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CANVAS  作者: 一歳真誉
高校二年の年
5/12

大学生と博物館

 さて、ここ一週間はみるると遊びっぱなしでしたが、やがて日は移り、七月の二十九日となりました。土曜日です。

 金曜日だった七月の二十八日を境に、私の高校は本格的な夏休みに入りました。

 私は部活をしていないので、今から八月の三十一日までは完全に休みです。尤も塾があるので、日がな一日ごろごろ、という訳にはいかないのですが。

 夏休みに入って早速、亜里紗が私の家に押しかけてきました。

「ね、海行こ、海!」

 亜里紗がいきなり無茶を言います。

 私達の住む街は内陸部にあるので、海は自然、どこにもありません。それどころか、野を越え山越え田畑を越え、数多の街々を越え、そうしてやっと着くのが海なのです。

「いいけど、私お金ないから」

「あたしが出す」

「またそれ? 何度も言うけど悪いから――――」

「みなもは私の誘いを断る方に悪いとは思わないわけっ」

 私は頷きました。

 そっちは何故か、悪いとは然程思いません。

「まったく。なんでこんな、ノリ悪いわけ」

「亜里紗だってさして良い方ではないでしょ」

「うっさい」

 亜里紗が私のベッドの上にあるクッションに顔を埋めて、しばらく固まります。かと思えば、仰向けになりながらぶつぶつと呟きだしました。

「せっかく夏休みなんだからさ、どっか行こうよ」

「スカート、見えてる」

 私の頭にクッションが飛んできました。

 痛くはないです。すごく柔らかい粒の入ったエアなんとかの物なので。

 それよりも絵が台無しになりました。吹っ飛んできたクッションの衝撃で、手に持った鉛筆の先があらぬ方向に走り、私の描いていた何時だか買ったお土産の絵には濃い曲線が食い込んでしまいました。

「夏にはもっと、別の過ごし方があるわ」

「なにそれ」亜里紗がクッションを抱えながらむくれて言います。

「夏期講習」

「ぜっったい行かない」

 これはたとえ地球が滅ぶぞと脅されても行きそうにありません。

「みなもは行くの、夏期講習」

「一応は」と私は答えます。

「全日コースはつらいから、週数回のコースにしたけど」

「ふーん」

「亜里紗もやったら」

「いやだ」

 そうですか。

 亜里紗にはぜひとも、必要だと思うのですが。


 夏休み初日の翌日はみるると遊び、その更に翌日は午後から塾にすし詰めでした。

 四日目の八月一日は例の河川敷で過ごすことに決めました。自分の時間が作りたくなって、一人で外出しました。

 夏休みになると、やはり学生の姿が目につきます。みんな弾けんばかりにはしゃぎ、騒ぎ、そして笑います。

 私はなんでもない平日の静けさが好きなのですが、たまにはこういうのも、良いかも知れません。

 私はいつものように絵を描いていました。この日は公園でなく、土手に座って絵を描いていました。

 カラスが、私の少し前で地面を突きます。それが面白くて、私はスケッチをしていました。

 しばらく見ているうちに何羽か集まり、地面を突く以外にも様々の動作を彼らはしました。今まで多くの鳥を観察してきたので知っているのですが、彼らは意外にも動物というより人間臭く、個があり、そして存外に遊び心があるのです。

 カラスに夢中になっていた私ですが、彼らを何枚か描き上げ、その絵はスケッチブックから切り離していました。切り離した紙は、体育座りする自身の横に重ねておいていました。

 そうしていたら突然、比較的強い風が吹き荒び、切り離していた絵が何枚か、飛んでいってしまいました。

 私は「ああ」と思いました。土手沿いには結構、人が居たのです。夏休みに入って共に過ごす親子や、運動部の個人練習をしに来た学生、暇そうな大学生など、割りかし人は多く居ました。

