他者
俺は餓鬼に近づき、その様子を確認した。
目はギョロギョロしているし、頭部にもツノがある。餓鬼としか思えない。が、髪はふさふさで、顔つきもさほどイカレていない。いや、ヘビに飲まれかけているのだから、まともな表情ではないにせよ。
「名前は言えるか?」
「ジョン・マルハシ」
「外国人か?」
「外国?」
「日本人じゃないのか?」
「ナンダ? 国ノ話ヲシテルノカ?」
会話が噛み合わない。
すると、龍胆が脇から補足してくれた。
「おそらくは二十三世紀、国家という概念が解体された時代の出身かと思われます」
「えっ?」
日本、なくなったの?
というか国家がないの?
じゃあ外国もなにもあったもんじゃないな。
オオゲツヒメが出てきたから神話の世界なのかと思いきや、いきなりSFじみてきやがった。
ジョンは不審そうに俺を見ている。
「アンタ、国家時代ノ人間ナノカ?」
「二十一世紀から来た」
「ズイブン古イナ。俺ハソノ女ノ言ウ通リ、二十三世紀ノ生マレダ。文明ガ滅ブ瞬間ヲ見タ」
やや聞き取りづらいが、日本語を喋ってくれるだけまだマシか。
「オーケー、分かった。信じるかどうかは別として、会話が成立することは認めよう。で、そちらの希望はなんだ? なにが目的でここへ来たんだ?」
この問いに、餓鬼は露骨に顔をしかめた。
「目的? 食イモンダヨ! ホカニナニガアルンダ?」
「……」
ごもっとも。
*
聞きたいことは山ほどあったが、いい加減ヘビも大口を開けるのに疲れてきたようなので、餓鬼を引きずり出してひとまずの状況を終えた。
いま、ジョンは屋敷の地下牢にいる。むやみに互いの警戒心を高めないよう、合意の上での監禁だ。納屋の野菜をくれてやったから、しばらくはおとなしくしていてくれるだろう。
俺は居間へ戻り、鈴蘭、小梅、龍胆らとともに囲炉裏を囲んだ。
餓鬼から話を聞き出すのもいいが、まずは彼女たちの口から話を聞きたいと思ったのだ。
「さて、質問だ。あの餓鬼は、自分を人間だと主張していた。そして龍胆さん、あんたもそれを認めたように聞こえた。つまり人間は、そのうち餓鬼になるってことでいいのかな?」
もしかすると答えてくれないかもしれない。なにせいままで、鈴蘭も小梅も「わざと」言わなかったんだから。
しかし龍胆は渋ることもなく、淡々と事務的な態度でこう応じた。
「確定事項ではありません。しばらくなにも食べることができず、飢餓が命にかかわるレベルに至ったとき、はじめて餓鬼へと変化し始めます。かつてであれば、餓えれば死んでいた人間も、いまや餓鬼となるよう命があらためられたのです」
「え、なんです? めいがあらため……?」
「天が介入したことにより、世界の法則がそのようにあらたまったという意味です」
「つまり、俺もメシを食わずにいると、いずれ餓鬼になると?」
「はい」
「……」
俺の抱いた感想はシンプルだった。すなわち「ひどい!」だ。
つまりここへ連れてこられた人間は、自給自足ができないのであれば、彼女たちのゲロをすするしかなく、それさえ拒むとなれば最後は餓鬼になることをしいられているというわけだ。
俺は率直な疑問をぶつけることにした。
「えーと、その天ってヤツは、もしかしてサディストだったりするのかな?」
「天の御心は私どもには計り知れません。きっとなにか深いお考えがおありなのでしょう」
「へぇ」
たんに性格がひん曲がってるとしか思えないんだが。
あらゆる時代から男を誘拐してきて、そいつに手下のゲロ女をあてがって、最後に餓鬼になるかどうかを上から眺めてるんだから。
「そもそも、その天ってのは何者なんです?」
「あなたがたが神と呼ぶもの、でしょうか」
「なるほど」
じゃあ対抗のしようがないな。弱小なる我ら人類は、神の用意したゲーム盤の上で踊るのみだ。せめて一矢報いてやりたいものだが……。
沈黙を続ける鈴蘭と小梅をよそに、龍胆だけが言葉を続けた。
「心を失った餓鬼が天女をさらおうとするのも、おそらくは人であったころの記憶によるものでしょう。なにせ私たちは、彼らにとって食料そのものですから」
「天を恨んだことは?」
「ありません」
ひとつも不快そうな顔をせずに即答とは。
嘘偽りのない本心、ということか。
だいぶ信心深い。
いや、これがこの世界での普通なのか。
逆に、俺たち人間が、神というものを軽視しているだけなのかもしれない。しかし信じようが信じまいが、神とやらはどこかにいて好き放題やりまくり、俺らはそのことに口出しさえできないのだ。考えるだけムダというものだろう。ま、せいぜい心証を損ねないよう努力はするが。
俺は質問相手を変えた。
「すずさんは、この話を知ってたの?」
これに彼女はニヤリと不敵な笑みだ。
「ええ、知ってました。あえて黙っていたのは、言う必要がないと判断したためです。私はあなたから離れるつもりはありませんから」
「しばらく離れてた気がするのは、俺の記憶違いかな」
「心はいつもおそばにおります」
「……」
心だけあっても腹は満たされんのだが。
ともあれ、これでいくつかの点と点がつながった。
分かったのは、餓鬼が天女を狙う理由。そして鈴蘭が餓鬼を愛そうとした理由。
過去に別れた男たちの中には、餓鬼になったのもいたんだろう。だから鈴蘭は受け入れようとした、というわけだ。
じつに「けなげ」じゃないか。
