6、小波
下関に着いた天璃は、出迎えた人物を見て、露骨に顔を顰めてみせる。
「テン、遅いじゃない」
「なんであなたがいるんです」
「なんでって、丁度いい機会だから、こちらの工場でも視察しようと思って」
釣竿を嬉しそうに持つ、下塚の言葉に説得力はなく、天璃はそのまま横をすり抜けて行く。
「テン、荷物、一つ持ってくれよ」
「嫌です」
「お前、そんな態度、取っていいと思っているのか。上司命令だ」
「いや、今日はまだ日曜なのでオフです。明日、また言って下さい」
「そう言わず」
くだらない言い争いをしていて、後から歩いて来た女性に気が付かずにいた。
下塚に強引に荷物を持たされそうになり、身をかわした拍子だった。
後退りを急にされ、よけ切れずよろめいてしまった女性に、天璃はすかさず手を差し伸べる。
目を見開き、天璃の顔をじっと見つめる女性に、何の変哲ももたない天璃はすぐに、下塚に呼ばれて行ってしまう。
しかし女性はそうではなかった。
二人が乗ったタクシーが走り去った方を、しばしの間、呆然と立ち尽くし見詰めていたのだった。
翌日、そんな出来事があったことなど、すっかり記憶の彼方に追いやってしまった天璃は、にこやかに出迎えられる。
社長の知り合いと訊かされていた天璃は、さぞかし、年老いた社長に出迎えられるのだろうと思い込んでいたが、意表をつく相手に、顔を引きつらせての初顔合わせである。
「菅芽衣子と申します」
差し出された名刺を眺めながら、間の抜けた返事をしている天璃を隣に居た下塚が突っつく。
これでどうして下塚が遠路はるばる、頼まれもしないのにやって来たのか、その理由が分かった気がする。
ぽっちゃり顔で、とても三十歳を過ぎているとは思えない、あどけなさを残した笑顔に、下塚の顔がだらしなくなる。
「こちらは、初めてですか」
綺麗な標準語で話され、感心した下塚が抜け目なくそれを称える。
もともとは東京暮らしをしていた。と菅が笑窪を作り微笑む。
それに対し、下塚が大袈裟なくらいに頷く。
さらりと長い髪を掻き上げ、こちらです。と案内する菅を見て、すっかり鼻の下を伸ばした下塚が、くだらない質問をするのを、天璃は苦笑しつつ、少しは黙っていろよと腹の中で舌打つ。
それにしてもと、改めて天璃は菅に感心させられてしまう。
いささかも嫌な顔をせず、半ば酔っ払い客がホステスにするような質問にさえ、きちんとした言葉使いで対応している姿は、脱帽である。自社の女子たちにさえ、敬遠がちな親父ギャグにも、わずかな笑みを含め応えているのだ。これでは下塚は一溜りもない。
この工場の持ち主である岸田とは親戚同士で、跡継ぎが恵まれなかった夫妻が、丁度仕事を辞めてしまったばかりの菅を呼び寄せたという。
遅れがちに歩く天璃の方を振り返り、菅は小首を傾げ微笑む。
「少し、歩くの早すぎますか?」
そう聞かれ、慌てて天璃は二人の歩調に合わせ、並び歩く。
比呂美とはまた違う、きりっとした美しさを持つ女性というのが、天璃の第一印象だった。
もともとは、キャビンアテンダントをしていたと聞かされ、頷けた。
三人は、渡り廊下に差し掛かっていた。
元々一つの工場を建て増しして、事務棟と製造棟と二手に別れさせていると、菅の説明を聞きながら、天璃はガラス張りされた壁へ目を向ける。
中庭なのだろうか。木々の隙間から、ベンチが一つ置かれ、その奥には、青く塗られた扉が見えている。
「あれ、天使の椅子って言われているんです」
思いがけない菅の言葉に、さすがの下塚も苦笑いで、天使ですかと訊き返す。