 そんな中、私は自分の絵を何枚か飛ばしてしまいました。

 相手が拾うにしろそうでないにしろ、それなりに目には入ります。さすがの私も、多少のこそばゆさを覚えずにはいられません。

 私は小さい溜息をつくと、しかたなく立ち上がって、拾いに行きました。一枚、二枚と拾っていきます。途中、中年男性の方が傍の一枚を拾ってくれました。「上手いね」と言ってくれたので、私は軽く頭を下げ、お礼を言いました。

 最後の四枚目が目に入った時、私はどきっとしました。

 土手に寝っ転がっていた大学生くらいの女性が、私の絵を拾って眺めていたのです。

 その女性はとてもラフな格好をしていました。シンプルなシャツに、色の薄いGパン。髪はあまり頓着していないのか、いい加減な結い方で、背は高く、顔つきはおっとりとしていました。

「あの」

 私はその女性に声を掛けます。

「その絵、私のなんです」

「ん?」

 女性が、寝っ転がりながら見ていたスケッチブックのページ一枚に陰になっている私をおやと見て、言います。

「これ、あなたの?」

「はい。風でここまで、飛ばされました」

 女性は絵に目を落とすと、今度は再び私の顔を見て、やっと言いました。

「なるほど。あなたのなんだね」

「はい」

 女性は「よっ」と声を上げて、上半身を起こしました。

「上手だから見ちゃった。はい、返す」

 私は手短にお礼をいうと、引き下がろうとしました。すると彼女は、背を向けて歩き出す私を背後から呼び止めました。

「あ、待って!」

「なんでしょう」

 振り返ると、女性がいかにもわくわくといった表情で私を見、言います。

「スケッチが何枚か飛ばされた。てことは、スケッチブックの本体があるんだね? 見せてよ、それも」

「いいですけど」

 もう、一度見られてしまった私の絵です。あとは比較的どうでもいいので、彼女のお願いを引き受けました。

「これです」

 私は取ってきたスケッチブックを彼女に渡しました。

 女性は受け取るなり、ぱら、ぱらとページを捲ります。

「へぇぇー。これ、この街の物かあ」

 女性が大げさな声を上げます。私は髪をいじりながら「そうです」と短く答えました。

 なんだか気恥ずかしいです。

「絵、好きなの?」

 私は頷きました。

「唯一、好きと言っていいものだと思います」

「ふうん。いいね、そういうの」

 女性は最初のページに戻ると、また絵を追い始めました。

「高校生?」

「はい」

「何年生?」

「二年です」

「ほぉ。大事な時期だね」

 私はちょっと、胸中にちくりとしたものを感じました。

 たしかに大事な時期です。なのに、私は絵と少しの勉強しかしていません。

「美術部?」

「いえ。部には興味ないので」

「そうなの? もったいないなぁ」

 彼女は私のスケッチブックをそっと閉じると、渡してくれました。

「ありがと。見せてくれて」

「いえ。別に、どうということでも」

「ううん。わたし絵って全然駄目だから、人の手で描かれたリアルなタッチを間近に見られて、面白かったよ」

 私はいよいよこそばゆい気持ちになりました。

 この人は私を、褒めすぎです。

「うーん。私も絵が描けたらなあ」

 存外に役に立たないものです。それを活かすも殺すも、その人次第。

 ちなみに私は、活かせていません。

「わたしね」と女性は続けます。「名前がね、百の絵って書いて百絵もえって言うんだけど、でも、絵はからきしなんだー」

「百絵さんは、大学生ですか」

「そうだよ。二十歳はたちの大学生」

 そういって彼女、百絵さんは再び、芝生の土手に横になりました。

「そういえば、あなたの名前は?」

「みなもです。紫路馬しじまみなも」

「みなもちゃんか。可愛い名前だね」

「可愛いと言われたのは、初めてです」

「えー? そうなの? 分かってないなあ周りの人」

