2084
都心に近づいていたおかげで、俺たちはどのマンションにでも入り込むことができた。
上階だと突っ込んでくる可能性が高いから、拝借したのは一階だ。
部屋には生活の痕跡がある。棚から落ちたテレビ、倒れたスピーカー、焦げたソファ。カーペットには衣類やガラス片が散乱しており、外部から爆風に煽られたことが分かる。死体はない。
俺は靴をはいているが、ふたりは裸足だったので、下駄箱で見つけたスリッパをはいてもらった。誰が使っていたものだか分からないが、足を切るよりはマシだろう。
天使どもは、まるでコウモリのようにわっと出てきて、たちまち空を占拠した。
悲鳴をあげたりはしない。ただ無言で、無表情で、淡々と殺し合いを開始する。光の翼をもった少女たち。あるいは少年たち。
白と青のチームに分かれ、互いに光の矢を撃ち込みあっている。サバゲーでもしているのかもしれない。撃たれた天使は墜落し、地べたにぶつかって肉片と化す。まるで完熟トマトを叩きつけたように。
「結局のところ、あいつらナニモンなの?」
俺の問いに、鈴蘭は「さあ」と愛想笑いを浮かべた。
「詳しく知りたいとは思うのですが、なにせお話したこともありませんので。おそらく海外の勢力ではと」
「なんだか浮世離れしすぎてるな。もしかしてこの世界は、俺の知ってる世界じゃないんじゃないか?」
「いいえ。正真正銘、あなたのいた世界ですよ。ただ、時代は違いますが」
「人類が滅んだあとの世界ってことか」
まあそうだろう。俺はつい最近まで、滅んでいない世界で普通に暮らしていたのだ。もしこんな派手に破壊されるような事件が起きたなら、俺だって巻き込まれて死んでいないとおかしい。
俺は重ねて尋ねた。
「つまり、時間を移動できるってことだよね?」
「おそらくは。ただし、私にその力はありません。すべては天の思し召しです」
「なんなんだよその天ってのは。頼んでもないことしやがって」
「残念ですが、帰ろうと思っているのなら、その希望は捨てたほうがいいと思います。これまで来た人間たちは、誰ひとりとして帰れませんでしたから」
「この意味不明な状況で死ねってことか。分かったよ。ネットもない退屈な世界で、退屈なまま死んでやるよ」
まあ俺も人類なのだから、なんらかの発明をしてもいいわけだが。いかんせん才能がな……。
かつて博物館で、明治時代の生活を見たことがある。
テレビもない、ラジオもない。電気はかろうじてあるが、普及していない。自動車も、馬車を改造したようなものが走っている程度。
俺の暮らしていた時代より、たった百五十年ほど前の状況がそれだ。
そのとき俺は痛感した。
もし全人類が俺と同レベルだったとして、百五十年という期間で、明治から現代まで文明レベルを引き上げることができただろうか、と。
まあ考えるまでもなく「ムリ」ってのが結論だったが。
つまりこの滅んだ世界を復旧させるのに、俺の能力では百五十年は短すぎるのだ。どう考えてもその前に死ぬ。
俺はつい溜め息をついた。
「そもそも、なんで人間はいなくなったの?」
「はて、存じません。なにせ私たちも、人間が消えてからこちらへ来たのですから」
彼女の回答は、いまいち要領を得ない。
「来たって、どこから?」
「なんというんでしょう……。仙境というか、隠世というか、とにかく人の世とは異なる世界です。しかし人の世から人が消え去ったので、人ならざるものである私たちが戻ることになりました」
「それも天の思し召しだと?」
「ええ」
この会話の最中も、周囲に肉片が降り注いでいる。
血液と一緒に脳漿が飛び散って、不快なピンク色の水たまりをつくる。崩れた頭蓋骨からは眼球が飛び出したりもする。足の踏み場もないほどではないが、わりと地獄絵図だ。
ただでさえ減退している食欲が、さらに萎えてくる。
小梅も不快らしく、直視せずに顔をそむけていた。
「こんなことして、なにが楽しいんだか」
案内人に分からないのなら、俺が考えても分からないだろう。
*
理解不能な殺戮のパレードは、俺たちへの直接的な危機とはならず、すぐに過ぎ去っていった。
実害らしい実害といえば、とにかく血なまぐさいのと、歩いていると踏んづけそうになるくらいで。
マンションを出た俺たちは、歩を進めながら世間話をしていた。
「まあこいつらは無害だからいいとしてさ。有害なほうについて、いまのうちに話し合っておいたほうがいい気がするなぁ」
