梨葆と昔
八月十日、木曜日。
梨葆が、我が家を訪問してきました。
その日は台風が接近してきていて、朝から雨が降っていました。
今はしとしと雨ですが、それもあと数日すれば横殴りの雨になるでしょう。今日中に電車に乗って来れば梨葆は私達の家に来られそうですが、二日も延期すれば電車は止まります。そういう訳で、今日来ることを是が非でも強行するようです。
出勤する間際、母は言いました。
「今日は梨葆ちゃんが来るってさ。みなも、駅まで迎えに行ってあげなさい」
「雨、降ってるけど」
「まだ大丈夫でしょう。とにかく今日行くんだって聞かないって、姉さんから連絡があったから、絶対来るでしょうね、梨葆ちゃん」
母はけらけら笑いながらスーツのボタンを閉めます。
「お迎えないと梨葆ちゃんすぐにいじけちゃうから、ちゃんと行ってあげなさいよ? あんた、そういうのは頓着しないんだから」
「はいはい」
「ハイは一回だぞ、みなもっ。じゃあ、行ってくる!」
「いってらっしゃい」
志願で残業する酔狂な母が出ていって、家はにわかに静かになりました。
誰もいない曇天のリビングで、私はふぅとため息を吐きました。
雨の日に外出するのはあまり好きではありません。髪がはねます。それと、私はサンダルが好きで、好きあらば愛用しているのですが、しかし雨の日だとどうしても濡れてしまい、冷たくなります。他にも理由はありますが、主だった理由はこの二つです。雨が降っている風景やそれに付随する情緒は好きですが、天候自体に身を置くのは、いまいちです。
とは言え、母の言う通り、梨葆はいじけやすく、雨の日に出た駅の入り口付近に誰も居なかったら、きっと頑固な梨葆の事ですから、迎えに来るまで仏頂面で駅に立ち続けるでしょう。こういういじけ方をするので、とても厄介です。
食卓の椅子に座り、頬杖をついて憂えていたら、突然スマートフォンが振動し始めました。
なにかと思ったら、梨葆でした。
「もしもし」
『…………』
「梨葆?」
『…………うん』
「今日来るって?」
『……うん。いく』
「何時なの?」
『今、家を出たから。だから、多分九時くらいに』
「そう。じゃあ、駅で待ってる」
『…………うんっ』
梨葆が電話を切りました。
相変わらず口数の少ない寡黙な印象の子ではありますが、梨葆は口に出さないだけで頭では結構な事を思っています。
例えば今のだと、今日梨葆が来ることを知ってほしい、とか、何時に着く、とか、駅に迎えに来てほしい、とか。
付き合いの浅い人だと、今の電話は何なのだろうと首を傾げるばかりになってしまいますね。私もそうでしたが、付き合いが長いので慣れました。
さて、梨葆からアプローチがあったので、私はちゃんとした格好で駅に迎えに行くことにしました。それなりの服に着替え、傘を差し、駅の方面へと歩いていきます。いつもの河川敷が気になりましたが、雨の日に堤防の公園へ行くことは危険です。私は寄り道せず、真っ直ぐ進みます。
数十分ほど歩き、やっとの事で駅に到着しましたが、梨葆はまだ居ないようです。私は雨粒を払った傘を閉じると、そのまま駅の東口で待ちました。
平日ですから人は少なくまばらで、天候のせいもあってか学生の姿も目につきません。尤も台風が接近してきているのですから、当たり前かも知れませんが。
十分ほど立っていると、駅のホームから列車到着のアナウンスが流れました。下り方面からのアナウンスです。梨葆が降りてくるかも知れないので、私は身構えました。
階段からどっと人が溢れてきます。閑散とした駅が、一時的に人で賑やかになります。
この中のどこに、梨葆が居るのかは分かりませんが、とにかく目を凝らします。
人が殆ど出ていったあたりのところで、静かな佇まいの、癖っ毛の女の子が一人、目につきました。
その子は人々の流れの最後の方に現れました。
梨葆でした。
「梨葆」
