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CANVAS  作者: 一歳真誉
高校二年の年
11/12

寂しさと願望

 翌日の梨葆は大分良くなっていました。

 顔の紅潮も引き、熱も殆ど下がり、ふらふらとしていた足取りも今ではしっかりしています。がらがらとしていた声もよく通りますし、動きも何だかきびきびとしています。梨葆が順調に快復に向かっているのが分かります。

「その調子だともう大丈夫そうね」

「うん」と梨葆。「そんなに、辛くない」

 私は梨葆の体温で温かくなった体温計を仕舞うと、薬と水を渡して言いました。

「でも、今日一日は横になってたほうがいいと思う」

「なんで?」

「こういうときこそしっかりと休んで、確実に」

 もう平気だとか、大丈夫だとか言われると思ったのですが、しかし梨葆は意外にも私の言葉に従いました。薬を口に含み、上を向いて水を流し込んでから、静かに身体を横たえます。

「分かった。梨葆、確実に治す」

 きっと明日が花火大会だからでしょう。

 私はどうしようかと悩みました。

 浴衣、あったかしら。

 ではなくて。

 テスト、どうしましょう。

 梨葆と仲直りした日(明確に仲直りしたシーンはなかったような気がしますが)、私は適当に梨葆に「治ったら行く」と言ってしまいました。その時はまさか全快になった梨葆が当日立っているなんて想像はしていませんでした。でも、この調子なら梨葆は明日、普通に出歩けそうです。

 仲直りした手前、私は梨葆の約束を反故にするつもりにはなれませんでした。ここに来てまた梨葆を泣かせたり、悲しませたりするのは気が引けます。私達の夏休みの最後の日近くに、そんな、約束を破ってまた言い合って、そうして大して会話もせずにさようなら、などという結末は迎えたくはありません。

 私は梨葆が明日どうするつもりなのか、自分のテストのことも考えつつ問います。

「明日なんだけど」

 梨葆が布団の中で目を見開きます。

 気になっていることを私から切り出されて驚いたようです。

「梨葆はどうするつもりなの?」

「行くよ。絶対」

 ふむ、と私は口に手を当てて考え込みます。

「それって、私と行くつもりなの?」

 ゆっくりと頷く梨葆。

「前にも言ったけど、テストが」

「知ってる」

 梨葆は掛け布団を両手で顔に寄せてから、もそもそといいます。

「でも、梨葆、お姉ちゃんと行きたい。浴衣だって持ってきてあるのに」

 私はぽかんとして梨葆の表情を見つめます。

 梨葆は頬をほんのりと染めて言います。

「ここに来る前から、最後には花火を一緒に見るつもりだったの。夏休みの最後の日に、お姉ちゃんと」

「浴衣、バッグに入ってるの?」

「……うん」

 私は呆れるやら困るやらで、変な顔をしてしまいました。

 梨葆はそんな私の視線を耐えられないと言わんばかりに嫌がり、そうして布団を被ります。

 ここまでやられたら、もういよいよ断るのが悪く思えてきます。

 梨葆は「塾を休んで」こそ今では言いませんが、私に仄かな期待を寄せているようです。きっと私は当日になったら塾を休み、自分と一緒に花火大会に行ってくれる。そう期待しているのが何となく肌で感じ取れました。

「えっと」と、梨葆はもじもじしながら言います。「もう、お姉ちゃんの悩みとか、無理に聞き出したりしようとして、解決しようとかしないから。梨葆、もうお姉ちゃんをほじくり回したりしないから。だから。うんと……」