すると鈴蘭は理解できていないのか、頭にハテナを浮かべた。代わりに応じたのは小梅だ。
「餓鬼のこと? 考えてもムダよ。あんたなんか役に立たないんだから」
「おいおい、どういうことだ? たしかに俺は実戦経験もなけりゃ、デカいケンカもしたことのないボンクラかもしれないけど。役に立たないってのは心外だな」
すると小梅がすんと無視してしまったので、今度は鈴蘭が応じた。
「お気持ちだけ受け取っておきます。むやみに抵抗すれば、あなたにまで危険が及びますし」
「君たちがさらわれるのを、黙って見てろってこと?」
「そうなります。おとなしくしていれば、餓鬼もあなたを傷つけたりはしないでしょうし。私にしても、さらわれたところで死ぬわけではありません。過去にいちどさらわれたことがありますが、こうして生きているわけですし」
鈴蘭の気楽な物言いに、小梅がぐっと眉をひそめた。
「簡単に言わないで! 父さま、そのとき助けに入って腕をなくしたんだから」
「申し訳ないとは思っているのよ。けれども、どうしようもないことなの。餓鬼は群れで行動するし、鋭い槍を手にしているから」
「外にいるから危ない目にあうんでしょ? やっぱり家に帰ろうよ!」
「あなたは帰りなさい。姉さまは仕事をします」
「バカ!」
いつもの流れになった。
ともあれ、俺に「できることはない」という事実だけが確認された。
いざというときに備えて武装してもいいが、槍を持った連中が集団で来るんじゃ、どう考えても勝ち目がないしな。こちらとしては、安全な居城をつくるか、銃火器を見つけて強固に武装するか、そのどちらかしかなさそうだ。
*
空はずっと白い。
白いのだが、おそらく日の位置によってであろう、明るくなったり暗くなったりする。いまは明るくなっている途中。そろそろ昼だ。腹が鳴り出した。
「えっ? おいおい、ウソだろ。人間か? ペットを二匹も連れてやがる」
そんな男の声が聞こえたのは、瓦礫の街を進んでいる最中だった。
東京はかなり破壊されているらしく、進むたびにビルの崩落がひどくなっているが、その中でもかろうじて直立しているビルがある。
男がいたのは、半壊してむき出しになった三階のフロア。どこで拾ってきたのかデッキチェアを置き、滅んだ街を眺めながら酒をかっくらっていた。
歳は俺より少し上か。おそらく三十前後。神経質そうな顔立ちに不敵な笑み。かなり酔っているらしく、崩れかけた壁によりかかり、ダルそうに手を振っている。
「よぉ、ピクニックの途中か? 時間があるなら、あがって来て一緒に飲まねェか? なんせここには飲みきれねーほどの酒があるからな」
ずいぶんとこの世界を満喫しているようだ。生き残りだろうか。あるいは別の時代から来たか。
クソ野郎にしか見えなかったが、俺はいちおうの礼儀を払って応じた。
「ありがとうございます。ただ、俺、酒は飲まないんで」
「はっ? 酒を飲まねぇだぁ? そんなヤツいんのかよ? さてはおめー、バカだな?」
「……」
可及的速やかにデカい石を拾い、顔面に叩きつけてやるべきかもしれない。
男は瓶からぐびりとウイスキーをやった。
「なんだ? 怒ったのか? けど、そーだろーがよ! 俺みてーな頭のいい男はよ、世界が見えすぎちまうのよ。だから酒飲んでレベルをさげてだな、やっと愚民どもと会話ができるようになるってこった」
俺は無視し、鈴蘭に告げた。
「行こう」
「あ、おい! ちょっと待てよ! 待てって! 待ってくださぁーい! 謝るから! ちょっと話につきあってよ! お願いだからーっ!」
なんなんだよ、この絵に描いたようなクソ野郎は。
そういえば親戚にもこんなのがいたな。盆と正月になると必ず酔態をさらす、いい歳した独身のおじさんが。
俺は足を止め、男に尋ねた。
「マナーを守った会話ができると?」
「まぁな」
「ふざけてんなら行きますよ」
「あーウソウソ! 待って! ごめんって! ごめんなさい! 久しぶりに人間に会ってちょっとアレしちゃっただけだから! こっち来てよ! 話そうよ!」
なんだよ「アレ」って。
言葉が出てきてねーじゃねーか。
だが、もしここに長いこと住んでいるのなら、都心がどうなっているのかも知っているかもしれない。結末が分かっていれば無駄足も避けられる。
いやそもそも、都心に行ったところで「なにかあるかも」くらいのプランなのだが。
