埋めていたもの
私はちょくちょく百絵さんの大学に行くようになりました。
二回目こそ自分から行ったものの、三回目以降はどちらかというと、頼まれてくるようになりました。私に資料のスケッチの手伝いをしてほしいということでした。大学の学生さんたちよりも早くスケッチ出来るという点で前弘教授からもお願いされ、それで私は最近ほぼ毎日、百絵さんの大学に通っています。
「お、描いてるねえ」
百絵さんが新しい資料を持ってきながら言います。
「百絵さんが描かせてるんです」
「とかなんとか言ってやってくれる辺り、みなもちゃんは素敵だよ」
もう。またです。
百絵さんは人を褒めるのが得意というか、得意というのは変かも知れませんが、とにかく自然と言ってくるので、あまり褒められた経験のない私は、つい恥ずかしくなってしまいます。
休憩時間になって、突然、私の携帯が鳴りました。
出ると、みるるでした。
「やほー。みるるだよ」
「こんにちは、みるる」
「こんちわー。あのねみなもちゃん。今日、みるると遊ばない?」
私は自販機の前で飲み物の選択に悩む百絵さんをちらと見やりながら、言いました。
「今日は、ちょっとだめ。今、大学の先輩と取り込んでるから」
「夜は?」
「夜は塾がある」
「えー。それじゃ、一緒に遊べないじゃん!」
「うん。だから今日は断っておく」
「そんなー……。最近、みなもちゃん遊んでくれない」
みるるがいじけた声を出すので、私は言いました。
「だったら、明日は空ける。これでいい?」
「ほんと? やったっ! 絶対だよ。駅前ね!」
指定が早すぎます。
どうしてこう私の周りはみんなせっかちで強引なのでしょう。
「あー! 財布忘れた!」
この人に至っては天然です。
さて、作業場に戻ると、何人かの学生さんが帰ってきていました。
みんな昼食を終え、戻ってきたようでした。
今日もグレースーツ姿の前弘教授は、みんなの前で手を叩くと言います。
「さあ、仕上げに入ろう。今日はこの後、展示物の入れ替えも控えているから、宜しくね」
私は百絵さんに指定された物のスケッチをとっていましたが、やがて作業が教授の言う展示物の入れ替えに移ると、声を掛けられました。
「みなもくんも、良かったら手伝ってくれないかな」
「搬入をですか?」
「うん、そう。あまり難しくない、簡単なのを任せるから。いい?」
「分かりました。でも、これのスケッチが終わったらにします」
「うん、ありがとう」
教授はダンボールと格闘している百絵さんを呼びつけて言いました。
「百絵くん。ここにあっちの学生たちを集めちゃってもらえる? ここで一旦集まって、資料室の方にいくからさ」
「あ、はぁーい」
百絵さんは屈んだまま篭った返事をすると、やがてダンボールを置いて廊下へと出ていきました。
教授は忙しそうに、一人で後片付けをしています。
どうやら本格的にここを片付けて次の作業に移るようです。
私は頼まれたスケッチがまだ終わっていないので、多少焦りの感情を持ちつつ筆を走らせました。
そうしていると、百絵さんが呼んできた学生たちが、ぞろぞろと教室に入ってきました。
結構大勢居ます。知らない人がどんどん入ってきました。
私は展示物を退かす方法やコツを知らないので、触れません。目の前のものは国の重要な遺品ですから、たとえ知っていても部外者の私がどうこう出来る物でもありません。それで私は沢山の人が入ってきても、仕方なくその場で絵を描き続けていたのですが、何人かの学生が、私を気にし始めました。
「教授、新しい子入ったんですか?」
「ああ、いや」前弘先生が眼鏡を上げながら言います。「彼女は百絵くんのお友達で、みなもくんだよ。現在高校二年生で、絵が上手だから、手伝ってもらってるんだ」
「へー」
高校生がやって来ているということで、教室内はにわかにざわざわとし始めました。
冷静に考えれば、私は見学者という特殊な立場ですね。見学者はオープンキャンパスの時にくらいしか来ないでしょうから、少し浮く存在と言えそうでした。
私は熱心な学生さん数人に囲まれました。
「みなもちゃん、歴史に興味あるの?」
「将来は、ここ志望?」
未来の後輩候補として目をつけられてしまったのか、私は質問攻めにあいます。
「教授。みなもちゃんはここ志望なんですか?」
先生はホワイトボードを消しながら、眼鏡を上げて答えます。
「いや、そういうわけではないんじゃないかな? まだ、そこは詳しく聞いていないけれども。でも、来てくれたら嬉しいね」
「うちに来なよ、面白いよ」
「設備はきれいだし」
「学食は美味しいしね」
教室が少しの笑いに包まれます。
