ダブルバインド
まどろんだと思ったら、いつの間にか朝が来ていた。
意外とぐっすり眠れた。夢に義母が出てこなかったおかげかもしれない。あの家にいたときは、連日連夜の猛攻だった。
目を開くと、龍胆と目が合った。
「おはようございます」
「おはよう」
よく眠れたのにはもうひとつ理由があったようだ。あたたかくてあまいにおいのする少女が、ぴたりと身を寄せている。
彼女は小さくうめくと、こちらへぐいと顔を寄せてきた。いや、顔だけじゃない。やわらかな唇を重ね、ひとくちぶんのメシをぬるりと送り込んできた。
不快ではなかった。
いやむしろ、濃厚なチーズケーキをシェイクにしたような、ほのかなあまみと深い味わいが口内に広がった。それも本当に少量だから、気がつくとふっと消えてしまう。
まさしく滋味。
文明の滅んだ世界に、忽然とスイーツショップが現れたかのようだ。
彼女は半目で薄く笑っている。
「朝のお食事です。よろしければもうひとくち」
「うん」
これは拒否できない。
体が欲している。
あまいだけではない。舌の上でとろけてしまい、後味さえも残さない。栄養が体に染み込んでくるようだ。
進められるまま、どれだけ飲み込んだか分からない。
我に返ったときには、龍胆が苦しそうに息切れしていた。
「ありがとう。もういいよ」
「ご満足いただけました?」
「うん」
これはちょっとした武器だな。胃袋をつかまれる、というやつだ。餓鬼だって彼女のことは手放したくなかっただろう。
ふと、背後から咳払いが聞こえた。
山吹だ。直立して刀を床に突き立て、こちらを見下ろしている。
「あの、そういうのご遠慮くださらない? まだ交戦していないとはいえ、ここは戦場なのです。それともなんですの? 交戦ではなく交尾がしたいと? ありえませんわ!」
な、なんだいまのは……。天界のジョークが炸裂したのか?
さすがの菖蒲も苦笑だ。
「ありえないのは山吹だよ。なに交尾って」
「お黙りなさい! 我が隊の風紀を乱すものは、誰であろうと容赦しませんから! そのおつもりで!」
いつの間に「我が隊」になったんだよ。
たったの四人で主導権争いをするつもりはないが、当人の許可なく部下にするのは勘弁して欲しいもんだな。
俺は身を起こした。
「ただの朝飯だよ。腹が減っては戦もできぬって言うじゃないか」
「それは人間の理屈でしょう?」
「そう。そして俺は人間なんだ。ま、そうカリカリしないで仲良くやろうぜ。これから生死をともにするんだからさ」
「ふん」
山吹は不快そうに顔をそむけてしまった。
*
またぼんやりとした一日が始まる。
そう勝手に思い込み、昼食をどうしようかソファで思案していると、山吹たちが一斉に立ち上がった。
「来ますわ」
見てもいないのに、よく分かるものだ。
なんかの気配でもするのだろうか。
菖蒲が銃剣を拾って窓際へ寄った。
龍胆も緊張した様子で剣を抜く。室内だから、真上に振り上げることはできないだろう。正面に構えるしかない。
菖蒲が声を震わせた。
「来てる来てるっ!」
「では射撃なさい」
山吹は冷静だ。まるで緊張していない。よほど自信があるのか、あるいは理解していないのか。
俺も槍を掴んだ。とても振り回すスペースはないから、じっと構えて迎撃することになるだろう。接近されたら金属の小手でぶん殴るしかない。
菖蒲は射撃を開始せず、何度も振り返って確認する。
「いいの? 撃つよ? 撃ったら始まるからね?」
「結構。撃ちなさい」
「ホント撃つよ? 撃ったらワーッてなるから!」
「ええ」
山吹は仁王立ちのまま、じれたように眉間にしわを寄せている。
外来種の戦闘する様子は、じつに不気味だ。
