アブノーマル
薄暗い居間へ入ると、小梅が茶を出してくれた。
「よかった。ふたりとも無事みたいだね」
血液はすでに洗い流した。
まあ外でなにが起きたかは、彼女も音で理解したはずだが。刺激しないよう気を遣ってくれたのだろう。茶を出す手が少し震えていたが。
鈴蘭はすまし顔だ。
「大人というものは、なんでも冷静に話し合いで解決するものです。小梅もそうなさいね」
「はぁい」
冷静な話し合いではなかった上、ちょっとした流血沙汰だったのだが。まあ傷も治ったことだし、よしとしよう。
俺も茶をすすり、ほっと息を吐いた。この強烈な苦味もなつかしい。本当に田舎の茶だ。やたらと味が濃くて、少量で満足できる。
木造の家屋は煙でいぶされ、どこを見ても焦げ茶色になっている。床板には見慣れた木目。誰かが黙ると、しんとする空気。
贅沢な静寂に満ちている。
ときおり薪がパキリと音を立て、そしてまた静寂。鈴蘭が茶をすすり、小梅もつられて茶をすする。近くではスズメの愛らしい声。遠方からはピーヒョロロと鳴くトビの声。
じつにのどかだ。
きっと、余生を暮らすには最適だろう。
それにしても権兵衛は、自分が住めるわけでもないのになぜこんな家を建てたのだろうか。娘たちのためか。
ふと、小梅がくすくすと笑った。
「なんかね、安心しちゃった。こうして三人でいるの、とっても落ち着くから」
鈴蘭も優しい姉の目になっている。
「またみんなで暮らせるといいわね」
「いいの? 小梅、お邪魔じゃない?」
「そんなわけないじゃない。小梅は、姉さまの大切な家族なんだから」
これに小梅は顔をしかめた。
「えーっ。でもなぁ、姉さま、小梅とふたりきりだととっても優しいけど、兄さまといるとそればっかりになっちゃうから」
「そこはもう諦めなさい。姉さまは昔からこうなのだから」
「はぁい」
この数日、きっとふたりはずっと一緒にいたのだろう。もともと仲が良かった。邪魔なのは俺のほうだ。
とはいえ、歓迎されているのは素直に嬉しかった。
*
その晩、鈴蘭は小梅と一緒に寝るというので、俺はひとりでいつもの部屋に入った。
布団が敷かれているだけの、薄暗い和室だ。余計な掛け軸や人形がないのはいいが、まさしく殺風景としか言いようのない景色であった。
日本の家屋は木と紙でできている。
かつて西洋人は、そう言って驚いたという。西洋では、とにかく頑丈に造ることが是であったのだろう。しかし日本は地震が多いから、頑丈なばかりではダメなのだ。高い湿度にも対処しなければならない。それで木と紙、あるいは土で家が造られた。
おもむきのあるいい家だと思う。
とはいえ、戦後は多くの家が洋風になってしまい、こんな贅沢な家はそうそう建てられなくなってしまったが。
庭付き一戸建てで犬を飼う、というライフスタイルは、アメリカが日本でビジネスをするために持ち込んだ様式らしい。おかげでそんな家ばかりになってしまった。
いや、俺の時代には戸建てすら持つことが難しくなり、ひしめくアパートやマンションになんとか住むのが精一杯になってしまったが。本当に、寝て起きて風呂に入るだけの生活スペースだ。
そしてこの二十五世紀では、上に伸ばすのを諦め、下へ掘るのがブームとなっていたようだ。
いま寝ると夢にヘビかアノジが出てきそうだが、まあやむをえまい。アノジが出てきたら、むしろ交渉のチャンスだ。ヘビが出てきたら聞き流すしかない。
寝返りを打ち、眠ろうと呼吸を繰り返していると、何者かの廊下を移動する音が聞こえた。いや、顔なんて見なくても正体は分かるが。
戸を開き、浴衣の鈴蘭が現れた。
彼女は俺の許可も得ず、何食わぬ顔で勝手に布団に入り込んできた。
「どうしたの?」
「あら、起きてらしたの。小梅が寝たので、私も寝ようかと」
「そう」
追い払う気もなかったので、俺はそのまま受け入れた。といっても彼女に背を向けたままだが。
鈴蘭は、後ろから手を伸ばしてきた。
「ずいぶん冷たいんじゃありません?」
「昼間から縮み上がったままなんだ」
「そう? 以前からこんなものでは?」
「失礼な」
すると彼女はさらに距離を縮め、耳元へささやきかけてきた。
「それで? 例の彼女とは、どんなことをなさったの?」
「やっぱり怒ってる」
「いいえ。怒ってはいませんよ。ただ、どの穴を使ったのか、どこを舐めさせたのか、気になってしまって」
「勘弁してよ」