 私は百絵さんの隣に座りました。このひとの話は結構長くなりそうだったので、腰を下ろしました。

「百絵さんは何をしている人なんですか」

 彼女、百絵さんは手のひらで枕を作ると、言います。

「考古学だよ」

「面白いですか?」

「うんー。おもしろい」

 百絵さんはそのおっとりとした眼でしばらく私の顔を見ると、突然言いました。

「あ、そうだ。よかったら、うちの大学の博物館、来ない?」

「え?」

「今さ、ちょっと珍しい展示、やってるんだ。古代のなんだけど。絵を見せてくれたお礼に、無料で見せてあげようかなーなんて。えへへ」

 私は少し、興味が惹かれました。

 私は歴史は多少好きです。教科の中でも美術の二、三番目くらいには好きです。

 それと、博物館の雰囲気が私のお気に入りでもあります。少し薄暗くて、ひんやりとした場所なのに妙に落ち着くのは、何故なのでしょう。私はあの静けさと落ち着きが、堪らなく好きなのです。

 私が行くかどうか悩んでいると、百絵さんが畳み掛けてきます。

「いきなりだけど、どう? 来ない? 面白いよー。多分教科書に載ってない、みたことのない出土品が多いと思う」

 私は百絵さんの言葉に揺さぶられました。

 古代の土器やら道具、装飾品というのは、スケッチするにはもってこいの題材です。

 小学生だった時、私は校外学習で博物館に行ったことがありますが、そこで課された展示物のスケッチが私にはすごく面白く思えて、班からはぐれるくらいには夢中になっていました。

 今もそれは変わらないみたいです。百絵さんの提案に、私は最後まで悩まされました。

「別の日になら、行ってもいいですか?」

 理由はそれなりの用意をしたいからです。いきなり行くよりも、日を改めたく思いました。

 百絵さんは私の返事を前向きに捉えてくれました。

「お、そっか。来てくれるんだ。やった。嬉しいな」

 百絵さんは身を起こすと、ポケットから財布を取り出して、そこから一枚の名刺を取り出しました。

「これ、私の手作り。名刺キッドみたいなの大学で貰ったから、作ったの。可愛いでしょ?」

 私は受け取ると、名前を見ました。

 寺門百絵てらかどもえ。妙に丸っこい字体です。

「そこに連絡先書いてあるから、何かあったらどうぞ。これ、展示会のパンフレット」

 百絵さんは次々と物を出します。私は多少慌ててパンフレットを受け取りました。

 パンフレットには『縄文と弥生の変遷』とあります。

 古代。私の最も好きな時代。なんて良い響きなんでしょう。


 そう言う訳で私は今、峰駅にいます。八月二日、水曜日です。

 今回は亜里紗を連れてきました。

 連れてきたというより、付いてきたというのが正しいのですが。

「博物館て、どこよ」

 亜里紗が今日もうんとおしゃれな格好で言います。私もそれなりの格好をしてきました。

 私は亜里紗に答えます。

「八つ上ったところだから、鴨洲川かもすがわ市の砂須賀さすが駅」

「砂須賀? とおっ」

「帰る?」

「い、いくってば」

 亜里紗が博物館なんていう退屈とされる場所で数々の展示物に耐えられるかどうかは正直怪しいと思うのですが、来るというのだから仕方ありません。

 私は腕時計を見ました。今は午前八時の十七分です。九時から展示が始まるらしいので、今から電車に乗って砂須賀で降りれば、ちょうど開館時間を過ぎたあたりで、スムーズに展示会場に入ることが出来るでしょう。

 お昼はまあ、適当に済まします。

「亜里紗。そろそろ行きましょう」

「あ、うん……」

 私と亜里紗は駅のホームに降ります。電車が来るまでの間、亜里紗はジュースを飲みます。

 数十分ほど電車に揺られ、私たちは砂須賀で降りました。

 砂須賀駅周辺はわりかしこざっぱりとしていて、人はあまり居ませんでした。この時間帯にここで降りる人は少ないのです。丁度住宅街の真ん中あたりにある駅というのもあってか、昼間は閑散とした地域です。

