協定
小屋へ確認しに行くと、たしかに卵があった。バスケットボールよりもデカい。それをうずくまったヘビが温めているという状態だ。
ヘビはじっとしたまま動かない。
その後、俺たちはひとまず母屋へ戻り、囲炉裏を囲んだ。
間違いなく卵だ。つまり、遠からず弟か妹がこの家に誕生する。
「いつ生まれるの?」
俺は火箸で炭を転がしながら、誰にともなく尋ねた。
とはいえ、小梅は自分が生まれた瞬間を知らないわけである。答えられるのは鈴蘭だけだ。
「二月から三月ほどかと」
まだ猶予はありそうか。
そわそわした様子を抑えきれない小梅が、身を乗り出した。
「男の子かな? 女の子かな? 姉さま、どっちだと思う?」
「妹よ。うちはそう決まってるから」
「決まってるの? なんで?」
「なんででもです。手がかからないだけマシというものでしょう」
「えーっ」
小梅の疑問はもっともだ。男か女かは、いちおう気になる情報だろう。赤ん坊に関する情報はそう多くない。
なのだが、鈴蘭は確信を持って女だと断言した。なにか裏がありそうだ。
しかしまだ生まれてもいない赤ん坊について、あれこれ言えることは少なかった。育児の不可能なヘビに代わり、経験のある鈴蘭が世話をすることに決まったが、それ以外はすべてが未定だった。名前も偉い天人が勝手に決めるらしい。
俺は薪を割ったあと、風呂の水を汲み始めた。
ここでは、ぼうっとしていると家の設備がなにも機能しない。風呂を沸かすのも、囲炉裏を焚くのも、すべてが人の手による。
風呂場と井戸を往復していると、蔵から鈴蘭が小走りで出てきた。
「あなた! あなた! 見てください!」
お宝でも見つけたようなテンションだ。こういう無邪気なところは素直に可愛らしい。
足を止めて振り返った俺は、しかし嫌な予感に襲われた。彼女が手にしていたのは首輪だ。どこからどう見ても、いま必要なものではない。
彼女は鎖のついたそれをぶんぶん振り回しながら寄ってきた。
「今晩はこれを使いましょう!」
「これを……」
「私がネコ並みの知能になってにゃんにゃん言いますから、あなたはこれを引っ張って私を教育してください。あ、乱暴にしても構いませんが、骨が折れない程度にお願いしますね。頑張ってにゃんにゃんしますので。きっと可愛いはずです」
えーと、途中からバスク語になっていたと推測するが、おかげで内容がほとんど理解できなかった。
俺が困惑していると、彼女はハッとしてこう続けた。
「分かりました! どうせまた男女平等がどうとか言うのでしょう? ええ、受け入れます。交代でにゃんにゃんしましょう? ねっ? それで解決ですから。それとも、ネコでないほうが?」
「そういう問題じゃない。乱暴なのはやめようって言ったじゃないか」
「ええ、でも薬は使いませんし……」
不審そうな目でこちらを見ている。まるでなにが問題なのか分かっていない様子だ。のみならず、この提案を受け入れようとしない俺を、異常なものとすら思っている。
「首輪なんて、普通じゃない」
「だからなんなのです? あなた、関係性を見直したいと言ったじゃありませんか。ですから、いろんな可能性を探るべきだと思って提案しているのです。もしご不満なら、あなたが案を出したらどうなのです?」
ごく前向きな提案に聞こえるからタチが悪い。
俺はしばし言葉に詰まったが、彼女は答えを待ってくれた。
「普通にしたい」
「普通に、とは? 道具は使うべきでないと?」
「そこまでは言ってないけど……。なんていうか、異様じゃないか」
「異様? 自然の摂理に反すると? 道具がダメというのなら、では衣服はどうでしょう? あなた、いつだったか天女の衣装でしたいと言っていましたよね? あれはなんなのです?」
「……」