私が声をかけると、普段からの無表情さに「あっ」と変化が訪れました。
梨葆は小走りに私の元へ歩み寄って来ると、私を見上げ、言いました。
「みなも」
「お姉ちゃん」
「…………お姉ちゃん」
私は梨葆の“みなも”と呼び捨てるのに、いつも訂正を求めます。
幼い頃からの習慣というか、癖のようなものになりつつあります。
伯母が私を“みなも”と呼び捨てる梨葆を毎度正していて、私自身は呼び捨てられることをさほど気にしていなかったのですが、しかし伯母と小父、そして祖母が梨葆の“みなも”をやたらと細かく正すので、幼い私はそういうものなのかと思い、彼らと同じように梨葆に「お姉ちゃん」と呼ぶことを求めたのでした。私には兄姉弟妹が居ませんから、年下の梨葆から仮初の“お姉ちゃん”と呼ばれることに、ちょっと面白みを感じていたのもあります。
さて、久しぶりにあった従妹にいつもの“お約束”をして、私はちょっと温かい気持ちになりました。
梨葆は仏頂面です。
梨葆にとって呼び捨てる“みなも”は、彼女にしてはとてつもなく珍しい、親しみという意味合いの込められた一種のコミュニケーションなのですが、それを祖母、両親と、私にまで邪魔されるので、梨葆はいつも不機嫌そうになります。
「なに、怒ってるの」
私がつい笑いながら指摘すると、梨葆は小さく地団駄踏みました。
「だって、みなもはみなもだもん」
「そうね。お久しぶり」
「うん」
「元気にしてた?」
「普通」
「そう」
梨葆は泊まる気満々らしく、大きなバッグを二つも持っていました。なので私がそのうちの一つを受け取り(梨葆は昔から自分のことを自分でやるということに強くこだわる性質でしたので、私の手伝いをいつも大体拒否するのですが、しかし私は梨葆のバッグの一つを強引に取りました)、梨葆に促しました。
「それじゃあ、行く?」
「……うんっ」
私達はほぼ止みかけの小雨の中を、傘を指して歩きました。
梨葆は軽装でした。なので完全には防ぎきれない小雨が寒そうです。
丸出しの両腕や脚に雨が掛かっています。髪も多少濡れています。
「大丈夫? 寒くない?」
梨葆は私のおせっかいにむっとしながら言います。
「平気だから。早くみなもの家に行こ」
「みなもお姉ちゃん」
「お姉ちゃん」
梨葆が急いて歩くので、私は彼女を追いかけるようにして歩きます。
そうしていたら、あっという間に着きました。
「お邪魔します」
梨葆が丁寧なお辞儀をして、私の家の玄関へと入ります。
家には誰も居ないのですが。
しかしまあ、梨葆のおうちは厳しいです。そういうのを、祖父母から躾けられているので、例え我が家に誰も居ないのを分かっていても、抜かりなく挨拶をするのでしょう。
私は梨葆にタオルを投げて、言いました。
「お風呂入る?」
梨葆が二の腕あたりを拭きながら首を縦に振ります。彼女のウェーブの掛かったさらりとした髪が静かに揺れます。
今日は天候のせいか、いつもよりウェーブが強いような。
「お風呂はそっちに入って、真っ直ぐ行った先の左側」
私は梨葆に風呂の場所を教えると、バッグを一階の和室に持っていきました。梨葆も後から和室に来ました。バッグを置いて、私に問います。
「梨葆、どこで寝るの?」
「ここに寝かせるつもりだけれど」
一階の和室は来客用に使います。寝泊まりも兼ねられます。
私は梨葆をここに寝かしつけるつもりでいたのですが、しかし梨葆が首を横に振りました。
「いやだ」
「いやだ、って」
「梨葆、お姉ちゃんの部屋で寝る」
「私の部屋?」
「うん」
「狭くなるけど」
「いい」
「本当に?」
「うん」
そうして梨葆が、私の部屋にやって来ました。
まだ寝る時間でもないと言うのに、一階の和室から勝手に持って来た布団を私のベッドの横にドサリと置き、女の子座りします。
どうやら決意は、固いようです。
私はハンドタオルを肩に掛けた濡れ髪の梨葆を呼びます。
