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9、波間

 食堂で、吉田としばらく話し込んでしまっていた天璃は、会社の門扉を出てたところで、目を見開く。


 「さっきのあれ、酷いじゃありませんか」

 菅が腰に手を当て、怒った仕草で目の前を立ちはだかる。

 実のところ、何を指してのこの態度なのか、天璃は図りきれずにいた。

 「いやあれは偶然。えっ?」

 そして、取り敢えず思いあたる節で言い訳をしようとする天璃の腕を取り、ぐいぐいと引っ張りだしたのだった。

 「まぁいいです。それより飲みに行きしょう。私、美味しい店、知っているんです。乳井室さん、海鮮料理、大丈夫ですか。こっちはいろいろ美味しいものが沢山あるんですよ」

 有無なしだった。

 路地裏にひっそりとした佇まいの小料理屋に案内された天璃は、菅と向き合い座る。

 美希とでさえ、二人っきりの空間を、時々重たく感じてしまうというのに、真正面でにこやかに話しかける菅に、どんな顔をしていいものやら、天璃は途方に暮れてしまう。

 鈴木女史ならまだしも、まったくの共通性のない相手と、何を話せって言うんだ。

 出会ってまだ二日目で、まともな会話をしたことがない女性である。

 暖簾をくぐって入って来た菅を見て、この店のおかみは、あらっと慣れ親しんだ笑みを振りまく。

 おそらく常連客なのだろう。

 料理のチョイスも手慣れたもので、決めかねている天璃に、軽い注釈を入れながら、せっちゃんお願い。と、仲居を呼び寄せる。

 菅に呼び寄せられた仲居も、あらいらっしゃい。今日はお一人じゃないんですね。と、にこやかに声を掛けながらやって来たのだ。

 まったくのアウェー気分の天璃は、ただただ、あっじゃあそれで。私も同じものでと、こんな感じでその場を何とか繕う。

 一通りの注文を終え、仲居が立ち上がった拍子に天璃の顔を見て、驚いたような表情を浮かべる。

 それを見逃さなかった天璃は、尋ねたのだった。

 「私の顔に、何かついていますか?」

 「いいえ。素敵な方だなと思いまして」

 つい、天璃はきょとんとしてしまう。

 「嫌だせっちゃん。惚れっぽいんだから。この人はダメよ。私の大事な方なんですからね」

 「えええ。それは残念」

 笑顔の会話ではあったが、天璃は怖いものを見せられたように、顔を硬直させる。


 こんな時なら、瑠璃のヤキモチ電話が掛かるのも良いと、ふと頭を過る。

 卒業宣言してから、一度もそういった類のメールも電話も寄こさなくなった。ホッとさせられる反面、やるせなさ半分、正直ある。

 それは決して、瑠璃には言えない話なのだが。

 余程、ぼんやりしてしまっていたのだろうか、菅がまたすねるように頬を膨らませてみせる。

 「もう乳井室さんたら、ああいうのがタイプなんですか?」

 はて、何のことだろうと、合点がいかない天璃に対し、菅が顔を近づけて来る。

 「あの人、篠原節子さんって言うんです。彼女、わけあって東京からこっちに逃げて来たらしいんです」

 「逃げてきた?」

 「はい。詳しいことは知りません。でも、気を付けてくださいね。あのひと見た目に寄らず、かなり強かですから」

 言われて初めて、天璃は先ほど去って行った仲居へと目をやる。

 違う男性客と楽げにしている姿がそこにはあった。

 「どうしてなんでしょうね。男はみんな、あんな感じのが好きなんですよね」

 笑顔ではあるが、言い方に少し棘がある菅に、天璃は苦笑で答える。

 「みんなって……、それはちょっと飛躍しすぎじゃ」

 「良いんです。分っているんです。私と彼女どちらかを選べって言われたら、大概の男は、あっちを選ぶ。乳井室さんだってそうでしょ? さっきから彼女が気になっているみたいだし」

