11、呵責
退院の支度をする節子の元へ、男女二人の客が訪ねて来ていた。
招かざる客。
あからさまに態度に出す節子に、男はどこまでも紳士的な振る舞いを見せる。
まったく話にはならなかった。
事件で怪我をしたことを考慮し、天璃が頼んで個室に入れて貰っていたのだが、それでもうわさは広がる。
興味本位に覗きに来る人も、短い入院中、数度あった。
だが今回の客人は、そういった類の人間ではないことは一目で分る。
紺の背広姿に、女はつばが広い帽子にマスクといったい出立ちだが、着ている物はシックな色合いのワンピースである。
まったく取り合おうとしない節子を傍観していた女が、おもむろに口を開いたのは、節子が荷物を持ち出て行ってしまおうとした時だった。
「待って下さい」
目の前を立ち塞がれた節子は、顔を顰める。
「少し、私に時間を貰えないでしょうか?」
女に目配せされた男は、渋々と部屋を出て行く。
しばらく黙ったまま節子の顔を見つめていた女だったが、小さく息を吐き出したのち、目深に被っていた帽子とマスクを取る。
「お久しぶりです」
「美希」
呟くように名前を呼ばれた美希が、神妙な面持ちで会釈をする。
「もう何年になります? まりかさん、ちっとも変わっていないわ」
「何の用で来たの?」
美希は目を合わせようとしない、節子の手元を見詰めていた。
「告訴、取り下げていただけませんか? 彼、こんなことができる人じゃないんです。彼を知っている人なら、全員が口を揃えて言うわ。まりかさん、もうこんな嘘やめてください。もう彼を苦しめないで。お願いです。あなたが怨むべき人間は私でしょ。彼じゃない」
静かな口調で言う美希の顔を見上げ、節子はふっと笑いを溢す。
「魔が差すってことだってあるんじゃない」
ふてぶてしい口調で言われ、美希は顔を強張らせる。
美希が知っているまりかは、こんなことを軽々しく口にする人じゃなかった。仕事のことで悩み、唇を腫らした時も、一緒に病院を探してくれるような優しい人だった。家族をいっぺんに失くしてしまった美希を気遣い、なるべく予定がない日は共に行動してくれようとしていた。そんな人だから、小泉がまりかさんを選んだと知って、心のどこかで納得していたと思う。
「まりかさん、お願いです。彼を解放してあげてください」
腕を掴み必死で懇願する美希の手を振り払い、節子はそのまま病室を出て行ってしまう。
勢いよく開いたドアに反応して、壁にもたれ掛るように待っていた男の躰が前のめりになり、制止しようとした時だった。
「あれ? 美希?」
美希の肩が微かに跳ね上がる。
出来れば、この状況を避けたかった美希だった。
颯大の手を引いた天璃が、珍客を訝るように見つめ立っていた。
半瞬ほどの間を置いて、天璃の柔らかい声が静まり返った廊下に響く。
「ああ、行っていいよ」
颯大に手を引っ張られ、手を放すようせがまれた天璃の声だった。
目を輝かせた颯大が節子を目がけ駆け出して行くのを、天璃は優しい眼差しで追う。
美希の心は、今にも張り裂けそうになる。
複雑な心境を隠しきれないままでいる美希へと、天璃が近づいていく。
「美希」
目さえあげられずにいる美希に、天璃は穏やかな声で問いかける。
「美希?」
下から顔を覗きこまれ、それを振り払うようにいってしまおうとするが、腕をつかまれ、動揺しきった瞳で天璃を見る。
「美希待って。少し、話さないか」
息を飲み、美希は大きな瞳を更に大きくする。
「乳井室さん、これにはちょっと訳があって」
口を挟む男へと、ゆっくり視線を移した天璃は、初めてその存在に気が付いたように、二人の顔をかわるがわるに見やる。
理解するのにそう時間はかからなかった。
「そいうことか」
呟いた天璃は小さく笑う。
男は、不破が紹介してくれた弁護士だった。
美希との取り合わせも別段、不思議ではない。井手は、事務所の顧問弁護士である。おそらく美希が天璃の身を案じ、会わせてくれとでも頼んだのであろう。
勝手な想像をした天璃は、改めて美希の方へ目をやる。
「美希、俺さ」
言いかける天璃のもとへ颯太が戻ってきて、抱っこをせがむ。
大人たちの微かな動揺が大きな波紋になって、感受性の強い颯大に恐怖として伝わってしまったのだ。
よじ登るように胸にしがみつく颯大を、美希のみならず節子も複雑な面持ちで見ていた。
「先に、行っててください」