「はい、反論できませんね。では今晩はこの首輪を使います。決まりですからね」
クソ、完全に論破された。
なにか言い返してもよかったのかもしれないが、衣装の話を持ち出されて頭が真っ白になってしまった。
あの際どい衣装は、布面積が小さくヘソや足がチラチラするだけでなく、やたらとひらひらふわふわしていた。服というよりは半透明の帯でしかない。採用したヤツのセンスを疑う。
鈴蘭は首輪を握りしめ、勝ち誇った顔を見せた。
「覚悟してくださいね。私はにゃんにゃんすると言ったら、やり通す女です。あ、でも途中、泣きじゃくって人間の言葉であなたに許しを乞うかもしれません。けどそこで手を止めてはいけませんよ。ネコなのですから、人間の言葉を使うはずがありませんので」
「うん」
受け入れるしかない。
俺は彼女に勝てないのだ。
*
その晩、鈴蘭のにゃんにゃんに翻弄され、俺は心身ともに疲弊して眠りに落ちた。とんでもなく妖艶なネコだった。悪くない。
だがその余韻をぶち壊すように、平安貴族のようなアノジがやってきた。
和室なのだが、鈴蘭の姿はない。俺の姿も。いるのはアノジだけだ。普段から神経質そうな顔を、いっそうしかめている。
「話せるか?」
なんだか、探るような態度だ。
まあいい。話したいことならこちらにも山ほどある。
「ええ、話しましょう。待ってたんだ」
「よろしい。昨夜はまるで会話にならなかったからな」
「……」
昨日も来たのか。それは悪いことをした。きっと支離滅裂だったことだろう。しかし苦情は毒を盛った嫁に言って欲しい。
アノジは相変わらずの偉そうな態度で、見下ろすようにこう告げた。
「汝、いまは人間の長であるらしいな。では命じる。天人に逆らうのをやめよ。即刻だ。戦の支度を取りやめ、我らへ恭順の意を示すのだ。さすればこたびの不遜な振る舞い、水に流すこともやぶさかではない」
始まった。まったく状況を理解していないどころか、火に油を注ごうとしている。
俺は遠慮なく盛大な溜め息をつき、こう応じた。
「いいですか。その強圧的な態度が人類の不興を買ってるんです。押さえつけようとするから反発する。まずは、あんたらが態度を改めてくださいよ」
「口を慎め、下賤めが」
「あんたがそういう態度だと、俺も仲間を止められない。するとどうなる? あんたの仲間も死ぬハメになる。俺だってこんな不毛な争いは止めたいんだ。けど、あんたのそのクソみたいな態度が、すべてを台無しにしてる」
「ぐっ、生意気な……」
あくまで強気に出るつもりか。あるいはどこかで妥協しようとしているのか。アノジは不快そうな表情だが、まだ反論してこない。
代わりに俺が続けた。
「じゃあ分かりました。俺に対してはその態度でもいい。ただし、他の人間にはやめてください。あきらかに怒りを買ってる。自分に置き換えて考えてみてくださいよ。下賤だなんだと見下して一方的に命令してくるようなヤツ、好きになれるわけないでしょ?」
「しかし、どうすれば……」
「もう二度と毒島さんやジョンと交渉しないでください。俺が間に入りますから」
「ええい! それができぬから困っておるのだ! アルファとかいう不埒者めが、こざかしい策を弄しおって」
やはりあいつのせいか。
常にアルコールが入っている毒島か、あるいはまだ子供っぽいジョンであれば、焚きつけるのも簡単だと踏んだのだろう。アルファという男、わりと考えがセコい。
俺はこう尋ねた。
「この家にいれば、今後もあんたと交渉できるのか?」
「いかにも。権兵衛は防人として地上へ使わされた。その家は、天人にとっての鎮守府でもある」
「防人? いったいなにからなにを守るって言うんです?」
「望む通り答えよう。地上の下賤どもから、我らの天界を守るのだ」
皮肉は通じてるらしいな。
素直でよろしい。