 花火大会に一緒に行ってほしい、ということでしょう。

 変にへりくだった心境にさせてしまっているのを見て悪い気持ちになりました。

 私はフォローします。

「梨葆が私の問題を解決しようと思ってくれたことは、感謝してる。力になりたかったんでしょ」

「……うん」

「あの時あんなふうに言って、ごめんなさい」

「もういいよ。梨葆だってしつこかったし」

 私はしばらく黙って考えていましたが、やがて一つの結論を出しました。

「分かった」私は立ち上がって言います。「明日の花火大会、一緒に行きましょ」

 梨葆が驚きの表情で私を見上げます。

 そんな梨葆を、私は手で制しました。

「ただし。ただしよ。今から塾に電話して、当日休みたい旨を伝えて、もしそれが通らなかったら、今度こそ諦めてもらうからね。それでもいい?」

「うん、うん……!」

 心底嬉しそうに、それこそサプライズでも貰ったみたいに表情を輝かせながら二つ返事する梨葆に、私は困り笑いしました。

 こういう時は素直に、「全く可愛い従妹だ」とでも言うべきなのでしょうか。でもそういうより、“全く困った従妹”です。

 私は自室を出て、一階の電話機のもとに向かいました。梨葆がいち早く結果を知りたそうに付いてこようとするので、私はちゃんと寝るように言いつけ、受話器を取りました。

「もしもし」

 柄にもなく少し緊張して、私は電話に出た塾長に言います。

「明日の全国統一テストなんですけど、用事が出来てしまったので、休んでいいでしょうか」

『えっ? なに、紫路馬しじまさん明日来れないの?』

「はい」と私。「どうしても、外せない用事ができたんです。不本意ですけど」

『うーん』と塾長は唸ります。唸った時の喉のからみに、塾長は受話器の向こうで『げほっ』と咳き込みます。自身のハスキーボイスがコンプレックスの“彼女”は仕事熱心なヘビースモーカーのお節介焼きです。そんな人ですから、夏休み最後の総締めくくり、統一テストを休むなんて伝えるのは大変心苦しいのですが、しかし梨葆をほうっておくのも心苦しいですから、どっちにしろそういった具合なことに変わりはないです。

 喉の調子を整えてから、塾長は言います。

『いいけど、そうしたら次の統一テストは、秋の中頃になっちゃうよ? いいの?』

「はい」と私は答えました。「自分のレベルは知っておきたいですけど、でも、それよりも大事な用事、出来たので」

『はぁ。まあ、紫路馬さんがいいなら、私も強くは言えないか。いいよ、行ってらっしゃい』

「ありがとうございます」

 行ってらっしゃい?

 私は違和感を感じながら受話器を置きました。

 ひょっとしたら、用事が花火大会だってこと、ばれたかも知れません。

「どうだった?」

 自室に戻ると、梨葆が食いついてきます。

 私は答えました。

「通った」

「やった……!」

 起きようとするので、私は梨葆を押さえて言いました。

「寝てなさい」

 梨葆はにこにこしながら布団を被ります。

 まったく。本当に困った従妹です。


 八月二十七日、日曜日。

 いよいよ、花火大会の日がやって来ました。

 私は梨葆の看病やら、それで後回しになっていた家事やらで遅く起きていた昨晩のせいで寝坊してしまったのですが、梨葆はすっかりと元気になって、もうずっと前に起きていました。

「お姉ちゃん、遅いよ」

 私はくしゃくしゃになった頭を掻きながら時計を見ました。

 十一時二十八分。ひどく寝坊しました。

「ん」

 私が眠さに目を開けられず、適当な返事を返していると、急に梨葆が額に手のひらをあてがってきました。

 なにかと思い目を開けると、そこにはベッドに寝る私の額と自分の額の温度を手のひらで確かめる、梨葆の姿がありました。

「……だいじょうぶ。梨葆にも熱はないし、お姉ちゃんにもない」

 どうやら梨葆は私が風邪をもらってしまう事を気にかけていたようです。

「本来ならあなたが体温をチェックされる方でしょ」

 梨葆は手を握り言います。

「だいじょうぶ。梨葆、完全に治ったもん」

「そのようで」

 私はベッドから降りると、伸びをしました。

 梨葆はそれを見上げています。

「花火大会って、何時からだっけ?」と私。

「十八時とか十九時とか、そのへん」

「どっち」

「あんまり覚えてない。でも、早めに行こ」

「分かった」

 私はクローゼットルームと化している二階の一室で浴衣を探しました。

 確か高校一年生の時に母に「高校生にもなって浴衣の一枚もなかったら困るでしょ」と言われ、プレゼントされたのですが、貰うだけ貰って全く使用していませんでした。今こそ着る時ですが、しかしどこにあるのか分かりません。

