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CANVAS  作者: 一歳真誉
高校二年の年
10/12

風邪

 夢を見ました。

 梨葆りほが私の部屋の中に入って来て、仲直りする夢。

 夢の中で私は梨葆と妙にリアルな駆け引きをして、変にどきどきとして、胸が後悔と安堵に苦しくなって、気づいたら朝日に薄く浮かび上がる自室の天井を見ていました。

 私は身を起こします。

 仲直りした梨葆はどこにも居ませんでした。

 あれはただの夢。現実に起こったことではない。

 だけど私の頭はまだ夢の内容を引きずっていて。

 現実と夢想の区別が曖昧になっていました。

 落胆しながらリビングに降りると、やっぱり梨葆は居ませんでした。

 朝食を摂った形跡もありません。

 私はため息をついて、料理を作りました。

 作って、食べて、それでお風呂に入りました。昨日入れなかったので、身体に不快感があります。

 脱衣所で体を拭いていると、廊下からトイレの水の流れる音がしました。

 梨葆は一応、居るようです。

 尤もそれは1ミリも物事の進展をしていない現実の梨葆ですが。

 取り敢えず梨葆が朝一番に出て行ってしまった、なんてことは起きてなくてひとまず安心したのですが、しかし手放しで喜ぶこともできなさそうです。

 これから梨葆とどう接すれば良いのか、皆目見当つかないので。

「梨葆」

 私は半ば賭けで廊下から梨葆を呼びました。

 どう転ぶかなんて、考えていても分かりません。

 行動してから考えればいいと思いました。

 何と言われてもとにかく会話すらできない今よりはマシです。

 脱衣所から大声で呼んだのですが、反応はありません。

 暫く待ちましたが、特に来るでも、何と返事するわけでもなく、そのまま襖の閉まる音が聞こえました。

 私は自室から持ってきた服に袖を通しながら、梨葆の居る客間に行きました。

 襖の前に立ち、声を掛けます。

「梨葆。居るんでしょ」

 返事はありません。無視しているのでしょうか。

 私は無難な声掛けをしました。

「梨葆。この間はごめんなさい。余裕なくて、それでちょっときつく当たっちゃったの。もう怒ってないから、顔を出して」

 一瞬ごそごそする音が聞こえましたが、それ以降は無音になります。

 しんとしているので、私はそっと襖を開けました。

 梨葆は布団を頭からかぶって、閉じこもっていました。

 部屋の中は思いの外こざっぱりしています。

 大小のバッグと、畳まれた寝間着と、スマートフォン、あとは部屋の真ん中に丸まった白い布団だけ。

 もっと散らかっているのを想像していましたが、わりかし綺麗でした。

 私は布団の上から梨葆を揺さぶります。

「起きてるの?」

 梨葆が布団の中で腕を払います。

 それで私は手を引っ込めました。

「ごはん、どうしてるの」

「…………買ってきて食べてる」

「せっかく梨葆の分も作ってあげてるのに、どうして食べてくれないの」

「…………だって」

 梨葆は返事というか、私への反応に困っているようでした。

 顔を出すにも出すのが恥ずかしいし、かといって今までのように自然と話せる状況でも、喧嘩と昨晩を加味したらありません。

 どうしてって、そりゃああんな喧嘩をしたわけですけれども。

 こうさせてしまったのは全部私の責任です。

 だから、仲直りのきっかけを作るのも私の責務ですよね。

「梨葆。今日は二人で、お菓子のお店にでも行きましょうよ」

 梨葆がもぞっと動きます。

「昨日は何も言わずに外出してごめんなさい。でも、別に梨葆が嫌いになったとか、もう会いたくないとか、そういうわけじゃないから出てきて」

 怒り心頭だった時はちょっとは考えましたが、それも今ではただの一時の切れ気味な発想。

 梨葆はもぞもぞと動くと、やがて布団から少し顔を出しました。

 その顔は不自然に真っ赤でした。

「…………ほんと?」

「本当。…………ねえ、なんか、顔、変に赤くない?」

「…………風邪ひいたみたい」


 私はキッチンの一番下の棚を、しゃがみながら吟味していました。

 後ろには布団にくるまりながら、真っ赤な顔をして立つぼさぼさ髪の梨葆がいます。

 今日は雨です。いつもよりは涼しいですが、しかし布団にくるまるというのは不自然です。私は粉末タイプの水分補給飲料を探し、それをやっとの事で見つけ、水に溶かし、梨葆に飲ませました。