「ここからどこ?」

「南にずっと行った先」

 駅には一枚だけ、百絵さんの大学の展覧会に関するポスターが貼られていました。

 盛り上がりに欠けていそうな印象を受けましたが、それでも構いません。

 博物館は空いている方が却って好都合です。のんびりできますから。

 私と亜里紗は、人と車のまばらな街中をスマートフォンを持って歩きました。早くも八月ですから日差しは本格的に強く、あちこちの木々や電柱から蝉の鳴き声が響きます。照りつけられたアスファルトからは不快な匂いと熱がこみ上げ、むせ返りそうです。

 亜里紗が後ろで暑い暑いと文句をいうのを聞いていたらやがて着きました、百絵さんの大学。

「ここみたい」

「ついた?」

 百絵さんの大学は住宅街から少し外れた小山の麓にありました。緑が多く、普段は静けさに包まれていそうな大学ですが今は立地のせいで蝉がわんさか鳴いています。

「どこに入れば良いのかしら」

 大学の広い敷地に立って、私は博物館がどこにあるのか迷います。大小の建物があちこちにあって、一概にあれがこれと言えそうにありません。

「見せて」

 亜里紗が私からパンフレットを受け取ります。

 亜里紗はハンカチで首筋の汗を拭いながらパンフレットを覗き込み、そして指を指しました。

「あれがこれっぽいから、あっち」

 亜里紗が示した建物内では、百絵さんが入口付近で待っていました。

「あっ、みなもちゃん」

「おはようございます、百絵さん」

「おはよー」百絵さんがのんびりと返します。「あれ、そっちの子は?」

「亜里紗です。知り合いです」

 亜里紗は私の後ろで隠れるようにしています。相変わらず知らない人には余所余所しい彼女です。

「お友達も連れてきてくれたんだぁ」百絵さんはくねくねしながら言います。「いやあ、嬉しいな。せっかくの合同展示会だっていうのに、あまり人来ないから、どうしようって思ってたとこなんだ。そっかぁ、お友達かぁ、団体さんだ」

 団体というほどでもないのですけど、百絵さんから見たらそうなんでしょう。私はいつもは言いそうな無粋な発言を控えました。

「私は百絵。寺門百絵。ここの大学生で、考古学をやってるよ。よろしくね」

 私の後ろに隠れるようにして立っている亜里紗に、百絵さんは覗き込むようにして言います。

 自己紹介された亜里紗は顔を赤くして私の前にちょっと出ると、さっとお辞儀して、また引っ込んでしまいました。

「ふふ。さあ、きみたちには、日本の古代の人々の日常生活から何までを、学んでいってもらいましょうか」

 百絵さんは楽しそうにぱんぱん手を打つと、展示会場の入口を手で差し示しました。

「いろんな展示があるからね。スケッチなり何なり、自由に楽しんで。あ、でも写真はだめね。傷んじゃうから」

「入館料金は」

「いいよいいよ。無料で見せてあげるって言ったじゃない」

「そういうわけにも」

「いいのいいの。黙ってれば分かんないから、こんなの」

 受付にいる学生さんが、恐らく百絵さんの後輩さんだと思うのですが、困ったように笑いながら、ぺこぺことお辞儀します。

 私もお辞儀して返します。

 ここを出る前に、この学生さんにこっそりと入館料を支払うことを決めました。

 私と亜里紗は、迷路のように奥へと続いていく薄暗い展示ルートに入ります。

 ガラスケースの中には乾燥しきった土器や、土埃の付着している管玉などが並んでいました。展示物の隣には、小さな文字で説明の書かれたプレートがはめられており、私はその全てを読んで歩いていくのですが、亜里紗は説明にはあまり興味がないようで、しきりに展示物ばかりを眺めていました。

