4、わだかまり
本当にこれで良かったものなのか、天璃は来る道中、ずっと考えていた。
外せない打ち合わせがあるという不破に代わって、比呂美を実家まで送るのは、別に良かった。下関に出張が決まった時点で、休みを利用し、重雄の様子を見に行くつもりだった。瑠璃の野外イベントも、福岡であるのだって、いいチャンスだと思った。ここ数カ月、あまりいい話はなかったから、重雄たちを安心させる材料を探していたのだ。
セキュリティが万全のはずだったマンションに、男が侵入。たまたま瑠璃の話を聞いた、すばるが一緒にいたことで難を逃れたのだが、それが週刊誌にばれ、熱愛報道に繋がってしまっていた。
もともと、瑠璃の話になると、すぐに頭に血が上ってしまう重雄は、話の半分も聞かない内に、家へ戻させると騒いだ。相手の男にも会わせろと、まともに受話器を耳に当てられないほどの声で、がなり立てられ、正直参っていたのだ。
一緒に暮らしてさえいれば、そんな後悔も募るが、しかしと消極的な自分が、言い訳を始める。
自分の気持ちに整理をつけるのに、まだまだ時間が必要だと思う。
瑠璃を見ていると、つい抱きしめたくなってしまう。
こんなことがあると尚更である。
震える瑠璃を、守ってやりたい。
抱きしめた温もりが、温かく、手放したくないと心から願う自分がいた。
フロントグラスを見つめていた天璃が、ふっと笑みを溢す。
この二人を悲しませるわけにはいかない。
年老いた二人が、嬉しそうに手を振る姿に、天璃は思い知らされる。
絶対あってはいけない。
待ち構えていた重雄に、瑠璃が飛びつく。
言葉で説明するよりこの笑顔が、何よりの土産なのだろう、と思う。
とろけてしまいそうな、重雄の笑顔を見て、天璃は苦笑いをする。
遅れて降り立つ比呂美を見て、会釈を交わす。
瑠璃を預かる事務所責任者の一人として、きちんと説明とお詫したい。と言う比呂美の言い分は分かる。分かるのだが、何をさておき、わざわざ比呂美が足を運ばずしても、不破が後日、伺うと言っていたのだからそれでいいはず。
病床に就く母親の元へ、何はさておき行くべきと言う天璃の忠告を無視して、比呂美はこの選択をしたのだ。
気が気ではなかった。
美璃の話だと、元旦那である、柴田はまだあの家で一人、住んでいる。
偶然出会ってしまう可能性は、大なのだ。
比呂美が何を考えているのか、天璃にはさっぱり分からなかった。
確かに、親とのいざこざは聞かされている。会い辛いのも理解できる。だが、今は状況が違う。母親の容体は芳しくない。一刻を争うような話を、父親が涙ながらに話して来たと、不破からは聞かされている。
だから今回の件も、引き受けたのだ。
かわいらしい珍客に、重雄たちは大喜びだった。
引き留める二人に、天璃が喝を入れたのは言うまでもない。
やっとの思いで先に家を出たのは、兄にあたる、宇宙が寝ているバスケットを預かった天璃だった。
「今晩は」
不意に声を掛けられ、天璃はギョッとなる。
想定しなかったわけではない。しかし、こうもタイミングでと、思いつつ引きつり顔で振り返った天璃を見て、柴田は目を細める。
「いつの間に」
バスケットを覗き込むようにする柴田に、天璃は何て答えていいのか分からずに、ひたすら引きつり笑いを返す。
散々重雄たちに土産を持たされた比呂美が姿を見せたのは、まさにその時だった。
同じようにバスケットを持つ比呂美の姿を見とめた柴田の表情が、明らかに変わる。
一瞬動きを止めた比呂美は、すぐに気を取り直し、柴田へ会釈する。
先程の笑みは、もうどこにもない。
「そん子は」
柴田のシャガレタ声が、重たい空気を打ち消すように、放たれる。
「宇宙に大地。私の子よ」
顔を引きつらせた柴田が、自ずと天璃の方へ視線を送る。
「そしたら」
「ちっ」
否定をしようとする天璃の腕を、比呂美が強く握り締める。
目を見開いてみる天璃に、比呂美は小さく首を振って見せる。
比呂美の意図を読めた訳ではない。
だが、小刻みに腕を掴む手が震えているのに気が付いた天璃は、喉の奥をぐっと鳴らし、押し黙る。
「矢張り、原因はおれん方にあったんよっち訳か」
柴田が力なくつぶやく。
「不妊検査をいくら頼んでも、なかなかいい返事をしてくれなかったのは、自分に心当たりがあるからじゃないかなぁ。だから無理してまでお願いしなかったの。それが妻としてのおもてなしだって、自分に言い聞かせてさ。バカみたいでしょ私。普段、ずばずばと物を言うのに。夫の前に行くとね、何も言えなくなっちゃうんだよね。どうしてだろう。ああ止め止め。酒がまずくなる」
