自分
私は将来というものが分かりません。
高校二年生。いい加減そういうものを決め、目標にすえて生活しなければならないのに、私にはいつまで経っても夢が見えてきません。
私は絵が好きです。
好きあらば電柱、校舎、机、野花などを描いています。
これを仕事にすればいいと言う人がいるかもしれません。
でも、絵が描けるからって、どんな仕事に就けばいいのでしょうか。はたまた就くことが出来るのでしょうか。芸術の世界は厳しいと聞きます。絵が上手いのは当たり前で、そういう人は五万といる中で、一握りの人が生業にして食べていくそうです。
私はその、一握りになれるでしょうか。
分かりません。
そんな博打みたいな世界に、身一つ、腕一つで飛び込めるか。と聞かれると、私は首をぎこちなく横に振るでしょう。宙ぶらりんな、私みたいな覚悟のない人間が付け入れられる世界ではなさそうですし。
周りの人はみんな、将来を決めていますね。
どこに行きたいの、と訊けば、相手の子はとても明るい顔をして、どこどこに行きたい! と言います。
私は羨ましい。将来は? と訊かれて、楽しそうに即答出来る人はすごいです。
ある日、学校の先生から、お叱りを受けてしまいました。
面談とかなんだとか、そういうものがいい加減差し迫ってきます。時期が時期です、テーマはみな、将来何になりたいか。
私はこんな具合ですから、他人事みたいに分からないです、と答える他ない感じです。すると先生は、やっぱり、わざわざ時間を割いてまで一対一で訊いているのに、わからないですとか他人事みたいに言う生徒に、多少の苛立ちや、いえ、真面目な先生であればあるほど、そんなんじゃダメだ、という感情が、お節介者の性質として現れるのか、とにかく私は、結構叱られてしまいます。
私は謝ります。
ごめんなさい。でも、本当に分からないんです。
先生も、困ってしまうようです。
私はよく、ひょうひょうとしていると誤解されてしまうのですが、そういうつもりではないです。内心では、みんなの所謂“普通”と私は色々と乖離しているのではないか、と焦っています。
やはり、学校が一番、焦る場所といえるでしょう。
学校は混沌としています。何が正しいかも分からない中、みんなは有り、無しの二極で物事を分け、他人と自分とを比べ、優劣をつけ、自分より弱いと見たものは卑下します。どうしたことか皆、排他的で、謎の自信や焦りにも似た自己肯定を繰り返し、その過程の中で他人を攻撃します。
私はこれに違和感を持ちます。
将来に対する不安は大きいから、多少歪んだ形でも自己を保っていないと、やりきれないのかもしれませんね。でも、だからって他を攻撃していい理由にはならないと、私は考えます。
などと思っていたからかどうかは知りませんが、私は結構、他の生徒から攻撃を受けるようになりました。
曰く、生意気だそうです。
迎合してこないのが、斜に構えているみたいで、気に入らないそうです。
クール気取ってんじゃねえよ。
気取る、というのがそもそも分かりません。
みんな何故、気取るのでしょうか。
ありのままではよくありませんか?
前に二度、それを面と向かって言ってしまった事があります。
一つは休み時間に(今思えば、これが不特定多数に対する宣戦布告となってしまったのでしょう)。そしてもう一つは、帰宅の途中、いじめられているらしい同校の中学生をかばったときにです。
このいじめられていた子というのは、私がこの街に越してきてから、わりと早い段階で身近に感じていた生徒です。というのも、その子は私の家の、斜め向かいのご近所さんだったのです。
まず、私がこの街に越してきた経緯をお話しましょう。
私は以前は農村部の祖父母の家に、両親共々、暮らしていたのですが、私が中学校に進学すること、それによって変化する様々なニーズに合わせていきたいということで、両親は沿線沿いのこの街に、新居を建てました。
もともと両親は、新居が欲しかったのです。それと相まって、娘の高校入試及び入学後を見据えた環境づくり、そして自らの通勤の便が劇的に良くなるということもあって、引っ越しを決めたようです。おかげで私は街の中を一人で行動できるようになり、それに合わせて両親も、送迎や、有給を取っての娘の面倒を見るという、仕事においては少し窮屈な問題を取り除くことが出来たのです。都会は便利で素晴らしいところですね。
さて、そんな中、ご近所さんが出来ることになります。
といっても、私はこんな性格ですから、特別仲が良くなったわけでも、仲良くしようともした訳ではないです。ああ、お向かいに私と年端の近い子がいるんだな、と思っていた程度でした。
が、その子がいじめられているのを見たら、なんだかむかむかして、庇いました。