設備や学食目当てかよ、というツッコミどころのようです。
「これ、みなもちゃんが描いたの?」と先輩。
「そうです」
「すごーい。高校生なのに、めっちゃ上手いね」
私が描き上げた資料の周りに、ちょっと人が集まりました。
私は気恥ずかしく、出来ることならあまり集まらないでほしいと思いました。
こうも大きな先輩達に囲まれると、居心地はあまり良くありません。
「こらこら。君たち、こっちを手伝ってくれよ。ただ集まってもらったわけじゃ、ないんだから」
「はぁーい」
「めんどくさあ」
「みなもちゃん、またね」
先輩たちが少しずつ、引いて行きます。
彼らは口々に、これからの作業や、教授の厄介なお願いや、特殊な訪問者である私に対する種々の話題を話していました。
それらは別に、聞く必要のない話題でした。
けれども私は、その中で一言、自分に関する嫌な話題を聞いてしまいました。
「あの高校生の絵、なんか写真みたいで味悪くない?」
「スケッチだし、あれでいいでしょ。でもまあ、無機質ではあるよね」
「そうそう。まるで、機械みたい」
私はびくっと、身体を動かしました。
突然、その言葉が矢になってこちらに向かってきたかのようでした。
それはその人の何気ない一言でしたが、私にははっきりと聞こえて、そうしてひやりと、冷たいものを落としていきました。
機械みたい。
何故だかそれは、私にとって悲しい一言でした。
「みんな揃ったかー」
廊下で教授の声が響きます。学生たちの気のない返事が返ります。
私は椅子に座ったまま、意味のない場所を見つめていました。何故か胸は、早鐘のようにどくどくと忙しなく動いていました。
その日はいつまでもいつまでも、あの場面を思い浮かべながら、ぼーっとした状態で家に帰りました。
フラッシュバックのように何度も繰り返される場面に、気が重くなり、忘れようとしても、新たに鮮明に思い返される言葉。
却ってはっきりと記憶に残ってしまいました。
自室に入ると、自分の絵が沢山おいてありました。
どれも鉛筆画で、色は塗られていません。
題材は物ばかり。写しなので、誇張も表現もありません。そのままです。
味が悪い。
確かに、そうかも知れません。
私の絵は味が悪い――――いえ、味がないと言える気がします。
無味無臭で、それでいて目に写ったものをそのまま書き出している、写真機。
描きたいことがないのかも知れません。
私は絵が好きです。
ですが、描きたいことはあるかというとそうではない。
外に出るのは絵が描きたいがため。題材は別段、なんだっていいのです。
もし、題材にこだわる時があるとすれば、それはこの街以外で描いたことのない物を描く時。
またこの濃霧、と私は思いました。
私は将来にこそ何の願望も、あこがれも、執着も、関心すらもない。ですが、しかしながら唯一大好きで、関心があって、それでいて思い入れのある絵。それにすら、なにもないことに気付いて、その日はずっと、ベッドで横になっていました。
ずっと悩みの種で、そんな自分が死ぬほど嫌いで、でもそれとは絶対に無縁だと思っていた絵も、私からすればやりたいことのないものの一つでした。
考えてみれば、絵に関する将来を考える時に何も思い浮かばないというのは、大好きな絵という世界でも特にしたいことがないという、そういうことに他ならないのかも知れません。今まで怖くて気付こうとしてこなかったのに、偶然にも掛けられた他者の正直な感想に、私は自分を掘り起こされてしまいました。
埋めて隠していた“なんにも分からない病”。それが、大好きな絵にも食い込んできて、蝕んできて、滲み出してきていて。
「みなもー。居るの?」
母の声が、どこからか聞こえてきました。
日がすっかりと落ち、私の部屋は電気もつけず、殆ど真っ暗です。外の夕闇がかろうじて物たちを浮かび上がらせています。時計を見ると、午後の七時ちょっと前。
私は暫く、起き上がる気になれなくて、ぼーっとしていましたが、珍しく帰ってきた母に、居ないふりをするのも悪いと思って、気分も変えたいのもあり身を起こしました。
「なに?」
電気のあまり点いていない階下のリビングに降りると、母が久しぶりにスーパーの袋をいくつも食卓の上に置いて、そうして会社のスーツの上着を脱いでいました。
私は、母がスーツの上着を脱いでいるのを見ると、ああ、今日は家に居てくれるんだな、と思います。小さい頃からそれが、私の母に対する目印の一つなのです。
「今日は、どうして家に居るの」
「どうしてって、仕事が終わったからよ。なにそれ、嫌味?」
母が面白おかしそうにしてレジ袋の中身を取り出して、冷蔵庫に入れるのを見て、私は首を横に振りました。