まあイラつきはするが、ここでカッとなっても仕方あるまい。
「その下賤と仲良くするつもりはあるんですよね?」
「争うべき筋にあらず」
「そういう言い回しは理解しがたいな。じゃあハッキリ言いますよ。俺たちは和平協定を結ぶべきです」
これにアノジは眉をひそめた。
「協定? 地上と?」
「そう。あくまで対等な関係でね。今後、クソみたいな命令はナシです。いや、分かりますよ。不快だって言いたいんでしょ? しかし協定ってのは、どちらかを一方的に拘束するものじゃない。互いに拘束するんです。貸し借りナシですよ。この案さえ飲めないっていうなら、俺も力を貸せない」
「……」
このまま時が過ぎれば、祠の解析を終えた人類は天界へ乗り込み、デス・ファージで天人を葬り去ることになるだろう。そうすればもはや「上」も「下」も「対等」もなくなる。アノジら一派は存在さえしなくなるのだから。
ずっと地上を監視していたであろう天人が、この現実を把握していないとは思えない。あとは彼らのプライドが許すかどうか、それだけだ。
アノジがずっと歯ぎしりしていたので、俺はこう提案した。
「では一日待ちます。お仲間と話し合って、受け入れるかどうか決めてください」
「待て。決定権は我にある」
「それでも一日は待ちます」
「必要ない。応じる」
言えたじゃねぇか。
決まりだ。これで戦う必要がなくなる。
アノジは苦虫を噛み潰したような顔のまま、こう続けた。
「とはいえ、このままでは終われぬ……」
「なんです? クソみたいな策謀はやめてくださいよ。バレたときに取り返しがつかないことになりますから」
「そうではない。協定は守る。ただ、このままアルファを見逃すこともできまい。ヤツこそが火種なのだからな」
「天人同士の争いなんでしょ? そっちで解決してくださいよ」
これにアノジは、なにかを言いかけてはやめ、言いかけてはやめ、という行動を繰り返した。自分の口からは言い出しづらいことなのだろう。またプライドが邪魔しているのかもしれない。
俺は助け舟を出した。
「なにかご提案は? 協定を結んだ以上、条件次第では協力できるかもしれない」
「協力だと……」
「そうです。協力ですよ。命令じゃない。しかもそれなりの対価を要求します」
すると彼は観念したように、こう応じた。
「天界に管轄があるのは承知しておるな? いまは我らとアルファで争っておる。しかし天人同士、直接は争えぬ決まりになっておるのだ。もしそんなことになれば、天の秩序が崩れるでな。おかげで今回のような回りくどい方法となる」
「それで? 代理人を立てたいと?」
「話が早くて助かる。この地に手を出さぬよう、汝からアルファを説得して欲しいのだ。我らが協定を結んだとあっては、ヤツも強気には出られまい」
これは間違いなく大仕事だ。
莫大な報酬を要求させてもらおう。そのためには必ず成功させねば。
「分かりました。できる限りやってみましょう」
「援助は惜しまぬ。必要なものがあれば、なんなりと申せ」
「交渉成立です。帰ってプランを詰めますので、またのちほど。くれぐれも他のメンバーと交渉しないようお願いしますよ。彼らどう考えても交渉向きじゃないんで」
「ああ。約束する」
命が惜しくなったからという理由はさておき、最終的に協定を結べたのはよかった。まあ完全ではないが。
次に相争うときは、この協定を超える「理屈」が必要となる。それだけでも一歩前進だ。少なくとも「ムカついたから」という感情論で乗り込むことはなくなる。
俺も仲間を説得しやすくなった。
ま、アルファとの交渉が失敗しても、困るのは俺たちではなく、アノジどもだが。しかし協定に応じて真剣に対応するとしよう。たった十数名の国とはいえ、俺は大統領なのだ。その名に恥じぬ振る舞いを見せてやろう。
(続く)