彼女は、私と彼女の自宅近くでいじめられていたのです。
当時、私は中学二年生。反抗期真っ盛りで、異様にむかむかとしていました。
その近所の子は、中学一年生。その子もその子で、私のように、いえ、私のほうが、無関心をベースにしたある意味、無味無臭の存在と呼べそうですが、その子はまさにつっけんどん、気に入らないことはNOを即答、興味ないことはきっぱりとイヤ。そんな子なので、敵は多かったのでしょう。いじめられてしまっていました。
私はその光景を見た時、頭にかっと血が上りました。
話したことは一度もなかったとは言え、よく見かける近所の子には、親しみを覚えていたのです。それに合わせ、またあの、よく見るいかにもな人たちが、その子をいじめているのを見て、私はつい、普段から思っている鬱憤みたいな感情も織り交ぜて、その人達にぶつけてしまいました。
あり得るとか、ありえないとか、うざいとか、生意気だとか。
そんなのは、もううんざり。
私もこの子もきっと、この人達とは反りが合わないから、自然と中に入らないだけです。
それを生意気だとか、斜に構えているとか、気取っているとか。
そうではないと、ここに断言しておきます。
私は単純に、この人達と自分は性質が違うから、合わないだろうなと思って、一緒にならないだけです。別にノリの良い人たちを見下しているとか、バカみたいとか思ったことはありません。むしろ賑やかでいられるのは、羨ましいです。
それを前述のように言われたら、それはそれで、やっぱり腹が立ちます。私はこういう一方的な期待と、それを裏切られたから攻撃するような人は好みません。それはただ、遊ぼとか、貸してと言ったら断られて逆上する幼子と対して変わらない気がします。
ただ、もとを正せば一緒に遊びたいと思っていた感情が根幹にあった、ということかも知れませんから、少し残念です。また、私ももう明確にそういう人たちに対して敵対心の感情を持ち合わせていましたから、同じ土俵です。
とはいえ向こうからの突然の攻撃は、我慢ならないのでした。
話を戻しますが、私はその近所の子を庇いました。同じ学校のよしみでもありますし、入学したてのご近所さんです。ほうっておくのは後味が悪い。
私はなんとか、彼らを追い払えました。うぜえとか、いきなりなんだとか、くそみそに言われましたが、まあ、それも最もです。いきなり「そういうのはうんざり」とか、言われたら、誰だって困惑します。
どつかれ、尻餅をついていたその子、杜城亜里紗さんは、もごもごと言いました。
「別に、助けてなんて言ってないもん」
「私も同じ。助けようだなんて、最初は思ってなかった」
亜里紗はむくれて言います。「じゃあ、なんで」
「さあ。ただひとつ言えることは、たまたまいらいらしていて、それでいてさっきの光景にむかっ腹が立ったから」
亜里紗はぽかんとしていました。
思えばこれが、私と彼女の初めての会話です。お互い(だと思うのですが)気になってはいたご近所さん。私も彼女も、素直な性格ではないので、よっ、はじめまして、といって直ぐに関係は持てなかった。でも今、こうして初めて、お互いに関係を持てるきっかけみたいなものが生まれました。私はちょっと、嬉しかったです。
「大丈夫?」
私は尻餅をつく亜里紗に手を貸し、起こしました。亜里紗は私の手を握って、よいしょと起き上がります。
「怪我は?」
「……ない」
「そう。よかった」
私は家に入ろうとしたのですが、呼び止められました。
「ねえ!」
「なに?」
「あんたの名前、なんていうの」
「紫路馬だけど」
「ちがう。名字じゃなくて、下の名前」
うっかりしてました。紫路馬という名前くらい、もう知っているはずなんです。だって相手は、ご近所さんなんだもの。ネームプレートを見れば分かります。
「みなも。紫路馬みなも」
その日はそう言って、さっさと家に入ってしまったのですが、あとから彼女に、彼女の名前を教えてもらいました。
杜城亜里紗。
ちょっと無愛想で、つんとしていて、とっつきにくい女の子。
私とちょっと、似ているかもしれません。
だからかどうかは分かりませんが、彼女はその日以来、何かと私に絡んでくるようになりました。
朝起きて、家の門を出たら、亜里紗がいました。
「学校行こ」
ええ、まあ、それはいいのですが。同じ学校ですし、同じ通学路ですし。
でも、わざわざ朝から門の前で待っていなくとも、良いと思うのですが。
彼女はおしゃれでした。流行りのなんとかは一通り網羅しているし、持っています。髪型もアイドルみたいで可愛いですし、話題も今時のものばかりです。
大して私は、身なりこそきちんと整えてますが(祖母がそういうものに厳しかったのです)、最近の話題は皆無。言えたとしても、国営放送で見る外交問題とかそういう味気ないものばかりしか言えません。
