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14、るつぼ

 解決しなくてはならないことは、まだまだたくさんある。

 足早に改札を抜け、見慣れた風景に心が和ませながら、天璃は会社へと入って行く。

 何はともあれ、諸事情で会社に迷惑を掛けてしまったのだ。弁解の余地はない。一週間早めに帰って来てくれが、笑える。三日遅れの出社である。

 その陳謝と、菅の件を問い質すため、天璃はまっすぐ下塚の元へ向かう。

 そしてそこで、天璃は絶句してしまうのだった。

 

 泣きはらした目を隠すように、軽く会釈した菅が部屋を出て行くのを、呆然と目で追った天璃が、視線を下塚へ戻す。

 でっぷりとしたお腹を邪魔そうにしながら、下塚はテーブルからタバコを取り、火をつける。

 煙を吐き出すまでの数秒間、目を見開いたまま見詰めてしまっていた。

 菅が挨拶に来る。

 別に、不思議な事ではない。むしろ当然のことである。

 気を取り直した天璃は、下関での一件を報告しようと、襟を正しのだったが、どうも下塚の様子が気になって仕方がない。思わず、何ですかと尋ねる天璃に、下塚はにやにやするばかりで、なかなか答えようとはしなかった。

 「だから」

 怒りたいのに、へらへらと笑ってしまうのは悪い癖だと、天璃は自分でも重々承知している。迫力に欠け、相手も似たような態度を取る。

 煙草をたんまり堪能した下塚は、やはり、締まらない顔で天璃を見る。

 これから、大真面目な話をしようとしている雰囲気ではない。

 このたぬきじじいと思いながら、天璃はもう一度同じ言葉を繰り返したのだった。

 「いやいや、何ですかね~」

 垂れ下がった目で、天璃を一なめしてからまた、煙草へと手を伸ばす。

 「言いたいことがあるなら、はっきりと言って下さいよ、副社長」

 内心イライラしているのに、表情筋が勝手に笑顔を作ってしまう自分が悲しい。   

 「二人、いい感じに進んでいるんだって?」

 はい?

 目尻は笑い皺を作ったまま、天璃は首を傾げる。

 「結婚を前提にお付き合いが始まったんだって? やっとテンにもめでたい話が出て来たと思うと、実に嬉しい。今晩、祝賀会でも開くか?」

 何を言われているのか、理解に困った天璃は一度ドアの方へ目をやってから、訊き返す。

 「彼女が、そう言っていたんですか?」

 上手そうに煙を吐き出した下塚が、ニタ~と笑う。

 下関の一件どころではなくなっていた。陳謝とかもうどうでもいい。

 「えっと。じゃあ先程の彼女の涙は」

 「あああれな。おめでとうって言ったら、もうポロポロ始まっちゃって。全て副社長さんが良い人を紹介してくださったおかげですって」 

 その言葉を聞いた天璃は、ムッとなり、身を乗り出し尋ねる。

 「紹介って?」

 「いや~何、一緒に経営を任せられるような、良いパートナーはいないかってな」

 「何ですかそれ?」

 「そんな怖い顔をしなくても。テン、スマイルスマイル。良い男が台無しだぞ」

 「人手不足だから応援頼まれたって言ってたじゃないですか。うちだって余裕がないから無理って言うのに、義理があるから無下に断れないとかも言ってましたよね。全部、嘘だったってことですか?」

 「いや~嘘ではない。嘘ではないが、プラスアルファ―があるのは、えっと、言ってなかったっけ?」

 「聞いていません」

 きっぱり言い切られて、下塚はばつの悪い顔で宙を見る。

 腰から力が抜け落ちてしまった天璃は、崩れ落ちるようにソファーにへたり込む。

 大袈裟過ぎだと訝る下塚を一睨みした天璃は、髪の毛を掻き毟る。

 流石にその様子を見た下塚も、笑っている場合ではないと気が付いたようで、天璃の前へと席を移す。

 この話を最初から知っていたら、断っていた。そしたらあの事件へ出くわすこともなかったし、菅に押しかけて来られずに済んだ。悔しさが怒りに変わり、瑠璃や美希の顔がかわるがわるに目に浮かんでくる。正直、この狸じじいの顔を、二発や三発ぶん殴ってやりたい。やりたいけど、そうするわけにもいかない。

 じんわりと目が潤ませる天璃を見て、下塚がいよいよ焦り始める。

 説明するのももどかしかった。

 節子とのトラブルは、電話やメールでほぼ報告済みで、改めて説明するまでもない。問題は、菅の行動である。

 何も知らなかったとはいえ、天璃には全くその自覚症状がないのだ。一定の距離はあったと自負している。勘違いさせる発言もなかったと思う。強いて言えば、最終日の相談に乗りますの発言のみ。それだって、社交辞令である。深い意味など存在しない。それを勘違いする方が、どうかしているのだ。

