―偶然の決意―1
――仕方ないんだ。これは僕にはどうしようもないことなんだ。
良く言えば優しさ、悪く言えば気の弱さが顔立ちから滲み出たサラリーマン、久保忠はただ自分に言い聞かせていた。
確かに世の中には仕方のないことは山ほどある。しかし、久保にとって今はこれが一番嫌な仕方ないことだった。
――僕がサラリーマンである以上はこれに耐えていかないと立派な社会人にはなれないんだ。
そう自分を納得させるしかなかった。社会に出て二年目なのだが、久保は未だにこれには慣れなかった。
久保はまた、いつものように屈していた。満員電車という窮屈さに。
満員電車に揺られる度、自分に言い聞かせてきたが、この日ほどそれが嫌いになったことは今までなかった。
車での通勤という解決策もあるのだが、それは社会人二年目の久保にとって金銭面においても自分の首を苦しめるだけだった。いや、それ以前に久保は車の免許すら持っていない。
嫌気を通り越して、怒りさえ感じそうになる頃には目的の駅に着く。電車から降りると、久保はまず溜め息を優先させた。
――はぁ。仕事する前にこんなに疲れてたら、仕事になんないよなぁ…
久保は後ろ向きな思考を携えながら駅前に出ると、通勤や通学が重なる時間帯のせいか、駅前は学生や久保と同じサラリーマンで溢れていた。
久保は足を止め、それを一度見渡すと、自分に気合を入れて人混み紛れていった。
「お願いしまーす」
すぐにポケットティッシュを配る青年が視界に入ってきた。
――嫌だなぁ。
久保は青年よりもその行為に僅かな嫌悪感を受けた。
久保はその性格上、こういうことで断れた試しがなかった。いつも自分に手を伸ばされると、ついつい受け取ってしまう。
そのせいで、久保の部屋にはポケットティッシュの山が築かれていた。経済的な面で言えば、助かっていることに間違いないのだが。
「お願いしまーす」
青年は次々と通行人のもとに手を伸ばすが、受け取る人は殆どいなかった。
――今日こそ。今日こそは受け取らないぞ。
そして、久保の番。
「お願いしまーす」
――受け取るな。僕!
しかし、久保の思いも虚しく、伸ばされた青年の手からポケットティッシュを受け取ってしまった。
――あーあ。また受け取っちゃったよ。この調子だと、もう一つポケットティッシュの山が築けそうだ。
はっきりと断れなかった、いや、それどことか自然に受け取ってしまった自分に落ち込むと共に自嘲しながら、受け取ったポケットティッシュを右のポケットに突っ込んで会社へと向かった。
好きにはなれない仕事の中で久保には一つの楽しみがあった。
「さぁて、今日の昼飯は何にしようかな」
それは昼食だった。まるで、若いOLのようなささやかな楽しみだが、やる気を削がれる午後の仕事に向けてどうやる気を出すかはこの昼食に懸かっていた。
「昨日はカツ定食だったからなぁ…今日は魚にしようっと」
行きつけの定食屋は見た目こそ古ぼけているものの、味は確かな店だった。その為か、久保はこの店の味に惹かれ、すぐに常連となった。
暖簾をくぐり、中に足を運ぶ。店内にはカウンター席と向かい合って座れるテーブル席が五つ程あった。どれも木造りで、それはこの店の歴史を感じさせる。
昼頃ということもあってか、客は店の席を半分程埋めていた。しかし、若い女性などはいなく、いるのはどれも三十歳から四十歳過ぎぐらいの中年男性ばかりだ。
久保は迷わずカウンター席に腰を下ろすと、馴染みの顔がそれを出迎えた。
「いらっしゃい」
もくもくと休まることのない調理の手を動かす、無口で頑固が売りの店主が無表情で久保を一瞥した。
「すみませんねぇ。いつも愛想が悪くって」
頑固な店主を庇うように歩み寄ってきたのは注文の品を運び終えた、店主の妻だった。久保の顔を二人に覚えられているということは、久保がどれだけこの店に通っているかということを物語っていた。
「今日は何にします?」
店主の妻は尋ねながらも久保に水を差し出した。
「えっと、今日は焼き魚定食で。昨日はカツ食ったんで」
久保は聞かれてもいないことを付け足して、注文した。
「はいはい。焼き魚定食ね。あんた、焼き魚定食だって」
「はいよ」
頑固な店主が一言で返事をし、調理に取り掛かる。久保は料理が来るまでの間、水を飲みながら待っていた。
「そういえば、今日は娘さんはいないんですね」
「えぇ。なんだか、就職活動が忙しいみたいでね。店を手伝えとは言えないのよ。頑張ってるのに邪魔をするのもあの子に申し訳ないしねぇ」
「そうなんですか」
世間話をしながら待つこと数分。
「はい、お待ちどう様」
料理は待っていたということを忘れさせる程、すぐに運ばれてきた。この早さも久保が常連になった要因の一つだ。
「いただきます」
久保はまず焼き魚を口に運んだ。焼き魚は日によって変わり、今日のメニューは秋刀魚だった。そして、ご飯をかきこむ。
「うん。うまい!」
久保はその後も満足そうに食事を進めた。半分程食べ進めた時に久保は一口しか飲んでいない水を零してしまった。
「あっ、やべっ!」
久保は座ったまま、椅子を引いて水を避けようとする。しかし、既にズボンには多量の水が零れていた。
「何やってんだ」
それを横目で見ていた店主が呆れを吐き捨てた。
「すみません」
「ちょっと、大丈夫?」
店主の妻がおしぼりを持ってすぐに駆け付けた。店主の妻が久保のズボンを拭こうとする。
「あっ、いや、大丈夫です。ポケットティッシュ持ってるんで」
久保がそう言葉を返したのだが、店主の妻は構わずズボンを拭き始めた。
このまま見てる訳にもいかないので、右のポケットから今朝貰ったポケットティッシュを取り出し、久保もそれに参戦した。
「とりあえずはこれで大丈夫でしょ」
店主の妻が一通り拭き終えると、再び自分の仕事に戻っていった。水は拭き終ったのだが、ズボンは僅かに濡れていた。ここで乾かす訳にもいかないので、濡れていることに関しては諦め、久保は再び食事を始めようとする。
しかし、ポケットティッシュをしまおうとする久保の手が止まった。
――なんだろ?これ…
今朝は気にも留めなかったことなのだが、ポケットティッシュの裏に挟まれている広告用紙には不思議な、いや、この場所に挟むにはあまりに異様なことが書かれていた。
『宇宙旅行者大募集!!貴方も宇宙に行けば、人生が変わるかも!?』
ありきたりな決め台詞に久保は首を傾げた。その文章の下には更に文が続く。
『是非行ってみたいという方は、ここに連絡を』
決め台詞とは対照的に、冷静な文だった。更にその下には電話番号も書かれている。
久保は自然と興味が惹かれていた。しかし、それと同じくらいに疑問も感じていた。そして、つい言葉を漏らした。
「宇宙旅行?」