亜里紗は最初、そんな私が信じられなかったようです。
「えー? 知らないの? アルマジロテクニック!」
「知らないわ。なに、そのアルマジロピクニック」
「アルマジロピクニックじゃなくて、アルマジロテクニック!」
やはり私は、ずれているようです。聞いたこともありません。アルマジロコズミックなんて。
「あんたって、本当に何も知らないの? レイズとか、ミラクルとか」
「知らないわ。聞いてもただの、単語としての意味しか思い浮かばない」
「うっそお」
「嘘じゃないわ」
こんな感じで、彼女の話す話題の九割が理解不能だったのですが、不思議と彼女は、そんなつまらない私から離れては行かなかったです。
街中で、こんな会話をしたことがあります。
「気になることがあるのだけど」相変わらず付いてくる亜里紗に、私は言います。「私、一応あなたの、一学年上よね」
「え?」
「先輩ということに、なるわね」
「あ、そうね」
「普通、こういう時はみなも先輩って、言うんじゃないかしら」
「やだ。あんたはあんただし。普通だから何? 合わせる必要、ある?」
「ない」
奇妙な関係でした。
お互い無愛想なのに、妙に合い、それでいて会話も苦ではないのでした。
さて。時は過ぎ、私は高校生になりました。亜里紗は中学三年生です。
彼女は必死に、私に訊いてきました。
その日は確か、私の自室にいつの間にか亜里紗が、押しかけていた日だと思います。
「ねえ、幟山高校の入試って、難しい?」
「別に。近いからという理由で入った私には、特になんとも」
「とかいって、頭いいんじゃないの?」
「まあ、そうかも知れない」
「なにそれ。感じわる」
「入るの? 幟山に」
「ち…………近いからね。近い高校って、魅力あるもん」
「そう」
「そう、じゃなくて。問題、教えてよ。落ちたらおしまいなんだから」
「落ちたら、第二希望の高校に行けばいいわ」
「だからそういうんじゃないの! 入りたいの、幟山に! ぜったい!」
私は亜里紗に、高校入試の指南をしました。驚くべきことに、彼女は中学二年の途中からの勉強がさっぱりで、そこから教え直す羽目になりました。
まあ、いくら遅くなっても、家がすぐそこなので、問題はないのですが。
私の甲斐あってか、亜里紗は無事、幟山高校に入学を果たせました。
入学当日、誇らしげにドヤ顔(最近覚えた単語です)して立つ、幟山高校の制服姿の亜里紗を、私は微笑ましい感情とともに覚えています。
大分逸れてしまいました。亜里紗のことはひとまず、置いておくことにしましょう。
将来のない自分。
爪弾きにされる自分。
学校というものがいかに難しいかは、前述に書いた通りですが、そんな感じで、私にとって学校は、まるで原因不明の腫れ物みたいなものになりつつありました。
その頃からでしょうか、私は次第に、学校を避けるようになってきたのです。
塾には行っているので勉強はなんとかなっていますが、単位と出席日数はいずれ、まずいことになるでしょう。
私の最近の日課はもっぱら絵です。
朝になると私は制服に着替えます。誰もいないリビングで朝食を摂り、バッグには今日の時間割に合わせたものを詰め込みます。
そうして行くのは、街の河川敷。カバンに忍ばせたスケッチブックを取り出し、私はそこで絵を描くのです。
自分でも馬鹿なことをしているのは分かっています。
どう考えたって、高校生が居ないこの時間に、一人制服姿で土手にすわって、絵を描いている。
間違いなくさぼりですし、駄目です。
普段は我慢して通っていますが、どうしても我慢ならない時は、こうしてさぼるのです。
ぼちぼちと学校に来なくなったせいか、私はまた一つ、異質の属性を身に着けてしまいました。
いわゆる、さぼりの紫路馬みなも。
みんなだって、学校にはそれほど積極的に通いたくはないのでしょう。誰もがさぼりたいと考えている中、私だけ学校に来ないため、風当たりが強くなってしまいました。
こればかりは仕方ありません。行かなければならない所に、作為的に行かないようにしているのですから。
所謂、不登校気味というやつですね。何かしら言われるのも無理はありません。
何も感じないわけではないです。私がけろりとしているように感じるかもしれませんが、みんなと違うと言われるのは、結構つらいです。面と向かって悪口を言われると、結構堪えます。それが自分に非のあることであれなかれ、攻撃というものは傷つきます。
取り敢えず登校して、出席日数と単位は確保します。だけれど、必要最低限を取ったら、すぐに早退します。丸一日休むよりは早退のほうが圧倒的に良いのです。何日か頑張って一日参加して、日数と単位を稼いだら、今度は一気に休むと、こんな感じ。