「はい。従業員の間で語られているジンクスがあるんです。詳しい内容は、実は私も知らされていないんですけどね。あらいけない。だいぶ話がそれてしまいましたわね。こんな話、男性の方には、興味がないですわね。大変失礼しました」
肩を竦め、菅はもう一度見下ろしてから、乳井室さんに働いていただきたいのはこちらになります。と、事務棟へ通ずる扉を押し開ける。
流石にその話題には、下塚も食い付けなかったらしく、しおらしく天璃の横で後ろ手で大人しくしていた。
食堂と記された扉の前を素通りし、菅は少し奥まった場所に設置された扉を押し開ける。
表のプレートには、品質開発保証部と記されている。
L字になった部屋だった。
担当職員は3人。その内の一人が、今、怪我入院でしばらく出社できずにいる話は、事前に社長の口から利かされている。その欠員を埋めるため、天璃は呼ばれたのだ。
それは相手方も同様である。
事前に聞かされていない、余計について来た下塚の扱いに、少々困惑しているようだった。
「俺に、構わないで下さい。あくまでも視察で、ここで働くのはこの男、一人ですから。いわば、この男の保護者です」
「保護者?」
黒縁メガネの男性、岩淵が怪訝そうに天璃を見直す。
「まぁおかけください」
そう言ってお茶を出してくれたのが、ここで唯一の女性、吉田だった。
綺麗に化粧されているが、どう見積もっても50歳は過ぎていると思われる。
「ありがとうございます。綺麗なお嬢さんに淹れて貰ったお茶は、格別なんでしょうな」
尻軽な感じを丸出しにした、下塚の言葉に気をよくした吉田が、満面の笑みで、茶菓子も出してくる。
時々、この才能を少し分けて欲しいと、つくづく思うことがある。
難しい顔をした岩淵が、資料をテーブルに並べ、業務の説明をしている間中、下塚は落ち着きなく、窓の景色を眺めたり、吉田に釣りスポットを訪ねたりしている。
一通りの打ち合わせを済ませたところで、菅の提案に、下塚が目を輝かせた。
宴会の席、一人盛り上がる下塚を尻目に、天璃は掛かってきた電話の為に席を外す。
美希からだった。
なかなか戻って来ない天璃の様子を見に来た菅に声を掛けられ、慌てて電話を切る。
「乳井室さんって、付き合っている方、いらっしゃるんですか?」
席へ先に戻っていた菅に訊かれ、天璃は眉を下げる。
「ああこの男は、色男でしょう。もう女癖が悪くって」
酔いに任せ話す下塚を、天璃は怖い顔で睨む。
「でもまんざら嘘ではありませんよね。ねぇ光江さんもそう思うでしょう」
菅に話しを振られた吉田が、にこにこと頷く。
「そんなこと」
否定する天璃の携帯が再び鳴り出す。
「ほうら、また女性からでしょ」
苦笑しつつ、天璃は瑠璃からのラインに目を落とす。
美希からも似たような内容の電話を受けていた。天璃は申し訳なさそうに顔を上げ、菅を見る。
「どうかされましたか?」
「ちょっと、急用ができたので、これで失礼させていただきます」
退室しようとする天璃を、菅が引きとめる。
「親睦の席です。これから一ヶ月とはいえ、一緒に働く仲間を差し置いてでも行かなければならない用って、何なんですか」
唇を震わせ言う菅に、誰もが、固唾を飲む。
「知人の母親が亡くなりました。恩人なんです。すいません。副社長、申し訳ありませんが、俺の代わりに誰かほかの奴を派遣してやってください。その方が良い。しばらく、休むことになるかもしれないし」
「知人の方の母親で、あなたのじゃ」
深々と頭を下げ出て行ってしまおうとする天璃に、菅は慌てて言い繕う。
「分りました。許可します、ですから」
「それは助かります。こちらも手いっぱいで、他の人材と言われても、弱ってしまいます」
そんな二人のやり取りを背に訊きながら、天璃は半ば飛び出すように店を出たのだった。