「梨葆。こっちおいで」
私は棚からドライヤーとブラシを取り出して、梨葆に手招きします。
「髪、まだ濡れてる。乾かしましょう」
「…………」
梨葆は少し恥ずかしそうにもじもじとしていましたが、やがて観念したように、私の膝の前に座りました。
「……梨葆、もう中学三年生なんだけど」
梨葆が恥ずかしさを覆い隠すように仏頂面で言います。
私は思わず小さく笑いながら返しました。
「だったら、きちんと髪くらいは乾かしましょうよ」
「ほっておけば乾くから」
「今日は雨だから、それはいまいち」
私はドライヤーのスイッチを入れます。
梨葆の髪がぶわりと広がります。
「相変わらずの癖っ毛」
私がブラシを通しながら温風を当てていると、梨葆はもそもそと呟きます。
「ストレートパーマつけたい」
私はとんでもないとそれを否定します。
「せっかく可愛らしく流れているんだから、いいじゃない」
「よくない」と梨葆。「毎朝、大変なんだから」
「大変さに見合っているくらいにはいいと思うけど」
「みなもは癖っ毛じゃないから分からない」
「お姉ちゃん」
「おねーちゃん」
いい加減に返す梨葆に、私はぽんと肩をたたいて言いました。
「はい。終わり」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
私達は一階のリビングで適当に過ごしました。
梨葆は遊びに来ているのではなく、一応勉強しに来ているので、夏の課題と共に受験勉強の指南をします。
梨葆の中学は私の中学とは違い、ひどく課題を出していました。
教える私が、参るか気の毒に思うくらいです。
「これ、全部?」
「そう」と梨葆。
「大変。これプラス、塾なんでしょ?」
「うん」
「塾に行かなくても良さそうなくらいにはある気がするんだけど」
「絶対に受かりたいから、いい」
「それならいいけど」
梨葆に勉強を教えていると、お昼になったので、私達二人は一緒に食事をし、食後の休憩ということで軽く遊びました。
梨葆がそろそろ遊びたいと言い出したのです。
一日中勉強漬けよりは良いかなと思い、私は付き合うことにしました。日数は十分すぎるほどありますし、勉強はやりすぎると却ってパフォーマンスが低下します。
「お姉ちゃん、ゲーム持ってないでしょ」
「うん」
「そう思って、カード、持ってきた」
梨葆はトランプやUNO、百均で売っていそうな小型のボードゲームセットを持ってきていました。
あの巨大な二つのバッグの中に、こんなものまで入っていたとは。まだまだ余分なものが入っていそうです。
「なにするの?」
「梨葆、神経衰弱したい」
「じゃあそれで」
私は手際よくカードを切ります。梨葆はそれを、カーペットの上で女の子座りして見守っています。
そうしていると、突然玄関のチャイムが鳴りました。
私はカードをローテーブルの上に置き、立ち上がります。
「誰かしら」
梨葆にカードを任せて、玄関に出ると、そこには可愛らしい傘を持った亜里紗が居ました。
「亜里紗。こんにちは」
「こん。今日、いい?」
いいとは、遊べるか? という事です。
雨は小降りです。退屈だから来たのでしょう。
私はちらと廊下の先を見ると、言いました。
「私は良いけれど、今いとこがいるわ」
「いとこ?」
「ええ。従妹」
「じゅうまい……?」
「年下の女の子のいとこって意味」
立ち話をしていたら、梨葆が玄関に顔を覗かせてきました。手にはカードを握っています。
人見知りの激しい亜里紗は梨葆を見て、にわかに表情を緊張させました。梨葆も亜里紗と同じように、知らない年上の女子高生相手に、緊張の色を走らせます。
お互いに身を固くし、見つめ合う二人。
じっと続く沈黙。
私はそれの板挟みになって、二人の顔を交互に見ていました。
会敵した動物ですか、あなたたちは。
梨葆がゆっくりと、私の後ろに付いてきました。亜里紗から隠れるように、私の背中にくっつきます。