 黒目がちなじっと見つめられてしまった天璃は、たじろぐ。

 その気がないと言っても、信じようとはしないのだ。むしろ煽ってしまっている傾向が見受けられる。このままでは拙い。どうしていいものやら、手を拱くしかないのだ。そもそもこの状況が、天璃にとって無理な相談なのだ。ここに下塚でもいたのなら、何とか会話も成立させられたのだろうが、生憎、三日間の滞在の後、下塚は東京へ呼び戻されてしまっていた。

 葬儀に出かけている間、仕事もせずに好き勝手に時間を使った下塚は、何を思ったか帰るその日に、ふらりと会社に立ち寄っていた。

 吉田の話によると、しばらく応接室で菅と話し込んでいたらしい。

 お茶も運ばなくていいって、どんな話をしていたやらと、吉田が不服そうに話していたのを思い出す。

 「あの菅さん、下塚とは何を話されていたんですか?」

 にわかに菅の表情が変わり、天璃は次なる言葉を探す。

 「何だと思います」

 含み笑いをする菅に、天璃は苦笑で首を傾げる。

 「実はですね」

 菅が天璃に顔を寄せ、話しだしたその時だった。

 さっきの仲居である、篠原節子が料理を運んで来たのだった。

 話の腰を折られ、再び菅は面白くない顔をする。 

 まったく間合いの悪いことに、料理を並べて行く仲居を見て、あっと小さな声を天璃は漏らす。

 その声に、菅は眉根を寄せ、半ば睨むように二人を見る。

 「もしかしてあの時の」

 天璃の言葉に仲居が、はい。とにっこりと答える。

 きっと、仲居は随分前からそれと知っていて、敢えて何も言わなかったのであろう。

 話の内容が見えない菅だけがイライラと、何なんですと、とげとげしく問い質す。

 「いや、ちょっと。その節は大変失礼しました。お怪我、ありませんでしたか?」

 「わたしこそすいませんでした。ぼんやりしていたもので、まったく気が付かなくって。ごゆっくりどうぞ」

 「乳井室さん、鼻の下」

 完璧に怒らしてしまったらしく、菅は黙々と酒を煽り、一言も話そうとはしないのだ。

 「で、さっきの話の続きなんですが、本当に何だったんです。あの下塚副社長です。周囲のものをシャットダウンしてまで、何を話していたのか気になるんです」

 不機嫌に酒を煽っていた菅の目が一瞬、輝く。

 「どうしてその事……。分かった。もう富美さんでしょう。あの人、本当にお喋りなんだから」

 少し、顔が和らいだのを見て、天璃はホッとなる。

 「乳井室さん、何も聞いていらっしゃらないの?」

 「何をですか?」

 菅が意味深な笑みを見せる。

 「教えてくださいよ」

 グラスを空にした菅が、嫌ですと頬を綻ばす。

 なんとかその場は繕えたが、かなりの疲労感である天璃は、帰る頃には頬骨筋がどうかしまったのではないかと思えるほど、痛くなっていた。

 

 もう一軒行こうと誘われたが、天璃はそれを丁重に断り、菅と別れる。


 一人になった天璃は、携帯に美希からのメールを見つけ、夜空を見上げる。


 複雑な気持ちはまだ残っていた。

 それを隠そうとしている自分が辛く、今でも逃げ出したい気分なのだ。

 二人の関係は周囲にはうやむやにしてある。

 菅と別れ間際、付き合っている女性がいるのかと尋ねられ、即座に答えらずにいた。

 情けない話である。

 真っ直ぐ部屋に戻る気になれなかった天璃は、ホテルのラウンジでグラスを傾けていた。

 カウンターの上で、小刻みに揺れる携帯に目をやる。

 美希からだった。

 仕事が今終ったという、報告メール。決して甘いものではない。そんなもの、二人の間では無関係のように、行き来されたことはない。瑠璃が聞いたら、それでも恋人同士なのって怒るであろう。比呂美に関しては首を振り、露骨に呆れられるに違いない。

 

 お疲れ。俺も今、寝るとこ。おやすみ。

 自分が打ったメールを見て、天璃は苦笑する。

 「嘘ばっか」

 独りごちり、強い酒を一気に喉へ流し込む。

 もう二人の着地点は見えているのだ。後は言うタイミングだけなのである。


 

 

  


 

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