ウォーミングアップ
すると小梅が、信じられないことを言い出した。
「姉さま、小梅はお腹がすきました」
「……」
姉妹なのだから、同じ能力を有しているとばかり思っていたが。よくよく思い返せば、さっき朝ごはんがどうのと言っていたっけ。
鈴蘭もなんとか笑みを浮かべてはいるが、ひそかに奥歯を噛んでいた。
「小梅、いい加減にしないとそろそろ怒りますよ」
「なんで? この人間にはあげてるんでしょ? 小梅にもちょうだいよ」
「あなたは食べなくても平気でしょう」
「平気じゃないっ! 姉さまの口から直接食べたいのっ!」
「この子は……」
鈴蘭はまだ俺の袖をつかんでいる。
なんでか知らないが、俺は出勤用スーツのままだ。足には革靴。ネクタイもしていたが、いまは外している。食事のときにゲロがかかる可能性があるからだ。
ともあれ、逃げることはできない。
俺はひとまず咳払いした。
「あー、ともかく、食事くらいあげたらいいんじゃないかな。腹が減ってると正常な思考もできないだろうし」
これに妹が憤慨した。
「小梅は正常よ! なんなのこの人間! 腹立つわ!」
「……」
とても正常な思考とは言えんようだが。
鈴蘭は、あきらめたように手を離した。
「分かりました。では一度だけですよ」
「口から直接ね?」
「分かりましたから、そこで口を開けてお待ちなさい」
「はぁーい!」
そして、そっと唇を重ねるふたり。
無邪気でかわいらしい妹と、清楚で美しい姉の口づけ。
などというものではない。
吐瀉物を強制的に飲ませる虐待の現場にしか見えない。まさしく家庭内暴力だ。
むかし、フォアグラを量産する様子を映像で観たことがある。ホースを持った飼育員が、大量のガチョウが閉じ込めらた檻へやってきて、喉奥へと餌を流し込んで回るのだ。脂肪肝になるまで太らせる。あまりに残酷な光景だった。
いま俺の目の前でおこなわている行為も、似たようなものに見えた。ガチョウと違って、妹のほうは喜んでいるが。
小梅は物欲しそうに唇に吸い付いたが、鈴蘭が押しのけた。
「ほら、これで満足でしょう」
「うん! ごちそうさま! とってもおいしい!」
胃がムカムカする……。
するとしばらく味を堪能していた小梅が、勝ち誇ったような顔でこちらを見た。
「どう、人間? 姉さまからこうして直接もらったことないでしょ?」
「ない。そして羨ましくもない」
「ふふ、強がってる強がってる。けど人間はいいわよね。姉さまを好き放題できるんだから。知ってる? 姉さま、体のどこからでも食料を出せるのよ。あんたはどうせ口から出したものしか受け入れないんでしょうけど」
「……」
なんの勝負だよ。
俺はこういうレベルの争いには参加しない主義だ。
鈴蘭も、さすがに姉の顔になった。
「さ、小梅。用が済んだのならお帰りなさい。姉さまの仕事の邪魔をするのはダメよ」
「えーっ!」
「姉さまは、小梅の言うことをひとつ聞きました。小梅も聞きなさい」
「そんな約束してないもん!」
「なんなのですか、この子は……。姉さまを愚弄すると痛い目を見ますよ?」
「はぁ? 痛い目? 姉さま、世界でいちばん可愛いこの妹を叩けるの? どんなふうに叩くの? お尻でもペンペンするの?」
「ぐぎぃ」
姉、完全にナメられてる。
そして妹のイキリっぷりがひどい。とっとと話をつけてお帰り願いたいものだ。
鈴蘭は溜め息をついた。
「ま、姉さまをバカにしたいのなら、好きなだけそうなさい。その代わり、あなたには二度と食事を与えませんし、母さまに言って厳しく叱ってもらいますから」
「母さま? 話が通じるの?」
「いえ、それは……」
なぜ口ごもるのだ。君らの母親はいったいどんな存在なんだ。
いっぺん顔が見てみたいもんだ。
小梅はあんぐりを口を開けた。
「じゃあいいよ。小梅も姉さまの旅に同行する。そしたら姉さまが人間にとられるのも監視できるし」
「それは困ります。いろいろ溜まってきた人間が、そろそろ我慢しきれず寝ている私にちょっかいをかけてくる時期なのですから」
「それがイヤなのっ!」
「姉さまはイヤではないの。むしろ、それが楽しみでこの仕事をしているようなものなのよ? 人の楽しみを奪わないで頂戴」
そういうぶっちゃけ話は、俺のいないところでやって欲しいんだが。
小梅は地団駄だ。
「やーだーっ! 小梅がぜんぶやってあげるから!」
「あなた、男のモノがついてないでしょう?」
「ほら、卑猥! やっぱり姉さま、そういう女なんだ!」
「最初からそういう女です」