少年だか少女だか分からないが、無表情のまま、悲鳴もあげず、淡々と光の矢を撃ち合う。響いてくるのは、地面に肉片の飛び散る不快な音だけ。屋根から雪の落ちる音を鈍く硬質にしたようなものが、散発的に鳴り続ける。
スパンッと空気の爆ぜる音がした。
バリケードと窓枠の隙間から、菖蒲が発砲したのだ。バリケードとはいえ、隙間はわりと空けてある。天使が飛び込みたくなる程度には。
火薬を使っていないせいか、発砲にはフラッシュも煙もなかった。なんらかのエネルギー体が光弾となって飛翔し、害鳥のように空を覆う外来種の群れへ一撃を加えた。
が、なにせ連中も大乱闘である。よそから一発撃ち込まれた程度では、そもそも現象を認識さえしない。
次の指示を待つように、菖蒲は山吹の顔をうかがった。
山吹の意見はこうだ。
「続けて撃ちなさい」
「うん……」
ふたたびスパンッと音が響いた。
外来種は次々落下しているから、彼女の攻撃が命中したかどうかも判然としない。
山吹が「次」と命じると、菖蒲も呼応して射撃を繰り返した。
俺たちはその仕事を見守ることしかできない。
やがて、静寂が訪れた。
外来種が戦闘を停止したのだ。ようやく「部外者」の介入に気づいたらしい。怒りをあらわにしてキョロキョロと犯人をさがしている。
山吹がさらに命じた。
「次」
スパンッと音がして、外来種の一体が垂直に落下。民家の屋根に叩きつけられて、そのまま死体となった。
それにしても数が多い。
窓から見えているだけでも、学校のクラスでふたつほどか。修学旅行にしてはちと物騒だが。
そいつらが、ついに俺たちの存在に気づいた。
一斉に飛び込まれたら危険だが、そうなったら部屋を脱出する計画だ。下の部屋も鍵がかかっていないことは確認済み。敵の数を減らしながら転戦する。
なのだが、連中は特攻してはこなかった。
ある一体がこちらへ手を向けると、他の連中も同様の格好になった。光の矢を放つつもりだ。
嫌な予感がする。
木製のタンスはともかく、コンクリートの壁は耐えてくれると思うのだが……。
俺たちが物陰に身を潜めると、菖蒲も慌てて窓から離れた。
鎧でガチガチの俺は、しゃがむことさえできないのだが。ともかく冷蔵庫やキッチンカウンターなどを遮蔽物とし、攻撃に備えた。
彼らの手に、光が集まっているのが分かる。
かなりの発光だ。
光がひときわ強まったと思うと、それらは横薙ぎの猛吹雪のように、みるみるこちらへ流れ込んできた。
おそらく最初に矢に触れたのはベランダの鉄柵であったろう。それがキンと甲高い音を立てた。
続いて、壁に衝突した矢が石粒のような音を立てた。かと思うと室内に入り込んだ矢がタンスに突き刺さり、あるいは床や壁へ突き刺さり、バラバラバラバラとパチンコ屋のようなけたたましい音を立てた。
矢はなにかにぶつかると途端に光を失い、細いガラス管のような見た目になって、粉々に砕けては霧散した。
そういうのがいくつも床に転がっては消えた。
俺の鎧にも何発か命中した。指先でつつかれるような弱い衝撃だったが、鋭い先端は表面に小さなくぼみを作った。生身で受けていたら突き刺さっていたかもしれない。しかしどう隠れても、冷蔵庫から鎧がはみ出してしまう。
しばらく射撃に耐えていると、またしんと静かになった。
俺は室内を確認するも、全員無事。菖蒲などは、冷蔵庫を盾にする俺を、さらに盾にしていた。お役に立ててなによりだ。
タンスは木片と化し、内装もズタズタだったが、戦闘を継続できないほどではなかった。窓ガラスは最初からついてないから、そういう意味では被害は少なかったかもしれない。
が、ほっと安堵している時間はなかった。
連中はじわじわと距離を詰め、ベランダのすぐそこまで迫っていた。俺の予想では、バカみたいに突っ込んできて、自動的に槍に刺さるはずだったのだが。ま、あくまで予想だから外れることもあるだろう。誤差の範囲だ。