亜里紗は初めて見る私の従妹に、自己紹介しようか挨拶しようか、口をあわあわと動かして迷っている様子でしたが、やがて「ごほん」と一つ咳払いをすると、ぎこちない様子で、しかし無理にはきはきとした調子で言いました。
「き、今日は遠慮しとくわ、あたし」
「そう?」
「うん。別段、用事っていう用事があったわけでもないし」
「私がそっちに行ってもいいんだけれど」
「い、いいよ。じゃ、また」
いつもの亜里紗らしくない妙な調子で彼女は傘を差し、自宅の方へと戻っていってしまいました。
なんだか少し、悪いような気がしました。
「誰、あの人」
背後にくっつく梨葆が警戒心丸出しで呟きます。
私は梨葆を引き剥がした後、説明しました。
「あの人は、ここのご近所さん。亜里紗って子」
「友達なの?」
「まあ、そう言ってもいいと思う」
「…………ふぅん」
急に梨葆はつまらなさそうな顔をして、さっさとリビングに戻ってしまいました。
私は亜里紗が去っていってしまった方を伺いながら、そっと玄関を閉じました。
後で亜里紗のおうちに行って、お菓子か何かを差し入れましょう。
リビングに戻ると、梨葆がソファに横になって、クッションに顔を埋めています。いつの間に私の部屋から私のクッションを持ってきていて、私はそれを注意しました。
「いつの間に持ってきてたの? それ」
「……いいじゃん」
「別に悪くはないけど」
梨葆は全く動きません。まるでサスペンスドラマの殺害現場みたいに、クッションに顔を埋めたまま、ソファに横になるばかり。
私はソファのそばにあるローテーブルの前に座り、つんとしている梨葆に声を掛けます。
「続きをしましょう。次は理科」
「嫌」
「あなた何しに家に来たの」
「遊びに来た」
「違うでしょ。夏期講習に来たんでしょ。ほら」
私は梨葆からクッションを取り上げると、ノートの前に着かせました。
「お姉ちゃんのばか」
「ばかじゃありません。このままじゃ幟山に受からないかもね。難しいと言うほど難しいわけでもないけど、地元の高校ってだけで倍率は高いから。幟山のレベルの少しか随分上のレベルじゃないと、安心出来ないかも知れない」
私が現実的な話をしたからか、梨葆はちょっと真面目な顔つきになって、やがてシャープペンシルを持ち、私に聞きました。
「次、どこ?」
「次は」
梨葆と一緒に夏休みを過ごし始めてから二日目の八月十二日、峰市に本格的な台風が上陸しました。結構強い、大変な台風だったのですが、幸いなことに私達の街に具体的な被害はなく、突風と豪雨の一日はなんとか過ぎ去りました。
そうして次にやって来たのは、想像を絶する猛暑の日々です。
私と梨葆は、台風の置いていった強烈な湿気と熱気に、午前からばてていました。八月十四日の出来事です。
クーラーは効かせているのですが、どうしたことかまるで効果がなく、殆ど意味をなしていません。
私達は外の電柱で泣き叫ぶ蝉の声を聞きながら、庭に照り付けて室内に反射してくる強烈な日光を忌々しく見つめながら会話をしました。
「お姉ちゃん、部活してるの」
「してない」
「絵、好きなのに?」
「部にはあまり興味がわかなくて。梨葆はどこかの部活に入るつもり?」
「入ろうと思ってたけど、やめた」
「何故?」
「だって、それじゃお姉ちゃんと同じ部活に入れない」
なるほど。確かにそうなってしまいます。
私は帰宅部ですから、それを目指したら梨葆はどこにも入れません。
「たとえ私がどこかの部活に入っていても、その時にはもう三年生だから、あまり部活には顔を出さなくなってしまっていたはずだけれど」
「…………でも、一緒が良かったのっ」
扇風機の首を独占しながら駄々をこねる梨葆を私は適当にあしらいましたが、内心では悪いことをしたように感じました。
梨葆が幟山高校に入りたがるのは、私が居るから?