「やだやだやだやだやだーっ!」
しまいには仰向けになってバタバタやりだした。あまりにバタバタやるので羽衣がはだけて大変なことになっている。見た目は十代半ばといったところだが、精神年齢は一桁としか思えない。
「小梅、はしたないですよ」
「はしたないのは姉さまのほうでしょ! 姉さまのバカ! バカ姉さま!」
「言っておきますが、あなたよりは賢いつもりです」
「小梅のほうが賢いっ!」
どっちもどっちだな。
それはいいのだが、あまりにギャーギャー騒ぐから、まったく晩メシの動物が近づいてこない。いや、どうせ鈴蘭の力で追い払われるらしいが。
どこかに木の実でもなっていてくれればなぁ。
鈴蘭はこちらへ向き直った。
「あの、あなたのさえよろしければ、しばらく妹を同行させても……?」
「うーん。まあ……」
俺が言いかけると、小梅が凄い勢いで割り込んできた。
「なに勝手に決めようとしてんの!? あんたに決定権なんてないからっ! 小梅はついてくのっ!」
「こら、小梅。このかたは押しに弱いのだから、どうせうなずくに決まっているのですよ? 静かに聞きなさいな」
「はぁーい」
ムカつく姉妹だぜ……。
だがまあ、拒否したところで余計にうるさくなるだけだろう。
「分かった。しばらく同行していい。ただし、お姉さんの言うことをちゃんと聞くのが条件だ」
そして姉は俺の命令に逆らわない。自己紹介でそう言ってきたからな。ウソでなければ、すべてが俺の思い通りになる。
小梅は不服そうな顔だが、「はぁーい」と応じた。
「ま、姉さまの命令には従うわ。あんたの命令には従わないけどね!」
せいぜい吠えていろ。すぐに立場を理解することになる。
それにこの感じだと、飽きたらすぐに帰りそうだしな。どうせ思いつきで行動しているだけだろうし。
ガチョウの餌付けも見たくない。口から口へやるだけならともかく、他の部位でやられたら大惨事となる。スサノオの気持ちが分かりそうな気がするよ。
かくして俺たち三人の旅が始まった。
旅というか、アテもなく放浪しているだけだが……。
その晩、おそらく駐車場と思われるブロック塀で囲まれたエリアを見つけ、そこで寝ることになった。
火を起こすのは簡単だ。鈴蘭が謎の呪具で着火する。魔法なのかなんだか分からないが。とにかく理解しようと思わないことだ。ここはもう俺の知ってる世界じゃない。
火を囲んでいると、ようやく一日が終わるという実感が湧いてくる。すでに日は落ち、周囲はブラックアウトしたような暗黒。明るいのは焚き火の周辺だけ。墨汁の海に沈んだかのようだ。信じられないほど暗い。
だというのに、空だけは明るい。もやの向こうに星々がまたたいている。
棒切れで軽く焚き火をつつくと、組んでいた木々がカクリと崩れ、ぼっと火の粉が舞った。
廃材はあるから、燃料は豊富だ。
結局、狩猟しようという俺の意欲は空振りに終わった。ついさっき鈴蘭のゲロを分けていただいたところだ。俺は手からもらい、小梅は直接すすった。
胃がムカムカする。
「ちょっと人間! その態度はなんなの? せっかく姉さまが食事を与えてくれたのよ? もっと喜びなさいよ!」
小梅のお怒りもごもっともだ。
俺は大喜びしてその感謝を鈴蘭さまにお伝えすべき立場なのだ。なのにしょっぱいツラでずっと腹をまさぐっている。失礼というほかない。
俺が返事に窮していると、代わりに鈴蘭が反論した。
「おやめなさい、小梅。人にはそれぞれ生活習慣というものがあるのです。この人間はまだマシなほうですよ」
「姉さまは優しすぎるのよ」
「あなたは幼いから分からないのよ。このいわく言いがたい表情をご覧なさい。不満があるのに、見捨てられたら生きていけないから、ぐっといろんなものを飲み込んでいるこの顔! 姉さま、男のこういう顔を見ると体温があがるの」
「普通に趣味が悪いと思うけど」
「趣味は人それぞれです。どんなに悪趣味に思えても、安易に否定してはいけませんよ」
「はぁーい」
頼むからもっと人道的な会話をしてくれ。
しかし話を聞いてると、どうも俺以外にもこういう目に遭った人間がいるようだ。そして鈴蘭は、そのたび「案内人」として同行している。しかも命令されてイヤイヤという感じではなく、なかば邪悪な欲求を満たす手段として。
俺は反撃するつもりで、こう尋ねた。
「前に来た連中とはどんな感じだったの? 命令に逆らわないってことは、最終的にかなりアレなことになったりしたんじゃないの?」
自分で言っておいてなんだが、セクハラだな。