「なぜです? 素直に白状してくださいな。私のほうが上手だってこと、証明してみせますから」
かなりのヤる気を感じる。
火薬庫にトゲを突き立て、上からハンマーを降ろそうとしているのだ。怒っていない人間のすることではない。
俺は思わず笑った。
「証明するまでもなく、君のほうが上手だよ」
「いじわる。彼女、そんなにうぶには見えませんけど」
「うぶだったんだよ」
相手が誰かもうバレてるのか。まあ候補はそうそういないけど。
彼女はいきなり力を込めてしがみついてきた。
「私を抱いてください」
「……」
とはいえ、俺はなんと返事をすべきか分からず、とりあえず向きを変えた。部屋は薄暗かったが、彼女が睨むような目になっていたのは分かった。
俺はその眉間を、指でほぐした。
「また怒ってる」
「怒ってます」
「怒る権利はあるよ。俺は君の言う通りにする」
すると彼女はむくれた顔でうつむき、こう応じた。
「では大統領なんてやめて、ここで私と一緒に暮らしてください」
「えっ」
「私、あの選挙であなたになんて投票しませんでしたから。あなたが、私だけのあなたでなくなるなんて、考えたくもありませんでしたし」
鈴蘭に一票を投じていた人間が判明した。答えは彼女自身だったのだ。
俺はそっと鈴蘭を抱きしめた。華奢な体をしている。
「分かった。いますぐとは言えないけど、いずれ大統領を辞めてここで暮らせるよう努力する」
「早くしてくれないと怒りますから」
「もう怒ってる」
「はい」
素直なんだか素直じゃないんだか分からない。
彼女は指先で前髪を直し、顔を上げた。暗くても分かるほど艶めいた髪だ。いつも丁寧に手入れしているのだろう。
「あの、じつはひとつ余興を用意しているのですが……」
「余興?」
またノコギリを持ち出すのでなければいいが。
俺が不審に思っていると、彼女はふっと笑った。
「そんな顔なさらないでくださいな。ちょっと気持ちが素直になる薬を使って、心の壁を取り去ろうと思っているだけですから」
「え、薬?」
「大丈夫。私の体内で精製したものです」
「毒じゃないの?」
「毒と薬を区別する方法などありはしません。死ぬようなものではないので安心してください」
キマった状態でしろって言うのか。彼女、なかなかアレだな。俺のような経験の浅い人間にはハードルが高すぎる。
しかし彼女はそれを口に含み、んっと顔を近づけてきた。ちょっと間の抜けた愛らしい顔をしている。これを拒むことはできない。
「分かったよ。じゃあ少しだけ」
「んっ」
*
記憶がない。
目を覚ますと、俺はひとりで寝ていた。もしかすると鈴蘭が来たのも夢だったのかもしれない。日はすでにのぼっているらしく、欄間から差し込む日差しで室内はかなり明るくなっていた。
体が異様にダルい。
身を引きずるようにして居間へ行くと、板の間に鈴蘭がぐったりと寝そべっていた。小梅はいない。
「おはよう」
「おはようございます」
そう応じながら身を起こした彼女は、腕が傷むのか、痛そうに顔をしかめた。
嫌な予感がする。
「大丈夫?」
「ええ、なんとか」
おそらくは薬を飲んだ影響だろう。なにかが起きたのだ。俺の知らないなにかが。
俺は囲炉裏の脇へ腰をおろし、なるべく遠回しにこう尋ねた。
「えーと、昨日は……どんな感じだった? まったく記憶がないんだけど」
鈴蘭は優しい笑みを浮かべてくれたが、どこかムリのある様子だった。
「ええ。とても激しかったです……」
「腕、痛むの?」
「少し」
「ごめん。ホントに記憶がなくて」
「気になさらないで。私が望んだことですから」
そう言われても、気にしてしまう。つらそうな顔だ。というより、少しやつれて見える。
いや、そんな生易しいものではない。浴衣から覗く首筋などに、あざが見えた。
「もしかして俺、叩いたりした?」
「いいんですよ、本当に」
「よくないよ。なんでこんなこと……」
「いえ、ですから、あなたはなにも悪くありませんから」
まるでDVにあった女性が、夫をかばっているようにしか見えない。この場合、当のDV野郎は俺ということになるんだけど。
俺は座ったまま、彼女へ距離をつめた。
「教えてくれ。薬で豹変して女性に暴力を振るうなんて、最低な人間のやることだ。もし自分がそんなヤツなら、ちゃんと知っておきたい。君にも謝りたいし」
