普通と完璧
お盆も過ぎた八月の十七日。
百絵さんが、家に来ることになりました。
私は朝から、部屋を片付けていました。
もう梨葆と一緒に夏休みを過ごし始めてから七日、丁度一週間が経ちますが、その間に私達は少しばかりだらしなく生活するようになっていました。
梨葆の脱ぎ捨てた洋服が落ちていたり、私の暑くて脱いだ靴下をうっかりリビングにそのまま置いていたり、梨葆の教材と私の過去問題集のそれがテーブルの上に展開されたままだったりと、父が帰ってきて「賑やかだなあ」と笑われてしまったくらいには散らかっていましたので、私は来客にはまずいと(そもそも梨葆自体が来客だったのですが)、しっかりとしたコンディションで百絵さんを迎え入れることにしました。
私は事前に大学生の百絵さんが来ることを梨葆に伝えていましたが、梨葆はあまり納得できていないようです。
「いつ来るの」
今朝からこればっかりです。
「話では十時か十一時くらいのどれからしいんだけれど」
「どっちなの」
「さあ。のんびりとした人だから、私にも分からない」
梨葆は終始、落ち着かない様子で、リビングや奥の和室に行ったり来たりを繰り返していました。
何もそんなに警戒しなくたって、百絵さんはあなたを獲って食ったりはしません。
寧ろ却ってあなたの遠慮のない率直な感想が、何かしらの形で百絵さんに攻撃として刺さったりしないかと、そっちのほうが心配です。
百絵さんはおっとりとした性格の人です。しかしながら変に年に関して気にするところがあって、私は先輩だ、だから後輩のキミに私はこうしてあげなければならない、とか変な自負を持っているような人ですから、後輩の後輩に当たる梨葆から身も蓋もない言葉を掛けられたら、きっと「うわーん」とか言うに違いありません。
私は梨葆に二階の自室で待機するように勧めたのですが、しかし梨葆は私の傍にいる方が断然良いと言って聞きません。それだったらもう百絵さんに直接会わせるしかないと、諦めていた丁度その時、玄関のチャイムが鳴りました。
「やっほー。みなもちゃん、元気してた?」
「こんにちは。お久しぶりです、百絵さん」
「おひさしおひさしー。なんか最近みなもちゃんの顔見れてなかったから、心配してたよー」
「いえ。特にそんな、どうという訳でも」
「ん? そっちの子は誰かな?」
「あ、梨葆です。私の従妹です」
「おおー、いとこか。はじめましてー」
「は、じめまして」
「立ち話も何ですし、どうぞ中へ」
「いやあ、ありがと。こちとら暑くて、かなわなくて」
百絵さんはリビングのソファに、辺りをキョロキョロしながら面白そうに座っています。
そんな百絵さんを、梨葆は遠くから伺って警戒しています。
私は百絵さんに麦茶と多少のお菓子を出しておもてなししました。
百絵さんは早速せんべいの一枚を口に含むと、言います。
「あっ、そうそう。みなもちゃんにお土産があるよ」
そう言うと、百絵さんは持ってきていた紙袋の中から、幾つかの物を取り出しました。
「これは、みなもちゃんが描いてくれたスケッチが、きちんとした形で資料になったっていう証拠。それでこっちは、この間の展示会のお土産! レアだぞー」
「そんな、悪いです」
「ん? 悪い? みなもちゃん、こういうのは、受け取らないほうが悪いんだぞっ」
「なら、貰っておきます」
「うんうん。もらっとけもらっとけ」
私はちょっとだけ嬉しくなりました。
私の描いた絵を利用してくれた百絵さんが、それをわざわざこうして形に残して報告してくれるのが。
「ところで、どうして急に家に?」
私が聞くと、百絵さんはちょっと焦った様子で頭を掻きました。
「いやあ…………最近みなもちゃん、うちに来てくれないからさ。なにか、大学で嫌な思いさせちゃったかなって」
「そんな、別にどうってことないです」
「何かあったの?」
「無いと言えば、嘘になりますけど」
「話してくれる?」
私は例の資料室で、たまたま聞いてしまった自分の絵に関する言葉にショックを受けたときのことを、素直に話しました。
