26、波紋
この愛のま に ま に
~続LOVE HOUR~
26、波紋 [ 26/30 ]
幕が下り、瑠璃は気が抜けたようにその場に崩れ落ちる。
一週間前だった。
重雄が急変し、この世を去ってしまっていた。
福岡に戻る理由がなくなってしまった今、瑠璃はしばらく東京に残ることを決めていた。
「お疲れ」
すばるに引っ張り上げてもらいながら、瑠璃はよろよろと立ち上がる。
このひと月半、目まぐるしく過ぎて行っていた。
全国ツアーに加え、テレビ、ラジオの出演。重雄の容態を知らされつつも、見舞いの一つも行けずじまいだった。
涙が込み上げて、声にならない。
それでも歌わなければならない自分がつらくて、悲しくって、でも重雄が残していった約束を、心から守りたいと思う。
時計に目を落とした天璃は、ふーっと長い息を漏らす。
午前二時を過ぎている。
冷たい風が頬を撫で、いっぺんに酔いがさめた瑠璃はコートの襟を立てる。
「やっぱり、福岡に帰ろうかな」
ぽつりとつぶやく瑠璃を見ながら、天璃は、それもいいかもなと答える。
ストーカー騒ぎも収まり、新しい部屋へと瑠璃は身を移していた。
不破に一年と期限をつけられたが、それを守れる自信は、今の瑠璃にはなかった。
「節子さんとはどうするの?」
不意に振られた話題に、天璃は眉をひそめる。
何を話してもうわの空で、重雄の葬儀にも出たがらなかった。節子が何を考えているのか、天璃には全く分からずにいる。
「りっちゃん、本当に結婚するの?」
「ああ」
「節子しゃんのこと、好いとぉ?」
「何言いだすかと思えば」
風に吹かれ、瑠璃の髪が乱れる。
ふと、天璃は比呂美に言われたことを思い出す。
「少し、二人で旅行でもするか」
驚いた顔で振り向く瑠璃に、天璃は微笑みかける。
思い付きの言葉だった。
「疲れただろ? 羽でも伸ばしに温泉でも」
瑠璃がツカツカと天璃に詰め寄り、胸ぐらを掴む。
「りっちゃんのそういうとこ、ムカつく。どうしたらそぎゃんことが言えるの。瑠璃の気持ち知っとるくせして。二人で温泉なんか行ったら、そん先が欲しくなっちゃうでしょ。そしたら、りっちゃん答えてくれるの? 逃げるくせして。嘘つき」
「すまん」
「もうここでいい。一人で帰る」
「瑠璃、待ってって。一人じゃ危ないって」
天璃に手を掴まれた瑠璃が突然向きを変え、唇を合わせる。
「なんばするんやけん。悪ふざけするな。誰かが見てたらどうする」
「どうもしないよ。私ははっきり言えるもん。愛している愛している愛している。好きで好きで好きでどうしようもなく好きなの。どうして分かってくれないの。りっちゃんのばかアホ意気地なし。もう良い。私、一人で帰る」
「待て瑠璃。一人じゃ危ないって」
手を振り解かれ、タクシーで一人行ってしまう瑠璃を見送った天璃は、小さく息を吐き出す。
タクシーを呼ぼうと思って携帯を開いた天璃はふと頭を過る思いをかき消すように、かぶりを振る。
こんな時に決まって出てきてしまうのは、美希の顔だった。
身勝手な話である。
自分から別れを切り出しておきながら、心のどこかで恋しがっている。
やるせなさが胸を締め付ける。
夜の帳に包まれた溜息は、思いがけない方向へと飛び散り、騒動を起こすことをこの時の天璃は知らなかった。
翌日、天璃は耳を疑う。
不破からの電話だった。
昨夜の情事が、記事にされるという知らせだった。
真相が確かめられ、天璃は一瞬、言葉を詰まらせてしまう。
発売は三日後だと言う。
節子にだけはきちんと説明しておけ。と、不破は忠告して電話を切る。
恐れていたことだった。
週刊誌の記事を待っていたかのように、菅が所有していたはずの天璃が秘事がネットに流されてしまう。
言い逃れができない状態に陥ってしまっていた。
不破が険しい顔で、事務所へやってきた天璃に真意を確かめる。
無言でいる天璃を見て、不破は失笑する。
「そういうことか。何をしているんですかあんたたちは。こんなこと知っていたら、瑠璃をデビューなんてさせなかった。うちは終わりです。こんなのまで流されて」
「…………」
「いやもういい。何も話さないでください。あなたをこれ以上、嫌いになりたくない。どうか俺の目の前から消えてください」
天璃はただ頭を下げるしかできずにいた。
「乳井室君?」
社長室からよろよろと出てきた天璃を、比呂美が呼び止める。
「瑠璃ちゃんは?」
よろける天璃の肩を抱き、ソファーに座らせた比呂美に聞かれ、天璃は首を横に振る。
あの夜以来、瑠璃とは全く連絡が取れていなかった。
マンションにも帰ってきている気配がない。実家にも、戻っていなかった。
「美希ちゃんの方とは?」
「心配してくれていた。俺、何をしてんでしょう比呂美さん。俺、また多くの人を傷つけちゃいました」
「乳井室君……」
青ざめる天璃の背を、比呂美は摩ってやる。
「ありがとう」
消え入りそうな声で言う天璃の背中も細さに、比呂美は眉をひそめる。
すべては自分に責任がある。弁解はしない。天璃はすべてを終わらせるつもりでいた。