塾と絵を描く時だけは、安心しました。
塾は遅れたみんなとの間を埋められる貴重な時間。絵は昔から大好きで、心安らぐ大切な時間。
両親は私がこんな事をしているのを知りません。多忙な両親の目を盗んで不登校気味なのを、罪悪感を感じつつも、うまく誤魔化そうとしていました。
ただ一人、ごまかせない人が居たのですが。
ご近所さんの亜里紗です。
「ねえ。ねえ」
いきなり自室の戸を叩かれました。
時刻は夜の二十時ちょっと。亜里沙の声です。
何をしてるんでしょう。人の家に勝手に上がり込んで、部屋の戸を叩くなんて、いくらなんでも非常識では。せめてインターホンを押しましょう。ここからだと聞こえないかもしれませんけど。
「ちょっと。居るんでしょ!」
私は大好きな絵を描いていたのですが、しぶしぶ、部屋の戸を開けました。
亜里紗が転がり込んできました。
「なんで最近、学校来ないのっ」
いきなりこれです。
私は答えました。
「ちょっと、嫌だなって思えて」
「嫌? いじめられてるの?」
「まあ、風当たりは強いかな」
「誰よそれ! わたしがとっちめるから」
女の子が使う言葉ではありません。というか亜里紗、あなたはそんなに、戦闘力は高めではないはずです。
私は取り敢えず、押しかけてきてしまった亜里紗をなだめるため、麦茶を出しました。
んく、んくと飲み干す亜里紗。ぷはあと言って、亜里紗はグラスをローテーブルの上に置きます。
これで落ち着くと良いのだけれど。
「で、何の用。ひょっとして、心配してくれてるの?」
「ばっ、ばか! 心配なんかしてないから!」
では何故うちに来たのでしょう。
「帰ってくれる? 今、絵を描いてる最中なの」
「別にそんなの、誰が居たって描けるじゃん」
まあそうですが。追い払う理由にはちょっと、足りませんでした。
「もしかしたら、私の両親のどっちかが、帰ってくるかも」
「いいもん。わたしみなものお父さんお母さんとは仲いいから」
いつの間に。
人見知りの亜里紗なら結構効くと思ったのですが。
まあ、まともに話すようになってから数年経ちます。その間に何度かうちに泊まっていったり、遅くまで入り浸ったりと、その過程で私の両親とも顔を合わせていますし、そうなっていても何ら不思議はないです。
「ねえ、なんで学校、来ないの」
「別に。嫌だから行かないだけよ」
「嫌だからって行かなくていいの」
亜里紗にしては、至極真っ当な意見です。
「そうだけれど、でも、気乗りしない」
「我儘じゃん」
「そうかも」
私はもと座っていた机の前に着き、絵の続きを始めます。
亜里紗はローテーブルの前の座布団に女の子座りしたまま言います。
「ねえ、だれかにいじめられてるんでしょ」
「そうとも言えるし、そうとも言えないわ」
「助けるよ」
「いい」
「そいつら片付けないと、みなもは学校に行けないんでしょ?」
「そういうのでもないの」
「じゃあ何?」
「当たり前が出来ない、自分が分からないの」
亜里紗が黙ってしまいました。
しまった。余計なことを言うべきではなかった。
私は普段、亜里紗に適当なことを言って誤魔化しています。流してるとも言います。
でも今のは、ちょっと違う。
初めて亜里紗に、自分の弱みを軽く見せた一幕でした。
気取っていると言われる私は、実はただ単純に“分からない少女”だったのでした。
何も分からない、何も決められない、それでいて他人に余所余所しく、絵ばかり描いている。
我儘じゃない?
亜里紗の言うとおりです。
私は頑固で意固地で、それでいて絵にしか興味がないという、我儘です。亜里紗をいじめているような人たちを幼子に例えましたが、それを私に当てはめると、幼稚園が決めたお遊戯が気に入らないと言って、駄々をこねて教室を飛び出してしまう子が私なのでした。
困りました。
私は亜里紗に、論破されてしまった。
「学校行こうよ」
それだけは嫌。
学校に行くと、辛いのです。
どうすればいいのか分かりません。
分からない、は更なる理解不能の深淵へと運んでいきます。
もう、お手上げです。
「さ、今日はもう帰って。じき寝る時間でしょ」
「ちょ…………待ってよ。まだそんな時間じゃないでしょ」
「早く寝れば明日は辛くないわ。さあ、出て」
私は無理やり亜里紗を廊下に出しました。そうして、部屋の扉を閉めました。
亜里紗はしばらくムキーみたいな事を言っていましたが、それもやがて聞こえなくなりました。どうやら大人しく家を出ていったみたいです。
私は再び机の元へ行きました。
そこには、一枚の河原の絵がありました。
私がよく、絵を描いている場所です。
私がよく、逃げている場所です。
私はその絵を取って、ビリビリに破いてしまいました。