男のビルに立ち入った直後、俺は思わずビクリと身をすくませてしまった。
薄暗いエントランスに人影があった。酔っぱらい男ではない。頭から布をかぶった小柄な女だ。アラブ人ではなさそうだが、顔以外のすべてを隠している。
「どうぞお通りください」
彼女は硬質な声でそう告げると、すっと道をあけた。
例の男の「案内人」だろうか。
電気が来ていないから階段も薄暗い。だが三階まであがると、すぐに白い光に包まれた。壁がないのだ。日光はダイレクトに内部まで差し込んでくる。
「適当に座ってくれ」
「はぁ」
もとはオフィスだったのだろう。デッキチェアはひとつしかなかったが、オフィスチェアはいくらでもあった。そのほとんどがボロボロに朽ちかけていたが。
鈴蘭と小梅に椅子を勧めてから、俺も腰をおろした。
「まだ名乗ってなかったな。俺ァ、毒島だ。毒島三郎」
「玉田健太郎です」
「略してタマケンか」
「帰ろうかな」
「待て! 待った! 玉田ちゃんよ。略さねーぜ。な? いいだろ」
「玉田ちゃん……」
まあ「タマちゃん」じゃないだけよしとするか。「タマケン」もひどいが最悪じゃない。頭のアレなヤツは無遠慮に「タマキン」と呼んでくる。
俺は世間話の代わりに尋ねた。
「下にいた女性は?」
「俺のペットだ」
「案内人ではなく?」
「似たようなモンだろ。俺の命令ならなんでも聞くんだから。あんたの飼ってるのもそうなんだろ?」
「飼われてるのは俺のほうですよ」
鈴蘭はにこにこしているが、小梅はむすっとしている。この毒島って男の態度が気に障るのだろう。
すると毒島はじろじろと俺の格好を眺め、ふっと鼻で笑った。
「旧時代の作業着ってことは、あんたは前世紀の労働者ってところかな」
「産業革命以降とだけ言っておきましょう」
「こっちは2084年の生まれだ」
ずいぶん未来の生まれだ。もちろん年下。生きた年数でいえば、たぶん俺より年上なんだろうけれど。
見た目は未来っぽくない。スラックスにアーガイルのセーターという、俺らの時代にでもいそうな格好だ。こいつの言う「旧時代の作業着」と大差ないような気もするが。
「で、いまは何世紀なんです?」
「さあな。少なくとも二十二世紀初頭は、こんなんじゃなかった。だからそれ以降ってことだろう」
「都心は?」
「都心? 東京が行政区だったころの認識か。なにを期待してんのかは知らねぇが、行っても瓦礫しかねぇぜ。あそこは特にひどくやられたようだからな」
俺と彼との間には、およそ百年のギャップがある。
言葉は通じるが、東京がどういう変化を遂げたのか、なにが起きたのか、そういう部分では認識に齟齬があるようだ。
判明したのは、東京へ行っても無駄足ということだ。このピクニックを続ける理由もなくなった。
毒島はウイスキーを一口やり、力なく笑った。
「ま、そう焦るこたねぇよ。ここは天国だぜ。メシにさえ我慢できりゃあな。ゆっくりしてけよ。『せまい日本そんなに急いでどこへ行く』ってな」
「なんです、それ? 二十二世紀のスローガン?」
「あんたらの時代のリリックだろ?」
「聞いたことないな」
俺が生まれる前の標語かもしれない。
すると毒島は、空になった瓶を道路に放り投げた。下からガシャンとガラスの砕け散る音がする。
「勘弁してくれや。うろ覚えでな。近代史には詳しいつもりだったんだが。やっぱアシスタンスがねぇとダメだな」
「アシスタンス?」
「AIだよ。そういうサービスがあったんだ。俺たちの会話を脇でずっと監視してて、必要に応じて情報をくれるっつー。たまにズレたこと言ってくるけどな。専門家に言わせりゃ、性能が上がれば上がるほど『人間らしいミス』をするようになるんだと。だったらテクノロジーってヤツぁ、逆に信用ならねーよな」
皮肉な話だな。
だが俺も、こいつにぴったりの返事を思いついた。
「一番信用ならないのは自分自身、ってオチは?」
「言えてんな。実感がこもってて、なかなかリアルだぜ」
お前のことを言ってるんだよ、この酔っぱらい。
毒島はデッキチェアから身を乗り出し、新たな酒瓶を取ろうとして何度も手をスカらせた。もはや距離感さえつかめなくなっているようだ。回っているのは口だけだな。
「あー、酒が遠い……。なんで世界はこんなに俺につめてぇんだよ」
やがてデッキチェアから転げ落ち、そのまま動かなくなった。
安らかに眠れ。
(続く)