「変に薄い格好で寝たりした?」

 梨葆は赤い顔を更に赤くさせながら、ばつの悪そうな顔をしてもごもご言います。

「……下着姿で寝た」

 笑いそうになりましたが、ここで笑うとせっかく出てきた梨葆がまた籠りそうなので懸命にこらえます。

「きちんと服を着て寝ないと。夏だろうと下手をしたら風邪をひくんだから」

「…………わかってるよ」

 梨葆は反抗期の中学生みたいな(中学生ですが)口調で煩わしそうに返事します。

 私はソファに寝るよう促し、その間に熱を冷やすためのタオルやおかゆ等の準備をしました。

 私はリビングで伏せっている梨葆をキッチンから眺めながら、昨晩のことや今日見た夢のこと、そして今までの梨葆の行動や言動を思い返していました。

 あの時の寂しそうな泣き声を思い出していると、私はリビングから呼ばれました。

「お姉ちゃん」

「なに?」

「……お風呂入れて」

 私は風呂桶と濡れタオルを持って、梨葆の隣に座りました。

 梨葆は布団の中からじとっとした目でこちらを見てきます。

「なに、それ」

「なにって、タオルだけど」

「お風呂、普通に入れてくれるんじゃないの」

「病人が暑い湯船に入るの? それってまずくない?」

「じゃあ、どうするの」

「これで拭く」

 梨葆は顔を赤くすると、今のはナシと言わんばかりの仕草で取り消しました。

「やっぱいい。それよりも、お姉ちゃんのクッション、ここに持ってきて」

 私は言われたとおりに客間から抱き枕を持ってきました。

 梨葆はそれを愛おしそうに抱きます。

 何だかいいように使われているような。

 まあ、構わないんですけど。


 梨葆にお粥を食べさせた後、私は家を出ました。

 外は雨でしたが、しかしこのまま家にあるものだけで梨葆を適当に処置しておくのは気が引けました。

 うちはそういったものを想定していない節があり、ものは少ないのです。

 解熱剤はないし、おでこに貼るあのひんやりシートもありません。買わないと。

 傘を差して最寄りのドラッグストアに行き、そこで薬剤師さんに軽く相談して風邪薬を選び、あとは解熱シートや水分補給の類、風邪気味でも食べられそうな食材、梨葆の好きなもの等を買って家に戻りました。

