嗅覚
普段俺は、自分が眠っているという自覚を抱くことはない。だいたいなにも認識していないか、あるいは夢を夢と気づかずやり過ごす。
なのだが、今回は明確に夢だと分かった。
なぜなら和室に義母が現れたからだ。
銀糸のような輝く髪をなびかせ、艶めかしい体に羽衣をまとわせてふわふわ浮いている。
見る限り、鈴蘭よりやや年上という印象。実際の年齢は不明。
「人の子よ、お話があります」
「はぁ」
なんの件かは分かりきっている。鈴蘭を説得しろとかいう話だろう。
問題はタイミングだ。ついさっき娘とヤった男の夢に出るとは。空気が読めないというよりは、読んだ上でわざとやっているとしか思えない。
「私がかさねであるということを、鈴蘭とともに夫に説得して欲しいのです」
「いや、待ってくださいよ。その話すると、すずさん機嫌悪くするんで……」
「あなたたちは夫婦になったのでしょう? でしたら、あなたは私にとって義理の子ということになります。あなたも私に協力する義務があるのでは?」
「まだ結婚してませんよ」
すると彼女は不快そうに眉をひそめた。もともと目つきが暗いから、呪いでもかけられそうな気分になる。
「結婚する気もないのに、娘に手を出したのですか?」
「いや、そういうわけではなく……」
「ともかく、いまやあなたは私の息子も同然です。私の頼みを断るのは、人倫にもとる行為であると言わざるをえません」
ヘビに人の道を説かれるとは……。
しかし人倫どうこうを置くとして、少なくとも、このタイミングで鈴蘭に相談することはできない。夢に母が出るだけで許せないと言っていた。この話題はとにかく彼女の機嫌を損ねる。
「すずさんじゃなく、小梅ちゃんに頼むのはどうなんです? あの子、素直だから協力してくれるのでは?」
俺のこの提案に、かさねはいっそう表情を暗くした。
「ええ。小梅は素直な子です。私の言うことも信じてくれます」
「じゃあいいじゃないですか」
「なにがいいのです? あの子、返事だけはいいのに、起きたらぜんぶ忘れているのですよ? 快眠するにもほどがあります」
「……」
元気でなによりだな。
夢なんてものは忘れるのが正解だ。おぼえてるってことは、中途半端な状態で目を覚ましたってことなんだから。
「龍胆さんは?」
「協力を断られました。もう私には、あなたしかいないのです。協力してくれるのなら、私もできる限りのお返しをしますから」
「お返しったって……」
いやらしい想像をしなかったと言えばウソになる。しかし彼女の正体はヘビだ。ヘビの「お返し」といっても、まったくいいものが期待できない。
彼女は疲れたように溜め息をついた。
「ともかく、頼みましたよ。まずは鈴蘭を説得してくださいね……」
「……」
正直「はい」とも「いいえ」とも言えなかった。
彼女は一方的に話を終えると、そのまますぅっと消え去ってしまった。
*
目を覚ましたのは、まだ日も昇らぬ早朝であった。いや深夜というべきか。
空気がひえて、しんと静まり返っている。となりに転がっているのは手足のない鈴蘭。呼吸をしているから、死体でないことは間違いない。薄暗い部屋でも、顔立ちの美しさはハッキリと確認できる。
これまで彼女に案内された男たちも、その美貌にのめり込んでいったのは間違いなかろう。世が世なら傾城の美女といったところか。親がヘビというのも、なんだかそれっぽいような気がする。
俺は長い廊下を渡って居間へ出た。
火はない。
柄杓で瓶の水をとり、喉を潤した。誰かが汲んでおいてくれたらしく、水はたっぷりと溜められていた。それも夜の空気にさらされて、じつに清冽であった。気持ちも冴える。
ここで火を起こして茶の用意などをしてもいいのだが、居間にいても木目で迷路をして時間を潰すハメになる。もっと有意義なことに時間を使わねば。
もし毒島三郎に会いに行くならば、槍の稽古をしておいたほうがいい。なにせ俺はアスリートとは言いがたい体をしている。槍にしたって、どちらかというと振り回されている感じだ。使いこなせるようにしなければ。
意を決して外に出ると、冷気がひときわ身に染みた。本当にこれが核の冬なのだろうか。夏らしくない気温なのは事実だが。
しかし、たしか二十一世紀の時点でさえ、すでに氷河期だと主張する学者はいた。これから地球はどんどん寒くなるのだと。そこへ来て人類が活動をやめたことで、気温の低下が加速したのではあるまいか。
