3、決心
いつか決着をつけなければいけない。
と、ずっと考えていた。
病床で弱気になっている母親に、生まれた赤ん坊の顔を見せて欲しいと願う、父親の声は、嘗て自分を罵った勢いはなく、弱々しいものだった。
涙交じりに訴えられ、折れてはみたものの、自ずと出てしまうため息に、苦笑いをしてしまう。
二度と戻らないと決めて、あの家を飛び出して来た。引き留める夫の手を振り払い、一人で生きようと、強く思ったはずだった。
「行ってくればいい」
そう微笑む不破を見て、比呂美は心底、この人を選んで良かったと思う。
初産の比呂美を気遣って、何度も里帰り出産を薦めてくれたが、それを頑なに拒んだ。
人の心に土足で上がり込まない。
余計な詮索をしない不破に、比呂美は目を潤ませる。
その点は、天璃によく似ている。
どこか不埒でいい加減さを漂わせているが、その一方で芯がしっかりしている男らしさ。そんなものが垣間見える。だからこそ、比呂美は全部を預けてみようと思った。それに、口にはしないが、おそらく乳井室兄妹の関係も、気が付いているのだろう。そして、自分がどうして、こんなリスクを負ってまでも、東京に出て来たのかも。
挙式を上げたがらない比呂美に、不破は、初めて怖い顔を見せた。
「僕は、小さな事務所だけど、経営者だ。君の過去に、何があったかは知らない。知りたいとも、思わない。だけど、これだけは言わせて欲しい。僕と一緒になると決めた以上、僕を信じて、真っ直ぐ前を見て生きて欲しい。たくさんの人から祝福して貰おうじゃない。そして、見せつけてあげようじゃない」
「キザ男」
軽く口笛を吹いておどける不破の胸に、比呂美はおでこを付け涙する。
何を言われても、何をされても、滅多に感情を表に出さない。そんな印象だった、不破の強い口調に押され、比呂美は頷かされてしまっていた。
九州から親戚一同、旅費込みで招待し、盛大に行われた挙式を、比呂美は思い返す。
そんな中でも、父親は硬い表情を見せていた。
それだけのことをしてしまった自分を後悔しても仕方がない。そう分かっていても、自然と実家から足が遠のいていた。
二度目の挙式。
照れ笑いをする比呂美に、沢山の祝福の拍手が送られる。
一度めにはなかった笑顔。
乳井室天璃の横を通り過ぎる。
胸が少し痛んだ。
いくつもの巡り合いがあった。
どれもこれも胸の奥、出来てしまった隙間、そんなものを埋めるためのものだった。
――淡い初恋。
天璃は知らない。
比呂美は、天璃が話しかけるずっと前から、知っていた。
まだバスケを始めたばかりの頃。
背が低く、ボールに遊ばれている感があったあの頃。
練習試合、コートの脇。応援する比呂美の目は、友達と戯れている天璃に釘付けにされてしまっていた。
優しく微笑む視線の先が、私だったらいいのに。
と、初めて芽生えたそれが、何か知らずにだ。
どんどん季節は流れ、大人びた天璃との再会。
人前に立って何かをする人ではないが、いつも周りに人が集まり、楽しくしている。天璃に思いを寄せる女子は、少なくはなかった。なのに、一度も浮いた噂が出ない。学校の七不思議。と友達が笑って話していたのを、今でも比呂美はよく覚えている。
男色家。
そんなうわさも出ていた。
しかしそれは違っていた。違っていたのだ。
夏の日差しを思わせる、夕暮れ。
高校二年生になったばかりの春の出来事だった。
練習試合の帰り道。偶然、天璃が一人で歩いて来るのが見えた比呂美は、ポケットにあった鍵を押し込め、困ったふりをする。
天璃の優しさに、比呂美は賭けに出たのだ。
今にも泣き出しそうな顔で、声をかけてきた、天璃の顔を見上げる。
ずっと憧れていた場面。
好きな人と二人っきり。
そう思っただけで、胸が高鳴る。
どうしたら、天璃の口から告白されるのだろう。
強かさを秘めた笑みを注ぐ。
夕映えが栄える帰り道。待ち伏せた駐輪場。
無意識だったが、自分の口から告白するなど、もってのほか。プライドが許さない。仮にも、あちらこちらからファンレターを貰える身分としては、あり得ない話。そんなくだらないプライドが何の役に立つものやら。今なら笑えるが、あの頃の比呂美は、どこか天狗になってしまっていた。
やっと振り向かせたと思った相手は、どこまでも優しく、どんなわがままを言っても、笑って受け止めてくれる。その心地よさに酔いしれていたが、その反面、不安が募っていたのも事実。認めたくはないが、喋るのが得意ではない天璃を、饒舌にさせる相手。そしてどんな手を下しても、離れ離れにすることができない強敵。瑠璃の存在。
所詮、血を分けた兄妹。そう思っても掻き消せない不安。
だから無理を承知に、旅行を強請ったのだ。
しかし、その旅行は後悔しか生まれず、気が付くと心にもない言葉を口走ってしまっていた。
不思議な思いで、我が子をあやす瑠璃を見詰めてしまう。
「おい瑠璃」
運転席から天璃に呼ばれ、嬉しそうに座席の合間から躰を乗り出し、それに答える瑠璃の姿に、比呂美は微笑む。
仕事が忙しく同行が叶わない不破に代わって、この兄妹が買って出てくれた。というのは建前。
下関へ行く話を聞かされ、そのついでを目論んだのは、誰でもない、比呂美自身。
独身の天璃では心もとない。とぼやく。
「だったら、ツアーがあっちであるから、私も一緒に行こうかな」
きっとこの誘いに、瑠璃は乗ってくれると思った。
すべてに決着をつけるための計画。
知ってか知らぬか、不破は深く詮索することなく、笑顔で見送ってくれた。