小梅はキッと睨みつけてきたが、応じる鈴蘭は穏やかな笑みだ。
「ええ、もちろんアレなことになりました。どんな人間もはじめは紳士ぶっているのですが、そのうち必ず手を出してきます。しかも私が抵抗しないと分かるや、その行為は次第に過激になってゆき……。あやうく死にかけたこともありましたっけ」
「えぇっ? そんなヤバいのもいるの?」
ヤってる女が死にかけるほどのプレイとは……。想像するだけで萎えてしまう。可哀相なのは抜けない。
鈴蘭は気にした様子もなく、淡々と続けた。
「私たちは、手足をもがれたくらいでは死ねないのです。首をハネられても、生きているものはいます。ここらに餓鬼というものがいることは、以前も話しましたね。彼らはそういう私たちを連れ去って、もぎとっては回復させ、もぎとっては回復させ、ずっと食べ続けるのです。そういうのに比べれば、人間の行為など可愛いもの」
「俺はそんなことはしない」
これはウソやデマカセではない。本心だ。相手が女か男かは関係ない。他人を傷つけて自分が気持ちよくなるなんて、嫌悪しかおぼえない。
ま、これは理想論であって、実際は気づかないうちにやっている可能性もあるが。仮にヘビを食う行為だって、俺にとってはいいかもしれないが、ヘビにとってはいい迷惑だろうし。
そう考えると、鈴蘭の供する食事は平和な解決策なのかもしれない。
ふと、小梅が膝を抱えてつぶやいた。
「姉さま、怖くないの?」
「怖い? なにが?」
「傷つくことよ。死ぬかもしれないし」
まったく同感だ。彼女にとって、この仕事はリスクが大きすぎる。家にいれば餓鬼に襲われることもなかろうに。男とヤりたいばかりにホイホイと「案内人」を引き受けるなんて。
鈴蘭はしかし表情を変えなかった。
「それは怖いわ。この人間は餓鬼から私を守れそうもありませんし。きっと囲まれたら誘拐されて、手足を食われ続けることになるでしょう。けれども死ぬわけじゃありませんし。また父さまが助けてくれることでしょう」
「小梅、痛いのはイヤ……」
「ならば、すぐにお帰りなさいな。家には母さまもいますし」
「けど、家には姉さまがいないから……」
小梅は、膝に顔をうずめてしまった。よほど姉のことが好きなのだろう。好きというか、便利な世話係としか見ていない可能性もあるが。
すると鈴蘭は立ち上がり、小梅の隣に腰をおろした。
「あまえんぼうさんね」
「だって、ずっと姉さまと一緒にいたいから」
「それはダメよ。誰だって成長しないわけにはいかないのだから。あなたも自分のことは自分でできるようにならなきゃ」
「イヤ」
「わがまま」
叱っているように見えて、鈴蘭の声は優しい。そっと小梅を抱きしめて、よしよししてやっている。
じつに美しい光景だ。美しい光景だが、めんどくさい男としては、その包容力が他者を付け上がらせていることに注意を促したい。これまでやらかしてきた男たちや、自分をコントロールできない妹は、まさしく彼女の「優しさ」によって成長の機会を奪われたと断じてよい。
そしてこうも思う。
俺もいっそ成長の機会を失いたい、と。俺とてしょせんは凡俗。鈴蘭にあまやかされてバブバブしたいに決まっている。
しかしそのためには、妹の独占しているポジションを譲ってもらう必要がある。だから帰って欲しい。切実に。一刻も早く。
桁外れの美人が、男とヤりたくてこんな危険な仕事をしているのだ。可及的速やかに期待に応じてやるべきなのだ。俺にもボランティアの精神はある。
「なんだかオスの臭気がする」
小梅がガバリと顔をあげた。
臭気とはなんだ、臭気とは。ちゃんと川で水浴びしてるぞ。
鈴蘭も嘲笑気味に、あきらかに愉しんでいる様子でこちらを見ている。
「どこかのオスが発情しているようね」
「姉さま、小梅怖い」
「大丈夫よ。姉さまが守ってあげる」
「ありがと。姉さまのことは小梅が守るね」
そして熱い抱擁。
クソが。薄い羽衣からヘソや脚をチラチラさせやがって。ふたりまとめて相手してやってもいいんだぞ。こっちは特に上等な人間ってわけじゃないからな。
俺は勢いよく立ち上がった。
「少し用を足してきます」
まずはソロでウォーミングアップから始める。何事も「ならし」が必要だ。急にいろいろやると怪我をする可能性がある。
ふたりのクスクス笑いを背に、俺は手頃なスペースを求めて歩き出した。
暗いからあまり焚き火から離れたくないのだが、近くでやると不審がられるおそれがある。特に彼女たちは、においに敏感なようだし。
(続く)