瑠璃の件で二人で飲んだ時、酔いに任せて比呂美はそんなことを言い出したことがあった。
恋多き女が初めて見せる表情に、天璃は目を見張る。
離婚の理由を一切言いたがらなかった。聞けばいつも、乳井室君が私を奪ってくれなかったから、追いかけて来たのに、あんだも隅に置けなかね。えらいいっぱいんおなごしのいて、ほんなごとたまがったわ。と、冗談交じりで話しをはぐらかされてしまうのが常。
触れて欲しくないのだろうと、それっきり聞くのは止めた。
天璃にも思い当たる節がある。
あの喫茶店での一件が、頭に浮かぶ。
あの時の比呂美の表情は苦々しく、本気で天璃に救いを求めていたに違いない。もう少し、親身になって話を聞いていたのなら、事態は違った方向へと流れていたのだろうか。と、思わないでもない。
子供が出来ないという事実は、相当比呂美を追いつめていたと、今更思う。
一人息子の柴田の子を、姑たちが心待ちにするのも、無理はない。
陽気に振る舞っても、結婚5年目にして、子宝に恵まれないのは相当なプレッシャーになっていたのだろう。
弱気な比呂美を想像できないが、そんなことを言っても、女性なのだ。
柔らかくもろい部分があって当然。そして、彼女なりの優しさも天璃はよく知っている。
「それにね」
氷だけになってしまったグラスを見詰め、ぽつりとつぶやいた比呂美が、天璃を見て小さく笑ってみせる。
「乳井室君だから白状するけど、私、一度だけ子供をおろしたことがあるんだ。大学三年生の春だったかな。バスケもつまんなくなっちゃって、そんな時だったの。OB会の集まりがあって、そこで知り合った人とそういうことになっちゃって、だけどその人、複数の女性と付き合っていたんだ。詐欺まがいのこと、していたみたいで、その一人に訴えられて、彼、逮捕されちゃったの。もう最悪。私は、お金とか請求されたりとかはなかったけどさ。男見る目、無い自分が情けなくってさ、もうご飯は喉を通らなくなっちゃったんだよね。その内、吐き気までするようになって。そしたら何でもない。妊娠していたっていう落ち。何じゃそれって、参っちゃった」
比呂美の瞳には、光るものがあった。
手で顔を仰ぎ、お替りを頼み、言葉無く見つめる天璃に、八重歯を覗かせるあの笑顔を見せるが、高校時代とは違う、切なさがこもる。
「大変だったんだな」
ようやっと絞り出さた天璃の言葉に、比呂美は首を横に振る。
「自分が撒いた種だから、仕方ないよ」
比呂美は一点を見詰めていた。
「子供、おろすお金もなくてね。産む気も失せていたし、どうしていいか分からなくなっちゃって、途方に暮れていたのを助けてくれたのが、バイト先の店長だったの。まぁその先のことは想像はつくと思うけど」
チラッと顔を見られた天璃は、言葉を詰まらせる。
「あたしの人生、何なんだと思う? 最低最悪の繰り返しでさ。ほんとムカつく」
酔いが回ったらしく、天璃にくだを巻き出す比呂美を、天璃は苦笑いで応戦する。
「乳井室君、オレば大切にせんといかんばい。うちはいかん。妻子あっけん人っちそーゆうこつになっちしまっち、家庭ばぶち壊してしもうた。もうどげんでんよかやっち。そぎゃん風に思うようになっちゃっとったんばいね。就職してからは、バンバン男を変えたわ。女子社員からは嫌われる、最低な女像の出来上がり出来上がり。パチパチ。笑えるでしょ。高校時代、あげなに持て囃しゃれた蒲池比呂美はどこへ行ったんっち。気の付いたら、もうどげんもこげんもないところまで落ちとったん。ケツな、当時上司やった奥しゃんに、刺しゃれそーになっち、うち、東京ば追われるごと、福岡へ逃げ帰ったん。そしたら、父親が私の顔を見るなり、なんばしに、ここへ帰っち来よる。って殴りつけてさ、家、入れてもらえなかったっち。うち、知らなかったんやけど、そん奥しゃん、実家にも手紙ば送りつけとったみたいでさ。そぎゃん父親ば見て、母親は泣き喚くわでさ。もう行き場所ば失くすって、こぎゃん感覚かぁって興ざめとよ興ざめ。乳井室君に、そん時の状況、見せてあげたい。じつの娘ば捕まえてさ、恥さらしって罵るんばい。母親の説得でさ、家に入れてもらえたけど、そいからはビクビク父親の顔色ば伺ってさ、なんのためにうち、生きとるんやろうって考えだして、もう最悪。悪いのはじぇんぶうちって分かっとるだけにさ、逃げ道がなくてさ。あれほどいたはずの友達も、なんだか遠くに思えてさ、そん時やったんばいね。一人でいるのがいけないんやないって、姉が縁談ば持って来てさ、嘘ばついていける自信がなかったからさ、二人きりになってすぐに、妊娠のことだけばかくし、東京でのことばどいでんが話したんやけん。そしたらさ、柴田、凄いやね。そぎゃん人と結婚したら、毎日ハラハラさせられてしまうけんしょうかって、笑ってさ、ゆうんばいね。やけんさ、もう男は懲り懲りって」