「おかえり」

 梨葆が弱々しい声で挨拶します。

 私は「ただいま」と返しました。

 梨葆が分かりやすく弱っています。

 少し家を出ていたせいか、ちょっと素直になってました。

「薬買ってきたけど、これであまり改善しないようならお医者さんに行きましょう」

「やだよ」

「だめ。三日目か四日目には行くから」

「……はぁ」

 私は梨葆の代わりに塾に電話をして、暫く休む旨を伝えました。

 自分の塾も休むことにしました。

 やっぱり梨葆が泣いていたのが引っ掛かり、付きっきりで看病してやろうと思いました。

 私は一通り施せることを施してから、客間で横になる梨葆の傍に座り、見守ります。

 梨葆はずっと私が近くにいるのが恥ずかしいらしく、落ち着かない様子で布団から顔を出して言います。

「なんでいるの」

「なんでって、看病しようと思って」

「…………伝染るよ?」

「まだ夏休みだから、別に風邪をひいたってどうってことないからいい」

「あるよ」

「なんで?」

「だって」

 梨葆はもごもごと言います。

「もしお姉ちゃんが風邪を引いたら、梨葆が治っても一緒に花火大会行けない」

 噴き出してしまいました。

 梨葆はまだ、花火大会に私を連れて行くつもりのようです。

「まだ言ってるの? 仮に治っても、病み上がりでしょうから行かないわ。というか、テストだから行けないって言ったでしょう」

「やだいくの!」

 何だかいつもより輪をかけてわがままな気が……。

 どうやら梨葆は『お姉ちゃんは梨葆のお願いを拒否できる立場じゃない』という感じでお願いを無理やり聞き入れてもらう腹積もりのようです。

 実際に断りずらいのが困ったものです。

 ほんと、後先考えずに強い言葉を使うべきではないですね。

 口は禍の元とはよく言ったものです。

 この子は一度やるといったら大体やるまで聞かないので観念しました。

「分かった。治ったらね。でも少しでも調子が悪かったら、絶対に家に居てもらうから」

 おそらく当日になっても梨葆は風邪を引きずっているでしょう。

 でも梨葆は必ず治す決心をしたみたいでした。

 変に神妙な面持ちで、姿勢良く布団の中で横になっています。

 私はそれが可笑しくて、つい微笑みました。

「ごめんね、お姉ちゃん」

 唐突に梨葆が謝ってきたので、私は面食らいました。

「梨葆が謝るなんて珍しい」

「お姉ちゃんが訊かれたくないこと、無理にほじくろうとしたもん。梨葆だって謝るよ」

「いいの。あんなのは忘れましょう」

「でも、お姉ちゃんが怒鳴った時、梨葆、びっくりした。悪いことしたんだって、後から思った」

「あれは私が悪いもの。年甲斐もなく年下の梨葆に黙って、とか」

「お姉ちゃん怒ると、怖いんだね」

「そう?」

「うん。泣きそうになった」

「ごめんなさい」

 私は梨葆の解熱シートの貼ってあるおでこに手を当てると、そっと撫でました。

 梨葆は心地よさそうに目をつむります。

 泣きそうになった、だなんて。

 梨葆はあの時、泣いてたよ。


 翌日の二十五日。

 梨葆はまだ辛そうです。顔は赤いし、熱はあるし、鼻水も酷いです。

 私は歩き回ろうとする梨葆を客間に寝かせて大人しくさせます。

 梨葆はそれに文句を言います。

「ねえ、退屈」

「そんなこと言われても。あなたが風邪をひくのが悪い」

「……そういう言い方、ないと思う」

「ごめんなさい」

 安堵からか少し調子に乗ってしまいました。私の悪い癖です。

「…………ねえ、お姉ちゃんの部屋に移してよ」

「なんで?」

「何もないここより、幾分まし」

 私は布団を運んでやりました。

 梨葆は私の部屋に着くなり、急に落ち着いた顔をして、そのまま布団に入りました。

 大人しくしてくれるならそれで結構です。

 昼になると、梨葆は二階から降りてきました。

 私は注意しました。

「なに布団から出てるの。ちゃんと寝てないとだめ。お昼は持っていくって言ったのに」

「だって」

「今日は出かけないから、静かにしてなさい」

「…………おなかすいた」

「今から作る」

 私がキッチンで料理の準備をしていると、毛布にくるまったままの梨葆が突然、私にくっついてきました。

 くっついてきて、そのままぎゅっと私を抱きしめます。

 私は不覚にもどきどきとしました。

「料理中は危ないから、甘えるのはやめて」

「…………」

 梨葆は不機嫌そうな顔で私を見上げます。

 病気の間は心細いのは分かりますけど、でも火を扱う場所でくっつかれても危険なだけです。

 私はソファを指差すと言います。

「二階で一人なのが嫌なら、ソファでもいいから寝てなさい」

「…………」

 梨葆は黙って私の言う通りにしました。

 これだけ動き回れるなら、もう食べさせてあげる必要はなさそう。

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