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17、挑発

 翌日、巻下が遅れて出社してきた。

 足には包帯が巻かれている。

 帰宅途中、足を滑らせて階段を数段踏み外してしまったと言う表情を見た天璃が、ん? と首を傾げる。

 半瞬ほど置いてから、巻下がためらいがちに言い繋ぐ。

 「後ろから、人がぶつかって来たんです。暗かったし、顔とか全然見えなかったんですけど……、同じ匂いがしたんです」

 チラッと振り返る巻下を見て、天璃もつられてそちらの方へ首を伸ばす。

 その視線に気が付いた菅が顔を上げ、ニコッとして見せる。

 「すまないが、お茶、淹れてもらえないだろうか」

 慌てて、天璃は話を誤魔化す。

 しかし、それを聞いた菅は何を思ったのか、二人に近付いて来たかと思うと、口に手を当て大袈裟に同情の声を上げだしたのだ。

 「うわー痛そう。捻挫しているんですか~。大変でしたね~。室長はホットコーヒーですよね。巻下さんは日本茶にしておきますか?」

 「いえ。私は結構」

 唖然だった。

 誰もが巻下が出勤してきたときに済ませた会話である。

 今更と思いつつ、いそいそと退室して行く菅を見送ってから、天璃は少し身を乗り出し訊きかえす。

 「同じですか?」

 「いいえ。今日は変えているようです。ごめんなさい。変なことをお聞かせして。でも私、鼻には自信があるんです。前の会社では、香料を扱う仕事をしていました。その関係で、いろいろな香りを嗅いできました。間違いないと思います。それにあの香水を持っている人って、そう多くないと思うんです」

 「それはどういうこと?」

 「あれは」

 開きかけた口を閉ざした巻下は軽く頭を下げ、自席へと戻って行く。

 菅が戻って来たのである。

 信じがたい話に、天璃は眉根を寄せ考え耽ってしまう。

 まさかとは思うが、あの突飛もない来訪を考えると、やりかねないとも思えるのだ。

 実に困った話である。

 ただでさえ、二人の関係をまだ簡潔にできていない。

 まったく菅が、何を考えているのか分からないのだ。

 菅の研修予定は、ひと月である。

 胃がギュッと握りつぶされるように痛みだす。

   

 菅と巻下の関係は、あの転落事故から悪化の一途を辿っている。

  

 ここに庄司、いやいや鈴木女史の方がおあつらえ向きか。どちらかがいたのなら、この状況を収められるのではと、こんな局面を迎えると、つい天璃は思ってしまうのだ。


 気の強い巻下である。

 あからさまな態度を取り出したのだ。菅が淹れた飲み物を一切、手を付けようとしないのだ。それに対し、菅はあくまで微笑みを口元に称え、棘のある言葉で返すのである。見えない火花が飛び散り、周囲に居るものが気を使う羽目になってしまっている状態が、しばらく続いている。

 森岡たちに目配せで、何とかしろと言われるのだが、滅法女性に弱い天璃にそんな器量がある訳がない。

 眉を垂れさげ、なかったことにするのが関の山。

 いよいよ小競り合いが始まり、見かねた森岡が立ち上がる。

 「お茶汲みを当番制にする。と言うか、自分の分は自分でやれ」

 そう宣言したのだった。

 さすがの菅もきょとんとした顔で、しばし森岡の顔を眺めていた。

 巻下も、喉をグググと鳴らし押し黙るしかなかった。

 

 天璃は、感謝の意を込め、森岡に手を合わせる。


 しかしホッとしたのも束の間だった。

 

 天璃が立ち上がろうとすると、サッと自分が出て行き、淹れて来てしまうのだ。天璃がもごもごと意見をしようものなら、お気遣いなく。ついでに淹れて来るだけですから。と、さらりと言い退けられ太刀打ちが出来ないのである。

 「あのぅ、どうして室長のお茶、菅さんが淹れているんです? 自分のは自分でやるって決まったって、朝、仙石さんから言われましたけど」

 設楽は、しばらく休みを取っていて、何も知らずにいた。 

 喉を温めておいた方が良いと、今朝、菅から譲り受けたエルメスのスカーフを弄りながら、何の気なしに訊く設楽に注目が集まる。

 当然のように天璃の前にカップを置く菅が、一瞬、えっという顔をして振り返る。

 唯一、親しみを持って菅に接していた設楽の発言である。

 だが、設楽の様子を見た途端、菅が呆れるように笑い出す。

 「何よ急に。驚くじゃない」

 「ああごめんなさい。ただ、何でかなーと思っただけなんです。意味はないんですけど」

 言葉の通りなんだろう。ひたすらスカーフと格闘している設楽を見て、誰もが納得する。

 「上司にお茶出しするのは、部下の当然の務め。頼まれなくても、するのが筋。志保ちゃんもよく覚えておくといいわ」

 「でも、あれですよね。伊万里部長とか森岡主任には淹れてないじゃないですかぁ。それって、やっぱ愛とか絡んじゃっている系ですか」

 やっとうまく結べた設楽が、得意の笑みで顔を上げる。

 「もう志保ちゃんに掛かると、負けちゃうわね」

 「やっぱそうなんだ。室長はどうなんですぅ。そういうことって、はっきり言ってあげないと、女性は傷付いちゃうんですよ」

 天璃は唖然と、設楽を見る。

 「設楽ぁ、お前は余計なこと言わんでいい。さっさと仕事しろ」

 仙石に頭をポカンと殴られ、設楽が大袈裟に痛がる様子をしばらく見入ってしまっていた天璃だったが、ハッと我に返る。

 挑発的な目で、菅が見つめていたのである。

 どうしていいのか分からないでいる天璃を見て、菅はふっと笑みを溢し、自席へと下がって行ったのだった。

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