言葉を切った比呂美が、グラスを空にして、天璃へ微笑みかける。
「抱きしめてくれたんばいね。僕で良かったら一緒になってもらえませんかって。びっくりでしょ。普通は引くところばいってゆううちに、やけんですってゆうんばいね。うちに正直なあんたが気に入ったんやけんって。もう感謝感激。雨にあられになんでも来いって感じ。即決でOKして、そいからはあっとゆう間やったとよ。やけどね、結局、感謝は感謝、愛やないんだって気が付いちゃったんばいね」
「そんなことは」
「あるんだ。だって私」
真っ赤になって濡れる瞳で見つめられ、天璃は固唾を飲む。
しかし、その先を聞かされていない。
美希からのメールで呼び出され、天璃はすぐに席を立ってしまっていた。
「もしらごつんなこつ、よかろーもん。うちら夫婦には縁のなかっただけ。そいだけちゃ」
「ほんなごと悪かこつばしたばいっち思っちいる。もしやっち心んどっかで思っちいたばってん、そいば認めるんの恐くっち、許しとってくれ。君ば傷つけてしまっち、ほんなごと申し訳なか」
深々と柴田は頭を下げる。
「もうよかと。ほんなごとよかよかやけん。うち、今、もんちかっぱ幸しぇなん。やけんあんだも、いつまばってんくちゃくちゃせんでちゃ、しゃっしゃっよか人見つけて、幸しぇになっちちゃ。いっぺんは愛した男ばい。そげなみしゅぼらしくしんしゃっとぉ方の、許されんわ」
頭を上げた柴田が、苦笑する。
ぐっすりと寝ていた宇宙が急にクズリだし、それに反応するように大地も泣きだす。
その騒ぎを聞きつけ瑠璃が顔を出したのを良いことに、躰全部を使って泣く、宇宙を任せ、天璃は運転席へ逃げ込む。
気まずさが残る大地を抱いたまま助手席へ乗り込む比呂美を、柴田がじっと見ている。
あえてなのだろう。
比呂美の家まで、同行する旨を両親に伝えるため、一度戻った瑠璃が少し驚いた表情をしたものの、黙って乗り込んできた。
天璃はゆっくりとアクセルを踏む。
窓を開け、比呂美が柴田へ会釈して走り去る。
しばらく走らせた車を停止させ、後部座席へ移った比呂美が、誰に言うともなく、ごめんと呟く。
「これで良かったのかな? 柴田さん、きっと誤解したまんまだと思うけど」
「少しくらい、意地悪したって罰は当たらないと思うわ」
笑みで言う比呂美の意図は読めないが、何も知らないはずの瑠璃が、大きく頷くのを見て、天璃は笑ってしまう。
この進路順を頑なにこだわった理由が、それですべてわかった気がした。
きっとけじめをつけたかったのだろう。
瑠璃が小さな声で、歌い出す。
比呂美が、流れる景色にに目をやり、ホッとした表情を浮かべる。
車のライトに照らされ、人影が、大きく手を振っているのが見え、天璃は比呂美に声を掛ける。
ドアを開け、比呂美の手から大地を預かった不破が、照れ臭そうに笑う。
「思ったより早く段取りが付いてね。大急ぎで来たんだけど、僕の方が先に着いちゃったようだね」
瑠璃の手から比呂美が宇宙を受け取り、不破へ微笑みかける。
「この車、置いていきますか?」
天璃の言葉に、不破は苦笑いをする。
「うちの嫁さん、きついけど、結構もろいんだよな」
天璃に同行を頼んだ時の話だ。
何とか時間を作れないのかっていう天璃に、不破はソファーにもたれ掛り天井を仰ぎ見る。
「君じゃないと、おそらく、今回は意味がないんだ。そして、そこに瑠璃もいなければならない」
「どういうことですか?」
聞く天璃に不破は、さぁと肩を竦めて見せていた。
比呂美は、そんな会話が二人の間でなされていたことを知らない。
比呂美の中にある、わだかまりを失くさせてやる。不破の優しさだったと思う。
運転席に不破が座り、後部座席を元通りにして、二人が乗り込む。
「社長は、分っていたんですか。比呂美さんの計画」
「何の話? 僕は何も知らないよ。それより、すばるが怒っていたぞ。俺に一言もなく、一人で先に行きやがったって」
「言ってなかったのか?」
「なんで? 言う必要ないじゃない。福岡に私の実家があること、知っているわけだし、比呂美さんが里帰りするのに、私の兄上様が同行するとなれば、当然そこに私がいるでしょ」
「当然なんだ」
不破に突っ込まれ、瑠璃は顔を赤くする。
「当然です。兄妹ですから」
少し無理がある言い訳のような気もするが、天璃はそんな瑠璃を見て、笑ってしまう。