 しばらく探しているとありました、浴衣。

「あった」

 梨葆が廊下から覗いて言います。「きれい。おとなっぽい」

「着方、どんなだったかな」

「え。お姉ちゃん、浴衣の着方知らないの」

「使ったこと無いから」

「梨葆が教えてあげる」

 私は梨葆に、着付けをしてもらいました。

 背の小さい梨葆に、高校生の私が棒立ちして、それでいてあちこちを見てもらうのはなんだか変な感じです。

 きゅっと帯を締めてもらい、浴衣姿の私が完成しました。

 なかなか、良いです。悪くありません、浴衣。

 あとは髪型を変えるべきでしょうが、どうやって纏めましょう。

 などと、なんやかんやで楽しみ始めた自分に気付きます。

「梨葆はどんな浴衣を持っているの?」

 尋ねると、梨葆はもったいぶります。

「だめ。梨葆の浴衣は、その時になってからじゃないと見せてあげない」

「なんでよ。同じ家から出発するじゃない」

「それでも、見せてあげない。お姉ちゃんが先に家を出てよね。じゃないと梨葆、出かけられないから」

「はぁ、まあ、いいけど」

 相当自信があるようです。私は楽しみにとっておくことにしました。


 日中はあっという間に過ぎて、十七時になってしまいました。私は浴衣やらなにやら色々準備していたらいつのまにか日が傾いているのを知って少し驚きました。気付くと梨葆はそばに居らず、洗面所に閉じこもっていました。着付けをしているのでしょう。

 私は浴衣を着、扇子やらなにやらが入った籠バッグを持って、洗面所の戸の前で梨葆に声掛けします。

「梨葆。先に出てるけど、いい?」

「うん」

 くぐもった返事が聞こえたので、私は「じゃあ」と言って家を出ました。

 下駄のひんやりとした冷たさと涼しさが心地よく、サンダル好きの私はその開放感に満足します。毎日履きたいくらいですが、なんでもない日にアンバランスな下駄を履いていたら、ちょっとおかしいかも知れません。でも、そんなのかまわないくらいにはこの下駄というものは魅力的です。涼しくて、適度な重みがあって、それでいていつもと違う感覚が楽しい。

 私は西に傾く淡い色の太陽の光を見ながら、カラコロと下駄を鳴らして駅に向かいました。

 街のあちこちからは沢山の人が駅を目指してぞくぞくとやって来ていました。浴衣姿の格好の人もいれば、とてもおしゃれな洋服を着ている人。男女並んで歩くカップルや、男友達数人だけではしゃぐ学生、中にはカメラマンらしきプロの人まで紛れています。

 まさにお祭り、と言った感じがしました。

 日中の嫌になるほどの暑さも少しずつ引き始め、普段は家に帰る時間にある場所を目指して街を歩くというのはいかにも夜の遊びに向かっているという感じがして妙に心がざわめきます。

 私は振り返りました。

 梨葆はまだいません。いたとしても、この街の混雑、見つけるのは容易ではないでしょう。

 私は駅の東口にあるモニュメントの前で梨葆を待ちました。事前にここで落ち会う約束をしていました。なにもデートじゃないのだからわざわざ別れ別れになって集合しなくても、と言ったのですが梨葆が聞かないので意向を汲んであげました。

 しばらくすると梨葆が現れました。

 私は不覚にも息を呑んでしまいました。

 梨葆はとっても美しく着飾っていました。髪はいつもと全く違う形に結っていますし、浴衣の色はあざやか、頬と唇にはつややかさがあり、薄くお化粧をしていました。甘い香水の匂いもしますし、私は梨葆の“本気ぶり”に気圧されてしまいました。

「……おまたせ」

 梨葆がぎこちなく声を掛けてきます。それで私は「ああ」とようやくのことで反応しました。

 今の梨葆、とってもきれいです。

「…………なにか言ってよ」

 梨葆が顔を赤くしてもそもそ言います。

 私は梨葆の頭の天辺から爪先までをまじまじとみて、そうして言いました。

「すごく、きれい。まるで梨葆じゃないみたい」

「どういう意味」

「あ、ごめん。そういうつもりじゃなくて」

「ふふっ」

 梨葆がくすりと笑います。それで私も笑いました。

 私たちは一緒になって電車に乗りました。車両の中は澄水澤すみずさわを目指す人でいっぱいです。みんないつもとは違う風体で、まったくおかしな時間に澄水澤を目指します。それがまた、これからお祭りが始まるんだというわくわくを引き起こさせます。

