はひとりで荒野に放り出されることになる。そうなれば、誰にも助けを求めることができぬまま餓死するだろうし、餌となった姉妹は苦しむだけ苦しむことになる。


 ほとんど会話もなく、俺たちは北を目指した。

 ひたすらに歩いた。

 膝や足首の関節が痛みだしたが、それでも止まることができなかった。とにかく怖かったのだ。追われているような気がして、何度も振り返った。


 足を止めたのは、日が落ちてからだった。

 家屋に入るのは怖かったから、屋根付き駐車場の奥に身をひそめた。錆びきった自動車もあるから、それを盾にした。通りからは隠れることができるだろう。においさえ抑え込むことができれば。

 火を起こすことはできない。

 小梅がしがみついてきた。

「あの、あのね……。小梅が寝ている間に、置いてかないでね」

「置いてかないよ」

「ホントに? ウソじゃない? 姉さまもそう言って、小梅のこと置いてったから……」

「俺だってひとりになったらすぐ死んじまうんだ。置き去りにされて困るのはこっちも一緒だよ」

 事実を告げたのに、小梅は泣きそうな顔で俺のジャケットを引き寄せた。

「でも、人間はひとりでも生きられるから」

「俺がそんな立派な男に見えるのか? いつもすずさんからメシをもらってるだけの、なにもできない男だよ。ホントに、なにもできやしない……」

 言ってるそばから腹が鳴った。

 思えば朝食しかとっていない。昼食は餓鬼のせいで食いそこねた。歩き通しだったから余計に消耗している。小梅にメシをせがもうかどうか考えているところだ。

 小梅も俺の音に気づいたようだ。

「お腹すいてるの?」

「じつはかなり」

「食べたい?」

「君さえよければ」

「いいよ。ひとくちぶんずつ出してあげる」

 礼の言葉でも返そうと思ったが、それはできなかった。

 小梅はぐっと身を乗り出して、やわらかな唇をおしつけてきたからだ。かと思うと、彼女は苦しそうに「んっ」とうめき、どろりとひとくちぶんのシチューを流し込んだ。

 鈴蘭のに比べれば、だいぶ薄味だ。水っぽくてシャバシャバしている。

 それでも、飲み込んですぐに、疲れ切った体が癒えていくのが分かった。というより、俺は自覚がないほど疲労していたようだ。ほんの少しの栄養で、すぐに回復してきた。

 小梅は俺が飲み込むのを確認しながら、二度、三度と食事をくれた。


 しばらくして唇を離すと、彼女は不安そうにこちらを見つめてきた。

「どうしたの? 休憩?」

「いや、もういいよ。かなり食べた。ありがとう」

「そうなの? もしかして小梅の、おいしくない? 姉さまのじゃないとダメ?」

 涙目でそんなことを言われると、罪悪感がひどい。

「なにを言ってるんだ。すごくよかったよ。ただ、純粋に満腹だからさ」

「ホント? じゃあいいけど……。食べたくなったらまた言って? 小梅、いつでもいいから」

「助かるよ」

 キスに抵抗がないのだろうか。

 いや、もしかすると、意味も分かっていないのかもしれない。いつも姉からそうして食事をもらっていたようだし、普通の行為だとでも思っているのだろう。

 小梅は、また唇をつけて、俺の口についていたシチューをちゅっとすすった。

「口のとこ、ついてたよ」

「ありがとう……」

「ね、もう寝るの? 小梅、寒いのイヤだから、寝てる間ぎゅってしてもらっていい? 人間のにおいもつけないといけないし」

「いいけど……」

 ホントに分かっていないのか? あるいは、きちんと教えてやるべきだろうか。

 理屈としては間違っていない。餓鬼を避けるためには、彼女に人間のにおいをつけるべきだ。火もないから寒さの対策もしないといけない。いちおう段ボールを敷いてはいるが、体温は地面から奪われる。

 小梅は無遠慮に身を寄せてきた。

「ぎゅってして」

「うむ」

「人間って、小梅たちとぜんぜん違うにおいするね。なんか、体がぽかぽかしてくる」

「不快じゃない?」

「ううん」

 急にしおらしくなりやがって。

 劣情をもよおしてしまってダメだ。怖がってる女の子の弱みにつけ込むなんて、最低な行為だというのに。

 鈴蘭のことだけを考えよう。

 涼しげな瞳、余裕のある微笑、育ちきった大人の体……。けれども、近くで見ると小梅もよく似ている。

「なぁに? 小梅の顔、なにかついてる?」

「いや、なにも」

「そう……。あのさ、さっきから気になってたんだけど、人間、ズボンの中になにか隠してる?」

「えっ?」

「これ」

「痛っ」

 たぶん強く押したつもりはないのだろうが、小梅の膝が鋭角的に直撃した。

 わざとやってるんじゃないと思いたいが。

「えっ? ごめん、痛かったの? なに? なにが入ってるの?」

「いや、なんでもない。ちょっと個人的なブツをね……」

「大事なもの?」

「ああ、かなり大事なんだ」

「そう……。勝手にさわってごめんね? 怒ってない?」

「怒ってないよ」

「よかった」

「傷つきやすいから、そっとしておいてもらえると嬉しいな」

「うん」

 クソ、なんて拷問だ。

 こんな生活、長くはもたんぞ。早くご両親に協力をあおぎ、一連の事件を解決させねば。


 いや、遠慮する必要はないのかもしれない。しかし鈴蘭の顔がチラつき、かなりのブレーキとなっていた。俺が小梅に手を出したと知ったら、彼女はきっといい顔をしないだろう。