そう思うと少し可哀想に思えました。
梨葆が目指している私というものは、実は学校にあまり行っておらず、馴染めても居ません。
「今からでも志望校、変えたほうが良いんじゃない?」
私が自らの思惑を含ませた言葉を掛けると、梨葆は頑なに首を横に振りました。
「いいの。一度決めたんだもん。梨葆は幟山高校に入る」
「私、毎日梨葆と一緒に学校で過ごせるわけではないよ」
梨葆は顔を急に真赤にして、ぶつぶつと言い始めました。
「…………別に、お姉ちゃんが居なくても、梨葆、学校通えるし、過ごせるもん」
それならそれでいいのですが。後から拗ねられると、困りますし。
問題はどちらかと言うと私の方にありそうです。
梨葆が同じ幟山に入るというのなら、今度は梨葆の目を上手く誤魔化していかなければなりません。
従姉が登校拒否気味だと知ったら、梨葆はなんて思うでしょう。
想像するだけで、ちょっと怖いです。
日中は梨葆と一緒に猛暑の時間を過ごし、夜からはみるると一緒に遊びました。
梨葆は夕方になると塾に行ってしまいます。
私は学校の課題以外には別段することもなかったので、やらないとただでさえぎりぎりな私の評定に今度こそとどめを刺してしまいかねない課題を片付けたのですが、終わった直後にタイミングよくみるるから遊びの誘いが来たので、梨葆の帰ってくる間に暇つぶしとして行くことにしました。
「みなもちゃん久しぶりっ」
いつものようにみるるに出会い頭に体当たりされ、ああだこうだ言いながら私達はその辺の飲食店に入ります。
「今日は十時くらいに帰るね」
私がそう告げると、みるるは首を傾げます。
「え? ちょっと早くない? いつも十一時くらいまでなら遊んでくれるのに」
「今ちょっと、いとこがいるから」
「いとこ?」
「そう。夏期講習の間うちで寝泊まりすることになった」
みるるは人参の炒め物を口に運びながら「へー」と言います。
「そのいとこちゃん、いくつ?」
「中学三年」
「ふぅん。みるるの一個、年下だ」
年下と聞いて、みるるは少し得意になります。
「そうだ。聞いてみなもちゃん。みるるね、アルバイト始めたの。高校生になった記念の初アルバイト」
「どこで?」
「みなもちゃんに地名言って分かるかなー。澄水澤の、山蝉町辺りなんだけど」
分かりません。どこでしょう。
「とにかく、アルバイト始めたの。だからね、ラウンドとかでめっちゃ遊べるよ、今度から!」
「おしゃれとかに使ったほうがいいんじゃない?」
「それももちろん。お小遣いだけじゃ、どうしても無理な所あるもんね。それに、お母さん結構、みるるにお小遣いくれるんだけど、悪いし」
みるるの母親思いなところは相変わらずのようです。
「アルバイトって、なんのアルバイト?」
「ゲーセン。コイン詰まりましたぁとか言ってくれたら、みるるが取ってあげるの」
「みるるには天職かもね」
「でしょー」
他愛のない会話をして過ごすみるるとの時間はあっという間に過ぎ、夜の十時になりました。私はみるるとお別れし、自宅へと戻りました。
玄関戸を開けると、梨葆の靴はありません。
梨葆はまだ帰って来てはいないようです。
梨葆の塾は十一時まで続きます。それまでに私がお風呂を洗っておいてあげて、布団も自室に敷いておきました。布団の横には、畳んだ彼女の服を添えておきました。
リビングでテレビを見ていたら、梨葆が帰ってきました。