 駅に降りると、人がごった返していました。みるるとよく遊びに来る澄水澤市は元々人が多いのですが、今日は別格に歩行者が多いです。手を繋いでいないと、あっという間にはぐれてしまいそうです。

 私は梨葆の手を取ると、言いました。

「こうしてたほうが良いかもね。はぐれたら、そうそう落ち合えなさそう」

 梨葆は私に握られた手を見て、顔を真赤にします。

 それで私も何だか気恥ずかしくなってしまいました。そんな、恥ずかしいつもりでやったわけではないのですが。

 私達は人の流れに沿って歩きはじめました。

 梨葆も私も、澄水澤のお祭りに来るのはこれが初めてです。なので、どこらへんがお祭り会場なのかいまいち分かりません。なので取り敢えず人が向かっている場所を目指します。お祭りのちらしは今思えば私の家にあるにはあったのですが、それも梨葆がクシャクシャに丸めて、それを私が怒りに任せてゴミ箱に捨ててしまったので、詳しい情報は全く持ち合わせていません。

 梨葆は私に手を引かれながら言います。

「花火、もうはじまっちゃうかな」

「それはないんじゃない?」と私。「メインはお祭りみたいだし。花火はひょっとしたら、最後の方に打ち上げられるのかも」

「それじゃあ、最初は屋台を楽しむ?」

「うん。そうしてればそのうち、打ち上がるかも知れない」

 流れに身を任せていると、私達は川沿いの繁華街にやって来ました。

 街の路地と川沿いの土手にはありとあらゆる屋台が続き、オレンジと赤、青や黄色、様々の電飾が数多の色を輝かせていました。

 私の鼻に、屋台の食べ物の美味しそうな匂いが届きます。

 焼きそばにフライドポテト、綿菓子の砂糖の匂いに、イカの焼ける匂い。色物の食べ物の匂いまで漂っています。

 夜ご飯は食べてきていないので、急にお腹が空いてきました。

 梨葆も同じみたいです。私に手を引かれながら梨葆は前も見ずに横に展開されるお店の食べ物ばかりを眺めています。

 それで私は一旦立ち止まりました。

「なにか食べる?」

「え。いいの」

「なんでよ。だめなわけないじゃない」

 梨葆はもじもじとしながら言います。

「じゃあ、食べよ。梨葆、あっちでイカ焼き食べたい」

「はいはい、イカね。じゃあ、行こっか」

 土手を登った先の河川敷に、縁台の沢山並べられた休憩所のような場所がありました。そこで人々は腰を掛け、談笑したり、屋台の食べ物を食べたりしています。

 私達もその一つに座り、そこで屋台の様々の料理を食べました。食べ終わってしまったら再び屋台通りに躍り出て、また食べ物を買うのですが、途中に金魚すくいをしたり、射的をしたりして遊びます。

 梨葆は型抜きにはまってしまい、小学生の中に混じって食い入るようにしてやっているので、私は後ろでたこ焼きを食べたり、じゃがバターなどを食べたりして見守っていましたが、あまりにもずっと型抜きしているので、足とお腹が疲れてしまいました。

「梨葆。いつまでやってるの」

「あと一回。もう一回だけ」

「はぁ。一回だけね」

 ヨーヨーすくいなどもしました。私は黒いのを、梨葆はピンクのヨーヨーを取って、それをボヨボヨとやります。

 梨葆は終始、にこにこです。

「お姉ちゃん、あれやろ、あれ」

 梨葆が浴衣の袖を引っ張ります。私は「はいはい」といって、梨葆に手を引かれていきます。

 空は真っ暗になって、本格的な夏祭りの様相を呈してきました。

 人々は川沿いを伝って、どんどん下流の方へと向かいます。向かうに連れて、街は少しずつ建物が減っていき、都会らしさが薄まってきます。どうやら街の郊外へと向かっているようです。