「あの、本当に、謝らないでください。あなたが豹変するよう挑発したのは私ですから。ご自身の首筋を見ていただければ分かりますが……」
「えっ?」
どう頑張っても見えないので、手で触れてみた。ズキリと痛む。爪でひっかかれたような傷だ。
彼女は気味の悪い笑みを浮かべた。
「久しぶりに楽しみたくて、つい」
「つい? 本気で言ってるの? 俺、そんな趣味ないんだけど……」
「すみません。これは直らない悪癖のようなものでして。激しく求められると、いつもより心が満たされるので。髪を引っ張られて、腕をねじりあげられて、上から押し付けられて一方的に……」
率直に言って、頭がおかしい。悪趣味というか、下品だ。
つきあわされた俺が可哀相でならない。
「ダメだ。こんなこと、もう二度とやらないで欲しい。君の苦しむ姿なんて見たくない。俺だって、自分がそんな暴力野郎だなんて知りたくなかった」
「表向き優しければ優しいほど、裏側は激しいものです。いつも大事に触れていただいているだけに、タガの外れた瞬間の感慨もひとしおというか……」
「怒るぞ」
「はい。二度としません」
力ない笑みだ。
分かってはいたが、度を越した変態だったようだ。まあ彼女が一線を越えた理由は俺にもあるし、強く言えないところなのだが。
しばらく沈黙が続いた。
所在なさそうにしている彼女が不憫に思えてきて、俺は口を開いた。
「えーと、関係性をさ、ちょっと考え直そうぜ」
「関係性? まさか、また私を捨てる気じゃ……」
「そうじゃない。たとえば、君のその敬語をやめてみるとかさ。夫婦ってのは対等なもんでしょ?」
「ええ、まあ……。けれども、これは習慣のようなものでして。それに、私はこの距離感が好きですから。どうしても変えろとおっしゃるなら、気をつけますが……」
さすがに習慣を捨てろとまでは言えないか。
抑え込んでいるから爆発する、という理屈が正しいのであれば、普段から細かく発散して欲しいところではあるのだが。
「かと言って、いまさら俺が敬語ってのも変だしなぁ」
「それは気味が悪いのでやめてください」
「……」
こうして率直に言ってくれるってことは、過剰に遠慮しているワケでもないのだろう。いや、時に率直過ぎるくらいだ。
「もしかすると俺じゃ、君の欲求に応じきれないのかもな……」
他人と比べたことがないから分からないが、どうやらサイズも小さいらしいし。
すると彼女は必死になってしがみついてきた。
「待ってください! 誰もそんなこと言ってませんから!」
「でも趣味が危な過ぎるしさ」
「それは……もうしませんから」
「俺、普通でいいんだよ。一緒にいるだけでさ」
「一緒にいるだけ? それで、私をつまらない女だと思いませんか?」
「思わないよ。そんなこと言ったら、俺だって特になにもない男だし」
「それはまあ……そうですが……」
否定してくれていいぞ。
いや、いいのだ。お互いに薄っぺらい存在だ。だからこそお似合いでもある。まあ彼女は薄っぺらいというか、危ない方面に振り切っている気もするが。
外にいる小梅が、心配そうに小窓から中を覗き込んでいた。
また気を遣わせてしまっている。
俺は軽く咳払いし、鈴蘭へこう提案した。
「じゃあ、これから少しずつ考えていこう。君もなにかしたいことがあったら、素直に言ってくれ。俺もできる限り応じる」
「分かりました」
「お茶にしよう。座ってて。準備するから」
「はい」
茶は囲炉裏でずっと煮られている。これはどう考えても苦くなるわけだ。
しばらくすると、何食わぬ顔で小梅が入ってきた。
「あー、喉渇いたー」
ずっとやりとりを眺めていたのに、白々しいにも程がある。
鈴蘭は気づいていない。
「どこへ行っていたのですか?」
「聞きたい?」
「もったいぶらずにお言いなさい」
「うん。じゃあ言うね。父さまの小屋見てきた」
すると鈴蘭は、くすくすと笑った。
「まあ、小梅ったら。そんなに父さまが恋しいの?」
「ぜんぜん違います。ただ、母さまがずっといるから、なにかあるのかと思って」
「ヘビのすることに意味なんて……」
「卵がありました」
「……」
えっ?
卵?
ヘビの卵? それはつまり、彼女たちの妹がいるということか? いや弟の可能性もあるが……。
鈴蘭は目を丸くしている。いまにも卒倒しそうだ。
事実なら、おめでたいことだ。権兵衛がヘビを相手に格闘したのかと思うと、いわく言いがたい気持ちにはなるが。
(続く)