「そういうつもりではなかったのだけれど」
居ないものが居たので、つい、そんな言葉が出ました。
皮肉のつもりではなく、それだけ母がこの時間に家に居るのが、おかしく感じました。
「今日はさあ、いっぱい買ってきたのよ。食材やら、なにやら」
「いつもは生協じゃない」
「そうなんだけど、たまにはスーパーで、自分で買おうと思って」
母は冷蔵庫に物を詰め込むだけ詰め込むと、それをバタンと閉め、手を叩いて言いました。
「さて、今日はお母さんがカレーを作ってあげよう。喜べ、みなも」
母の手作り料理。
とても、懐かしく感じます。
「私も手伝おうか」
キッチンに入ると、母は手で制して首を横に振ります。
「いーや、今日は私が全部作ろう。たまには母親らしいこと、させなさい」
「十分母親だと思うけど」
「そういうんじゃないの。愛なの、愛」
私は黙って、食卓の椅子に座りました。
リビングの方の電気は点けていなくて、食卓の上にある吊るし照明だけが私の元を照らしていました。
それに気付いた母が、リモコンを取って、リビングの電気をつけます。
いつもは点かない電気が、たちまち部屋を明るくしました。
「今日は出かけてたの?」
家着よりはずっと凝っている私の服装を見て、母が野菜を洗いながら問います。
私は百絵さんと教授の顔を思い出しながら頷きました。
「大学に行ってた」
「大学?」
「そう。知り合った先輩のところ」
「へー。すごいじゃない。高校生なのにお邪魔してよかったの?」
「多分」
母はしきりにへえ、へえと楽しそうに言います。
私は大学の作業室を思い出していました。
机と、資料と、ホワイトボードと、百絵さん。
部屋の中まで、鮮明に。
「みなもって辛口と甘口、どっちが好きだっけ」
「甘口」
「よし、合ってた」
私と母は食卓を挟んで食事しました。
テレビは点けず、静かな夕食です。
「最近塾とか、どうよ」
「別に。普通かな」
「難しい?」
「難しくはない。強いて言うところがあるなら、塾までの道のりと教室が暑くて嫌」
「あはは。まあ、夏だしね」
「母さんは」
「あたし? あたしはもう忙しい以外の文字はないよ。もう会社に寝泊まりしたほうが楽なくらい」
「そうしてた方がいいんじゃない? 社員寮、あるんでしょ」
「ばーか。娘を置いて、会社の備品になるなんて、そんなの嫌よ」
母が、私のおでこを突く動作をしました。
私はなんとなくそれを避けました。
「相変わらずつれないなあ。みなも」
「よく言われる」
「ふふ。まあ、そう言いつつもこうして話には付き合ってくれるのが、みなもの可愛いところなんだけどね」
母は福神漬を足すと、急に思い出した様子でスプーンをちょいちょい動かしながら言い出しました。
「あっ、大事なこと言うの忘れてた。みなも、あんたに言うことがあるのよ」
「なに?」
「あのね、梨葆ちゃんがうちに、来るんだってさ」
「梨葆?」
梨葆とは私の従妹です。
母の姉の一人娘です。名前を結柄梨葆と言って、現在中学三年生のいとこです。
母の実家はちょっと立派な家で、地域ではそれなりに名の知られているところでした。父に嫁いだ以上、今となっては次女の母は向こうとはさほど関係がありませんが、仲が悪いわけではないので、私も何度か母の実家には行ったことがありますし、向こうも歓迎してくれていました。
しかしそれにしたって、祖父母と伯母夫妻の一緒に暮らす家の一人娘、梨葆が、どうして家に来るというのでしょう。
「何でって顔してるね」
「それはもちろん。だって、何か用事とか、あった?」
「それがさあ、梨葆ちゃんが、幟山高校に入学したいらしくって、地元の塾の方が幟山の対策万全そうだからって、こっちの塾に暫く夏期講習で通うことになったんだってさー」
それは初耳です。
梨葆が、幟山高校に入学したいだなんて。
「最初は塾に、電車で通ってたらしんだけどねー。あとで『みなもの家に泊まれば早い』って梨葆ちゃん気付いたらしい」
伝聞でも梨葆の態度が分かります。
あの子は相変わらず、私をみなもと呼び捨てにするスタイルを維持しているようです。
もうそれだけで梨葆が元気なのが分かって、私は安心しました。
家に来ることは全く心許ないですが。
「それであんなに、食料買い込んでたの」
「うん。あ、もちろん愛娘のためにご飯を作りたいっていうのが一番だぞっ」
「ありがと」
私はお風呂を沸かしに行きました。
お湯が抜けていく間、私は冷え切った湯の水面を見ながらぼーっと考え事をしていました。
梨葆が家にくる。
私が学校をさぼったりしている事を、悟られなければいいのですが。