こうしてわざわざ訪れてきた百絵さんを前に、誤魔化しても意味がなさそうなので、思ったことも全部話しました。
「無機質な、機械的な絵かあ」
百絵さんは口元に手を当てて、考え込みます。
「まあ、資料としてのスケッチだから、それで全然いい――――というか、変に叙情的に描くのは困るんだけれど、まあ、うーん」
百絵さんは暫く唸ると、言いました。
「みなもちゃんは、自分の絵の本質が自分で分かっちゃって、それがショックだったんだね。それで、大学ちょっと避けてたんだね?」
私は頷きました。
私は何かしら欠如しています。
それに関して良し悪しは考えたらきりがないので、取り敢えず置いておくとして、絵だけは昔から好きだし、それ故に欠如を自覚しない幼少の頃の自分のままで、決定的に欠けている部分はないと信じていたのですが、しかし欠落に気付いてしまい、私はアイデンティティを喪失したかのような気持ちになりました。
今では極力気にしないようにはしていますが、しかし時折思い出しては、目の前に描き上げた絵に、自分では何の価値も見いだせなく感じる時があり、破ることもあります。
私はそれが、どうしていいか分かりませんでした。
「百絵さんは、どうしたら良いと思いますか?」
「ん? 何が?」
「絵です。私は、どんな絵を描けば良いんでしょうか。どこを補えば、欠けていると言われなくて済むんでしょう。普通が分かりません」
「それは」
百絵さんはぐいと麦茶を飲むと、おじさんのような声を上げて、言いました。
「基本的には、考えなくていいやつ。気にしなくていいと思うよ」
「気にしない?」
「そう。気にしない」
現実逃避、しいては棚上げでは。とそう思った私の表情には、まさにその感想が現れていたのでしょう。
百絵さんは微笑むと、頭を掻きながら恥ずかしそうに言います。
「いやあ。私だってそんな、みなもちゃんよりちょっと早くに生まれたってだけで、そんな、大層なことは知らないんだけれど、でも、わたしだったら、そう考える。気にしない」
「気にしないで、どうするんですか?」
「そうだねえ……。色々気の持ちようや、切り替えの方法はあるけれど」
百絵さんは腕組み、ソファに背をもたれさせます。
「一つ言えることは、自分とそれに付随するものには、必ず欠けている部分がある、という事かなあ。普通な自分なんて存在しない。ましてや完璧な自分なんて、もっと存在しない」
百絵さんは「ん?」と眉間にしわを寄せると、腕組み言います。
「というか人間の言う、そして自分の言う普通と完璧とは何か。自分の事を普通ないしは完璧とは思っていても、それは一時の思い込みみたいなもので、誰かの視点で立ってみれば、それは取るに足りない自己流の謎めいた習慣の話でしかないかもしれないし、ただの願望の虚像でしかないかもしれない。そういう曖昧で微妙な要素を妙に思い詰めても、仕方ないんじゃないかなって、わたしは思うな」
百絵さんはグラスをテーブルに置くと、再び腕を組んで独り言のように言います。
「人間、どっかしら欠けてて、おかしいのが当たり前な気がする。ほら、突然汚い話になるけどさ、性癖って、あるじゃん」
「性癖?」
「そうそう。生来の癖のほうじゃなくて、もっとあっちの、ほら、ピンクい方のやつ」
百絵さんが何を言いたいのかわかりました。
人の性的嗜好の方ですね。
「性的嗜好の方ですか」
私がそう言うと、百絵さんは指パッチンして「それだっ」と言います。
遠くからこちらを観察している梨葆の手前、百絵さんは声を潜めて、こそこそと言います。
「人間さ、聞くといろんな性癖を持ってるじゃない。割とどれも異常で、頭おかしいやつばっかり。普通におっぱいに興奮して、やることやってハイ終わりって、却って珍しい方なくらい、おかしいの多いと思うんだよ。あ、ごめんね、ほんと汚い話で」
「いえ」