遠方はうっすらと白み始め、いままさに太陽が昇ろうというところであった。
俺は体をこすって気合を入れ、立てかけてあった槍を手にとった。
せめて体になじませる訓練くらいはしておいたほうがいい。いや、俺は努力家ってわけじゃない。ただ、ここではあまりにやることがなさすぎる。槍でも振り回していないと頭がどうにかなりそうだ。
*
しばらくすると、髪も作っていない浴衣の小梅が家から出てきた。眠たげに目をこすっている様子は、まだあどけない。
「もう起きてたんだ? おはよう」
「おはよう」
「なにやってんの?」
「ちょっと訓練をな」
「ふぅん……」
不思議そうな態度のまま、彼女はトイレへ行った。
古い家だから、トイレも風呂も外にある。
工夫しながら槍をぶんぶんやっていると、やがて小梅が出てきた。のみならず、目がさめて頭がハッキリしたのか、物凄い勢いで近づいてきた。
「あ、あのっ! 昨日っ!」
「昨日?」
「姉さま、人間の部屋で寝てた……よね?」
「……」
というかたぶん、いまもそこで寝てる。
小梅は鼻をひくひくさせながら、興奮した様子で詰め寄ってきた。
「変なことしたの!?」
「な、なんだよ変なことって……」
「それは……その……だから……」
「いや、ちょっと話し込んでたら、そのまま寝ちまってな……」
隠す必要はないのかもしれないが、とっさに誤魔化してしまった。鈴蘭とて、本人のいないところで勝手なことを言われたくはなかろうし。
小梅は顔を近づけ、すんすんとにおいを嗅いできた。
「姉さまのにおいがする」
「ち、近くにいたからね……」
「そうなんだ……」
「あ、それよりお母上のことなんだけど」
「なによっ!」
「どうしても人間の姿で出てきたいみたいで……」
すると小梅は、ひと目で分かるほどムスッとしてしまった。
「またその話? 母さまはヘビなのっ! 人間になんてならないからっ! あんまり言うと小梅怒るよっ!」
「ごめん」
もう怒ってる。
しかし小梅も聞いてくれない、鈴蘭も聞いてくれないとなると、この話を権兵衛に伝えるのは不可能なのではなかろうか。
小梅はまだ不審そうにこちらを見ている。
「それと、その……。人間、なんで急に訓練なんて始めたの?」
「えっ?」
「もしかしてここ出るつもりなの? 小梅たちのこと捨てる気?」
鋭いな。
前に鈴蘭に置き去りにされたのがよほどショックで、敏感になっているのだろうか。
「いや、俺だけなんの役にも立ってないから、せめて槍の腕だけでも磨いておこうと思って」
「役に立ってるよ。お水汲んでくれるし、薪も割ってくれるし。小梅ひとりでやるより、ぜんぜん楽なんだから」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど」
だましているようで心苦しい。
もちろん小梅は納得していない。
「急にいなくなったら怒るからね」
「うん」
「……」
まだなにか言いたげであったが、小梅は黙り込んで母屋へ戻っていった。
そうだな。
旅に出るときは、せめてきちんと説明してからにしよう。なにも二度と戻らぬ決意で出かけるわけじゃない。少し話を聞きたいだけなのだ。
*
日が昇ってから、俺は畑でキュウリをもらい、水で洗って齧った。味はない。が、とにかくみずみずしい。そしてかすかな苦味とコク。
キュウリには栄養がないなどと言われるが、それでも、ときおりむしょうに食いたくなる。もっとも、カロリーが低いだけであって、それ以外の要素は皆無でないのだから、なにかしら体の欲するものが含まれているのだろう。味噌や塩があればなおいいのだが。
だが、清々しい気持ちでいられたのも玄関の戸を開くまでだった。
家に入った途端、また鈴蘭と龍胆の口論が聞こえてきたのだ。口論というか、くだらない皮肉の飛ばし合いなのだが。
「未婚の女のひがみは怖いわね。そんなに男が欲しいのでしたら、どこかで拾ってきたらどうなのです? そういえば、あなたにお似合いのが地下にいましたね」
「心底あきれますね。勝手に結婚したつもりになって、一方的に独占したつもりになって。玉田さんの意見は確認したのですか?」
「あら、知りたいの? 彼、私の言うことならなんでも聞くのよ? 昨日だってとっても欲しがっちゃって……」
もうそのまま玄関の戸を閉めてUターンしたいくらいだった。
が、龍胆が見咎めた。
「玉田さんも、この女にハッキリ言ってあげたほうがいいのでは? あまりにしつこいから、お情けで抱いてあげただけなのでしょう?」