「ただいま」
「おかえり」
梨葆は重たそうな塾のバッグをどさりと置くと、台所で麦茶を一気飲みしました。
「そういえば」
家に帰ってきてポストを覗いたらあった、梨葆の母からの手紙を、私は思い出しました。
「お母さんから、手紙が届いてた」
「え」
梨葆が私の座るソファの隣に来ます。
私が手紙を手渡すと、梨葆は封を破り、読み始めました。
ちょっと緊張気味な梨葆でしたが、書かれている内容が自分宛てでなく、私と私の両親に宛てたものだというのを知って、こちらに渡してきました。
「私?」
「うん。お姉ちゃん家宛て」
私は手紙を読みます。
内容は、梨葆のわがままを聞いてくれてありがとう、夏季休暇中、何卒宜しくお願いしますと、大体そういった内容でした。
「これ、返事出すべきかしら」
私が便箋やらなにやらが入っている引き出しを開けてごそごそとしていると、梨葆は面倒くさそうに言いました。
「いいよ。そんなの。梨葆が言っとくもん」
「そう?」
「うん」
ちょうどお風呂の湧き終えた音楽が給湯器から鳴ったので、私は言いました。
「お風呂、湧いたから、先どうぞ」
梨葆は私を見て言います。
「お姉ちゃん、先で良いよ」
「私は今、入るつもりはない」
「梨葆も」
「そんなこと言ってたら、冷めちゃう」
「だったら、一緒?」
梨葆が意外なことを言ってきたので、私は笑ってしまいました。
徐々に顔を赤くする梨葆。
「高校生と中学生。そんな年で、たまのいとこと一緒に入る?」
「だっ、だって……!」
梨葆と最後にお風呂に入ったのは、小学生の頃以来です。
私は結柄の家の、自分のうちのそれとは違う浴室で、濡れた梨葆の身体や髪質の自分と微妙に違うのを感じながら、しかしそんな子供の疑問など、次の瞬間にはすっかりと忘れて、水鉄砲遊びやらシャボン玉遊びやらではしゃいでいたのを思い出しました。
あれから随分と時が経ちました。
あの時に見た梨葆の黒子の位置や、肌のやわらかさ、手の一緒に握る時の感触、楽しいお喋りの感覚など、今はどうなったでしょう。
きっと今の梨葆は、今の梨葆。当時とは違うところは必然、あります。
でも、やっぱり梨葆は、私が幼い頃から知っている梨葆で、私を時折“みなも”と呼んで、同じような癖の仕草で、同じような口調でお喋りし、そうして笑う気がします。
お互い高校生と中学生になった、今でも。
「入る?」
私が聞くと、梨葆は恥ずかしそうに、でもゆっくりと首を縦に振りました。
私達は二人、並んで脱衣所に向かい、そこで服を脱ぎ始めました。
私は割りと、今と昔の身体の違いを割り切って、さっさと服を脱いでしまったのですが、しかし梨葆はまだ明らかな成長途中というか、発育のさなかであるのもあってか、ためらいがちに服を脱ぎます。
「脱いだ服はそっちのかごに入れてね」
私はそう言うと、髪をまとめ、先に浴室に入りました。
脚の方からシャワーでかけ湯をし、身体の大体の汚れを流します。
私が浴槽に入ってからしばらくして、梨葆が入ってきました。
梨葆は胸の前にハンドタオルを押し付けていました。恥ずかしいのでしょう。私はさして気にしていない素振りを気遣いの一環でわざと見せながら、自分の体の位置を浴槽の端に移しました。
うちの浴槽は、体勢を寝かせるに近い状態にしてお湯に浸かるようなタイプのものでしたので、二人で浴槽に入ると、何だかおかしなことになりました。