 天璃の言い分を聞いた下塚が、苦笑で頷く。

 知らなかった。の一点張りをする下塚に、天璃は腹を立てた。

 事情を把握せずに、なぜ容易く自宅を教えてしまったんだと言う論点に達した時には、天璃の身はグイと身を乗り出していた。

 「何の話だ?」

 身をよじり訊き返され、天璃は眉間に皺を寄せる。

 「あんたが教えたんでしょうが」

 「おい。口が悪いぞ。俺は神に誓って教えていない」

 「じゃあ何で知っていたんですか?」

 「俺はてっきりお前が教えたもんだと思っていた。婚約者なら。まぁ当然だしな」

 「婚約者じゃありません」

 「分かった。分かったから。顔近いよ。声大きすぎ」

 そう言われ、ようやっとソファーに身を戻した天璃が、がっくりと肩を落とす。

 「この際だから、そのまんま」

 天璃は下塚をギロリと睨む。

 まったく洒落にならない話である。

 そんな天璃のご機嫌を伺うように下塚が、猫なで声で話しかけてくる。

 「この状況で、大変言い辛いんだが」

 下塚は笑顔を作る。

 悪い時には悪いことが重なる。これは世の常。仕方がないこと。どんな言葉を連ねても、何の慰めにもならない。

 菅が、ここでしばらく研修をしてみたいと申し出ていた。

 何も知らない下塚は、それを了承してしまったと言う。

 しかも、婚約者である天璃が自分の職場ではどんな働きをしているのか知りたい。と言われ、あっさり研究開発部へ配属を認めてしまっていた。

 おずおずとそのことを言われ、天璃は卒倒してしまう。


 「……テン?」


 力なく部屋を出て行く天璃へ下塚が声を掛けるが、そんなものはまったく聞こえていなかった。

 処理しきれない難題が、頭を駆け巡っていく。

 今更ながら、消えてなくなってしまいたい心境である。 


 考え事をして階段を上って行く天璃は、いきなり目の前に現れた障害物に気付き、足を止めるが、時すでに遅しである。

 足が縺れバランスを崩してしまう。

 危うく階段を転げ落ちそうなところを、救いの手が伸びて来て、辛うじて天璃は体勢を立て直したのだった。

 「大丈夫ですか室長」

 「梶山」

 180センチの天璃をすっぽり包み込むように、梶山の胸がすぐそばにあった。

 慌てて胸から剥がれて礼を言う天璃に関心がないようで、梶尾はグイと首を伸ばし、誰かを探しているようだった。

 「どうかしたのか?」

 「今の人、見ました?」

 「質問に質問で返すな」

 大きな躰を縮ませ謝る梶山に一笑し、天璃は研究室へと向かう。

 「目白さんが連れていたんですけど、あの人、新入社員でしょうか。すっごく綺麗でしたけど。どこの部署なんですかね」

 悪気はないことは分かっているが、一応、上司と部下。長い間の不在の後、最初に会った一言がこれかと思うと、つくづく情けなくなる。

 天璃を追いかけながら言う梶山に苦笑してしまう。

 「室長だって、あの人を見れば、俺と同じ反応になりますって」

 誰のことを言っているのか、天璃には見当がついていた。

 どんよりとした重たい気持ちが、ドアを開けることを阻む。

 「どうかしたんすか?」

 「いや」

 出来ればすべてが夢であって欲しい。祈る気持ちでドアを開けた天璃は愕然とする。

 想像はついていた。

 いきなり立ち止まられ、嫌っというほど梶山は天璃の背中へ鼻をぶつけてしまう。

 「急に立ち止らないで下さいよ」

 鼻を押さえながら言う梶山が、天璃の脇から見えた人影を見て、急に背筋を伸ばす。 

 呆然と立ち尽くす天璃に、事務員である目白が頭を下げる。

 「ちょうど良かったです。こちらへ菅さんを案内するように言われたんですけど、伊万里部長も森岡主任もいらっしゃらなくて、今日から乳井室室長復帰されていたんですね。助かりました。それじゃあ私はこれで」

 「待って」

 思わず目白の腕を掴んでしまった天璃は、すまない。と慌てて手を放す。

 「今、下塚副社長から菅さんのことは聞いて来ました。今日からすぐというのは体制が整っていないので、勤務は明日からということに決まりました。大変申し訳ないが、会社の案内をお願いできないだろうか。総務の方へは、わたしから連絡しておく。どうだろうか?」

