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20、秘事

 ……従うしかない。


 そう思うだけで、天璃の目にうっすらと涙が滲んできていた。

 情けない話である。

 あの日、突然の訪問を受けた天璃は、自分の耳を疑ってしまっていた。

 瑠璃が縋って泣き叫ぶ肉声だった。

 二人の抱擁姿が映された写真をチラつかされ、天璃を強請ってきたのだ。

 誰もいなくなった部屋で、天璃は仕掛けらた盗聴器を見つけ、愕然となる。

 うかつだった。

 強引に押し入られたあの日、菅を一人にしたのはまずかったと、改めて思い知らされる。

 菅は最初から計画を立てて、訪問してきたのだ。

 何とかして取り戻さなければならない。

 気ばかり焦り、何もできないまま、菅の言いなりにされている。

 すべて、自分の甘さから生じてしまった事態なのだ。何としても、瑠璃を護らなければならない。


 膝の上に座った菅が、うっとりした顔で瞳を閉じる。

 奮い立つものなど何もない。

 菅が一人で燃え上がり、昇りつめて行く。それを天璃は傍観者として眺めているだけのもの。愛情などどこにもない。

 「すまない」

 口を押えて、天璃はトイレへと駆け込む。

 菅に強要されるようになってから、天璃の躰はすべてを受け付けなくなり始めていた。口にするものすべてを、吐いてしまうのだ。

 トイレの前で待ち構えていた菅を、絶望に満ちた目で見つめる。

 菅は狂ってしまっているのだ。

 従わなければ、何をしでかすか分からない。巻下の一件もある。自らも、それらしきことをほのめかしているのだ。

 「ねぇ。天璃はただベッドで横たわっていてくれればいいの。わたくし、いいもの、手に入れましたの。天璃もこれを打てばすぐに、ハッピーになれますわ」

 菅を押し退けて逃れようとするのだが、満足に食事をとっていない躰では、逃れることもままならないでいる。

 うろたえながら後退りする天璃を見て、菅がほくそ笑む。

 もうダメだと思った瞬間、玄関が勢いよく開く音がして、仙石が真っ先に飛び込んで来る。

 その後に森岡と梶山がなだれ込んできて、天璃を抱え連れだし、遅れて柳井が警察官を連れてやって来た。

 何が何だかわからないまま、天璃は外に連れ出され、植木にへたり込む。


 血相を変えた節子が不破邸にやって来たのがきっかけで、全てが明るみに出たのだ。

 信じがたい話なのだが、自分を刺したのは、菅かもしれないと言い出したのだ。

 もう既に狂言として処理された話に、不破も比呂美も初めは取り合おうとはしなかった。

 天璃に頼まれたから、渋々協力していただけで、内心では、許してはいなかった。

 天璃が節子と距離を置いて、しばらく冷静に考えたいと申し入れて来た時、二人は正直、このまま別離してくれればと内心思っていたのだ。森岡夫妻も同じ考えだった。

 節子は、あれは狂言ではないと言い張り、自分の話を信じてくれと何度も繰り返し訴えた。

 信じられない思いでいる比呂美に、瑠璃から連絡が入り、ことは暗転したのだった。


 天璃の様子がおかしいという訴えを聞いて、比呂美はすぐさま、研究室の仲間たちにラインを流したのだ。

 詳しい事情は分からないまま、緊急事態の連絡に、みんな集まって来たのだ。


 何かあると、誰もが思っていた。と後から聞かされた天璃は、苦笑いをする。

 菅が注射しようとしていたものは、ただの水だった。

 入院している天璃の元へ、柄でもなく萎れた下塚が見舞いにやって来て、全貌を話して帰って行った。

 菅の様子がおかしくなったのは、長年付き合ってきた彼と別れたあたりからだったらしいのだと言う。

 誰もそのことに気が付いてやれなかったのかと、訝る天璃を見て、下塚はさびしそうに笑う。

 結構入れ込んでいた彼で、給料のほとんどを貢いでしまっていたのだが、留守にしている間、彼は別の女を連れ込み一夜を楽しんでいたのだ。しかも、下着や服までその女に使わせていた。そんなことを知らずに、うやむやな関係が6年も続き、いい加減結婚しろと親にせっつかれた菅は、それとなく彼にそのことを切り出した。そして、彼は快く承諾をしたのだ。

 ここまで聞いて天璃は顔を顰める。

 「結局、利用されていただけってことですか」

 「ああ、運が悪いんだか良いのか、急にフライトが変わり、彼を驚かそうと内緒で戻った彼女が目にしたものはそういう事実だった」

 話すのも忌々しいと、下塚はでっぷりとした腹を一つ叩き、押し黙ってしまう。

 情事を見つけられた彼氏は謝るどころか開き直り、金目のものを全部かっさらって、出て行ってしまった。

 それでもしばらくは気丈に振る舞い、頑張ったのだが、それもままらなくなってしまい、ずっと憧れて就いた職も追われることになった。

 人間不信に掛かってしまっていたんだな。と、塚がしみじみ言う。

 だからあんなにも、男性に対して攻撃的だったのかと、下塚の話を聞きながら、天璃は納得する。

 その時に、気が付けば良かったと先方の社長も、深く反省し謝っていた。 

 親でさえ、彼女の変貌を知らなかったのだから、ましてや遠縁である者が分かるはずがない。

 出来の良い娘さんでしか、認識されていない悲劇だった。

 天璃は、菅と初めて会った日のことを思い出す。

 てきぱきと動き、快活にものを言う。あんな姿をずっと見せられて来たのだ。誰だって疑う余地などない。

 頭を下げる下塚に天璃は、もう止すように言う。

 これは不慮の事故なのだ。

 巻き込まれた人が全員、傷を負ってしまった。不慮の事故。

 天璃は、菅を責める気などない。取り立てて、被害届も出すつもりもなかった。

 ふと、天璃は吉田が食堂で話したことを思い出す。

 彼女が追い詰めた男性社員は愛想が良く、社内でもそこそこ人気があった人物だった。

 菅が唐突に、天使の椅子と話していた場所は、その男性社員が付き合っている彼女と、よく待ち合わせていた場所だった。

 菅が話していた、天使の椅子のジンクスなどない。誰かがラブチェアーで彼女がお待ちかねだぞ。と男性社員をからかう言葉を聞いた菅が、勝手にそう思い込んでしまったのだ。

 

 やっと一人になれた天璃は考え込んでしまう。 

 こんな場所で、のんびりと寝ている場合じゃないのだ。

 肝心なものがまだ、回収されていない。

 万が一、誰かの手に渡り、面白半分でネットに流されでもしたら、大変なことになってしまうのだ。

 気持ちとは裏腹に、天璃の躰は鉛のように動くことを拒絶するのだった。

 

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