 それもまた、博物館の楽しみ方です。

「ねえみなも。これ、なんて読むの」

 亜里紗が私の手を引っ張って、説明文を指差します。

 只管、と書かれています。

「確か、ひたすら」

「ひたすら? 読めない」

「“只管ひたすら削って使用していたと考えられます”、って、前後の文章で読めるから、多分ひたすら」

「ひらがなでいいじゃん」

「確かに」

 インテリな世界だからか、ちょっと不親切な部分もあります。それがまた、面白いです。

 展示ルートを巡っていくにあたって、私たちは光の差す休憩所のような場所に着きました。大きな窓があり、そこから外の光が溢れています。中庭のようです。

 奥を見ると、暗い通路が続いています。まだ展示物は続いているようでした。

「ちょっとここで、休憩しましょ」

「はいはい」

 私たちは博物館や市立施設などによくある簡素なソファに座って、自動販売機で飲み物を買います。展示ルート内では流石に飲食は禁止ですが、ここでは許されるようです。

「ねえ、さっきの人は?」

 亜里紗が、自分たちの歩いてきた通路の方を見ながら言います。

 私は暗がりに目を凝らしましたが、人は見当たりません。

 百絵さんはどうやら、どこかに行ってしまったようです。

「途中までは、離れた所に居た気がしたのだけど」

「まあそのうち出て来るか。あーつかれたぁ」

「まだ半分も来てないんじゃない」

「えぇ。あたし眠くなってきた」

 亜里紗は横長のソファに身体を倒します。

 私は注意した後、スケッチブックを取り出しました。

「描くの?」と亜里紗。

「うん」

「長くなりそう」

「そう言われても。私はそもそもこのつもりで来たから」

「はぁ。先に聞いておくんだった」

 私たちは再び、展示ルートを巡り始めます。途中、気になった展示物は私がスケッチを取ります。その間、亜里紗は退屈そうにぶらぶらとしていました。

「まだ?」

「まだ」

「あたし、先出てっていい?」

「ええ」

 亜里紗が居なくなってから、私は本格的に時間を忘れました。

 気付くと百絵さんが、私の隣で同じ展示物を眺めていました。

「百絵さん」

「や」

 百絵さんは軽く手を振ります。

「楽しんでるかな」

「私は」亜里紗が去っていった先を見ながら答えます。「亜里紗はちょっと、私のテンポにはついて行けなかったみたいですけど」

「ふふ。スケッチされちゃうとね」

 そう言いながら百絵さんは私のスケッチブックを覗き込みます。

「相変わらず上手いなあ」

「いえ。そんな事は」

 百絵さんは急に笑い出しました。

「こんなに上手いとさあ、大学の資料作りとかめちゃめちゃ助かりそう」

「絵を描くんですか?」と私。

 百絵さんは頷きます。

「理科のスケッチみたいな。絵は絵として、資料として残す。写真だめな物とかあるしね」

「そうなんですか」

 私が筆を止めてじっと展示物を見ていると、百絵さんが静かに問いました。

「やってみる?」

「え?」

「資料作り」


 どうしたことか私は、百絵さんに連れられて大学の奥の方に来てしまいました。

 展示会場を抜け、公的な場所からどんどん私的な廊下を歩いていると、ああ、大学にいるんだなというのが実感として湧いてきました。

 亜里紗もちゃんと連れてきました。しきりにあたりを見渡しています。

 そんななか百絵さんは私達を、ある一室に招待しました。

「ここだよ。ここ」

 お部屋の中には大学生が数人、長テーブルの上に置かれた土器やら何やらとにらめっこしていました。

 白いシーツの上にそっと出土品を置く学生もいれば、置かれたそれを睨みつけてスケッチを取っている学生も。照明器具やノートパソコンを弄ってる学生もいて、如何にも活動中といった感じ。