 子どもたちが口々に「花火、花火」というので、私達はいよいよ花火が打ち上げられる時間が近づいているのだと分かりました。

「そろそろ始まるのかもね」と私。

 梨葆は頷きます。「行こ。早くしないと、場所なくなっちゃう」

 私達は下駄を鳴らして土手の屋台通りを歩きます。そうしていたら、突然空にぱっと光が上がり、大きな音がドンとなりました。

 手を握っていた梨葆がびくっと跳ねるのが分かって、私は噴き出しました。

「はじまっちゃった、はじまっちゃった」

 梨葆が慌てるので、私はたしなめ、土手を越えて河川敷の縁台の一つに座りました。

 再び花火があがります。人々はつられるようにして感嘆の声を上げます。

 梨葆は慌ただしげに縁台に座ると、花火を食い入るように見始めました。それで私は梨葆がすっかりと忘れたイカ焼きを勿体無いので食べます。

「ねえ、お姉ちゃん、すごいね」

 梨葆が子供っぽくはしゃぐので、私は笑って返しました。

「うん」

「お姉ちゃん、見てる?」

「見てるわ。ちゃんと」

 腰を下ろして鑑賞し始めてから数十分して、梨葆がトイレに行きたいと言うので、私達は席をたちました。

 無理もありません。ラムネやらかき氷やらを飲んだり食べたり、それはもう随分と楽しんでいましたので、そろそろとは思っていましたが、やっぱりでした。

 酷く混んでいるので、トイレを見つけるのに苦労しました。仮設トイレを見つけたのですが、梨葆は難色を示します。気持ちもわかりますし、なにより女子トイレは長蛇の列で、立っている間に大変なことになってしまいそうです。

 私達は街の方に入り、そこで適当な雑居ビルを見つけ、そこのトイレを借りました。

 随分川から離れてきましたので、雑居ビルの中はひどく空いていました。私達は三階の大手衣料量販店のそばにあったトイレに入りました。

 私は先に出てきたのですが、梨葆は浴衣の帯が解けたのかどうしたのか、なかなか出てきません。

 私はガラガラの店の前に置いてあったベンチに座って、ぼーっと待ちました。

 思えば随分歩いています。慣れない下駄に最初こそ楽しさを感じていましたが、疲れが出始めた今となるといつものサンダルや靴が恋しくなります。

 下駄を触って足をいたわっていたら、梨葆が出てきました。

「おまたせ」

「帯でも直してたの?」

「うん。ちょっと」

 私はベンチから立ちます。梨葆はそばの服屋を見て、ちょっと興味が惹かれたらしく、こんなことを言い始めます。

「ちょっと、服見てみたいかも」

「今?」

「あ、そうか」

 たしかに店内はガラガラで、店員さんが暇そうにして立っています。服を選ぶには最高かも知れませんが、せっかく来ているのですから外で楽しみたいです。

 なんて、いつの間にか私のほうがお祭りを楽しんでいるみたいです。

 外に出ると、やたらに辺りの人が声を上げています。それと一緒に、空からの炸裂音が凄まじく轟きます。

 私は音の方を向きました。ビルでよく見えないのですが、黄色い光が、ぱっ、ぱっと小刻みに光っているのが見えます。

 花火がいよいよのクライマックスを迎えているのかも知れません。

 私と梨葆は早足で広い場所を目指しました。ここは街中で、花火のロケーションが悪いです。トイレを探すのに結構手間取っていましたから、その間打ち上がっていた花火は音こそ聞こえますが見られないというもどかしさを感じて歩いていました。

 やっと用がすんだ今、今度こそしっかりと花火を見たいです。

 十数分歩いて、私達はやっとのことで元の河川敷にたどり着きました。

 人々は歩を止め、空ばかりを眺めています。

 花火が凄まじい音を立てて炸裂しています。そのあまりにもの激しさに、みんな歩くのを止め、ついつい上空を眺めてしまっているのです。

 空を度々見上げながら、私達は縁台の一つに座れました。やっと落ち着いて見られる。そう思って暫く座ってみていたのですが、最後にとても、とても大きな花火が上がってからそれっきり、花火は上がらなくなってしまいました。