キィンと甲高い金属音がした。
かと思うと、リビングにひとり躍り出た山吹が、ゆっくりと納刀しようとしているところだった。すでに一閃した斬撃が光波となって外来種を襲い、部屋を覗き込んでいた数名をスパッと両断した。
これには外来種も目を見開いた。その眉間を、菖蒲の放った光弾が貫通。即死させた。
ヘッドショットだ。腕がいい。問題は、完全に俺にしがみついて盾にしていることだけ。
龍胆は剣を構えているものの、ガタガタ震えてへたり込んでしまっている。まあ仕方ない。研修では相手を死体にはしなかっただろう。
俺は振り返り、菖蒲に告げた。
「悪いが移動する。俺の代わりに、こいつを君の盾にしてくれ」
「う、うん」
彼女は素直に解放してくれた。
さて、不本意だが、お次は龍胆の盾になるとしよう。
鎧があって本当によかった。用意してくれた権兵衛には感謝しかない。リヤカーにしろ兵糧丸にしろ、彼には本当に世話になっている。この恩を返さぬまま死ぬわけにはいかない。
俺が槍を構えると、山吹が振り返りもせず言った。
「あまり近づかないでくださいな。巻き込みますので」
「ああ。ここにいるとも」
ただでさえ狭い室内だ。刀の隣に槍が来たら、ぶつかるのは間違いない。
外来種どもは、慎重な態度を見せている。普段はなにも考えずに殺し合っているというのに。さすがに今回は例外か。
ベランダの鉄柵に手をかけた一体を、菖蒲が撃ち抜いた。またヘッドショット。外来種が応戦しようと手を出すと、それを山吹が切り落とす。
意外と順調だ。
敵が攻めあぐねるこの状況が続くならば。
バリケードはすでに廃材となって床に散っているから、その気になれば飛び込んでこられる。一斉に攻め込まれた場合、処理が追いつかなくなってもみ合いになるだろう。そうなる前に退室の準備をしておかねば。
俺は背後へ告げた。
「龍胆さん、立って。そろそろ危なくなるかも」
「あ、あの……でも足が……」
「鎧につかまってもいいから、とにかく立って」
「はい……」
龍胆は手をのばすものの、しかし震える指は鎧をつかむことさえできないようだった。
こいつは重症だな。
まあ餓鬼に囲まれて死んだように暮らしていたのだ。恐怖心を払拭するのは難しかろう。
俺は槍を捨て、龍胆の脇でなんとか姿勢を低くした。しゃがむことはできないが、肩を貸すのに支障はあるまい。
「ほら、つかまって。剣も置いて」
「いえ、でもこの剣は……」
「死んだらなんにもならない。生き延びて、終わってから回収しよう」
「はい……」
伸ばした龍胆の腕をつかみ、俺は抱えるようにしてムリヤリ立たせた。とはいえ自分の足で立ってるわけじゃないから、俺が力を抜けば転倒しかねない状況だ。
この体勢で階下へ逃れるのは難しいかもしれない。
いっそ戦いが終わるまでトイレに押し込んで置くか。そこなら内側から鍵もかけられるしな。木製のドアが信用できるかどうかはともかく。
すると射撃を継続していた菖蒲が、こちらへ叫んだ。
「先に行ってて! ここはあたしらでなんとかするから!」
無言のままだが、山吹もかすかにうなずいてくれた。
任せるしかない。
「恩に着る」
俺は龍胆の許可もとらず、方向を転換した。
ギリギリになってから行動したのでは間に合わなかったろう。菖蒲の決断力に助けられた。
龍胆を起こし起こし玄関へ向かい、ようやくドアノブに手をかけた。
が、違和感がある。
俺はしばし動きを止め、耳を澄ました。
なにか聞こえる。
いや、聞こえるだけじゃない。かすかに、何度が嗅いだ生臭いにおいがする。それに、鼻の詰まったような呼吸。足音。
見なくても分かる。餓鬼だ。
においにつられたのか、この近辺に集まっていたらしい。
(続く)