 百絵さんと私達が部屋に入ると、彼らは一斉にこちらを向きました。

「百絵くん、その二人は?」

 厚メガネを掛けた、白髪のグレースーツの男性が、腕を後ろに組みながら首を傾げます。

 百絵さんは「いやあ」と言って頭を掻きながら、いい加減な様子で私達を紹介しました。

「ちょっと、私の知り合いを見学で連れてきまして。こちらみなもちゃん。で、こっちが亜里紗ちゃん」

 私は軽くお辞儀しました。

 それを見て亜里紗も急いで、真似するように頭を下げます。

「見学者ね」

 多分、教授だと思うのですが、その男性は顎に手を当てて頷くと、しかし「いや」と顔を上げて言いました。

「今ね、この通り、資料作りをしているんだけれど」

 男性が作業の様子を見せるようにして横に退けます。

「ご覧の通り、ひどく単純な作業でね。つまらなく感じないといいんだけれど」

「いいえ先生。みなもちゃんはそこんところ大丈夫ですっ。だって彼女、スケッチが好きなんですよ」

 みんなの視線が一斉に私に向けられます。

 たしかに私はスケッチは好きですが、このように目立つのは嫌いです。帰りたくなってしまいました。

「絵を描くのが好きなの?」

 先生と呼ばれた男性は私のそばに来て訪ねます。

 私は頷きました。

「はい。並よりは好きです」

「上手?」

「百絵さんと友達とかは上手と言ってくれます」

 私はみるると、河原で出会った人達の顔を思い出しながら言いました。

 彼らは今、何をしているでしょうか。

「これを見たほうが早いかな」と百絵さん。「先生、ほら。みなもちゃん、こんなに絵が上手いんです」

 百絵さんがいつの間にか私からスケッチブックを取って、教授の男性に見せました。

 男性は興味深げに覗き込んでいます。

「ほほー。上手いね」

「でしょう」

「まるで写したみたいだ」

「そういうのって、この作業に向いてません?」

「まあ、そうだね」

「だから連れてきたんです」

 白髪の男性は私を見ると、軽く頭を下げて、言いました。

「百絵くんはこう言っているけれど、君はどう? 手伝ってくれる?」

 私はちょっと考えると、言いました。

「土器とかは好きなので、苦ではないと思います」

 先生はちょっと困ったような顔をします。

 私の返答が曖昧だったのかも。

 しかし百絵さんはそこで補足してくれました。

「みなもちゃんもやってくれるって。ね、先生、どう?」

「本人がいいなら、私としてもかまわないけどね」

「よし。交渉成立」

 酷く強引な説明が通って、私は資料の前に立ったりしゃがんだりしてスケッチしている大学生の中に入ることになりました。

 亜里紗は私から離れようとせず、ずっと傍に引っ付いています。

 あまりにも引っ付いてくるので、私はいいました。

「亜里紗。ちょっと。暑い」

「うぅ」

 亜里紗は困ったような、訴えるような目で私を見つめ声にならない声を上げます。

 それで私は、それ以上くっついてくる亜里紗を咎めないようにしました。

 人見知りの激しい亜里紗を突き放すのは、可哀想です。

「ちょっと。誰かこっちに来て。人手が足りない」

 知らない別の大学生が部屋に入ってきて、スケッチを描いている人たちに声を掛けました。

 それがきっかけで、教室には殆どの学生が居なくなってしまいました。

 学生さんたちは連れて行かれる時、しきりにぶつぶつ言っていました。

 結構、大変なところなんですね、大学。

「新しい何かでも来たのかな」

 教授は呑気そうな様子でいいます。

 何故か残った百絵さんも言います。

「合同ですからね。色々煩雑化して大変そう」

「君も行きたまえよ」

「私はみなもちゃんと亜里紗ちゃん放っておく訳にはいきませんから」

 そう言って百絵さんが、引き継いだ他学生の作業をします。

「ごめんね。帰りたくなったら何時でも帰っていいからね」

 先生が私と亜里紗にそっと耳打ちします。

 私は首を横に振って答えました。