「ありがと。でさ? SNSとか見ててもさ? 誰も彼もにうわって思わない人は居ないじゃない? 自分は普通じゃないかも、なんて卑下しちゃう日もあるけれど、でも周りを見渡したら、みんな、どっかしらおかしい面を持っていて、この人のこういう部分はあれだよなあ、って、思わない人は意外と居ないじゃない」
私はSNSをやったことはありませんが、しかし百絵さんの言いたいことがさほど分からないという訳でもありませんでした。
確かに、誰もが大体は人様に見せるべきではない性質をちらと見せてしまっていることなどはあります。
社会と個のせめぎ合い。
その中でいかようにして個を残し、かつ社会に溶け込むか。
簡単なようで、意外と難しいことです。
「そういうの見てたら、自分を普通に近づけようだなんだって、とっても曖昧なものに思えてきちゃう。だって、周りが意外と普通じゃないんだもの」
百絵さんは爪の先を弄りながら、続けます。
「人間誰しも、欠けている部分はあるんじゃないかって、最近は思うの。完璧な人、普通な人、徹底してノーマルな人、思えば私は今のところ見たこと無い。いるとしたらお年寄りかな。優しいお爺ちゃんお婆ちゃん。ああなると人間、やっとたどり着けるところまでたどり着いたって思える。まあ、それ以前はきっと、もっと俗物的だったと思うんだけれど」
百絵さんは笑った後、両手を膝においてから、少しリラックスした様子でソファにもたれかかりました。
梨葆が、遠くでそんな百絵さんを見ています。
「私さ、大体の人間はどっかしらぶっ壊れてて、欠如してるって思うんだ。それを世間体とか、付き合いとかで“普通”に見せてて、内側を見せないだけで、中身はみんな、大体変で欠けてる。思考が読める機械なんかが開発されたら、私のこれ、証明できると思うんだけどなあ。うーん、そっち方面も研究したい」
百絵さんが話を脱線させるので、私はうまく話を戻しました。
百絵さんは「あっ」と修正します。
「とにかく、私は欠如や崩壊がデフォルトだと思うの。それについて悩むなら、それはもう人生哲学の領域だと思うんだよ。果てしない、仙人への道にすら感じるわけだよ」
「つまり、どうすればいいんでしょうか」
「つまり? うーん」
百絵さんは暫く考えた後、言いました。
「普通や完璧に関しては、あまり思い詰めないこと、かな。考えなくたって良い気すらする」
「でも、私は今を変えたいです。確かに思い詰め過ぎている部分はあるかも知れませんが、それだけ自分を変えたいと思ってます。そういう時、百絵さんならどうしますか?」
「うーん。探す?」
「探す?」
「そう。探す」
「何をですか?」
「思い詰めない範囲内で、自然な自分とかを」
「それが見つからなかったら?」
「見つけるまで頑張る」
「それでも見つからなかったら?」
「まだまだ頑張る」
「それでも見つからなかったら?」
「その時は、死の間際だったり」
へなへなと力が抜けてしまいました。
死の間際。
そんな時まで、人はずっと自分を探していくものなのでしょうか。
自分が欲しいものを、改めたいものを、理想を。
いえ、分かりません。何を探すのか。
あ。
だからこそ、探すのかも知れません。
「なるほど。探す」
「あっ、今の満点? 良いこと言った?」
「ちょっと面白いなって思いました。どうすればいいのかは、やっぱり分かりませんでしたけれども」
「だから探すんだよー。理想でも、純粋に体が求める欠如の補完、つまり欲しいを探すでも、あこがれを求めるでも良い。私としては、大切なものってやつを、見つけたほうが良いと思うんだけれどねー」
「大切なもの?」
「そう。大切なもの。失いたくないもの。ずっと傍においておきたいもの。なくすのなんて、想像もしたくないもの。ずっと一緒に、いたいものってさ」
「それって、なんですか?」
「愛だと思ってるね、わたしは!」
「愛? なんですか? それ」
「それは、やがて見つかるものの典型じゃない? 今はわからずとも、きっといつかは分かるはずのもの、な、そんな気がするよ」
私はちょっと、考えてみました。
それを見つけた時、私は変わるのでしょうか?