 梨葆は次が打ち上げられるかどうか、食い入るようにして眺めています。空はしんとしています。人々の花火に対する様々な感想の声があちこちに漏れています。そんな感じでしばらくがやがやとしていたのですが、やがて空にフラッシュのような花火が上がり、先程の花火たちとは質の違う高い炸裂音を響かせました。

 あれは打ち上げ終了の合図です。それで私は、ああ、終わってしまったんだと思いました。

「今の何? 花火、終わりなの?」

 梨葆が私に寂しそうな顔をして聞いてきます。

 私は頷きました。

「あれは終わりの合図。もう終わっちゃったみたい」

 梨葆は再び花火の上がっていた方向の空を見上げます。それでしばらくそうしていましたが、やがて顔を下ろし、自分の下駄の履いた足を絡ませたりほどいたりし始めました。

 少し落ち込んでいるようでした。

「花火、最後凄かったね」

 私がそう声をかけると、梨葆は顔を上げて言います。

「あまり、見られなかった」

「仕方ないわ。混んでいたし、途中トイレにも行ったし」

 梨葆は俯きます。自分がトイレに行きたいと言い出したのを、後悔しているようでした。

 私は急に“引き”があたりを包み始めた会場に、段々と熱が冷めていくのを感じました。

 周りの人たちは口々に最後の打ち上げラッシュの感想を述べ、それが花火の終わりを実感させました。それと同時に、メインイベントだった花火が終わり、段々と帰宅の途につき始める人々を見て、私もそろそろ帰らなきゃ、なんていう感覚に陥り、楽しかった時間が過ぎ去ってしまった、そんな寂しさが私の心に広がりました。

 梨葆は俯きっぱなしで、中々立とうとしません。

 私はそっと声を掛けます。

「梨葆」

 隣の縁台に座っている人達が立ち上がります。彼らがすっと私達のそばを通り過ぎたあたりで、梨葆は言います。

「花火、終わっちゃった」

「そうね」

「…………ごめんなさい」

「なにが? 梨葆はなんにも悪いことなんかしてない」

「でも、梨葆がトイレ行きたいって言ったから」

「そんなの仕方がないわ。気にしなくてもいいんだから。それに途中まではしっかりと見れたし。さ、帰りましょう」

 私は梨葆の手を取って立たせ、そのまま連れて行くようにして歩きました。

 梨葆はもうすっかりと意気消沈してしまっていました。なんだか花火大会の後に泣いてしまう子供みたいで、困るやら少し愛おしいやら。

 駅を目指す流れに乗りながら、私は梨葆の手を引きました。カラコロと鳴る下駄の音は出かけてきた時とは違って、もうその役目を終えようとしている哀愁に満ちているような、そんな印象に変わっていました。屋台の声掛けもめっきり減り、たまに最後のかき入れを行っているお店もありますが、既にそれは場違いな気さえして、いよいよお祭りが終わったと、そう感じました。

 駅に着いて、LEDライトの白い眩しさに目をぱちくりとさせながら、私達はホームに入ります。

 スーツ姿のサラリーマンや、ポップな格好のスマホを見てうつむく青年、浴衣姿の女の子たち、黒い喪服に身を包んだ家族連れ。眠たそうに椅子に座っているお年寄り。駅の中は様々の人で溢れています。いずれの人もみんな家を目指しています。私達は家に帰ります。

 見慣れたみね駅に着くと、そこはもう地元でした。

 駅を数個しか離れていない土地なのに、そこはもう空気が違う気がしました。

 いつも嗅ぐ空気。見慣れた建物。よく歩く歩道。覚えきってしまった看板たち。

 梨葆は終始、静かでした。私の問いかけにも短く答えるだけで、あまり長く話そうとはしません。そんな梨葆に無理に話題を振るのも悪いと思って、私はそのうち声をかけるのを止めました。

 街を抜け、橋を渡り、住宅街に入って、遠くの犬の吠える声や、時折走る車のエンジン音に耳を傾けながら、私達はぽつぽつと続く外灯の暗い道を歩き、やがて着きました。我が家に。