すると俺が返事をする前に、鈴蘭が身を乗り出した。
「お情け? あらあら、あなた、そんな……。ご自分がお情けで抱いて欲しいからって……。夫は、あなたのような貧相な女は相手にしませんので」
「貧相? 結構です。あなたのような下品な体でなくて、本望です」
「そんなに平坦では、どちらが前かも分かりませんね」
「そ、そこまで平坦じゃないですからっ! ちょっと玉田さんっ! あなたはどう思うのですかっ!? ハッキリおっしゃってくださいっ!」
仲裁に入ってくれそうな小梅はいない。きっとうんざりして自分の部屋にこもってしまったのだろう。
ともあれ、龍胆はそんなに平坦でもない。わりといい感じのサイズという感じだ。鈴蘭がちょっと大きめなだけで。しかも人を平坦と言えるほどデカくもない。じつに虚しい争いだ。
「私の夫を困らせないでくださいな。そんな貧相なものを見せつけて。ないものをあると言わせようだなんて、酷じゃありませんか?」
「異議ありっ! 人の身体的特徴をあげつらうのは最低の行為ですっ! あなた、やっぱり自己中ゴミカスクソ女じゃないですかっ!」
「自己中どころか、私が世界の中心ですので」
勝ち誇った笑み。
ただ、言ってる内容は最低だ。
あまりのクソ発言に龍胆が黙り込んだことで、ようやく会話が途切れた。
「もうやめなよ。龍胆さんの言う通りだぜ。人の体のことをさ……」
「あなた、もう浮気を!?」
「そうじゃない。どう考えてもいまのは君が悪いだろう」
「悪い? なにがです? 胸が豊かで顔もよくて床あしらいが上手なことの、なにが悪いのです?」
そこじゃない。
俺は手にしていたキュウリを流し込み、居間に腰をおろした。
「内容がどうこうじゃない。互いを攻撃することが悪いんだ」
「攻撃? いわれのない讒訴を受けたのは私のほうなのですが」
これには龍胆も反撃に出た。
「異議ありっ! そもそも彼女は朝から玉田さんとの肉体関係を吹聴し、風紀を乱すこと甚だしく、目に余る様子でした。事実、小梅さんは恥ずかしさに耐えきれず、どこかへ行ってしまいましたし。それでやむをえず私がいさめたに過ぎません」
「はぁ、嫉妬が心地いいわ」
まるで反省していない……。
「これが争いの火種になるくらいなら、俺はもう君には近づかないようにする」
「えっ?」
「だいたい、これから旅に出るにしても、こんなに冷静さを欠くようじゃ連れていけないよ」
「いまなんと? 旅? どういうことです?」
「……」
口が滑った。
いや、いい。そんなに重大な秘密じゃない。二度と戻ってこないわけでもないし。
鈴蘭だけでなく、龍胆まで絶句している。
「あ、いや、ちょっと出かけたらすぐ戻ってくるつもりで……。いますぐじゃないよ。そのうちね。そのうち……」
「いったいどちらへ?」
「都心へ……」
「なぜです? 以前行ったときには、なにもなかったではありませんか」
「いや、男の人がいたでしょ? またあの人に会って、話を聞いてこようと思って」
「……」
ロクに話が通じそうなタイプでもなかったが、少なくとも俺よりはこの世界に詳しいはずだ。鈴蘭が教えてくれないようなことも、彼なら教えてくれそうだし。
すると龍胆が、ニヤリと不敵な笑みを見せた。
「しかし回復の度合いから見て、彼女を連れて行くのは難しいようですね。ま、私ならお役に立てると思いますが」
うん。
鈴蘭はまだ肘や膝まで回復していないのに、龍胆はその先まで回復しつつあった。全快するのもそう遠い話ではあるまい。
小梅からの食事をこまめにもらっていただけのことはある。あるいはこうなることを見越して、小梅の食事を独占する方向へ誘導したか。
鈴蘭は食事のたびに「味が薄いわ」などと愚痴をこぼしたが、龍胆は「優しい味ですね」と褒めちぎっていた。供給される食事量に差が出るのも当然だろう。
この事実に気づいた鈴蘭は、悔しそうにぷるぷる震え出した。
「この泥棒猫、どこまでこずるいの……」
「人を見下すようなことばかり言って、感謝の気持ちを示せないからこうなるのですよ。いい勉強になったのでは?」
「ぐぎぃ」
口から泡でも吹きそうな顔をしている。
しかしこれは龍胆の作戦勝ちだろう。言ってる内容も正しい。わがまま放題でふんぞり返っているからこういうことになる。
とはいえ、実際に龍胆を連れて行くかどうかは別の話だ。守ることもできない仲間を、私的な用事に連れ回すことはできない。
(続く)