そしてこれらの事実が判明した以上、俺のとるべき方針はひとつしかない。
すなわち「彼女たちの気分を害すべからず」だ。
捨てられれば俺は餓鬼になる。土下座をしてでもメシをもらい続けなければならない。あるいはこの家で権兵衛に雇ってもらうか、だ。
まさか神に誘拐されて農業に従事することになるとは思わなかったが。
ふと、腹が鳴った。
思えば昼飯を食っていない。納屋にある野菜は、自由に食っていいと許可を得ているのだが。しかしいま、俺は三人の女たちから見つめられている。
「お待ちなさい!」
先陣を切ったのは鈴蘭だ。
「夫の食事を用意するのは、妻である私のつとめ! よってあなたたちは余計な手出しをしないように」
その発言、世の女性が聞いたら怒るぞ。どちらがどちらのメシを用意するかは、あくまで当事者たちの合意によるからな。
すると龍胆が鼻で笑った。
「あなた、頭は大丈夫ですか? 玉田さんは、あなたとの結婚に合意していませんよ。勝手に結婚した気になって、まるでストーカーみたい」
「なんですかストーカーとは! 分からない横文字を出して勝った気になって!」
「ストーカーというのは、相手が望まないのにいつまでもつきまとう、気持ちの悪い変態のことです」
「あらそうですか。しかし私は気持ちの悪い変態ではありませんので、ストーカーではありませんね」
「これだから……。自覚がないのが一番の問題なんです」
また始まった。
このふたり、口を開けばいつもこうだ。
どうせ俺以外の男が現れたら、すぐそっちに行くくせに。俺そういうの傷つくからな。
冷静なのは小梅だけだ。
「ふたりとも、やめてよ。人間、困ってるじゃん」
「なんですか、小梅。自分だけ理解のある女みたいな顔をして。姉さまの夫を横取りする気ですか?」
「そういうわけじゃないけど。体が戻るまで、人間の世話は小梅に任せてよ。姉さまだって、人に食べ物あげてる場合じゃないでしょ?」
なのだが、鈴蘭は半狂乱で身をくねらせた。
「ま、この子ったら! 姉さまに説教ですか! あなたがおしっこちびってビービー泣いていたころから、世話をしてきたのはこの私なのですよ! 少しは敬おうという気はないのですか!」
「あったけどもうなくなったの! 姉さま、ずっとわがままばっかり! ちょっとは周りのことも考えてよ!」
さすがの小梅も手をバタバタさせての大激怒だ。
これはどう考えても姉が悪い。
そして鈴蘭も逆ギレされてビックリしたらしく、怯えたように固まってしまった。押しに弱すぎる。
「あの、小梅……。もしかして怒ったのですか?」
「はい」
「けっこう怒ってます? それとも少し?」
「けっこう怒ってる……」
「……」
姉、静かに卒倒。
自業自得なのでなにも言えない。
好きなだけ反省してくれ。
*
気まずい空気の中なんとか食事を終え、俺は散歩と称してひとり庭へ出た。
誰もいない。
ヘビさえいない。
ただただ白い空の広がる空間。柵の外へ出て、遠方に広がるのどかな田園風景を眺めても、どこか虚しくなるだけだった。
ここは俺の居場所じゃない。
歩きながら、護身用に持ってきた槍を振り回してみたが、気分は晴れない。
俺はここで畑を耕し、メシを食い、そして老いてゆくのだろうか。
いや、メシがあるだけでも恵まれてるってのは分かってる。ここには生活に必要なものが揃っているだけでなく、世話を焼いてくれる女までいる。
この上ない環境だ。
なのに、どうしても気持ちが満たされない。
帰りたい、というのとも違う。ここにはなにかが欠けている。その欠如が心を急き立てるのだ。
欠けたピースは、おそらくは「他者」。
かつてであれば、インターネットの向こう側に幻視できたもの。あるいはテレビでもいい。新聞でもいい。ラジオでもいい。見ず知らずの「誰か」ならなんだっていい。
その「誰か」が、常に新しい「なにか」をもたらしていた。
その「なにか」も、必ずしも立派でなくていい。他愛なく、くだらなく、いっそ興味がわかなくともよかった。不快なニュースに顔をしかめることさえできない。そもそもニュースがない。
俺のいた世界では、常に新しいものがあった。立派なものからくだらないものまで。それは発見。知の躍動。すなわち他者の頭の中。灰色をした脳細胞。
そういったものがここでは完全に欠落している。
退屈は「毒」だ。
心を蝕む。
いや、あるいは退屈が毒なのではなく、情報が麻薬なのかもしれない。切れた途端に欲しくなる。
暇さえあればスマホを取り出し、「誰か」の発する「なにか」を探していたあの感覚が蘇る。
人類が滅んだいま、かつて人類の生産していたものを欲するならば、俺自身が作り出さねばならない。しかし俺が作り出したものは、所詮は俺自身だ。そこに他者の存在はない。そんなものをいくら並べたところで、心は満たされないだろう。むしろ脳が腐る。
他者だ。
他者が必要だ。
どこにいるのだろうか。
どれだけ考えても、ある酔っ払いの寝顔しか思い浮かばない。毒島三郎。少なくとも俺よりは、未来についての知識がある。いや、未来についてはジョン・マルハシに聞いてもいい。
しかしいちどに聞き出してはダメだ。知識は有限。すぐに枯渇してしまう。極上の甘露は、一気に飲み干すべきではない。少しずつ味わうべきだろう。特にこんな閉塞した場所では、調達が難しいのだから。
(続く)




