8、千思万考
明るすぎる街に住んでいると、見失ってしまうものが沢山あると思う。
シャワーを浴び、天璃が待つベッドに潜りこむ。
望んで望んでやっと手に入れた関係。
重ねる唇。
すべて忘れたい。と、心から願う。
夢中で現実からの逃避行。空中分解してしまわぬよう、強く激しく抱き付く。一番深い場所で、あなたを感じられているように……。
朝の光が差し込む部屋で、天璃が着替えを済まし、ベッドで眠る美希に唇を重ねる。
「行って来る」
葬儀の片づけなど無用。と比呂美に言われ、天璃は思ったより下関に戻ることになった。美希も、夕刻には東京に戻らなければならない身。
名残惜しくて、しがみ付いてしまう。
いつだって不安が付き纏う。
そっと唇を寄せ、頭を撫でられても、どこか遠くに感じてしまう。そんなの分かり切っていたこと。覚悟して承知してそして強請ったその結果がこれなのだから、誰を責めるわけにもいかない。
だから消化できなくとも、ごくりと飲み込まなければならないのだ。
それが二人のルールなのだから……。
出て行ってしまう背中が、もう二度と戻って来ない気がして、美希はブランケットを顔まで引き上げ、声を殺し泣いてしまう。
そんなことを知らない天璃もまた、眩しすぎる日差しに一度目を細め、やるせない気持ちを抱えたまま、タクシー乗り場へと急ぐ。
矢張り、こんなのは間違っている。
誰も救われない。
決断をしなければならない……。そう思いに至っても、立ち切れない自分に苛立ちさえ覚える。
――そして、あけて翌日である。
何気なく開いた携帯に、目を落とす。
どこまでも陽気な瑠璃からのメールに、天璃は顔を曇らせるのだった。
面持を引き締めて、出社した天璃は、拍子抜けさせられてしまう。
さぞかし、嫌味を言われるものだと覚悟して出社したのだが、想像していた態度とは程遠いもので、それどころか、自責の念までつらつらと述べられ、どんな顔をしていものやら、ばつが悪さに、目の前の菅をまともに見ることができずにいる。
「本当に、もう顔を上げてください。私もあれからすごく反省したんですよ。あんな失礼なこと、いくらお酒が入っていたからって、よく言えたもんだって。ああ考えただけで顔か火が出そう。もっと他の言い方をするべきでした。焦りは禁物ですね。つい躍起になってしまって、周りを見失うというか……。とにかく本当にごめんなさい。これに懲りず、どうかひと月ですが、お力添え、お願いいたします」
もう返す言葉などない。ひたすら頭を下げ、いやいや、それは……、私の方こそ取り乱して、ご迷惑をおかけしました。などなど、返しては頭を掻き、返されてはまた頭を下げの繰り返しだった。
ひとしきりそんなやり取りを終え、菅は約束があると言って、外出して行く。
その潔さに、つい天璃は見とれてしまうほど、菅は颯爽としていた。
どうやら、天璃が問題視しなければならない相手は、別の方にあった。
ドッサっと、目の前に大量の資料を勢いよく置かれ、身をよじり見上げる。
岩淵の仕業である。
黒縁メガネの下の目が、少しも笑っていないのだ。
説明の口調も、どこか棘があるように思われる。
救いを求め、吉田の方へ目をやるが、彼女はわれ関せずといった構えで、伝票整理をしていた。
途端に不安が過る。
これほど、終業時間を待ち望んだことがあっただろうか。
居心地の悪さに、逃げ出すように席を立った天璃は、どっと疲れが出てしまっていた。
西日が差し込む廊下を渡っている時、フッと目に入った人影に天璃は、思わず足を止める。
ガラス越しに見える中庭のベンチで一人、物思いにふけっている菅の姿がそこにはあった。
視線にでも気が付いたのだろうか、菅はふっと顔を上げ、すぐに天璃に気付き、ニッコリ微笑みかけて来たのだった。
だが、タイミングが悪かった。
あとからやって来た吉田に声を掛けられ、そんな菅の姿を見ることなく、天璃は踵を返してしまっていた。