 特に約束を交わしたわけでもないのだが、俺は妙な義務感のようなものをおぼえていた。

 ま、モテない男というものは、こういう自分勝手な誓いをちょくちょく立てるものだ。たぶんハタから見れば気持ち悪いんだろう。それは分かっている。分かりきっていても、しかし直せるたぐいの性質ではなかった。


 *


 翌朝、疲労感で目をさました。

 ほとんど眠れなかった。気温の低さや地面の固さもつらかったが、なにより餓鬼に対する恐怖もあったし、小梅に対する懸念もあった。その小梅も、クマのできた目でこちらを凝視していた。

「お、起きてたのか……」

「うん。なんか、眠れなくて……」

 げっそりとやつれている。

 そうだよな。

 姉が連れ去られただけでも悲惨なのに、もしまた餓鬼に見つかれば、ターゲットとなるのは小梅自身なのだ。俺みたいに卑しい気持ちになっている暇もなかろう。

 天真爛漫だった女の子が、こんなに弱っているのを見るのはさすがにつらい。

 俺は頭をなでてやった。

「寒くなかった?」

「少しだけ。でも、人間がいたから……」

 俺もだ。

 それに、いまが冬じゃなくてよかった。ヘタすると寝るだけで死ぬ。過酷な環境だ。

 小梅は血走った目で、じっと俺を見つめてきた。

「ねえ、人間……」

「なに?」

「もしかして、小梅のこと好き?」

「はっ?」

 彼女は真顔だ。

 恥じらって照れている様子ではない。

 寝ている間に、なにかしでかしてしまったのだろうか。

 彼女は不審そうに目を細めた。

「なんか、小梅をぎゅっとしてるとき、姉さまみたいな感じしたから」

「どういうこと?」

「姉さまは、小梅のこと好きでしょ? だから、それと同じことする人間は、小梅のこと好きなのかなって思って」

 どういうたぐいの「好き」を言っているのだろうか。

 姉と同じということは家族愛だろう、などと結論づけるのは早計だ。彼女たちの関係は、一般的な家族愛とは言いがたいところがある。

「嫌いではない」

「なにそれ。小梅、人間のことちょっと好きになりかけてるのに」

「錯覚だよ。生き物ってのは、極限状態になると、互いのことを好きになるようにできてるんだ」

「じゃあ小梅の勘違いなの?」

「たぶんね」

「ふぅん」

 しょんぼりしてしまった。

 俺は本当にバカだ。この状況で、さらに追い詰めてどうするのだ。

 ひとまずの対処といってはなんだが、俺はふたたび彼女の頭をなでた。

「大丈夫だよ。嫌いってことじゃないから」

「うん」

 返事は素直だが、顔が納得していない。

 しばしの沈黙。

 呼吸をするたび、鼻がつめたくなっていくのが分かる。今日はだいぶ気温が低いようだ。

 すると彼女は、チラと横目でこちらを見た。

「姉さまのことは好き?」

「えっ?」

「好きなの?」

「いや、どうだろうな。まだ互いのことをよく知らないし……」

 俺が口ごもっていると、小梅はみるみる表情を曇らせた。

「なんで『嫌いじゃない』って言わないの?」

「えっ?」

「小梅のときはそう言ったのに、姉さまのときだけ難しいこと言って。人間、姉さまのことは好きなんだ。なのに小梅のことは好きじゃないって……。なんで? 小梅が幼いから? わがまま言うから? それとも、おっぱいがちっちゃいから?」

 あまえんぼうだな。

 鈴蘭はずっとこの攻撃に対処していたのか。

 俺は遠慮なしに言った。

「まだ心が育ってないからだな」

「心が……」

「君のお姉さんは、そんなふうに他人を責めたりしないぜ」

「で、でも……でも姉さま、変に男好きだし、見境ないし、勝手に結婚した気になってるし、かなりおかしいよ?」

「……」

 まったく反論できねぇ。

 だからたぶん、心の問題というのはウソだ。なにせ鈴蘭は美人だし、従順だし、頭もユルそうだ。そういう男にとって都合のいい要素を、彼女は備えている。そして男である俺は、なんらのひねりもなく惹かれてしまう。それだけのことだ。

 冷静に考えると、かなりクソみたいな理屈だ。

 しかし万有引力のようなものであり、この法則から逃れるのは容易ではない。

「ねえ、人間。小梅、いろいろ考えたんだけど、きのうズボンに入ってたのって、おちん……」

「やめなさい」

 やっぱり知識あるじゃねーか。

 男の純真をもてあそびやがって! 許さんからな!

 すると小梅は勝ち誇ったような、小馬鹿にしたような表情を見せた。

「ふぅん。じゃあ、小梅に興奮してたんだよね? だったら素直に好きって言いなよ? 小梅も好きって言ったんだからさ。そうしないともうごはんあげないよ?」

「ざれごとはやめてもらおうか。それで俺が死んだら、君はひとりで家に帰ることになるんだぜ」

「……」

 俺たちは運命共同体なのだ。いまは互いに争っている場合ではない。


(続く)

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