天璃から引き剥がされた颯大が、全身を使い、離れることを拒む。
「颯大、よく聞け。すぐに行くから先にママと行っててくれ。頼む。俺、この人たちと大事な話があるんだ」
節子に手をつながれた颯太が、瞳いっぱいに涙を溜め、天璃を見上げる。
「颯大、頼む」
頭を撫でられた颯大は、コクンと頷く。
「良い子だ。じゃあママを頼んだぞ。ママはまだ痛い痛いだからな。優しくだぞ、ほら、約束だ」
天璃は颯大の小さな手を取ると、小指を繋ぐ。
それだけで充分と、美希は思う。
どんなに望んでも手に入れられないその光景が、目に焼き付く。
ゆっくり視線を戻す天璃から、美希は逃げ出したかった。なじって頬を打ち、嫌いになれたのなら、どんなに楽になれるだろう。
問い詰める言葉もなく、天璃は美希へ深々と頭を下げる。
それが何を意味しているか、美希には、痛いほど分かってしまう。
いつかこんな日が来る。心のどこかでいつも怯えていた。初めから叶うはずのない恋。
「心配をかけて、本当に申し訳ない。君とはきちんと話さなければと、ずっと思っていたのに、先延ばしにしてしまって……。明日、東京に戻る。夜にでも時間を作ってもらえないだろうか」
二人の愛のまにまに見え隠れしていた曖昧なものが、はっきり見えた気がした。
美希は小さく微笑むだけで、踵を返す。
ここにシナリオがないことを、美希は怨む。
「乳井室さん。篠原さんのことでちょっと」
呆然と美希の背を見送る天璃に、井手は神妙に声を掛ける。
「あなたの身の潔白が、証明できそうです」
下へ向かうエレベーターを待ちながら、井手の言葉に天璃は耳を傾けていた。
開口一番、そう切り出す井手を一瞥するが、それはすぐに戻される。
おそらく、井手が掲示することが、全てを解決に繋がるとは、天璃には到底思えずにいた。
事実は一つだけ。嘘は嘘でしか過ぎない。
天璃は深いため息を吐く。
何も知らなかったのなら、颯大の存在がなかったのなら、きっと井手の説明を心から喜べたはず。
すぐにでも東京行きの切符を買って、運が悪かったの一言で会社のみんなには報告し、笑い話へとすり替えられたと思う。
けど……。
軽く手を上げ井手と別れた天璃を待ち構えていたのは、首を長くして待つ颯大でも、悪びれる節子でもなかった。
よれよれのスーツに身を包み、無精ひげが生やした顔の桐田だった。
会釈し近づいてくる桐田を見て、反射的に天璃は躰を硬くする。
「少し、彼女をお借りすることになりました」
そう告げられ、天璃は目を見開く。
「何があったんです?」
肩を竦める桐田を見て、天璃は目を泳がす。
警察関係者と思われる男が二人掛かりで、節子を連れていくところだった。
後を追いかけようとする颯大も、同様の女性に阻止させられていた。
「まだ調べてみないと分かりませんが、狂言の疑いが出てきました。どうやら、他の余罪も、彼女にはありそうです」
「それは」
口を手で覆う天璃を一瞥した桐田が、節子が去って行った方を見やりながら、続ける。
「ここでは詳しいことは話せませんが、少し、疲れてしまっていたのかもしれません。子供にも、つらく当たっていたようです。あなたにも心当たりがおありでしょ」
天璃は節子たちが暮らしていた、部屋を思い浮かべる。
とてもきれいに片付けられている、とは言い難い部屋だった。
颯大の躰も、よく洗われていなかった。それは角島へ行った時から感じていたものだった。二人でシャワーを浴び、それは確信へと変わった。衣服も、汚れが目立つものを着せられていた。
節子から聞かされていた話の大半が嘘というのも、この短い間で、身に染みてよく分からされていた。
「颯大は、どうなってしまうんでしょう」
桐田が深いため息を吐く。
「もうすぐ、児童相談所の職員が到着します」
「では」
「仕方がないことです」
颯大が女性の手を振り払い、天璃へ駆け寄ってくる。
目にいっぱいの涙を溜めた颯大が天璃の足にしがみつき、無言で母親が連れて行かれてしまった方向へ指差しては、ズボンを引っ張る。
「本当に、この子はあなたの子ではないんですよね」
「違います。でも」
迂闊に口に出来ない言葉が出かかり、グッと飲み込む。
「マ、マ、ママ、マ」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった颯大の口から、初めて聞いた言葉だった。
天璃は思わず抱きしめ、決意を固めるのだった。