 「分りました」

 ホッとする目白を見て、怖い顔をしてしまっていたことに気が付いた天璃は、頬骨筋が痛くなるくらいの笑顔を作る。

 「菅さん、それでよろしいでしょうか。見ての通り、今日は重要メンバーが揃っていません。自己紹介等々は明日、お願いします。今日のところは彼女に付いて、会社見学をしたら、お帰り下さい」

 あくまでも他人行儀に接する天璃を見て、菅は臆することなく、にこにこと頷く。

 「分りました。そうさせていただきます。では、明日から天璃さん、よろしくお願いします」

 「すいません。その呼び方は」

 「あらごめんなさい。わたくしつい。乳井室室長、大変失礼しました。改めまして、明日からよろしくお願いいたします」

 意味深な笑みである。

 退出して行く時、もう一度同じ笑みを見せた菅を見て、自ずと視線が天璃へと集められる。

 天璃は、気が遠くなりそうになりながら、自席へと着く。

 「室長は、ああいうのがタイプなんですか?」

 今春、入社したての柳井が、書類を出しがてら尋ねる。

 ゆるくかけられたパーマと、耳にはピアス。

 固いことを言うつもりはないが、無表情の柳井に天璃は、困惑の笑みを向ける。

 「そういうわけではないが、どうしてそんなことを聞く」

 理由など一つしかない。敢えてそこを強調して訊き返す必要が、今の天璃にはあった。

 二人の会話にみんなが、耳をそば立てているのだ。

 「菅さんは、出向先の社長さん。俺とは何の関係もない。そんなことはどうでもいいから、もう少し、仕事に集中しろ。こことここ。変換が間違っている。それと」

 言いかけた言葉を引っ込めた天璃は、手をひらひらさせ、席に戻るように柳井に命ずる。

 言い過ぎるのは禁物である。

 柳井みたいなタイプに、熱く語ったところで響くのは、その10分の1くらいだろう。あの森岡でさえ、話をしているとムカついてくると、しょっちゅう怒っているのだ。天璃の手に負えるはずがない。


 一度辞めた天璃が当たり前のように室長として迎え入れられ、森岡はその補佐である、主任へ抜擢。伊万里は研究開発部全般の面倒を見る、部長へ昇格していた。

 流石にその待遇には気が引けた天璃だったが、二人から言わせると、辞めた。という実感はなかったらしい。すぐに戻って来ると下塚も言いふらしていたと聞かされ、口をあんぐりとせずにはいられなかった。

 産休を取りながら庄司も今春まで現役で働いていたが、二人目が出来たのを機に、退職したばかりだった。

 その入れ替えに柳井と設楽したらが入社してきた。


 「ただいま。あっ、室長、お帰りなさい」


 お使いを頼まれ、外へ出ていた設楽が、初々しい笑顔を見せる。

 高卒の彼女は、この研究室を明るくさせる存在。仙石の下につけたのは正解だった。

 「買って来たか」

 「はい。これで良かったんですよね」

 大手会社の口紅を数本渡しながら設楽が、ぼやく。

 「もう大変だったんですよ。美容部員のお姉さん、怪しんじゃって。もう言い訳が苦しい苦しい。仕方がないから、じゃんけんで負けて、ぱしりさせられたって言いましたけどね。絶対に信じていない感じでしたよあの目は。私、もうあそこのデパートで化粧品、買えない」

 運動部に所属していた設楽の声は、よく通る。

 「いいから仕事、しなさい」

 顔を顰め、巻下が言う。

 天璃の長期休暇中、下塚が直々に引き抜いて来たのが彼女、巻下だった。

 鈴木女史に勝るほど、頭が切れる。

 これは、天璃の第一印象である。

 故に、さぞかし戻ってきたばかりの天璃が上司になるのは、面白くないだろうと当初は気を使ったものだったが、ある日、あっさりと巻下に言われてしまったのだ。

 「私、バツイチ子持ちなんです。定時に帰れるなら、それでいいんです。副社長にはお給料弾んでもらっていますし、文句なんてありませんから。どうかお気使いなく」

 どこかで聞きつけて来た巻下が、天璃に向かって放った一言だった。

 随分と裁けている話だが、どうやら本音らしい。それはすぐに分かった。有給や早退を取る回数が、確かに多い。しかし、やることはしっかりと熟している巻下に、誰も文句は言えないのだ。

 そんな巻下の存在がなかったら、今回の下関への出張の話はなかったと思う。

 

 天璃はデスクワークに没頭する、巻下をまじまじと見てしまう。


 菅と合うタイプではないのだ。

 それは一目瞭然である。

 お互い、強いものを持っている。それを引っ込める才も持ち合わせてはいない。つまり、揉め事が起きるのは必然的。

 勘違いを取り消すだけでも難解を極めているのに、更に上積みにされ、頭が痛い話である。

 それが序章であったことを、この時の天璃は知らなかった。 

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