小さな食堂
冬が過ぎ、春が来た。
世界の気温はほぼ一定に保たれたままだ。少し肌寒い状態がずっと続いている。
俺たちは褒美としてアノジから家や畑を受け取り、食堂を始めた。
要するに、人は餓えるから餓鬼になるのだ。餓えなければ餓鬼は増えない。この店は、やってきた旅人に食料を提供する場所だ。
とはいえ、まともな旅人が客として来たことは一度もないが。
「なあ、タマケン。こんな寂れた店なんてやめて、また一緒に国でもつくろうぜ。どうせ客なんてひとりも来ねぇんだろ?」
常連客みたいな顔の毒島が、そんなことを言った。
寂れた店というのは事実だ。しかしこの崇高な理念を理解できぬとは、嘆かわしいとしか言いようがない。
するとジョンも小馬鹿にしたように肩をすくめた。
「ワトソンも、この店は食品衛生法に違反してるって言ってるぜ」
なにが食品衛生法だ。そもそも法律なんてないだろう。
俺はすかさず反論した。
「機械がなにを言おうが知ったことじゃない。いいかい、ジョン。判断を機械に任せるんじゃない。自分の脳味噌で考えるんだ」
「自分の脳味噌で考えてもアウトだよ。嫁のゲロを客に出すなんて」
「ゲロ以外も出してる!」
「焼きトウモロコシとお茶以外になにかメニューがあるの?」
「ない。うちは厳選した料理しか置いてないんだ」
というよりトウモロコシしか育っていないので仕方がない。しかも日差しが弱いせいで、あまり大きく育たないのだ。権兵衛のようにはうまくいかない。
店の裏からは、赤ん坊のギャーギャー泣く声が響いている。いま鈴蘭があやしているところだろう。
子供が欲しいとアノジに言ったら、授けてくれた子だ。なぜか卵で。すぐに孵化してギャーギャー泣き出した。名前は勝手に柘榴と命名されたが、しかし可愛くないので俺たちは「さき」と呼んでいる。
もちろん権兵衛宅でも赤ん坊が生まれた。女の子だ。
なぜ女子しか生まれないのか理由も聞いた。
天界では体から食事が出る体質を「贄」と呼ぶらしい。かつて権兵衛は、その贄の女を殺害したことがあるのだとか。その罰として、生まれてくる子供は必ず贄の娘となる呪いがかけられたという。
以前はかなりの乱暴者だったようだ。
ほかにも、名のあるヘビを殺した罰として、嫁にヘビを押し付けられたとも。最初は不仲だったらしいが、長いこと一緒にいるうちに仲良くなったらしい。
やってることが日本神話のスサノオそのものだ。まさか本人ではあるまいけれど。
天界で起こる事件は、俺にはいまいち理解しがたい。
別の席で算盤を弾いていた龍胆が、盛大な溜め息とともにご破産にした。
「はぁ、完全に赤字ですよ。いったいなぜこんな場所で商売など始めようと思ったのです? 玉田さん、アノジさまに騙されていませんか?」
「えっ? いや騙されてないよ。自分の意志で始めたんだから」
鈴蘭が育児に忙しいので、会計として龍胆に手伝ってもらっている。彼女は事務が得意らしいので。
「そうではありません! なぜ井戸の使用に料金がかかるのです? 薪の代金も高すぎます! あきらかにボッタクリですよ! 抗議しに行きましょう!」
「いいよ。借金なんて踏み倒しちまえば」
「そういうわけにはいきません! 最後は店ごと取り上げられて、路頭に迷うことになりますよ! ああ、なんとかしなくては……」
「……」
そう考えると、やはり天界を滅ぼしておいたほうがよかったような気もする。毒島の意見が正しかったというわけだ。
その毒島もジョンも、苦い笑みのままなにも言わない。相席している撫子も、ずっと無言のままだ。
*
客が帰ると、急に静かになった。赤ん坊は鈴蘭の腕の中でぐっすり眠っている。卵から生まれたわりには、俺と鈴蘭に似ている気もする。
作業をやめた龍胆が、ふっと笑った。
「卵から赤ん坊が生まれるなんて、まるで昔話みたい」
すると鈴蘭が笑顔のまま静かに応じた。
「うちではずっとこうよ。私も、小梅も、小桃も、みんな卵から生まれたの」
「あなたの家ってちょっと変よね」
「いろいろあるのよ」
「いろいろねぇ……」
最近、ふたりはほとんどケンカしない。というより、龍胆に手伝いを頼もうと提案したのは鈴蘭だった。いろいろ言い合ったこともあり、だいぶ打ち解けたのだろう。実際になにを話したのかは怖くて聞けないが。
「失礼しますわ!」
「ちょりーっす!」
また客が来た。旅人ではない。案内人見習いの山吹と菖蒲だ。まだ誰も担当できていないらしく、周辺をふらふらパトロールしている。
鈴蘭が顔をしかめた。
「少しお静かに願います。赤ん坊が起きてしまいますから」
「あら失礼。ご亭主、お茶を頂戴できますかしら?」
山吹はまるで悪びれた様子もなくそんなことを言った。
向かいの席に腰をおろした菖蒲は、手だけで「ごめん」とジェスチャーしている。
悪い客ではない。彼女たちは茶を飲んで金を置いていく。数少ない収入源だ。まあ金といっても、天界で流通している小銭だが。薪の代金くらいにはなる。
俺が茶の準備を始めると、鈴蘭は商売の邪魔にならないよう裏へ回った。
なんだかいかにも家族経営のメシ屋といった感じだ。しかも馴染みの客しかこない。
こんなにのんびりできるのも、いまだけなのだろうと思う。
もし今後、人口が爆発的に増えたら、たくさんの客を捌かなきゃならなくなるし、別の店舗とも争うことになる。
そしたら店は畳むつもりだ。
なぜならこれはままごとの延長なのだ。旅人を救いたいというのもウソではないが、他の人間が店をやるなら、そちらに任せてもいい。少し行けば毒島たちの街もある。
俺は鈴蘭を退屈させたくないだけだ。
かつて彼女は、天界にも帰れず、ただ地上で白い空を眺めるだけの時を過ごしていた。心の空白を抱えたまま、いつ終わるともしれない日々を生きた。
寿命について考えれば、まず間違いなく俺が先に死ぬ。しかしこの家は残る。アノジに没収されなければ。あるいは娘も残る。人の死を見送り続けるのはつらいことかもしれないが、せめて少しでも気持ちを紛らわせてやりたいと思うのだ。
茶を出すと、山吹と菖蒲は静かにすすり始めた。
じつにのどかな時間だ。
遠くで鳥たちの鳴くのが聞こえる。
小さな囲炉裏でパチパチと薪が燃えるのも。
場所も悪くない。
権兵衛や小梅もたびたび遊びに来る。先日などは、生まれたばかりの小桃も連れてきてくれた。赤ん坊がひとり泣き出すと、つられてもうひとりも泣き出すという始末だったが、ちっともうるさいとは思わなかった。
とても幸福な時間だった。
叔母さまと呼ばれて怒る小梅も、お爺さまと呼ばれて困惑する権兵衛も、それでもどこか嬉しそうだった。
この時間がずっと続けばいいと、心の底から思った。
(終わり)