一緒に入るのは、少し無理があったようです。
梨葆がかけ湯をした後、そっと入ってきました。
私は久しぶりに見る梨葆の裸を見て、懐かしいのと、おや、違うなというのとを同時に認識し、変な気持ちになりました。
目の前に居る梨葆の体つきは、私が今まで記憶し固定していたそれとは大分変わっていました。結構な大人の特徴を表し始めており、やはり当時とは全く異質のものです。
「……せまい」
髪をまとめた梨葆がこちらを見ながら、頬を染めて恥ずかしそうに呟きます。
随分と余所余所しいです。昔は最初こそ躊躇っていたものの、お湯に浸かった瞬間にはしゃいでいたのに。
まあ何年も経っていますし、当然です。
「梨葆、大きくなったね」
「……どこが」
「身体」
梨葆は明後日の方向を見ながら言います。
「それは、そうでしょ。だって、もう中学生だもん」
「こうしてみると、お互い結構変わってるのね」
「……うん」
梨葆はゆっくりと、こちらを向きました。
梨葆も私の身体の変化に、戸惑いと興味を覚えているようです。
梨葆は私の腕や、肩や、脚、胸、腰などを見て、触って、最後に両目を捉えました。
「…………やっぱ、みなもの方が、大きい」
「年上だからね。梨葆に抜かれたら、ショック」
「……どういう意味」
私は結構な声量で笑ってしまいました。
梨葆は顔を真赤にして、でもほんのりと笑っています。
大切な従妹。
できれば妹で居てほしかった。と、こう思うのは梨葆と会うと毎度思うお約束です。
小さい頃から、それは変わっていないようでした。
変わったところと言えば、話題。
魔法少女のアニメとか、絵本の話だとかとは違い、今は美容、つまりはおしゃれの話が主でした。
「みなもは、なんの洗顔料使ってるの」
「お姉ちゃん」
「おねーちゃん」
「私はこれだけれど」
そういって浴槽から出、水栓のあるカウンターに置かれた洗顔料を一つ取ります。
「使い心地、どう?」
「ええと。まあ、さっぱりするし、でも乾燥はしないし、いい感じかな」
「梨葆、今日それ、使っていい?」
「どうぞ」
早速梨葆が上がって、洗顔料を試します。
梨葆の背中を見ながら、私は急に広くなった浴槽に、梨葆を感じました。
「お水はぬるま湯がいいそうよ」
私が梨葆に言うと、梨葆は変な顔をして私の方を向きました。
「どういうこと?」
「お湯があたたかすぎると、毛穴が開きすぎて、皮脂が落ちすぎるんだって。かといって水だと肌が引き締まりすぎて、汚れが落ちない。丁度いいのは、そのどちらでもないぬるま湯だとか」
「へえ」
梨葆はカランを操作して、手にお湯を当てて温度を調整します。
「これくらい?」
急に梨葆がシャワーを私の顔に向けてきたので、私は避ける暇もなくびしょびしょになりました。
「あ」
梨葆が間抜けな声を上げます。
私は顔を拭いながら、仕返しに浴槽の水を引っ掛けました。
梨葆はきゃっと小さな声を楽しそうにあげて、そこから私達は年甲斐もなく軽い水掛け遊びをしました。
「もう、梨葆、ふざけないで」
「だって、お姉ちゃんが悪いもん。梨葆、間違っただけだもん」
「間違いって、殆どわざとでしょ」
「ふふっ」
いつもは無表情に近い梨葆の顔が、十分な明るさを持って笑います。
今でも笑うんだ、と私は心のなかで囁き、そうして私も普段よりずっと笑いました。
梨葆はやっぱり、梨葆でした。