何でもない、無感動の、無機質の欠けた絵から、私は、私自身は、何か別のものへと昇華することが出来るのでしょうか?
分からない。
だから、探す。
百絵さんはなかなか上手いことを言います。
私には憧れも、将来の夢も、なりたい具体像もありません。
変わりたいという気持ちが先走るばかりで、具体性は皆無。
それでも、探したい。
探すのをやめたら、そこで自分は今の自分のままです。
「百絵さんて、意外と頓智な人なんですね」
「まあね。こう見えて、色々考えてますから」
ドヤ顔で腕を組む百絵さん。
私は笑いました。
「そういうの、素敵でいいと思います」
百絵さんは急に頬を赤らめました。
「や、やだなあ。どうしたの急に」
「いつだかの、お返しです」
「え? お返し? いつの?」
「さあ。具体的には、忘れました。これ、ありがとうございます」
百絵さんから貰った自分のスケッチが載っている資料を手に取って、私はお礼を言います。
百絵さんは嬉しそうに笑いました。
「うんうん。それはみなもちゃんが頑張って残した、一つのレガシーだよ。そういうの、大切にね」
私と梨葆、そして百絵さんは、駅前近くのファミリーレストランで昼食を摂りました。百絵さんがお腹が空いたと言うので、私達も丁度お腹が空いていましたし、百絵さんの帰宅がてら駅前に寄り、そこで昼食を摂ることにしたのです。
「みなもちゃんの、具合がわかって」
百絵さんは食べながら話します。
梨葆は終始、そんな百絵さんをジト目でにらみます。
厳しい家の梨葆からしたら、しっぺものです。
「ぷはぁ。私は安心したよ」
「ごめんなさい。気を使わせてしまいました」
「うん。使った。でも今日解決したから、それはもういい!」
百絵さんは笑うと、席をたちました。
「ちょっと飲み物取ってくる」
百絵さんが去ってから、梨葆は言います。
「変な人」
「でも、悪い人じゃないでしょ?」
「……うん。悪い人じゃない」
「帰ったら、どうする?」
「ゲームしよ。今日は、ウノしたい」
「はいはい。ウノね」
「えっ、なに? ウノするの? わたしもやるぅ」
梨葆がきゅっと、急に帰ってきた百絵さんに縮こまって、私に寄りかかります。
「帰ったらの話ですよ。せっかく百絵さんを送りに来たのに、また家に戻るんですか」
「あっ、なーんだ。いとこ同士のお楽しみか。ちぇーつまんないの」
「今度一緒に、どうですか?」
「お、いいね、やろう。わたしウノつよいんだぞ」
「……梨葆だって、強いもん」
「ん? 梨葆ちゃん強いの? よし、今度最強決定戦ね。負けないよ!」
二人は何だかんだで、最後には意気投合しそうです。
私達は百絵さんを駅前まで見送り、別れました。
私と梨葆の二人は、午後の暑い日差しの中をなるべく早く帰り、そうして家に着くなりソファにもたれかかりました。
最近の日本の夏は暑すぎます。
何も対策しないで外に出たら、本当に倒れます。
「ん」
梨葆が寄越してくれた麦茶にお礼を言い、それ飲みながら、私は百絵さんの言っていた言葉を反芻していました。