 点けっぱなしで行った玄関灯の元で、私は下駄のひもに指を通しながら戸を開けます。随分歩いたせいで、少し足が痛くなってしまいました。梨葆も後からとぼとぼと玄関に入ります。下駄を脱ぎ、巾着袋を置き、そうしてリビングへと向かいます。

 電気をつけたリビングはいつもどおりでした。

 日常の中の日常。常の中の常。面白いところなんて一つもありません。いつもの匂い。家に帰ってきた、というそのままの光景です。

 私は何だか、こんなに凝った非日常の格好をして立っているのに急に違和感を感じてしまいました。

 早く脱いで、お風呂に入って寝よう。そう思いました。

「梨葆、楽しかった?」

 私が水を注いだコップを渡すと、梨葆はそれを受け取って「うん」と小さく返事しました。「楽しかった」

「でも、今は寂しそう」

「だって……」と梨葆。「何だか、あっけなく終わっちゃって。お姉ちゃんとも、まだあまり話せてない」

「そう?」

 私は話し足りないなどという感覚はありませんでした。むしろたくさん歩き回って、たくさんのものを買って食べて、話して、それで十分のように感じました。

 梨葆は浴衣の帯をいきなり解き始め、脱衣所に向かって行ってしまいました。

 何故、梨葆はあんなに落ち込んでいるのでしょう。私からしたら、それは確かに最後の花火はあっけなかった感が拭えないですが、しかしそれにしたって全く見ていないわけでもないし、すこし拍子抜けしたのはありましたがそれでも十分楽しかったです。塾のテストに行っていたら、それこそ味わえなかった久しぶりの感覚です。

 でも梨葆は、なんだかしょぼくれていて、不満足そうで、寂しそうでした。

 私も浴衣を脱ぎました。脱いで、身体の汗を拭き取りました。梨葆がお風呂から上がってきたので、次に私が入り、上がり、寝間着に着替えて自室に戻りました。

 梨葆は私のクッションに抱きついて、膨れていました。

 一体何が不満なんでしょう。私は本当に分からなくて、首を傾げるしかありません。

 私は訊いてみました。

「さっきからどうしたの? 寂しそうだったり、ふくれていたり」

「別に……」と梨葆。「終わっちゃったから、つまらないだけ」

「それにしたって随分とご機嫌斜めな気がするんだけど」

 私がベッドに腰掛けるのを見届けると、梨葆は言いました。

「だって、もう、夏休み、終わりなんだよ。明日と明後日と明々後日と過ごしたら、それで梨葆の夏休みは、おしまい」

「それは確かに、そうだけど」

「…………こんなのやだ。もっと夏休み、したい」

 そんな小学生みたいなことを言われても。

 梨葆は確か、夏休みの課題は全部終わらせていたはずですし、学校に行くのも特に嫌がっている様子はなかったし、どちらかというと私のほうが夏休みが終わってほしくありません。

 またスケッチブックを持って、ぶらぶらとする生活が始まるのかと思うと、それが自分でしていることなのに嫌な気持ちになります。

 亜里紗もまたきっと私を咎めますし。

 そういえば亜里紗は、夏の間はとても静かでした。私が学校に行く行かないの問題がないと、随分とおとなしいものです。

 今日だって亜里紗は黙ってアルバイトに行ったらしいです。みるるもアルバイトがあったらしく、花火大会については特に何も言ってきませんでした。

 私は梨葆との夏休みの日々を思い返しました。

 ちょっと驚くこともありましたが、概ね楽しかったです。

 今はただ、梨葆との夏休みが終わるというのに、あっという間だった二人きりの生活に、多少の物悲しさと、また日常に戻るという悟りに似た落ち着きが私を包みます。

 梨葆は暫く座布団の上でむっつりしていましたが、やがてベッドの布団の中に入りました。今日は梨葆がベッドを使う日です。

「寝る?」

「…………うん」

 私は部屋の電気を消しました。

 辺りがふっと静けさに包まれました。

 少しずつ部屋の輪郭が見えるようになってきて、しかし見ても仕方ない、寝るのだからと思い、そっと目を閉じました。

 私の頭のなかにはまだ、お祭りの喧騒が響いていました。

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