「ありがとうございます。でも、前よりずっとやりやすくなったので、もう少し居ます」

「そっか。じゃあ、ゆっくり楽しんで」

前弘まえひろせんせー」と百絵さん。

 やっとこの先生の名前が分かりました。

 彼は前弘という名前のようです。

「これ、紙食っちゃったんですけど……」

「あーあー。また強引にやったんでしょう」

 百絵さんと前弘教授が印刷機と格闘している間、私は一枚、二枚、三枚と絵を仕上げました。

「正確だなあ。ちょっとこっちの資料作りもやってみないかな?」

「え」

「ほら、これをこの紙に、写すだけなんだけれども」

 私はきれいな紙を渡されて、そこに絵を描きました。

「上手い上手い」

 前弘教授と百絵さんは私の絵を取ってしきりにはしゃいでいました。


 さて、思いの外時間が経って、私達は慌てて大学の構外に出ました。

 外はすっかりと暗くなっていて、西側の空は赤と紫のどす黒い色に染まっていました。敷地内のあちこちに点在する外灯が、静かな明かりをともし始めます。

「すっかり時間経っちゃったね」と百絵さん。

「結構な間、お邪魔していたみたいで」

「いいんだよ。めっちゃ手伝ってもらったし。どう? 楽しかった?」

「大体、楽しかったです」

「そっか。亜里紗ちゃんは?」

「……疲れました」

「ありゃあ。そうだよねえ。私と一緒に、重いもの運んだもんねえ……」

 私たちは百絵さんに、駅まで送ってもらいました。

 百絵さんはまだ大学ですることがあるらしく、また戻るようです。

「ここまでかな。また来たくなったら、いつでもおいで」

「今日はありがとうございました」

「いいんだよー。私が無理やり、連れてきたようなもんだから。でも楽しいって思ってもらえたから、嬉しいな」

 電車がホームに入ってくるアナウンスが流れ始めました。それで、私と亜里紗は急いで改札の前に来ました。

「またね。よかったら今度も資料作り手伝ってね!」

 最後に百絵さんにさりげない宣伝、というよりアピールをされてから、私達は改札を通りました。

 外は薄暗く、駅内の明かりがいよいよ眩しく、輝いていました。

 電車の中は、今日一日を終えた人々でいっぱいでした。

 サラリーマン、中高生、老人、主婦、小さな子供。

 これから夜の街へ遊びに行く若い人や、一日の終りを飲みで楽しもうとする、大人たち。

 私は隣で眠気にうとうとする亜里紗と一緒に電車に揺られながら、今日一日あった出来事を反芻しました。

 大学には、沢山の学生が居ました。みんな、大変な作業にこそ愚痴を言うものの、次々に運び込まれる資料には目を輝かせていて、楽しそうでした。

 百絵さんも百絵さんで、一見いい加減そうに見えるものの、目の前に実際に現れる歴史の埋蔵物に、終始はしゃいでいました。前弘教授は、そんな百絵さんたちを愛おしそうに眺めていました。

 あの教室の中に居た人たちは全員、好きなものに熱中している人たちでした。

 今日一日を、大学生活を、人生の時間を、あの人達は好きなことに打ち込む事によって過ごしていました。

 自分の好きなことをする。好きなことを生活の主軸にして、日々を過ごす。

 私は彼らが、とても幸せそうに見えました。

 好きなことをしている間の人間の表情というものは、こうも輝いているのか、と、私は驚きさえ覚えました。

 私が好きなことは、絵です。

 私も大好きな絵を生活の主軸にしたら、輝けるでしょうか。

 好きなものを目の前にして明るくなれる、彼らのようになれるでしょうか。

 私は今日、曲がりなりにも自分の絵を描く力によって、誰かの助けになることが出来ました。

 こういうふうに、誰かを自分の力で助力出来たり、嬉しいと思ってくれる人がいるなら、こんなに幸せなことはないかも知れません。

 私は、自分が絵で何かをすることができるかも知れないと、それが出来たら幸せだと、そしてそれが出来たらいいなと、思ったのでした。

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