仕事から帰ってくる節子を、アパートの前で待つ。
当然、節子の耳にも届いているはず。先のことは分からない。それでもいいというなら、この街を離れて別のところで一からやり直したいと申し入れるつもりでいた。
天璃を認めた節子の足が一瞬、止る。
昼食の席、何も知らない仲間の悪気ない言葉で届けられたニュースだった。
「私たち、終わりにしましょう」
切り出す前に、節子に先手を打たれ、呆気にとられてしまった天璃だが、気を取り直し作ろうとするが、柔らかい笑みで切り返され、言葉を失う。
「いや、瑠璃とは」
「瑠璃さんとあなたの間で何があろうとなかろうと、言うつもりでした」
節子はきっぱりと言い切る。
「だけど、女手一つで颯太を育てるのはきついだろ。現に」
「ええそうよ。女を使い、詐欺まがいのことまでしていたわ。ろくすっぽ颯太の面倒も見なかった。引き離されてしまった。だから今度は大丈夫。もうあんな思いはごめんですもの。それに、天璃さんでは小泉の代わりにはならないわ。私はまだ、小泉を愛しているの。あんなろくでもない男でも、颯太の父親で私の夫なの。籍を抜いてしまったことを、今は後悔しているの」
「でもそれは」
「そうよ。私たちが生きていくには必要な手続きだった。あなたがいなければ私は愚かなままだった。だけどもう大丈夫。だからもう私たち親子にはかかわらないで。お願いします。お金は必ず返します」
頭を下げられ、天璃は困惑する。
簡単に引き下がるわけにはいかなかった。
何とか取り繕うとする天璃の手を、節子もやはり振り解き、扉を締め切る。
節子の行動は早かった。翌日には、天璃の前から姿を消していた。
その事実を知った天璃は、しばらくその場所から離れることができなかった。
疲れが波のように押し寄せ、天璃は崩れ落ちるようにベッドに身を沈める。
さまようように街を歩く天璃は、誰かに肩をつかまれ、振り返る。
「菅さん?」
「やっぱりそうだ、車の中から姿が見えたから、つい追っかけてきちゃった」
失意の底に沈む天璃に、菅は優しく微笑み囁く。
「あなたは私のもの。誰にも渡さない」
恐怖で、目を覚ました天璃は頭を抱え込む。
恋愛不適合者である自分がいることが、人を傷つけてしまうのではと、思えて仕方ないのだ。
満足に眠れていなかった。
躰は悲鳴を上げ、心が荒んでいくのを誰にも止めることが出来ずにいた。
連絡が取れない瑠璃への思いだけが、辛うじて天璃を踏みとどまらせている。しかしそれも限界を迎えようとしていたある日、火を消したような研究室でただ一人、そんな天璃へ声をかける者がいた。
「室長、大丈夫ですか?」
柳井に連れ出された天璃は、力なく微笑む。
「飯、食べられていますか?」
食欲が出ない。無理して喉を通しても、胃が受け付けようとしないのだ。
「俺に、姉がいたんです」
唐突に話し始めた柳井の顔を、天璃はぼんやりと見る。
「5歳離れた姉です。室長のところは一回り離れているんでしたっけ」
「ああ」
「俺にとって姉は母であり、憧れでした。いつも俺の味方で、誰よりも大切な存在だったんです」
ふてぶてしくする柳井の顔しか知らなかった天璃は、今にも壊れ落ちそうな笑い顔に、目を見張る。
「バカです。それ以上のものを求め、姉を苦しめてしまいました」
顔を歪め出した柳井に、天璃はしゃがれた声で訊きかえす。
「それってもしかして」
「どうしてかな。俺、室長にも同じもの、感じていました。だから、俺……」
「柳井?」
「姉は三年前、死にました。俺が追いつめたんです。俺の子、身ごもっていたんです。誰にも知られないように、一人で苦しんで、死んでいきました。俺バカです。一番大事なものを、自分で壊しちゃったんです」
「お子さんは?」
首を振る柳井に、天璃は言葉を失う。
「でも俺も姉も愛し合ったことは、後悔はしていないんです。俺が悔やんでいるのは、そんな姉を男として、守ってやれなかったことです。二人結ばれた時、心から幸せだったあの気持ちは嘘ではなかったから。だから室長、迷わないでください。世界中の人が二人を認めなくても俺だけは、俺だけは二人を応援します」
「柳井……」
思いがけない告白を受け、天璃は動転してしまう。
考えがまとまらない天璃にとって、姉の死の重さが強烈に頭に残ってしまっていた。
フラフラと道路に歩み出ようとした瞬間、天璃のポケットで携帯が鳴り出す。
瑠璃のそこはかとなく明るい声に、天璃はその場で膝を落としてしまう。
思い立って、海外へと行っていたという瑠璃は、日本での騒ぎを今日まで知らなかったと言う。
すばるも、柄にもなくを使ったんだなという、瑠璃に二人だけになれる場所へ行かないか、と天璃は無意識のまま口にしていた。
不意を突かれた瑠璃は、しばらく黙り込む。
「俺とじゃ不満か?」
「良いの? その先を求めちゃうかもよ」
「構わんよ」
「ウソ? 本気にしちゃうよ」
「どこがいいかな」
「行き場所とかうちが決めてもいい?」
すべてが吹っ切れたように、視界がはっきりとしてきた天璃に、もう迷いはなかった。




